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よくあるはなし

作者: esora

 どこにでもあるような、大して面白くもない話だと呟いて男は出て行った。

 残されたのは床の上に座り込みながら顔を腫らし鼻血を流している女だけ。

 食器は割れ、シチューだったものが床や壁に飛び散っている。室内は嵐でもあったかのようにひどく荒れていた。

「片付けなくちゃ」

 絨毯に染みてゆくシチューを見つめながら立ち上がろうとした女は、力が入らず再び座り込んでしまう。その時に初めて彼女は足を挫いていることに気がついた。

「……痛い」

 悲鳴を上げて命乞いをして、嵐が過ぎ去るまでじっと耐えるのはいつものこと。

 大人しく石のようにしていれば飽きてどこかへ行ってしまうからと、願いを叶えてくれることのない神へ祈り続ける。

 何をやっても上手くいかない。

 どうして自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか。

 相手の機嫌をとれない自分が悪いのだろうと、相手を責めることなく自分を責める。

 自分が悪いから相手が不機嫌になって暴言暴力をふるわれる。だから、機嫌を損ねないように上手く立ち回ればいいだけの話。

 毎回それができないからひどいことになっているだけで、全て自分が招いた結果だ。

(違う……そうじゃない。謝っても許さないって決めた。私は悪くないって、そう思うって決めたはずなのに)

 気づけば毎回同じ事を繰り返している自分が嫌いでしかたがない。

 何でも相手に合わせるのも、機嫌をとるのも、顔色を窺うのもやめにすると決めたはずだが上手くできなかった。

 だったらやはり悪いのは自分かと思って女は笑う。

(頑張ったって、そんなすぐに変われるはずがない。違う、でも変われるはずだった。今回は違うって思ってた)

 何度同じ事を繰り返したら学習するのだろうかと自嘲する。

 次は違う、次は違う、そう思い込んで結果はいつもと同じ。

(和食より洋食がいいって言うから用意した。好みじゃない家具も好きだからって頑張って揃えたのに。お気に入りだったカーテンもボロボロだ)


『お前はそんなんだから、愛されないんだよ』


 一生懸命頑張っているつもりでも、皆そう言って二度と戻ってこない。

(戻ってきたところでヨリを戻すわけないけど)

 暴言暴力にも耐え、ほとんど全て許してきた。それなのに捨てられるという結末は変わらない。

 相手は違うのにどうして同じ事を言われなければいけないのか。

 これ以上何を頑張ればいいのか分からなくて腹が立つ。

 しかし腹が立っても女はそれを発散させることができなかった。

 悪いのは自分だから次からは上手くやる。次は間違えなければいい。

 結局そう思っていることに気づきもせず、彼女は自分の血で汚れた掌を見つめる。

「あははは、怒ってるんだ。私」

 こんな状況でいつもと違い反省するよりも腹が立つ気力があることが面白くて、壊れたように笑った。

(はー、久々に笑った気がする。近所迷惑だって苦情来ても今はどうでもいい)

 その時はその時で謝罪すればいいのだ。

 すみません、ごめんなさい。

 そう言いながら頭を下げることには慣れていると呟いて女はまた笑う。



「はっ!」

 笑い疲れてそのまま眠ってしまった女は、慌てて飛び起きた。

「朝食とお弁当の用意しなきゃ。その前に顔をつくらないと……あぁ、もういいんだっけ」

 ズキズキと頭痛がする。

 冷凍物を嫌がる男も、便利な顆粒だしを使ってるところを見て殴ってくる男もいない。

 料理の音がうるさいと蹴られることもなく、頑張って作った料理を目の前で捨てられることもない。

 素顔が汚いから常に化粧しろという指示にも従わなくていいのだ。

「もう、いいんだ。そっか、終わったんだ……」

 もう頑張らなくていいという安堵感と虚しさ。

 また必要とされなかった、間違ってしまったという自己嫌悪。

(だったら最初から付き合うなっていうのに、何で私は毎回ダラダラと……)

 そこまで思ってふと気づく。

 床に散らばっていたシチューや割れた食器はどこにもない。

 食器棚やテレビも無事である。

「え? って、え?」

 カーテンも破れたりしておらず、元の綺麗な部屋のままで女は混乱した。

 夢を見ていたのだろうかと室内を見回して固まる。

「ヒッ!」

「え、時間差ありすぎでしょ。反応遅いって」

「すみません!」

 ソファーに横になって読書をしているのは見知らぬ男で、女は思わずその場から飛び退いた。

(あれ? 体が痛くない)

