ー拾壱ー
夏の夜。
小学校のグラウンド。
ひとりの男が立っている。
中肉中背。
サラリーマンの服装。
しかし、妙だ。まるでカカシのようにそこから一歩も動かないし、肩も上下していないから、呼吸をしているのかすらも、あやしい。その男の頭上から、一匹のコウモリが飛んできた——いや、それにしてはあまりに大きすぎる。
その大きな翼の生き物は、満月が居座る夜空から降ってくるように急降下。目指すは、グラウンドに立つ男。
「コロシテ……、ヤル!!」
迷いなどなく、男の左胸を爪で一突き。あっけもなく相手は倒れたが、血は流れていない。悪魔と化した青柳梓は、うつ伏せで倒れる男を、左手に持ったスマートフォンでビデオ撮影しはじめる。
端末の電池はもう僅かしか残っていない。梓が着ているピンク色の膝丈まであるパーカーは、所々が溶けたように破れている。強酸に食い破られたような衣服のすきまから、女性用の下着と、紫色の肌が見え隠れする。
「アハハハッ! イイネ! イイネ! コウヒョウカッ! ハハッ……」
だれもいないグラウンドで倒れこむ男を撮影し、よろこびにひたる。しかし——悪魔になり幾分、低下した知能でも《《おかしい》》と気づく。
「……ァァ? コイツ、イキテる?」
梓は、亡骸の腹を蹴った。うつ伏せから仰向けになった男は——変装をしたマネキンだった。
「ア? ドッキリ……! ドッキリダ! アっハハッ!」
すると背後から、やけに軽やかな、それでいてかなり素早い足音が迫ってきた。とっさに振り向き、鋭く伸びた両手の爪で自身の顔を守る。振り下ろされた刀を防いだ。
「アァァア! イヤダァァアッ!」
女性の声が混じった、気味悪く甲高い不協和音がグラウンドにこだまする。
しばらく刀と爪は鍔迫り合ったが、梓が両手を左右に大きく払った。刀は弾かれる。秋は、そのまま流れるように背を向けて、走り、距離を取る。
「マテェッァッ!」
漆黒に染まった背中の翼を扇ぐ。
飛んで、秋に迫る。
右手の爪を逃げる秋の後頭部に当てようとする。
しかし横薙ぎの爪は、空を斬った。
その身を低く、攻撃を避けた秋は、軽やかなステップで相手の真後ろに回りこむ。しかし刀も、空を斬った。
梓は前方に羽ばたいて逃げていた。
危機察知能力が、ほかの悪魔より高いとみえる。
「速いな……」秋が言った。
飛び上がり、地面から四メートルほど浮いた梓は、空中から見下す。
「アハハハッ! カワイイ! ナニ、コノコ! ドウガにシナキャ! バズる! アハハッ!」
秋とおなじ目線まで急降下。
翼を大きく扇ぐ。
地面スレスレの高度。
矢弾の速度で迫る爪。
点を突くような攻撃。それを刀が受け止める。異常な腕力のなすがまま、秋は軽々と飛ばされるも、そのまま小学校の外壁に飛びつき、両足で外壁をぎゅっ、と踏みつけた。
すぐさま壁を力強く蹴り、燕のような勢いで一直線に梓に斬りかかる。
——躱しきれない梓の右手首に、斬れ目が入った。
「アッ! アァッ! テイヒョウカしてやる!」
「次は首を——」
刀が次の弧を描こうとした瞬間——
梓はつばを吐いた。
その唾液は、濃い緑色をした液体だった。
粘度のあるそれは秋の左腕にかかり、さらに左の頬にも飛び散った。
肌が、強酸に焼かれたように爛れてゆく。
「くそっ! ——っ!」
がらにもなく、怯んだ秋。服や頬にかかった唾液を手で払ったら、その手も焼けてしまう。呼吸で痛みを逃そうとする。
梓は長い舌をいやらしく伸ばして、片手の爪を舐めた。爪に緑の唾液がどろり、どろり——。一滴、二滴と液体が垂れていく。ピンク色のパーカーが焼かれ、土に穴があいて煙がのぼる。
「マダ、たのしみたい……、デショ。ハハハッ……!」
口まわりについた液体を長い舌が舐めとる。
不協和音が、猫なで声を投げる。