ー玖ー
秋の自宅にすべりこんだセダン、そのフロントガラスにはヒビが入っている。
「おっさん、フロントガラス、ごめん」
「あぁ、これか」須賀は小気味よく笑った。「なぁに、立派な労災だよ。こんなガラスよりも、おまえの傷の方がよほど心配だ」
「じいちゃんにアレもらうから。大丈夫だよ」
「アレか——そうだ、アレがあったな。しっかし、マズいんだろ?」
「ピーマンよりはマズい」
「ピーマンは美味いだろ!」
「ピーマンだけ何個もミキサーにかけたやつ、飲める?」
「おっ……」
「そんな感じだよ」
「良薬口に苦し、か」
秋は車から降りた。須賀の車が見えなくなるまで見届けると寺院の裏口から庭に入る。綺麗に整った枯山水の砂利を踏みながら、いつも仕事終わりに寝転がる縁側まで歩いた。
刀を木板の床に下ろす。
靴を脱ぐ。
大の字で寝る。
至福の時間だ。
「ふぅ……」大きく息を吐いて、目を瞑る。
「きょうは、よう動いたな」
老人の声だ。いつの間にか現れた銀次が、秋の頭頂部に向かって話しかけている。
「じいちゃん、起きてたの」秋は目を瞑ったまま応える。
「きょうの火は、よう動いとったからの。おまえさんも、よう動いとったんじゃろうて」そう言って老人ハムスターは毛繕いをする。
「うるさい悪魔だった……」秋が小さな声で返す。
蝉が鳴き始めた。
早朝の太陽がのぼり、明るさが増した。
気温もすこしずつ夏らしく、だんだんと湿気が重たくなる。
草木の青い香りが、鼻腔を心地よく通りぬける。
「しかし、もうちょっとこう……」ハムスターはちいさな手で剣道のまねをしてみせる。「ぱっ、と倒せたじゃろうに」
「悪魔は、悪魔……」秋は、銀次が言うだろう言葉をさきに言った。
「迷いは身を斬る。過去がどうであれ、悪魔はけっきょく、人を殺めるだけじゃて」
——秋からの返事がない。
「寝たか」
「寝てない」
「喜神薬、冷蔵庫で冷えとるよ」
「あの苦味、どうにかならないの」
「ならん」
「あした飲む」
「もう日付は変わっとるよ」
「ハムスターは細かい……」
秋は溜息混じりに言った。数秒の沈黙のあと、今度こそ眠りについた。孫の寝息を察した銀次は、会話を切り上げた。廊下の奥から、かすみが歩いてくる。手には、薄手の毛布を。
「寝てしもうたよ」
「あら、擦り傷だらけ」
「薬を飲んでから、寝れば良いのにのぉ」
「アレを飲むだけでも、疲れますからね」
かすみが微笑みながら言った。毛布を秋の上で広げ、優しくかけてやる。それから、枯山水についた足跡をながめた。
「また、砂利を直さないといけませんね」
「玄関から入れば良いのにのぉぉおぉ。まったくじゃて……」
「ふふっ」かすみの笑みは、仏のようだ。「いいんですよ。砂利を踏むくらいしか、迷惑をかけない子なんです」
「もちっと、欲を持った方がいいくらいじゃて。欲が無さすぎて心配になる」
「睡眠欲だけは、強いですけどね」
なんやかんやと言いながらも、庭の足跡をみると、秋が無事に帰ってきたと実感するものだ。
「きょうも無事でなによりじゃ」
「はい。無事で、なによりです」
寺院には、真っ赤な鳥居が参拝者など出迎える大門がある。それとは別に、秋たちが日常生活をする棟につながる、いたって普通の玄関がある。
秋や、かすみに直接の用事がある人物は、大門を通らない。そのわきにある、玄関を尋ねる。宅配便の業者なども、おなじくそうする。
「おっはよーございまーす!」
玄関の引き戸が開くと、元気な女の子の声が聞こえた。ミディアムボブの茶髪。目はクリッと大きく瞳は茶色。小柄の体には薄いピンク色のタンクトップを着ている。脚には白い七分丈のクロップドパンツにサンダル。年齢は秋とおなじくらいだ。
「あら、澪ちゃん。いらっしゃい」
「かすみさん、おはようございます!」
澪と呼ばれた女の子は元気に挨拶をした。
「きょうも元気ねぇ」
「鍛冶屋のテンションで、すいません……」澪は、恥ずかしそうに頭をかいた。「秋、います?」
「まだ寝てるの」かすみは困った顔をした。
「いつものところです?」
「うん、また庭の縁側で」
「そうですか……、きのうも遅くまで?」
「そうね。ちょっと疲れたみたいね」
「喜神薬は、飲みました?」
「まだなの」かすみの片眉がもちあがる。
