ー拾ー
「おぉ……、バイクで、ブンブンねえ」
朝食のメニューは、白米とアサリの味噌汁。カブときゅうりの漬物。ほうれん草のお浸し。焼鮭。甘辛い味噌でよく煮込んだ豚の角煮。
それらを夢中でほおばる澪の姿は、さながら二、三日のプチ断食を終えた、若いOLのようだ。
「話、聞いてるのか?」秋が言った。
「ん? 青いスクーターに乗った悪魔でしょ?」
「聞いてないな」
「ん? えぇと……、あぁ!」
澪のまんまるの目が見開いた。答えがわかったクイズの回答者みたいだ。
「バイクに乗った悪魔を倒したあとに、今度は東子さんとばったり会った! それから、東子さんが青いスクーターに乗って、ひとりで帰った!」
「そう……」
「かすみさん! ご飯、おかわりいいですか!」
とはいえ澪の興味は、食事にしか向いていない。
「もちろん」かすみの包みこむような声だ。「 わたし、持ってこよっか?」
「いえ! 自分でやります! いただきます!」
炊飯器に向かって、澪は駆け出した。
畳がどたどたと足音を鳴らす。
「澪がもし悪魔になったら、ずっとなんか食ってそうだな……」
台所の奥を見つめながら、秋がつぶやいた。
《続いてのニュースです。人気ユアチューバーの〝ココにゃす〟が謎の失踪。毎日、投稿していた動画の更新が途絶え、SNSも音信不通状態とのことです……》
テレビでは、淡々とニュースが流れている。
「え、ココにゃす、どうしたの?」澪は、山盛りの白米が乗った茶碗を手に、ちゃぶ台に戻った。
「知らない」
近くに飛んできた蚊をパッ……と叩きながら、秋が応える。
「ココにゃすを知らない、って意味?」
「ああ」
「えー! 火ノ花町から動画投稿してるってうわさの人だよ?」
「へー……」
まったく興味がなさそうな秋だ。
「わたしも、動画をよく観るわけではないんだけど」澪は一方的に話をつづける。「高校の先輩が、ココにゃすの実家、知ってるらしくて」
「あら、そんなに近くに有名人が住んでいるの?」
かすみが興味を示した。
「先輩から聞いた話なんですけど……。ここにゃす、一年生の春にすこし出席して以来、中学には来なくなって。それからしばらくして、ユアチューバーになったとか」
「人には、その人にしか出来ないことがあるものよね。学校がすべてじゃないってことよねぇ」
「うーん……」
左手に茶碗をもったまま、箸をもった右手の指を頬に当てて、澪はなにかを考えこんだ。
「動画の内容が、だんだん過激になっているんですよね……。コメントでは、再生数稼ぎに《《やっき》》になってる、とか。女を捨ててる、とか。いろいろ書かれてたかなあ……」
「あら、過激って、どんな風に?」
普段ネットの動画を観ないかすみには、ふんどし一丁になって熱湯風呂に飛びこみ、その直後に氷水に飛びこむ——などの芸が、頭をよぎるばかり。
「わさびが山ほど入ったロシアン大福とか。部屋でプチ焚き火をしてみるとか。コーラのお風呂にラムネを体に何個もくっつけて入るとか。ムカデを焼いて食べるとか。ゲームの対戦で負けると、服を一枚ずつ脱ぐ生放送とか……」
「あら——」
「そこまでしても、見てもらいたい欲が、あるんでしょうね」
言葉を失うかすみに、澪が感慨深そうに言う。
「シャワー、浴びてくる」
秋が急に立ち上がった。
「あ、ボイラーの温度、あげてから入ってね」
かすみの言葉を背に置いて、秋はスタスタと風呂場に向かった。
シャワーのお湯を頭から浴びながら、しかしどこか胸騒ぎのようなものを感じる。まったく接点がないはずのココにゃす。顔も、すがたも知らない。だが、なんらかのカタチで会うことになるような、そんな気がしてならない。
「欲、か……」
*
「かすみさん! ほんっとうに! ご馳走様でした!」
