感情と利害関係
赤ん坊のお世話とは単調な作業である。
慣れてしまえば楽な仕事だと言える。
クレメントの離乳は着々と進められていて
「いつ乳母の身に何かあっても誰も困らない」
状況が作り上げられていっている。
(それにしても、このオバサン、本当にブレないなぁ…)
とジェラルディーナは乳母のスザンナに少し感心する。
スザンナにとっては徹底して
「クレメンティーナ様が幸せそうじゃないのは旦那様が相応しくないから」
という事らしい。
毎日、侯爵邸内で侯爵の悪口を言い続けている。
お陰で皆の方でも
「うん。コイツ死刑決定」
という決意を誰一人覆さずに済むので、ある意味で助かる…。
異端審問庁に勤務していた頃
拷問に立ち合う度にジェラルディーナはしみじみと実感したものだ。
敵とは
「感情面での気に入らない相手」
を指すのではなく
「利害関係が対立する相手」
なのだと。
拷問される被疑者も拷問され始めの頃は憎々しげに執行官と(拷問係と)書記官を睨みつけてくる。
顔を覚えられると釈放後に報復される可能性もあるので、被疑者と対峙する場合、異端審問官は三角目出し帽を被っている。
顔を隠すのは、黒魔術と同じく「生け贄に術者側の情報を特定させない」ためである。
「恨むべき相手」という「個」を特定する事にさえハードルを設ける事で早々に「報復を考えられなくしてやろう」という腹積りなのだ。
それが効果的な事もあり
異端審問庁への襲撃や刑吏一族への襲撃は大抵処刑された者達の親近者達である。
拷問され釈放された当人が異端審問庁や刑吏一族を襲撃する事は滅多にない。
皆、痛みゆえに心折れるのである。
目の前で人が拷問されるのを見て
「恨みもなく、腹を立ててる訳でもないのに、人は人に対して、意図的に苦しめ殺す事ができる」
という事実に関して、ジェラルディーナは考えさせられたものだった。
直接手を下さずとも
苦しめ殺す側に居ると
(自分達と同じ人間の姿をしている)
(同じ人間だ)
(これは本当に正しいのか?)
と迷いそうになった。
だが
(…この人達は我が国に住み着いて異邦人同士で癒着し、我が国から啜ったカネを異邦人同士で分け合い繁殖・繁栄しようとする寄生虫侵略の実行犯達なんだ…)
という事実によって迷いが掻き消えた。
このところは
「天動説」
を否定し
「地動説」
を唱える一派が異端審問庁に回されてきていた。
正直、異端審問庁は実質占星庁の下部組織であり
教皇庁の下部組織ではないので
「我々の暮らす大地を中心に星々が回っている」
と言われようが
「我々の暮らす大地が太陽の周りを回っている」
と言われようが、本当はどうでも良いのである。
単に
「既存権威の失墜を目論むという諜報工作が(敵国主導で)行われている」
からこそ
「リベラトーレ人天文学者のフリをした外国人諜報工作員」
「知的探究者を装った下剋上売国奴」
に対して
「異端だ」
と言い掛かりをつけ、資産没収・拷問・処刑が行なわれているだけだ。
勿論
「地動説を唱える者のうち異邦人と異邦ルーツの売国奴のみを処刑している」
という事実は隠蔽されている。
それは各国共通の事情。
乗っ取り侵略兵、諜報工作員を「異端審問」の名の下で虐殺している各国の事情を、もしも一般国民らに隠さず伝えれば…
ほぼ確実に各国で「異邦人狩り」が起こり、国同士の友好も連盟もヘッタクレもなくなる。
そのうち地動説が一般常識のように見做される時代が来ようとも…
おそらく
「異端審問の本質は国防のための異邦人狩り・売国奴狩りである」
という事実が一般の人々に理解される日は来ない…。
異端審問を体験していない人々は
「死刑とは酷く感情的な負の念の表明である」
と勘違いし続けるだろう。
「異端審問庁は単なる既得権益層の犬だ」
「賢過ぎる者達が既存権力を失墜させる事に忌避感を持ったのだ」
と延々事実と異なる認識が引き継がれるのだろう。
それでもーー
いつか誰か気付くのかも知れない。
人が人に対して意図的に苦しめ殺す行為には
感情とは無縁の
利害関係の対立があるのだと。
乗っ取り侵略兵や諜報工作員を処分する国防への献身が
既得権益層の犬による人知否定なのだと
人類の知性を欲で捻じ曲げた悪行なのだと
そう見せかけられた歴史の中に
国という単位の社会の中で何も知らずに微睡む人達をただ護ろうとした護国献身があったのだと。
いつか誰かがちゃんと気付くのかも知れない…。
だが、今の時点ではやはり圧倒的多数の人達が
「死刑=残虐な感情表現」
と思い込んでいて
「死刑=利害関係の対立」
という図式を呑み込めない。
この屋敷の多くの使用人達も。
異端審問庁で働いた事のない人達は
「処刑すべき人間が実は善人だったと判る」
と途端に
「情状酌量の余地あり、処刑反対」
を唱え出す。
感情的に憎悪に憑かれて
「殺せ!殺せ!」
と喚き立てる人達こそが
「処刑される罪人が実は善人だった」
と知ると
「殺すな!」
と掌返しをする傾向がある。
刑罰も処刑も憎悪感情の表明であってはならず
利害関係の対立を緩和目的
自陣を有利にする交渉パフォーマンスとして認識するべきなのだが
多くの人がそれをできない。
スザンナが嫌な女である事実が全面に出ているから今は皆
「死ね」
「殺す」
と一致団結できるが
「実はこんな健気で良いところもある善人だ」
という部分が可視化されると、迷う人達が多数出てくる筈だ。
だが、その点、ブレないスザンナは一貫して
「フラティーニ侯爵家をナメまくってる(平民のくせに)嫌な女」
であり続けている。
そのうち姿を見かけなくなるだろう。
(権力にほど近い場所にいる人間が、「敵陣のど真ん中で敵大将の悪口を言い続ける捕虜の扱い」に関して思い当たらない方がどうかしている…)
とジェラルディーナは思うので
そのうちスザンナが居なくなっても
ジェラルディーナはスザンナに同情はしない。
クレメントとスザンナの娘のブルーナは呑気に離乳食を頬張っては口の周りに溢している。
(可愛いなぁ)
と目を細めながら、ジェラルディーナは一時の平和を享受した…。