 捻ったはずの足も、蹴られたはずの腹部も痛くない。

 殴られて出血したはずの頭や顔にも怪我はないようだ。掌についた血も綺麗に消えている。

「……腫れてない」

 自分の部屋のソファーに不審者がいることより、ボロボロだった自分の体が無傷であることに驚きながら女は自分の顔を触って悲鳴を上げた。

「え? 不審な男の存在よりそっちなんだ?」

「あー……警察呼びます?」

「いや、俺に聞くなよ」

 首を傾げながら相手の様子を窺い、ヘラヘラと笑顔を浮かべたまま尋ねる女に男はため息をついた。

 男の動きに思わず身構えてしまうのは長年の癖が抜けないせいだろう。

 今日から自分は変わるのだと意気込むくせに、と心の中で呟いて女は男を見た。

 綺麗な黒髪は触り心地が良さそうなほどに艶やかで、白い肌に端整な顔立ちはこの世のものとは思えないほど美しい。

(とうとう頭がイカれて変なものでも見えてるのかしら?)

 そう思いながら、部屋の隅で様子を窺う自分よりも部屋の主らしい男を見る。

(警察を呼んだところで私が不審者扱いされかねないんだけど。え、それとも私また変なのに引っかかってた?)

 気づかないうちに知り合いから恋人同士になって、乱暴に扱われ捨てられるのも珍しくない。

 そもそも、相手と恋人同士だと思っているのは女だけであり、相手にとっては便利な道具でしかないので結末はいつも同じだ。

 知らない人のはずなのに、どこかで聞き覚えのあるような声だと女は首を傾げた。

(どこで聞いたんだっけ? 意識朦朧としてたから覚えてないけど)

「まぁまぁ、そう怯えないで。今日から俺と恋人同士になろ?」

 先ほどまでの雰囲気とは一変して甘ったるくなる空気に女の体が震える。

 逆らいがたい圧迫感と、目が離せない魅力に陶酔ではなく恐怖を覚えた。

 頭はぼんやりとして熱いのに、寒気がするように全身が小刻みに震える。

 カタカタカタという音が自分の歯のぶつかる音だと気づいた瞬間、全身を包むような圧迫感が消えて女はその場にへたり込んだ。

 俯いて床に手をつき、必死に口呼吸をする女を見ながら男はニヤリと笑う。

「私、もうそういうのは嫌で……」

「さっき彼氏と別れたばっかでしょ? そもそもあんなの恋人なんて言えないけど。俺だったら君のこと大事にするけどなぁ」

 何度も聞いて、言われて、信じて、裏切られてきた言葉。

 それでもその甘い言葉に顔を上げた自分が情けなくて、女は唇を噛んだ。

(得体の知れない男に、もしかしてなんて思って馬鹿じゃない。嘘なのに、そんなの嘘なのに)

 何度裏切られても、自分が信じ続けていれば気持ちは伝わる。そう思って何度も騙され、裏切られ、捨てられて、学習できないから繰り返す。

 次は違うはず。次は頑張る。次は間違えないと何度も思っては失敗してきた。

 結局、一時だけでも優しく傍にいてくれればそれでいいのだと女は認めたくない。

(次は違うかもしれない。きっと、次は上手くやれるはず)

「!?」

 ぽんぽん、と優しく頭を叩かれて女は顔を上げる。

 至近距離に綺麗な男の顔があって、彼女は一瞬呼吸を忘れた。

「頑張ったね、愛響(あのん)

 慈しむような表情と優しい声で男はそう告げる。

 どうして自分の名前を知っているのか。

 自分の何を知っているというのか。

 そう尋ねる前に愛響と呼ばれた女の目から涙が溢れてきた。

「あれ?」

 涙が止まらないことに呆然としている彼女を軽く抱き上げて男はそのままソファーに座った。

「よしよし。いつも頑張ってるもんね。愛響が一生懸命なの、俺はちゃあんと知ってるからね」

 自分の胸に顔を押し当て、泣き声を殺している彼女を見て男は耳元で囁く。

 キュッと愛響の眉間に皺が寄り、箍が外れたように大声で泣きはじめた。

 そんな彼女に驚くこともなく、男は幼子をあやすように背中をさすって優しい言葉を囁き続ける。

 久しく聞いていなかった自分を肯定する言葉たちに、愛響は号泣しながら男にしがみついた。

 涙と鼻水にまみれた顔をして、みっともない姿を晒しているのに男は優しい。

 不審者に心を許してしまっていることすらどうでもよくなりながら、愛響は優しい男の腕の中で泣き続けた。



「すみません」

「気にしてないから大丈夫。ほら、お水」

「ありがとうございます」

 お気に入りのマグカップに入れられた水を半分飲んでから、愛響は首を傾げた。

(え? ずっとここでこうしてたのに、いつ水を取りにいったんだろう。というより、私何で初対面の不審者にこんな醜態晒してるの?)

