ー拾参ー
爪を根元から噛み、折りはじめた。十本の爪を、一本、また一本。犬歯が鋭く伸びた歯で噛み、折ってゆく。爪を失った指先からは、血の代わりに濃い紫色の液体が垂れた。その色は、さきほどまで緑色だったものが、より強力になっていることを示している。
指先から延々《えんえん》と沸き、垂れ滴る液体。それは、ただいまより爪による近接攻撃を捨てて、液体による攻撃に終始する事を物語っている。遠距離攻撃に特化した、ともいえるだろう。
「ハーイ、センセイ」
声高の不協和音ととともに、梓は挙手する。
「なんだ」
秋はあえて、会話に付きあうことにする。
「ヒトは、シヌト……、ドウナリ、マスカ……」
「自分でたしかめてきたらどうだ」
「ワタシハ、キライナヒトガ、いまス」
悪魔が言うにしては、具体的な言葉のように思えた。
「ワタシをイジメタ……、ユキチャン、シズカチャン、マイ……」
この小学校は梓の母校だった。彼女は小学生五年生のころから、いじめを受けていた。
ある日、マイが好意を寄せていた男子生徒が、梓に告白をしてしまう。それから女の怨嗟に火が付いた。いじめがはじまった。
梓は二次元のキャラクターに恋をしていたため、リアルな恋にはまったく興味がなかった。男子生徒を迷いもせずに、ふった。それがまたマイにとっては気に入らなかった。
執拗ないじめを受けながらも、梓は、なんとか小学生時代を乗り越えた。しかし、全生徒が百人程度だった小学校から、三百人以上の中学校に入ると、マイはまっさきに梓の居場所を奪った。
ありもしない噂話を校内に言いふらし、梓が学校に来れなくなる状況を意図的に作った。マイは優秀だった。人間関係も、勉学も、所属していたバスケ部も、あたりさわりなく、こなしていた。
彼女が言うのなら、本当なのだろう、と。
だれもうたがわず、わるいうわさを信じた。
学校に居場所を無くした梓は、入学式から数えて約一ヶ月ほど中学校に通ったのち、家にこもることになる。ネットの世界に居場所を見出し、ここが生きる世界だと実感し、動画投稿を始めた。美少女中学生の名目で、あっという間に有名になった。
——あんたに居場所を奪われても、わたしはこんなにも大勢から好かれている——
しかし今度は父親だ。
彼は、職場で多くの部下を抱えていた。自分の面子と世間体がなによりも大切だった。社内では、厳格ですきのない気むずかしい上司を演じていた。
一躍有名になった梓の動画は社内に広まった。投稿主が、青柳部長の娘、という事実もすぐに拡散。耐えがたい羞恥心が毎日おそってくる。自分が築きあげてきた社内での威厳が、音を立てて崩れるような感覚を覚えた。——娘を殺してでも、動画の配信を止めねばならない——。
「オトウサン、ハ、タクサン……コロシタカラ……。コンドハ……、マイチャン……、コロサナキャ」
いま放った言葉を、そのまま解釈をするならば、記憶の中のマイに似た女子中学生を殺害して歩くということ。
紫の液体が、乱雑に飛び散る。
草を焼き、土を焼く。
しかし、ゆっくりと歩む秋には一滴もかかっていない。
身を守る風——矢でも、銃弾でも、いまは秋を貫くことはできない。飛び道具は高圧の風に阻まれ、ことごとくその飛力を失う。
「ナンデ! ナンデッ! ナンデェッッ!」
何度も何度も。
爪のない手を振るう。
液体が当たらない。
もどかしい。
いらだつ。
天敵が近づいてくる。
ゆっくり。
一歩ずつ。
——瑠璃色の瞳が見えた。
「キミ……、おなじ? もしかして……、わたしと……?」
悪魔の瞳が、人間の色を取りもどす。
「そっか」その声は不協和音ではなかった。「きみに殺されるなら、いいよ。わたしとおなじくらい、さみしそうな目、しテるから」
抱きしめるようなひと突きが、梓の命を終わらせた。力を抜き、風の盾を解放すると、あたりに涼しげなそよ風が吹いた。裏庭に生えた低い木の枝に小学生が吊るした小さな風鈴が、ちりん——はかなく哭いた。