ー壱ー
巨大な黒鉄の格子門。その先に見える大教会。土地も、建物自体も、優香たちが暮らしている教会の十倍は大きい。西洋風の装飾が至るところに施された格子門の外観を見るだけで、ここが日本であることを忘れてしまいそうになる。
ヨーロッパの観光名所と言われても違和感がないがこの教会は、たしかに東京にある。三メートルの白いコックリートブロック塀の上には、剣状の先端がならぶ黒鉄の格子。
塀をまたいだそのさき——敷地内でまず目をひくのは一面の芝生だ。青々と茂ったそれはサッカーの試合もできそうなくらい広大な庭の主役だ。
格子門から中に入ると、白い大理石タイルの一本道が建物に伸びている。
六角形の塀。その内側は、芝生の広い庭。門から建物へとつづく、白い大理石の一本道。敷地の真ん中には、城のように大きい教会の建物。上空から観察すると、いかに整った見た目をしているかを実感することになる。
新宿でこれほど広い土地を確保するなど、よほどの財源がなければ無理だろう。
礼拝堂への門扉は木製で、ところどころに打ちつけられた黒い金具が、重厚感を演出している。建物の外観を見たかぎりでも、よほど豪華な礼拝堂であることが想像できる。
「母さんは……」秋は、胸の前で片手の合掌をした。「うん、大丈夫。一度、倒れそうになった感じがしたけど。いつもの脱水症状かな」
秋は、黒鉄の格子門の前に立っていた。軽くしゃがみ。両足で地面を蹴り、ひとっ跳び。塀とおなじ高さの門を軽々と越えて庭に降りる。
門の外側にいるときは、絶対に入るな、と言われているような、威圧感があった。敷地内に足を踏み入れたいまは、おまえを逃がさない、といわれているような圧迫感がある。
まずは大理石の道をまっすぐ進んだ。硬い足音が鳴る。歩いても、歩いても、一歩も進んでいないような気分になる。敷地が広すぎるせいか。それとも、このさきへの不安のせいか……。敵の本拠地と思えないほど、しずかでだれもいない。それが気になる。
「やあ、いらっしゃい」
男の声は、建物の上から聞こえた。門扉の真上。尖塔といわれる、天を突きさすようにそびえ立つ塔。その窓を開けて秋に声を投げた。塔の先端には十字架が立っている。
声の主は、うれしそうだ。
まるで友人の訪問を待ちわびていたように。
「だれだ」
表情を変えずに、尖塔にいる人物を見上げる。秋の髪は、神木の効果を得たなごりでほぼほぼ緑色だ。黒髪の部分が一割くらいしか残っていない。
「ふむ——ふむ。ときどき、自分でもわからなくなるのだよ。自分のなかに三人くらいが同居している感覚がある。人間の自分。教会人としての自分。もうひとりはなんだろう」
男はメガネをしている。黒髪の短髪だ。眼の色も普通。もしこの男が白魔であるならば、それを隠している、ということになる。白髪と赤眼が、白魔の特徴であるからだ。
口がにやけているから、太陽に反射したメガネのむこうの表情がよくわかる。見下すような、勝ちほこったような。他人に不快感を与えるためにつくられた、嫌味の顔だ。
「ああ——ああ。白魔としての自分だ」
甲斐那を見上げる秋の目つきが、するどくなる。
「澪はここにいるんだろう。返してくれ」
刀を抜いた。いつでも甲斐那の目線まで飛び上がって、太刀を浴びせられる。
「まあ、そう焦らず。ラスボスというものがあるでしょう。わたしはきっと、その役目なんですよ。だから刃を交えるのは、もうすこしあとだ」
「白魔は全員倒す。それ以外に、ない」
有無をいわず秋は飛びあがろうとする。
「捕られている純血がいますぐに死んでもいいのか!」
甲斐那の怒号が、秋の動きをぴたりと止めた。
「そう——そう。お利口です。十代の男の子にしては、ものわかりがいい。白魔という未知が、なにをするかわからない。そんな思いが、胸のなかで——なかで蠢いているのでしょうね」
甲斐那は両手を左右に大きく広げ、高笑いをしてみせる。すると、秋の頬を一本のダガーがかすめた。周囲にはだれもいない。なにもない。
畳みかけるように、数本のダガーがおそう。素早い動きで避けつづけ、十本ほどが地面を穿ったとき。ダガーがどこから飛んできているのかを理解した。
なんの前触れもなく、空間に現れる黒い穴。ダガーはそこから飛んでくる。黒い穴は、ダガーを射出するときだけ空間に現れ、単発の攻撃が済んだらすぐに消えていた。
穴が現れては、ダガーを撃ち、そして消える。秋にまとわりつくように、うっとうしく、それが繰り返される。
「いい——いい!」甲斐那は動きまわる秋を見て、悦楽に浸った。「未知の攻撃にうろたえる風の悪魔祓い……。なんと素晴らしい!」
ダガーを避けつづけ、さらなる殺気を感じたとき、二メートルほどの大穴が目の前に現れた。楕円形に切りとった宇宙を貼りつけたような、異次元の穴だ。
その穴が生成されてから、一秒と間をおかずに、スーツの男が異次元から飛びだしてきた。そのものが刃なったような腕を縦に振り、秋に斬りかかる。
人らしい肌色の手や指は完全に消えていた。代わりに生えているのは、大型の漆黒刀であった。刃幅をさらに広くした、半月刀のような形状だ。男の片肘から先の八十センチが、武器に化けている。
その刃自体も、ブラックホールのように歪んでいた。金属には見えない。刃の形をした宇宙が、男の腕から生えている——。実態をつかめない凶器ほど、人を不安にさせるものはない。
「安東!」窓から甲斐那が声を投げる。「大事な客人だ。彼には、純血が死ぬそのときを、特等席で観覧していただく。その予定だ。席で大人しくしていられるように、身体の自由を奪って差しあげなさい。方法はまかせる。目と耳だけは潰すなよ」
言い残し、甲斐那は窓を閉める。塔の中に消えた。安東は息をついて、自慢の武器腕を持ち上げた。刃型の宇宙の中で、遠くから見た星々のような、白い点が泳いでいる。
もし、あれに斬られたら……。
斬られた肉体は、どこへ行くのだろうか……。
「どう思う? 礼儀がなっていないよな。この教会の主は」
「白魔に礼儀はない。あるのは殺意だけだ。澪を返してもらう」
刀を構える秋を見て、安東は笑みをうかべた。