玄関先で、澪は深々と頭を下げた。その足元で、秋が白いスニーカーの紐を縛っている。いつもはもじゃもじゃの髪の毛はシャワーのおかげか、すこしペタンとしていて大人しい。背中にはいつもの刀だ。
「こちらこそ、たくさん食べてくれてありがとうね」
「それじゃ、秋、お借りします!」
「ふたりとも、気をつけてね。とくに秋、あまり寝てないんだから」
「大丈夫だよ。アレ、飲んだし」秋が応える。
「それでも」と、かすみが強めに言った。
「わかった……」
秋の眠そうな顔が、すこしだけ冴えた。
遠くから手を振り、見送るかすみを後ろに感じながら、ふたりはそれぞれの自転車にまたがった。杉の木が所狭しと立ちならぶ山道を自転車で下ってゆく。
駄菓子屋の暖簾をくぐると、コンクリートの廊下が先へと伸びている。奥へ進ほどに、だんだんと空気が熱くなる。鋼を叩く音も、大きくなってゆく。
「ただいまーっ!」
廊下を抜け、すこし広めの室内に入ると、澪が大声を出した。
いままさに金槌を振るい、汗を流していた澪の父——要の服装は、鍛冶用の白装束だ。煤だらけで、火の粉が生地を焼いたのか、いくつかの穴も見える。
スポーツ刈りで色黒の痩せ型。その細身ながらもたくましい筋肉質の腕も、着ている白装束とおなじく、火傷だらけである。
「おー、澪、おかえり!」
要は、熱で溶けた鋼から目を逸らさずに答えた。真っ赤に熱された鋼を叩かねばならない。かん、かん、と耳が飛びそうな音のなかでは、会話は叫び合いのようになる。
「秋くんも来てくれたのかぁ! 刀、置いといてー!」
「お願いします!」
「半日はかかるかもだからさぁ! 澪と、少しお茶でもしててくれる?」
「ありがとうございます!」
声を張った秋の横顔を、澪のきょとんとした視線が見つめる。
「なんだよ」秋は視線に気づいた。
「秋って、そんなに声出るんだね」
「う、うるさい……」
その後、澪は駄菓子屋の店番をすることにした。眠い、と言った秋は、家の居間で休ませてもらうことになった。刀が仕上がるまでのあいだ、うとうと……、としていると、澪が緑茶とお菓子をお盆に乗せて運んできた。
「あ、ありがと」寝ていた秋は身体を起こして、ちゃぶ台に目をやった。
「ううん、よかったら食べて。あ……」
「あ……?」
「茶柱、立ってる」
「ん……?」秋は茶飲みの中を覗きこんだ。「ほんとうだ」
「もってますなあ」澪は感心したように言った。
*
某日、深夜。
とある住宅街。
モデルハウスによくありそうな真新しい一軒家では悲惨な事件が起きていた。
「あずさ! おい! あずさ!」ひとりの中年男性が、部屋のドアを叩く。「いつまでそうしてる!」
さらにドアを叩く中年の男性。部屋の中では、ひとりの女の子が、机の上に置かれた三台のモニターをキョロキョロと忙しなく見回している。
女の子はピンクの丈長パーカーを、ワンピースのように羽織っている。大口のフードには、かわいらしい猫耳が。
ストレートで、アッシュグリーンの長髪がフードの中から流れている。そして、彼女の両耳を大きなヘッドホンが覆っている。
「ここに効果音。そしたらカットして。ズーム……、パン、分割」
女の子はぶつぶつと独り言を言っている。集中のためか、ドアを叩く音が聞こえないのか。あるいは、聞こえていて無視しているのか。
「くそっ……、くだらないことをいつまでも!」
中年の男性はそう言うと、いったんドアから離れた。廊下を歩き、階段を降りるとリビングに来た。リビングの隅では中年の女性がひとり。
しゃがみこみ、震えて、怯えている。女性の顔にはアザがある。その女性には目もくれず、男性は、木製の椅子を乱暴に手に取ると、階段を上がろうとする。それを見た女性が慌てて身体を起こし、男性に駆け寄った。
