転生者という異物
浴室で丹念に身体の汚れを落としてもジェラルディーナの異臭は消えなかった。
自分でも分かる。
(多分、身体の表面だけでなく、肺の中にまで下水道のニオイが染み付いてるんだ…)
おそらくドブのニオイはしばらくは取れない。
ハァァーッと盛大な溜息が漏れた。
(ハーブティーでも飲んで息のニオイを誤魔化せば何とかなるだろう)
と思う事にして、未だ残っていた自分用のロッカーから自分用の制服を出して着用した。
これまでの経緯の報告が必要だろうから、覚えられる限り覚えた教皇庁側の人間の容姿や呼び名を改めて脳内喚起して脳内整理した。
(むこうでも紙とペンが自由に使える環境なら良かったんだけど…)
生憎と記録をとって保存しておけるような媒体は地下暮らしには無かった。
どうしても記憶しておきたい事柄はスープに浮かぶ油分を炉の煤と混ぜた即席インクで、腕の内側に描きつけたりもしてはいたが…
それは主に調合室で得た知識に関してだ。
他の事柄に関しては自分の記憶力だけが頼り…。
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ノックの返事をもらって事務室のドアを開け中に入ると
「ようやく人間らしい姿に戻ったな」
と言われた。
「肉を漬けた塩に浸かってたんですが…そんなに酷かったですか?」
ジェラルディーナの問いには
「自覚が無かったのか?」
とアンジェロが答えたが
すぐに
「鏡を見なかったのか?」
とルーベンが指摘した。
「…『身なりに気を使おう』っていう精神的余裕が無いと、人間いくらでも鏡を見るのを忘れ続けられるんでしょうね。
…それよりも、これまで大変ご心配ご迷惑をおかけしました。
既に調査でお分かりになってらっしゃる部分もあるとは思いますが、拉致されて以降、この半年で知り得た事を後で書面にまとめるとして、今思い出せる限りで時系列に沿ってお話しさせていただきますね」
そう言うジェラルディーナの気遣いに対しては
「いや、それは後で良い。今はルーベンからお前に話がある。私から内容をザッと説明してやっても良いが、私は説明が下手でな。
お前が今後二度と誰にも拉致されずに済むよう、殺されずに済むよう、自衛意識を持てるように、この国の上流層の妄執事情をルーベンに話しておいてもらった方が良いという判断だ」
とアンジェロが遮った。
「はぁ。『この国の上流層の妄執事情』ですか?…」
「まぁ、この国の『神子』事情でもあるな。かなり御都合主義的妄執に塗れていて、それでいてそうした堕ちた神秘主義はアドリア文明の上流階級で流通していた価値観でもある」
「………アドリア文明ですか?」
ジェラルディーナはキョトンとして首を傾げた。
唐突にアドリア文明という単語が出てきたように思えたのだ。
「俺も特に事情説明に長けてるとは言えないが、言葉の節々にトゲと毒を仕込むアンジェロ様に話をさせると聞いた者の側の話への印象も歪むかも知れないからな。
ご指名でもあるし、ここからは俺が話をさせてもらおう」
従兄弟のルーベンにそう言われて
「はぁ」
とジェラルディーナはまの抜けた返事を返した。
「さて、この国のアングラでの政争事情を理解するには、幾つかの共通認識が必要となる。
その共通認識の一つは『転生者』という存在に関する察知と把握だ」
「…まさかとは思いますが、アドリア文明の記憶を持つ『転生者』がこの国でいう『神子』なんて言いませんよね」
「いいや。『神子』は『多数存在する転生者の内の一人』を指していて、『転生者=神子』という訳ではない。
もしも『転生者=神子』なら、お前は勿論、俺もアンジェロ様もアメリーゴも『神子』って事になる。
アドリア大陸で暮らしていた人間の魂がミセラティオ大陸に転生する確率はこの国が一番高いらしくてな。
いつの時代もだいたい百数十人の『転生者』が居たらしいし、今現在もそのくらいは普通に居るだろう。
『前世の記憶があるなんて言ったら頭がオカシイと思われる』という常識的判断によって、大半の『転生者』は前世の記憶がある事を隠すから、本当は把握されている人数よりも多い可能性が高いんだがな…」
「…私、『前世の記憶がある』とか、ルーベン兄さんに話した事ありましたっけ?」
「無いな」
「どうやって私に『前世の記憶がある』って分かったんですか?何か識別方法でもあるんですか?ってか、ルーベン兄さん達も『前世の記憶がある』人達だったんですか?どうやってお互いにそうだって分かったんですか?」
