洗礼
ジェラルディーナは、その晩、奇妙な夢を見た。
「夢の中で自分が別人になっていて、何処かの廊下でサルヴァトーレ・ガストルディと話をしている」
という夢。
目覚めてみると会話の内容までは覚えていない。
というか、音声のない映像だけの夢だった気がする。
夢の中で読唇術を使っていればサルヴァトーレが何を言ったのか分かったかも知れないが、夢は夢であるが故に自由が効かない。
「一体、なんだったんだろう?」
と思わず寝起き様に目を瞬かせた。
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朝早くから裏庭で念入りにストレッチしてからのランニング。
それ自体は苦痛にはならない。
元から体力作りはしていた。
地下生活のせいで衰えた筋肉を鍛え直しているだけだ。
自分の体力の限界に挑戦するような体力配分などさせてもらえないハードモードが辛い…。
「朝から疲れた〜」
「お疲れ様〜」
女子は訓練後の身支度で汗を落とす必要があるので、早目に切り上げる事が許されている。
ジェラルディーナはフランカと一緒にソソクサと裏庭を立ち去った。
「そう言えば、非番の人は朝の訓練は来ないんだね?」
とジェラルディーナが疑問に思った事を訊くと
フランカは
「非番の日は訓練参加は義務じゃなくて自由参加だから、来ない人も多いね。アタシは今日非番だけどちゃんと来たでしょう?地道に毎日参加してないと怠け癖が出ちゃうから自分で自分を牽制するために朝は非番の日も出るようにしてるんだけどね」
と答えた。
「フランカ、非番の日だったの?」
「そう。出掛ける予定。今日1日、独りでも頑張って」
「分かった…」
不安ではある。
新人が独りで居ると何か嫌がらせしてくるような人間も湧くのかも知れない。
「…皆、良い人達ばっかりだから心配要らないよ、とか言ってあげられないのがキツイ所だけど…。まぁ頑張って」
「…了解です」
不安ながら独りでの仕事が始まったのだが
その日はある意味では散々だった。
自分用の食事に虫が入れられていた…。
ぶつかって来られて転ばされた…。
一見すると
「わざとなのか?事故なのか?」
判断がつかない…。
別の人達が直ぐに気づいて指摘。
別の人達が断罪・謝罪要求してくれたので
「嫌がらせを受けながらひたすら我慢が強いられる」
ような事態にはならずに済んだ。
虫入りの食事も食べる前に気付いたし
転んで膝と掌を少し擦りむいたものの大した怪我ではない。
嫌がらせ自体は実害が無かったが
(意地悪そうな顔もせず、すました顔で嫌がらせをする人達がいるのか…)
という事のほうにゾッとした。
話もした事のなかった女中や従僕に嫌がらせされて
話をした事のある女中や従僕に庇われた形だ。
庇ってくれた人達の話のニュアンスから
「女中や従僕などの下級使用人は侍女や侍従に対して無条件に悪意を持つ事がある」
という事が判明したものの、納得はいかない。
フラティーニ侯爵家の使用人の多くがフラティーニ侯爵家の親戚の平民。
フラティーニ姓ですらない者もいる。
これといって特技もなく、フラティーニ家の能力も発現しなかった者達は金持ちの親戚や本家の侯爵家に職を斡旋してもらう事が多いのだ。
当人の希望次第では下級使用人として雇ってもらう事もある。
要は下級使用人は全員
「フラティーニ侯爵のお情けに縋って仕事を得ている」
訳である。
侯爵の采配を不満に思う権利があるとは思えないのだが…
「何故、子爵家如きの親戚の平民がいきなり侍従や侍女として受け入れられるんだ」
と不満を持つ下級使用人もいるという事らしい…。
女中頭のダフネが
「上への報告は私の方からしますので、貴女からは報告する必要はありません」
と言い出したものの
ジェラルディーナは
(…そういって握り潰す気かも知れない…)
と疑いを持った。
女中頭は表面的には
「使用人間の嫌がらせはいけない」
という態度だけど、妙に嫌がらせ犯に優しい。
口先だけで叱っているお芝居感が拭えない感じがする。
近しい身内なのかも知れない。
だが、ここで女中頭のいう事を否定しても角が立つだろうから…
「ダフネさんの言い分は理解しました」
