ー漆ー
安東の声がすごくきらいだと、凛は思った。人を見下すような音を、しゃべるたびに口から発している。
「本気を出してみよう。白魔がなんたるかを、全身で感じてから死ぬこと。それが、おまえらにできる最後の礼儀だ」
安東は立ったまま上体を深く屈ませる。スーツの背中がビリビリと破け、白い翼が大きさを増した。さらに、いきむように声をしぼってから、上体をぐわりともどす。
迫力を増した翼を大きく扇ぐ。生ぬるい風圧が生じて、空気がよどんだ。凛は銃を撃つ。片翼を盾のように広げて、安東は身を守る。弾は翼に弾かれ、金属に当たったのとおなじ音を鳴らした。
「硬い……? どうしよう、あの翼、弾も炎も、効かない」
「遠距離から攻めるのは、きびしいか……」シキの顎に力が入る。「ただ単に翼のサイズが増したことを、本気と言うかは怪しい。用心しろ」
「礼儀……」安東は両腕を大きく開く。「これが礼儀だ!」
兄妹の全身が急激に重くなった。凛は銃を落としてしまう。持っていられなかった。シキにいたっては、口に咥えた刀が強く地面に引きつけられたので、芝生に顎下をぶつけてしまった。とてつもない重力を感じる。
「脚の関節が、潰れるっ……!」
「なにこれ、重い……!」
約一〇メートル直径の円形で、地面が宇宙色に染まる。青々と茂っていた芝生は、その範囲だけ即座に枯れてしまった。ふたりは、その円の中央にいる。
「そうだ、それでいい」安東は口を裂いて笑った。「礼儀正しく頭を下げろ! そこでお辞儀をしていればいい! 下民が! 闇で飲みこむのはたやすいが——まずは無様が見たい!」
勝ちほこった声をふたりに投げつけながら、ゆっくりと近づいてくる。安東の片腕は闇の刃に。
「動けまい。重力は地球上の万物を制する。金とおなじだ。金は、この世のすべてを制するんだよ。命すらもな」
安東が歩を進めるたびに、その足元が宇宙色に染まり、芝生が枯れ、広い緑の上に茶色い足跡がつづいた。
「つくづく、かわいそう……、だな」シキが重力に逆らいながら、なんとか声をしぼる。「他人をすり潰して搾取した金など、メッキを塗った泥とおなじだ。金は動かせても、心は動かせまい——」
シキが話しているあいだも、安東はゆっくりと近づく。
「人など金でどうとでもなる。金が動いた結果、心が動く。その方程式でここまでのしあがった。心など数字で動くのだよ。所詮はな」
「心を失った白魔が、心を語るな……!」
火事場の力を使い、シキはどうにか立ちあがろうとする。しかし、全身が岩になったような感覚に耐えることは難しく。顔をわずかに持ちあげ、安東をにらみつけるのが精一杯。
両手両膝を地面に押しつけている凛の顔は苦しさに満ちていく。手をすこしずらせば、地面に転がった銃に手が届くのに。
「凛に……、手を出すな!」シキがうなる。
「それでは老犬だな!」
安東が肋骨を蹴った。シキは、痛みを声に漏らしながら、横になって倒れてしまう。全身がプレス機にかけられたように苦しい。肺が締めつけられて息ができない。他の内臓も強烈な重力にやられ、無事ではないかもしれない。
「お兄ちゃん!」
頭を持ちあげられない凛は、地面に向かって叫んだ。
「気が変わった。メインディッシュはあとにする。この犬を黙らせたい」
安東は宇宙色の地面に寝そべるシキの首ねっこをつかんだ。顔の高さまで持ちあげる。
「行儀の悪い犬が。身のほどを知るいい機会だ。瀕死の眼で、妹の死を観察するがいい」
シキは、眼球だけをなんとか動かした。あとは動かない。安東の片腕、闇の刃のきっさきが腹に触れる。細い血が闇に溶ける。凛がなにかを喚いた。
闇の刃先が腹肉に食いこむ。
叫び、痛みに悶え。
シキの瞳が釣りあがった。
耳鳴り。
全身が凍るような悪寒。
死んでしまうのか、という恐怖。
空に点が見えた。
黒い点——悪魔が一匹。
「なんだあの悪魔は」安東は気配を察して、「手出しはいらないとあれほど言ったのに」
悪魔は急降下で接近。シキをつかむ安東の腕に爪をたて、そのあともよだれを散らしながら爪を薙ぐ。たまらずシキを手離し、武器腕を悪魔の腹に突き刺す。
自分の腹を貫通したそれをわしづかみ、一秒と経たずに腹から抜いてみせると、悪魔はまた爪を振りまわす。
あまりの迫力に安東は退がった。迫力におされただけではない。その悪魔が爪を薙ぐたび、緑色の炎が噴き荒れ、攻めたててくるからだ。
悪魔にとっての天敵とも言える緑の炎を、爪とともに振りまわす——そんな矛盾を当たり前のようにあつかう女の悪魔。
「こいつ!」安東の顔がひきつる。「殺してはならないやつか? いや、純血を捕らえたいまは、すでに用なしのはず……。まさか月音か……! あの気まぐれ兎が、おかしな気を起こしたか!」
安東は手を人間のそれにもどし暴れる悪魔の両腕をつかんだ。爪による攻撃をきらった。
怒り狂った狼のように歯をかちかちと重ね、悪魔は噛みつこうとする。歯が重なるたびに、紫の唇から緑色の火が溢れた。
兄妹を拘束していた重力の床は消えた。安東が、悪魔に手を焼いたためだ。
凛は、倒れたシキの治療をすぐにはじめる。傷口に手を添えながらもその視線は、安東と闘う一匹の悪魔にくくりつけられる。
ぼろぼろの服、ちぢれてベタついた長い髪。女性の声が混じった不協和音。紫の肌、長く伸びた犬歯。頭部を飾るねじれた二本角。背中の黒い翼には、拘束具に噛まれたような穴が空いている。
細いながらも、筋肉の隆起がしっかりとわかる腕の表面で、逞しい血管が溌剌と脈をうつ。体つきはかなりいい。長い時間をかけて、熟成された肉体——。
「母さん……?」
凛がつぶやく。呼吸すら危ういシキは耳を澄ませた。聞き覚えのある母の声が不協和音のなかにある——それを遠ざかる意識に泳ぎながら感じた。




