Ⅲ
「もう海になど飛び込んでくれるな、と言ったはずだが」
「──」
子どもの声に、息を飲んだ。落ち着いた声音が妙に似合っている。振り返った先に、ほっそりとした影が佇んでいた。剥き出しの踝の下から幾重にも波紋が広がる。海獣の皮を鞣した着物は集落の子どものそれと似ているが、纏った雰囲気は明らかに異質。
手足は長く、透けるほど白い。目を凝らせば、ささやかな月光を背に、水墨で描かれたような端正でくっきりとした目鼻が見える。控えめな顎の輪郭に、物言いたげに薄すら開いた唇。それから、心を見透かさんばかりの澄んだ双眸が、白狐を鏡映しにする。
喩えるなら、黒曜石を削った刃。感情の機微のない、無機質だが鋭い光。全てが淡い夜の陰影に際立ち、某の立っているところだけが空間から切り取られたようだった。
「あ……千伽……?」
思わず零した声は震えている。胸がはち切れそうだった。
ようやく会えた。夢の狭間で、幾度となく影を追った少年。若かりし頃の千伽。ああ、良かった、と安堵する反面、白狐はそれが自分の望む千伽ではないという、直感にも似た予感を抱いていた。
ぱしゃり、ぱしゃり、と。漣を広げながら、少年はゆっくりと近付いてくる。恐怖はない。互いに、よく知り合った者同士の目に見えない繋がりを感じ取っていた。
「おめでとう。よくここまで辿り着いたな」
そうして間近で白狐の顔を覗き込んだ、少年の微笑は背筋が震えるほど崇高だった。唇から僅かに覗く白い歯に、漏れる吐息。思わず呼吸を止める。
魔性だ、と思う。問答無用に人々を魅了する、神の力。上流階級とは名ばかりの、俗気に塗れた者たちを見てきた白狐だからこそ分かる。地に這い蹲り、天を仰いだときのみ体の底から湧き上がる、目が眩むような畏怖。届かないと知りながら、尚も手を伸ばしたくなる憧憬。少年の目は、そういったものを象徴していた。
「せ、千伽──」
口をついたのは、やはり幼馴染の名である。それが本人でないのか、或いは他人の空似なのか、白狐には分からない。こんなにも強烈に心を惹きつける魔性を持つ男など、この世で一人しか心当たりがないのだ。
「千伽……なのですか……?」
掠れた問いに、彼は笑みを深めた。
「残念。俺は、その千伽とやらじゃない」
不敵に歪んだ脣も、眉も、驚くほど似ていた。だが、ああ、白狐には分かる。ほんの僅か、砂浜に零れた金粒をひとつ拾い上げるが如く──人生のほとんどを千伽と過ごしてきた白狐にしか見抜けないであろう、小さな違和があった。
千伽にしては、片生すぎる。容姿の年齢を言いたいのではない。少年の纏う雰囲気、その魅力的な仄暗さは、幼馴染のそれと比べてどこか浅く不充分なのだ。
では、一体誰なのか。目線の問いに、彼は一歩前に歩み出る。
「“覇”だよ」
まるで恋人が愛の言葉を囁くよう、少年はその語を口にした。頬に手が添えられていることにも気づかなかった。
この語の意味するところは、お前も知っているだろう? “覇”の目はそう問うていた。黒い瞳が、不意に深い紫色に変じたように見えた。
「──そこまでだ」
壮年の男の声がする。振り返れば、船に乗った大家がゆっくりと近付いてきているところだった。松明を携えた若者数名を従えており、その中には長明もいる。
海が溶けたから船を動かすことが出来たのか、と白狐は漠然と理解した。覇は、勝ち誇ったように鼻で笑う。
「勝負は俺の勝ちだよ。残念だったな、爺ども」
大家はここからでもはっきりと分かるほど、露骨に顔を顰めた。「巫山戯た真似を」と呟いた声には凄みがある。
「勝負などした覚えはねえ。その男は多数決で処刑になることが決まってる。幾らお前が駄々を捏ねても覆せるものか」
「ほお、漁師どもは余程海が凍る吹雪がお気に入りと見える。俺がその気になれば、一年中冬にしてやってもいいんだぜ」
勝負、という言葉に引っ掛かりを覚えたものの、白狐には嘴を挟み込む余地がない。空中で火花を散らし合う二人に挟まれ、ぽかんとしたのも束の間、おもむろに船から降りた人影に目が向く。
「隠し通せると思ったのですが、あなたがそれほどまでに執念を見せるとは思いませんでした」
長明は膝まで水に浸かりながら船尾を掴んだ。その瞳が、何とも形容しがたい感情を浮かべて白狐を映している。
一歩下がる。攻撃される可能性は大いにあった。その表情と、大家と覇をちらりと見比べ、白狐は首を縮める。
「この子が……蜃の正体なのですか?」
控えめな疑問は、尚も白狐が騒動の中心であることを証明するよう、水を打ったような静けさを生んだ。船底に波のぶつかる籠った水音だけが繰り返し響いている。肯定か否定か、判断がつかない。
答えたのは覇だった。
「蜃とは表向きの呼び名だ。お前のように外から迷い込んで来た者にはそう説明する。そういう名前の悪霊がいるのだと思い込ませる。だから、実際に蜃などという化け物は存在しない」
それから彼は片手を持ち上げて、周囲の注目を集めた。その勿体ぶった仕草に、白狐は千伽の面影を見る。
「この男には、俺たちのことを知る権利がある。俺たちもまた、知る必要がある」
「──しかし」
何かを言い澱む長明に、苦虫を噛み潰したような顔をする大家。彼らのやり取りは核心的な部分が抜けていて、それを問い質す勇気は今の白狐にない。