「あなた、やめて! あずさの人生を否定しないで!」
泣きじゃくりながら、男の足にしがみつく。
「うるさい! 黙れ!」
男はそう言うと、女性を蹴り飛ばした。
「あずさ……、逃げて……」
女性はお腹を押さえ、声を絞った。男は、あずさの部屋のドア前に立つやいなや、ドアを椅子で叩きはじめた。
「あずさ! おい! あずさ! 出てこい!」
とてつもない物音。
「やめろ! 邪魔すんな!」
ヘッドホンを耳から外し、縦に三箇所、鍵が取り付けられているドアに向かって、あずさは怒号を返した。それでも男性は、構わずにドアを殴りつづける。ついに、ドアと柱を繋ぐ蝶番が悲鳴を上げた。ばり、ばり……! とドアが柱から外れ、男性が部屋に侵入してくる。
「いつまでも……、いつまでも……!」
ものすごい形相だ。般若の面の方が、まだ優しい顔に思えるほどに。
「わたしはてめぇより稼いでんだ! すぐに防音のマンション買ってこんな家、出ていってやる!」
「おまえひとりのために、どれだけおれの人生が犠牲になっていると思ってる!」
「動画を観られるためならなんだって犠牲にしてやる!」
あずさは近くにあったピンクのぬいぐるみを、男性に投げつけた。
「毎日のように職場で部下や同僚から、バカな娘の姿を……っ!」男性は歯を強くきしった。「画面越しに見せられる、父親の身にもなれ!」
そして、持っていた椅子を後ろに放り投げる。
「知るか! 知るか! 知るか!」
掻き乱れて、掻き乱れて……、あずさは止まらない。
「これがわたしの生きてる証だ! 子育て放棄して、お母さんに暴力振って、仕事しかしてこなかったおまえになにがわかる!」
「言わせておけば、このガキぁ!」
父親は奥まで押し入り、椅子に座るあずさを両手で突き飛ばす。そのままの勢いで三台のモニターと、二台のデスクトップパソコン、撮影用のグリーンバックやカメラなど。それらを手当たり次第に、めちゃくちゃに壊しはじめた。
「やめて! やめて!」
泣き叫び、あずさは父親にしがみつこうするがすぐに突き飛ばされてしまう。
「もう二度と! くだらないことをするな! コンビニのバイトでもしてたほうがよほど世のためだ!」
父親はそう言って、機材がぐちゃぐちゃになった部屋をあとにした。あずさは突き飛ばされたままに、壁にうなだれてしまう。身体のふしぶしに、痛みを感じる。だがいちばんに痛みを感じているのは、心だ。
「殺して……、やる。殺して……、やる!」
ふと、あずさのそばに黒い霧のようなものが、ふわっと寄った。
「殺して……、ヤル、っっアァッ!」
女性の声から甲高い不協和音に変わった声で、あずさは叫んだ。
全身の肌は紫色に変わり。頭からは漆黒の角が二本、ピンクのフードを貫いた。背中から生えた翼は服を突き破る。
あずさはドア付近の壁を破壊。廊下の壁を爪で乱暴にひっかきながら、階段から転げ落ち、一階まで身を落とした。
まだ新しい体に慣れていないあずさは、リビングにいる父親を見つけた。大好きな母を蹴ろうとしている、我が父を……。
「ァァアッ! ァアッ! ァァアッ!」
聴き慣れない奇声に後ろを振りむいたあずさの父親は、この世のものと思えない生き物を目の当たりにした。恐怖に慄き、心臓を凍りつかせた。
「な、なんだ! うあぁっ!」
またたく間もなく、父親は、娘の鋭い爪に左胸を貫かれた。
「コロシタ……、ミテ、ミテ、コウヒョウカ、コウヒョウカ、チャンネル登録、ヨロシクネ、だって! アハハハッ!」
人間《《だった》》ころによく言っていたセリフを口に出し、あずさは高笑う。雷が鳴り、驟雨が笑い声をかき消す。
「い、いやぁぁあっ!」
母親は、リビングの出窓から転がるように飛び出した。サンダルも履かずに着の身着のまま、深夜の住宅街へと逃げだした。