「…異端審問官の仕事は『瘴気の影響を無効化する人間を貧民街から探し出す』ものでもあるだろう?それは当然『瘴気を認識する感性』が必要になる。
指示通り愚直に『貧民だけを識別対象にする』と一生気付かないのだろうが、そうした識別を自分自身や身の回りの者に行うと、すぐにそれと判るんだ」
(そう言われてみれば、「瘴気を認識する感性」を自分の中で起動させるのは疲れるという事もあって日常的には使ってなかった…)
自分で自分を振り返ってみると
確かに貧民だけを識別対象にしていた。
一旦、目を閉じてーー
瘴気を認識しようとしてみる。
すると、これまで「瘴気だ」と認識していたものが…
自分自身やルーベン達に纏わりついていない事が分かる。
「…『前世の記憶がある』人間は『拷問係適性者』と同様に『瘴気の影響を受けない』という事ですか?」
「違う。『前世の記憶がある』人間は、『その社会に溢れている既存の瘴気の影響を受けない』というだけで、此処ではない社会の、それこそアドリア文明圏に存在していた瘴気の影響を受けている。
つまり『影響を受ける瘴気の種類が一般人とは異なる』だけだ。
そういう事もあって、瘴気を認識する能力が高い者ほど『転生者』が社会にとっての異物だと判るんだよ」
そう言われてみて、見てみると
「瘴気だ」
と認識していたものとは異なるものがルーベン達に纏わりついているのが分かった。
「…それだと私は他の異端審問官達から『コイツはオカシイ』って思われるのが当たり前だって事ですよね」
「ああ、そうなる筈だ。フラッテロ家以外の刑吏一族にも瘴気を認識する能力があるなら、ソイツらからも変な目で見られてただろうな。
勿論、魔道具を使わず『本当に』瘴気を認識できていたなら、な」
「…もしかして、フラテッロ家以外の異端審問官は実は瘴気を認識できていないと、ルーベン兄さんはそう思ってるんですか?」
「端的に言うとそうなるかな?フラテッロ家の中でも俺とお前は小さい頃から家の者達に気を使われて護られていた。
お前がそういった保護環境を認識できていたなら『何故なんだろう?』って疑問に思った筈なんだがな」
「…弟がよく『お姉ちゃんばっかり贔屓してズルい』って言ってたけど、お父さんもお母さんも『ジェラルドは女の子だから』で済ませてましたよ」
「ああ、そういう『特別扱い正当化理論』が俺の場合はこじつけ臭かったからな。『何かあるな』と小さい頃から勘繰ってたよ…」
「そうだったんですね…」
「だけど俺達の親達が俺達の事を『普通じゃない』と識別できたのは、瘴気を認識する精度が高いがゆえだ。
フラテッロ家は古くからの伝承を知る機会もある知的階級だったから、『転生者』の俺達は特別扱いで保護されたが、他の家だったら『悪魔憑き』扱いで虐待されてた可能性が高い」
「怖いですね…」
「お前には知らされてもいないんだろうが、アドリア文明の遺物の魔道具の中には『瘴気濃度測定魔道具』が存在する。
そうした稀少な魔道具をフラティーニ侯爵派以外の派閥は複数有しているんだ。
フラテッロ家の異端審問官は自分自身の能力を頼りに拷問係の適性者を探すが、他の派閥の連中は魔道具を使用して適性者を探しているという事だ。
当然、個数に限りもあるし、各家の地位に応じた性能差もある。
大抵の『瘴気濃度測定魔道具』は『拷問係適性者か否か』しか分からない。
『瘴気分析機能』が付いてないと『転生者』を見つける事はできない。
魔道具を本家から貸し出してもらえない末端の分家ともなると新人異端審問官の役目すらマトモに果たせないだろう。
お前の最初の相方のヴァレンティノ・コスタもそのクチだ。
サポートアイテムも貸し出してもらえず、オマケに危機察知能力も低かった。アイツは元より異端審問官として長生きできないヤツだった。
そんな人間の死をお前のせいにして因縁をつけるんだから、コスタ家の連中は狂ってるとしか言いようがない」
「確かに『ヴァレンティノって、なんでこんな刑吏一族らしからぬ人間性なんだろう?』って疑問に思う事が多かったんですが…」
「初めから『捨て駒』として育てられ、『捨て駒』として死なせられる人間も世の中には居るという事だ。
その派閥のトップが『捨て駒を死なせる事で因縁をつけたい標的に因縁をつける』ような当たり屋根性の持ち主だったりする場合には、必然的に『捨て駒』は死ぬ事になる。気に病むだけ無駄だ」
(だから、あの人『死相』が出てたのか…)
ジェラルディーナはヴァレンティノ・コスタという人間に関して
「腑に落ちない」
と感じる点があったのだが…
今やっと、それらが腑に落ちた気がするのだった…。