とだけ返事をした。
言い分を理解はしたが納得はしていないので
きっちりアルフレーダに告げ口はする。
しかも
「ダフネから上には報告するなと言われた」
という事も含めての告げ口。
(告げ口を楽しいと感じられるくらいにこの人達が本当に悪人なら良かったのかも知れないな…)
と思い、ジェラルディーナの口から溜息が漏れた…。
女中と侍女では業務が被らないので、ジェラルディーナがアルフレーダに告げ口に行っても、普通なら女中達には気付かれない確率が高いが…
運悪くアルフレーダの書斎近くで掃除をしている女中が居れば気付かれる。
不思議と暇を縫ってアルフレーダの書斎を訪れようとする度に
書斎前を誰かしら掃除している…。
(告げ口を警戒してるんだな)
と判り、気分的に萎えた…。
なので
(マリアンジェラさんに話して、マリアンジェラさんからアルフレーダさんに言ってもらおう)
と作戦変更を余儀なくされた。
そうしてマリアンジェラに
「こういう事がありました」
と話をしたところーー
マリアンジェラからは
「やっぱり、ありましたか…。この屋敷の洗礼…」
と言われた。
侯爵家の親戚の者達は昔から子爵家縁者を下に見ていて、それこそ昔から子爵家縁者が行儀見習いで入ってくると代々嫌がらせを集団で共謀して行っていたのだとか。
もはや伝統。
もはや洗礼。
「でもだからといって我慢する必要はないので、何かあればその都度報告して良いんです。女中頭には夫の方から釘を刺してもらいます」
マリアンジェラにそう言ってもらえて一安心。
とは言え、嫌がらせが鳴りを潜めても悪意はおそらく続く。
その昔の嫌がらせは苛烈で
食事に虫が入れられるのは当たり前
部屋のアチコチに割れた硝子の破片や釘やネズミの死骸が仕込まれる。
更には怪我用の塗り薬には毒を混ぜて渡したり…
死人が出る程の嫌がらせだったらしい。
同じ派閥の者なのに、何故そこまでするのかわからない。
だがマリアンジェラに言わせると
「他の貴族家でも似たようなもの」
との事。
勿論、マリアンジェラの交友関係は狭い。
マリアンジェラの言う「他の貴族家」とは「他の刑吏一族」と同義。
つまりはフラティーニ侯爵家の他、ベルナルディ伯爵家、カルダーラ伯爵家、フェッリエーリ伯爵家が似たような有り様だという事だ。
「…刑吏一族は世間から憎まれているからなんでしょうね…。血族全体に降りかかる負の念が瘴気に混じり込んで派閥内の嫌われ者に向かう傾向が強いのね。
正直、嫌がらせの初期の頃というのは『様子見しながら手を出してる』感じなんでしょうね。
その状態の時に『誰からも庇ってもらえない』ような切り捨てられ状態になると、どんどん本格的に憎まれて嫌がらせも酷くなるみたい」
「…不条理ですね。『誰からも庇ってもらえない』ような対人関係面で恵まれない人間が、ただそれだけの理由で憎まれて虐げられるのって」
「不条理ではあるのだけど、瘴気の影響を受け過ぎる人達は自覚もなくそういった『弱い者イジメ』を集団で行う傾向が強いように感じるわ。
それは刑吏一族に限らずね。『負の念の体現者』のようになってしまう人達は自分の中で起こる衝動を自分のものだと激しく思い込んでいるのかも知れない…」
「…ああ、そういうの、少し分かります。一族特有の能力がない人達は『自分の中が整理できてない』印象を受けます。
勿論、多くの一般人の方々からも。
『自分の中が整理できてない』から、暴力衝動や嗜虐衝動が『瘴気に含まれる負の念から生じる衝動』だという事も理解できない感じでしょうか?
だからこそ『負の念の体現者』になってしまい、しかもそんな自分を正当化しようとして更に欺瞞と嘘を重ねるから、余計に自分の内部から生まれる能力が発現しない、伸びない、という無能化の連鎖があるように思えます」
「そう、そんな感じ。でも当人達は『能力は神様がたまたま気まぐれで与えてくださるもの』のように激しく思い込んでいて、自分自身の内部を変える必要がある事実を根底から否定するのよね」
「そして、単に事実を指摘するだけの人間を、これまた集団で憎む、という訳ですね…」
(悪意というものは不条理だ…)
と、ジェラルディーナはしみじみと考えさせられた。