「うーん。あがってもいいですか?」
「どうぞどうぞ、入って。薬くらい飲むように、言ってくれる?」
「わっかりましたあ! おじゃましまーす!」
澪は、靴を脱いで揃えた。足取り軽やかに玄関をあがり、そのあとはスキップだ。圧倒的な陽気が、圧倒的な陰気である秋にむかう。二分と経たずに、彼女は獲物をとらえた。
「しゅー」空気が抜ける音をまねしながら、しゃがむ。口をすぼめ、寝ている秋の頭の近くまで近づける。「おーい」人差し指で秋の右肩をつっつく。「悪魔祓い、立神さんの、寝起きを、おそいたいと思います……」ドッキリをしようと企む。
「イヤッ!あくまよ!たすけてぇっ!」ついに澪は、大声を出した。
「——っ!」
秋はその場で身を翻し、毛布を放り投げた。そばに置いていた刀を手に取る。抜刀の構え。死んだような熟睡から、ものの二秒で戦闘体制をとった。
澪の大きな瞳が、秋の青い眼をのぞきこむ。
たがいに時間が停止したような硬直を決める。
「お、は、よ、う、」
澪は、大きめに口を開けて言った。日本語講座のテレビ番組みたいだ。秋はしばらくその目を見つめるも、刀が必要ないとわかるや、ふたたび寝た。
「こいつめ」
作戦——。
澪は真顔で台所に向かう。
台所では、かすみが味噌汁を作っていた。白味噌の、少しつんとした、それでいて芳醇な香りがただよう。
「かすみさん、喜神薬もらっていいですか?」
「あぁ、ごめんね。持ってってくれるの?」
「はい、よろこんで!」
キンキンに冷えたちいさな小瓶を冷蔵庫から取り出したその顔は企みに満ちていた。一分後には、氷同然の小瓶は寝坊助のうなじに当たった。
「つんめってっ!」さすがに飛び起きる。
「お、は、よ、う」
「なんなんだ、おまえは…」
普段から所々がハネている秋の頭髪だが、いまは寝癖で爆発している。
「ワタシは鍛冶屋のムスメだ」澪は宇宙人みたいな口調で話す。「ねぇ、きのうどうだった?」
すぐに、いつものトーンに戻った。
幼馴染らしい、気を遣わない雰囲気だ。
「あんまり……」
「苦戦?」
「してない」
「怪我は?」
「した」
「薬は?」
「飲みたくない」
「擦り傷、多いよ」
「ああ」
「はいはいっ、目覚めの一発ガツンといっとけー!」
陽気におされて、秋はいやいや小瓶を受け取った。飲み口を塞ぐ木栓を抜いて、一気に流し込む。液体が喉を通ると、胸が焼きついた。
「ぅ……」
「まずい?」
「もう……」
「一本?」
「飲みたくない」
秋のひどい表情とは裏腹に、躰の傷はみるみる消えてゆく。
「おぉ、やっぱすごいな、これ。こんなに綺麗に傷が消えるのに、なんで持ち歩かないの?」
「寺院の中でしか使えない薬なんだよ。祭壇の火が近くにないと、ただの苦い水になる」
「え、なんで? なんで寺院の中じゃないと効果でないの?」
「むかし、じいちゃんが話してた。あんまりに長い話だったから、よく覚えてない……。ヨミ、ヨモツなんとか? それが、どうとか、こうとか……」
「なるほど、わからん」
「まだ説明してもいないだろ……」
「で、要さんが呼んでる?」
「刀、欠けたでしょ」
秋は、気が重たそうなため息をつく。
その様子を見た澪は、なぜか変顔をした。
「やっぱ、わかるのか」
「お父さんは、わかるみたい」澪の顔がもどして、「わたしはてんでダメだけど。てか、すこしは笑ってよ」
「なにを?」
「わたしの変顔とか。その他、いろいろ」
「おまえの行動をいちいち笑ってたら……、腹筋がいくつあっても足りない」
「六個はあるでしょ? 腹筋。シックスパック」
「食べたのか?」
「なにを? ランチパック?」
「朝めし」
「あぁ……。まだだね」
「母さん、何か作ってるだろうから、食べていけば?」
「えー、ほんとに! やったー! かすみさんご飯、きたー!」
遊園地とお葬式くらいのテンション差をそのままに、ふたりは居間に向かった。
夏の朝陽が煌々《こうこう》と庭を照らしている。寺院の中を颯爽と通り抜ける風が、涼しさを伝えてくれる。廊下を並んで歩く幼なじみ。ふたりの関係は、ぎこちなさも遠慮もない。とても自然だ。
「じいちゃんの分まで、食うなよ」
「じいちゃんの分って、ひまわりの種?」
「そう」
「さすがに、そこまで飢えてないから」