ー拾弍ー
梓は約五メートルの高さまで上昇した。両手の爪を、串料理を食べるような動作で舐めて。上空から爪を振るう。
当然ながら爪そのものは届かない。しかし、爪にだらだらと滴っていた液体が飛び散って、秋をおそう。
全力疾走で走り、液を避けるその様を上空から見下し、梓は嬉しそうに笑う。薄い湯気のような煙を昇らせながら、液体は地面の土を焼いてゆく。
「アハハハッ! イイネ! イイネッ! ノタウチマワレッ!!」
爪を舐める。
毒液を飛ばす。
上空からの一方的な攻撃。
その足の速さで毒液を避けつづける秋だが、このままでは守りに徹してしまう。——二発の銃声。
「こっちを向きやがれぇっ!」
リボルバー型拳銃を撃ったのは、物陰で秋の闘いを見守っていた刑事の須賀だ。銃弾は上空に居座る梓の翼にふたつ、ちいさな穴を開けた。——その穴はすぐさま塞がった。
「ナニ……、アレ……。ウケる、アッハハハ!」
見られているなら好都合とばかりに、須賀が動いた。近くにあったガーデニング用の大型スコップで校舎の窓を割り、鍵を開け、窓を開けた。
「おい秋、こっちだ!」
「……釣れるのか?」うたがいながらも、秋は校舎に入った。
「ヨルノ、ガッコウ……。イイね、ソレ……! バズるんじゃないノ? あっハハッ!」
秋と須賀のふたりは、教務室に駆けこんだ。姿勢を低くし、いくつも置かれている机のそばで身を隠した。廊下の明かりはついているが、教務室の照明は、まだぐっすりと寝ている。
「大丈夫なのか! 診せてみろ!」
須賀は、秋が液体を浴びたところを懐中電灯で照らした。火傷は深くないが、肌は痛々しくただれている。
「すまん……。おれがそばにいながら…」
「大丈夫。これくらいなら、薬《喜神薬》で治る」
束の間の会話も許されない。
すぐに不協和音が聞こえた。
梓が迫っている。
「ネェェ、ツヅキ、しヨウ……」教務室のドアが蹴破られた。「シツレイ……、シマーす。だって。ハハハッ……」
小学生のセリフを真似てから、梓は手当たり次第に机を蹴り散らしてゆく。が、どこをひっくり返してもふたりはいない。
「コッチ……、カナぁ?」
悪魔祓いのにおいを辿ってゆく。それは別棟にあたる実習棟につづいていた。理科実験室や、家庭科調理室などがある。
「ココカ、ナァ……?」
においが《《より濃く》》感じられる、理科実験室のドアを蹴破る。ぶっ飛ばされたドアは、教卓を殴った。禍々しい視線が室内を舐める。背もたれのない、丸椅子を蹴散らしながら、秋を探す。
しかし、梓は急に足を止めた。
ひどい頭痛に晒されたように、頭を抱えて、もがきはじめた。
「ッッアァっ! いやだ……。悪魔になんか、なりたく、ナイ!」
紫色の肌は人間らしい色が戻り、瞳も優しい女性の瞳に近づいてゆく。
「ウウっ……。あぁ……」
苦しむ梓。
その背後に秋が忍び寄る。
首筋を目掛けて、刀を薙ぐ。
しかし鳴ったのは金属音。首を斬ったのなら鳴るはずのない音。刀は爪に受け止められた。
「アクマになりたくない、ナンテ……、ウソ! ハハハハッ!」
「秋! やつから離れろ!」
理科室の入り口から、須賀が飛びこんできた。
両腕には、水がいっぱいに入ったバケツを抱えている。
「うおおあぁっ!」
雄々《おお》しく叫んだいきおいをそのままに、バケツの水を梓に浴びせる。
「––––ッッ! アアアアッ!」
水を浴びた全身から、湯気のような煙がのぼる。
同時に梓は苦しみ、悶え、暴れた。
出窓を突き破り、理科室に面した校舎の裏庭へと自らの体を投げた。
飼育小屋のウサギもおどろき、怯える。
「秋! けがは!?」
「おっさん、なにかけたの?」
「あいつ酸を出すんだろ?」
「ああ……」
「もしやと思って。家庭科室にあった重曹を水に混ぜたんだ。あいつが酸なら、アルカリ性の重曹が効くんじゃねぇかと思って」
「……すごい発想するね」
「と、とりあえず効いただろ?」
「らしい。助かった」
梓を追って、秋はひとり裏庭へ。ふたたび相対する二者の距離感は、西部劇の映画などでよくある《《決闘》》のそれに、よく似ていた。
刀をだらりと持つ。
左手は胸の前。
片手の合掌。
目をつむる。
死んだ父——直之の言葉が蘇る。
十一年前。
まだ幼かった六歳の秋が耳にした、父の言葉。
——いいかい、秋。立神の剣術はね、風の力を借りるんだ。風は、おまえの躰を運び、悪を攻むる剣になるだけではないよ。降り注ぐ矢から身を守る《《盾》》にもなってくれること。それを必ず、覚えておきなさい。