「はい、愛響」

「えっ?」

「あーんして? いつも頑張ってる愛響にご褒美だよ」

 腫れて赤くなってる目。化粧はとっくにとれて情けない素顔を見せているはずなのに、男は綺麗に微笑んでそう言ってくる。

 最初に抱いていた恐怖はどこかへ消えて、今ではここが一番安全だと思ってしまう彼女は気づかない。

 もう逃亡不可能であるということに。

「チョコ?」

「そうだよ。甘い甘いご褒美だよ」

「ごほうび……ん……溶けた」

「美味しいね?」

 口の中に入れた瞬間に溶けてしまった薔薇のチョコレート。

 後味もすっきりした甘さで癖になってしまう味だ。

 愛響はうっとりと夢見心地のまま「へへへ」と笑う。

「愛響は可愛いね。今までの男はどうして見る目がないんだろう」

「え?」

「俺が迎えにくるのが遅れちゃったからかな。ごめんね」

 意味不明なことを言ってくる不審者でしかないのだが、愛響はすっかり男を受け入れていた。

 逆らう方が不思議に思えるくらい、男の言葉が素直に入ってくる。

(そっか。私、この人のこと待ってて違う男の人達と付き合ってたから上手くいかなかったのか)

「ううん。私が悪いの。私がいつも間違っちゃうから」

「愛響は悪くないよ。間違ってもいない。俺は愛響のこと好きだけど、愛響は俺のこと好き?」

「すき?」

 至近距離で普通には会えないような綺麗な男に、甘い言葉で好きだと言われ愛響は眩暈がしそうだった。

(好きってなんだっけ? 私も好きって言ってもいいんだっけ? 怒られたりしない? 殴られたりしない? 誰もいなくならない?)

「わからない……ごめんなさい」

 抱きしめられる温もりも、優しく背中を擦ってくれる手も全てが夢のように思える。愛響の呼吸が早くなっていることに気づいた男は、彼女の頭にキスをして背中を優しく叩いた。

「そっかぁ。分からないか。でもこうしてて気持ち悪くない? 嫌だったら離れるけど」

「違うの。私なんかが好きっていうのはおこがましいと思って」

「……そんなことないよ。愛響に好きになってもらえたら、俺は嬉しいな。すごくすごーく嬉しい」

 男の声は優しく愛響の心に染み渡っていく。

 自分はこんなに好かれてもいいのかと疑心暗鬼になる。

(イケメンにいきなり好きって言われて、絶対に怪しいのに、でも温かくて気持ちいい。この人のこと待ってたならそれも当然なのかな)

 冷静になれと彼女に呼びかける存在はない。

 ふわふわとした頭で縋るように男を見上げた愛響に、彼は綺麗な微笑みと額へのキスで答えた。

「うーん。ちょっと心配になるけど、俺の魅力なら当然かな」

「?」

 自分の正体は悪魔で普段は人間として生活していると告げた男に、何の反応も示さない愛響。

 魅了の力が強くききすぎているのかと思いながら、男は愛響の頭を撫でる。

 素直なところは非常にポイントが高いと彼は上機嫌だ。

「よしよし、俺の可愛い眷属ちゃん。これからよろしくね」

 愛響にとって男が何だろうがそんなことはどうでも良かった。

 自分を肯定し、必要としてくれている。それだけで嬉しくてたまらないのだ。

 甘い言葉で褒められてぞくぞくと体が震えそうだ。

 ぶるぶる、と小刻みに震える彼女を抱きしめながら男は僅かに眉を寄せた。

 悪魔だと聞いて時間差で怖くなったのかと思ったのである。

 しかし、逃げようとしても契約は成立したので無駄だ。

 騙して契約させたなら無効だと言われようが、無理なものは無理。

「愛響、好きだよ」

「私も好き」

 ハートマークが浮かびそうなほど、とろんとした目をしている愛響の反応に男は優しく笑う。

 愛響も甘い雰囲気に溺れそうになりながら、嬉しさのあまりぶるりと体を震わせた。




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