ピカピカの一年生
僕はあっという間に幼稚園を卒業し、小学生になる。
結局、幼稚園では絵を描かなかった。モチベーションがなかったのもあるが、それだけではない。
幾分か思い悩んだが、ある時、ふっと肩の荷が降りる感覚がして、周りが見える様になった気がした。時間が解決するというのは此のことなんだろう。そう思った。
これまでは退屈な日常だったが、その日常の些細な変化に気づける様になると、それらは一変していく。小さな幸せのシャボン玉を追いかけて、割っていく様な、そんな感覚。
幼稚園の床はいつも綺麗と思ったけれど、溝には埃が溜まっていた。雨の日は憂鬱と思っていたけれど、外に出ると、意外と楽しい(風邪を引いてしまったが)。見上げた空は、思ったよりも雄大だった。
そんな小さな幸せを見つけていくと、なんだか自分が薄れていく。取れなかったシャボン玉も、結局屋根で割れるように、自分が与える影響はちっぽけで、自分が生きる世界もちっぽけだ。僕が割らなくても、結局誰かが割っていく。
自分が頑張って見つけた小さな幸せであっても、周りは関係なく存在していて。できることはただ、ぺちゃっと周りを汚すぐらい。
でも、それでいい様な気もしてくるもんだ。
自分が今できること。自分が今したいこと。ただそれを、淡々とこなす。
変なプライドだとかに乗せられて、気負う必要はないのだ。
一番してはいけないのは、自分の気力を削ぐことだ。生きるという原動力を失うことだ。
別にこれは、生の美化を意味しない。
人生は矮小だ。他人は醜悪で、それらとの関係が、等しく無価値であると感じる時もある。
しかしながら、それと同じくらい人の心に触れた時の喜びは大きい。
自らが地の底の底に沈んでいるほど、その喜びは深い。
そして、それらの浮き沈みを振り返って、自分がいかに非合理的な生物であるかを確認する。
これは、絵と同じなのではないだろうか。
真っ白いキャンバス。そこへ次々と、描いていく。
一点だけを描いていると、そこはとても上手く見えるかもしれない。しかしながら、俯瞰してみた時に、その一点が異様に際立って、極めて滑稽な印象を与えてしまう。
大事なのは全体なのだ。無駄なことなど存在はしない。その全てが絵の重要な役割を果たしている。
人生には苦しみもあれば喜びもある。しかし、そのどちらもが人生を彩る大切な要素なのだ。
描き続ける。
途中でいくら道草を食ってもいい。つまずいてもいい。しかしながら、描く事をやめたりはしない。
描き続けることだけが僕の唯一の救いなのだ。
新たなる決心を胸に、ランドセルを背負って家を出た。
快晴の空のもと、小学校の門をくぐると、颯爽と風が吹きつける。
心なしか、僕の門出を祝ってくれているような気がした。
僕は今日から、小学生。
──鏽鐵は、用ひない時に、鏽る。溜り水は、濁つて、寒天には、氷結する。懈怠が心の活力を奪ふ事も亦、これに比しい。──
レオナルド・ダ・ヴインチの手記
訳:芥川龍之介
少し毛色を変えてみました。お試しです。次話からはもう少し軽めにしようと考えています。