それだけ大家の機嫌はあからさまに悪く、的外れなことを言って水を差せば「首を掻き切ってその血を海に流す」という儀式を力尽くで敢行されないとも限らなかった。
実際、この集落の長は今すぐにでも白狐をそうすべきと考えている。言葉はなくとも、彼の全身から発散される棘のような気迫がそう物語っていた
代わりに白狐が考えたのは、覇はここに閉じ込められているのではないか、ということだった。船がいなくなれば、彼がここから脱出する手段はない。確かにこの天井のない海蝕洞は、自然のつくり出した妙なる地形ではあったが、同時によくある、神を祀るために設けられた特別な空間の様相も呈している。
山に棲む人々が不思議な形をした奇岩に神を見出すよう、漁民たちがこの地形に神秘的な意味を持たせたとしても何ら違和はない。
「覇とは、あなたたちにとっての神なのですか?」
大家は、白狐の口から覇という語が出たことに、より一層眉間の皺を深くした。それ自体が知ってはならない、口にしてはいけないものだと言わんばかりに、ぴしゃりと封じられる。
「あんたに教える義理はねぇ」
「僕が外から来たから、ですか?」
「それもある」
取り付く島もない様子に窮し、白狐は横目で覇を窺う。少年はそのつるりとした黒目で、中空を見つめていた。視線の先を追えば、白狐が足を滑らせて落下した崖上から一本の綱らしきものがするすると垂れ下がり、先程の男たちが慣れた身のこなしでそこを伝って降りてくるところだった。
「大家、待ってください!」
点々とついた結び目を使いながら器用に地上まで降りてくる彼らは大柄な猿のようである。屈強な男たちは次々と水面付近から海に飛び込み、その余波が白く泡立ってこちらまでやってきた。その騒々しさは、まるで海水が沸騰したように錯覚される。
大家は白いものの混じった片眉を持ち上げた。
「何だい、お前さんたちもまさか、魔性に魅入られたんじゃないだろうな」
「魔性ではありません」
足の着くところまで泳いできた漁師の男が言う。白狐を追いかけてきていた先頭の男であった。
「そこの白髪の御仁は、俺らを海に落として殺すことも出来たが、そうしなかった」
「……」
白狐は居心地悪く沈黙する。それは事実かい? とでも言いたげな疑いの目が向けられ、辛うじてそれと分かる首肯はした。どちらかというと、彼らが「魔性」という言葉を口にしたことに動揺していた。
次々と浅瀬に上がってきた男たち──目で数えて合計八名いた──が、その肉体から滴を垂らしながら視線で大家に訴える。彼の不機嫌さに思わず俯いた者も数名もいたが、口を開いた男の声は生真面目だった。
「川で助けられたと娘が言っていた。俺ぁその人がそんなに悪い奴だとは思えねぇ……」
「……」
「その御仁の気迫と高潔さに免じ、どうかもう一度多数決を」
彼らの主張を受け、こちらに向き直った大家は何かを言いかけ、口を開いてやめた。代わりに吐き出したため息で、彼の鬱屈とした感情が手に取るように伝わってくる。
集落では多数決で物事を決めているらしい。その決定は幾ら大家という大層な名のついた長であっても覆せるものではないのだろう。白狐は自分が如何に振る舞うべきか戸惑い、ちらりと覇の方を見る。
「……」
少年は意味ありげに沈黙していた。黒々と濡れた目は、ただ風景を映すのみで自分は異論を唱えるつもりはないと語っている。白狐もまたそれに倣って口を噤んだ。将棋の盤面を見つめるとき、幼馴染が同じように読めない表情をしていたことを思い出した。
「では、ここにいる一天万乗の民に問う。我々の守る道にかけて、夜明けとともにこの男の血を海に流すか」
大家が船上からぐるりと男たちを見回す。同時に、その内の数名が左手を持ち上げ、胸を軽く叩くような仕草をしてみせた。それが同意の意思表示だと、白狐にも何となく分かった。
しばらく沈黙があった後、ぱらぱらと遅れて何名かが拳を胸に移す。合わせて何名なのか、数えられない。
「或いは“覇”の真実を明るみにするか」
やや空白があった。真っ先に手を胸元にやったのは、娘が助けられたと主張した漁師だった。彼に続くよう、複数の男の腕がぎこちなく動く。同意を示す姿勢が、疎らに散らばっている。更に一拍開けて、長明が左手で胸を叩いた。目が合う。
「……」
彼は何も言わなかった。白狐に目配せすることも、微笑むこともなかった。
「我々の道にかけて」
誰かが呟く。大家がため息をつき、腕が下ろされた。恐らく、それが答えだった。白狐はどくどくという自身の激しい脈拍に遅れて気付く。助かったという実感があまり湧かなかった。
大家は顔を上げ、白狐と覇を交互に見やる。覇はへらりと口元を緩めた。
「俺は何もしてないぜ?」
「……」
彼の言葉はまるで、自分がその気になれば多数決の結果すら自在に操れると挑発しているかのようだった。大家はそれを無視し、じっとりとした視線を白狐に投げかける。
「命拾いしたな」
「そう機嫌を悪くするなよ」覇は割り込んで笑った。「顔の皺が深くなるぞ」
少年の言葉遣いは危ない橋を渡ることを愉しむ、歪んだ自尊心が透けて見える。
「こいつは、端から俺のことを知っていたんだ。俺と出会うよりもずっと前からな」
「え?」
「まず、我々のことをお教えしなければなりますまい」
前に進み出たのは長明だった。片手に松明を掲げ、岸辺を指し示す。
僅かに傾斜のある地面の先を辿れば、家屋らしきものが見えた。底の抜けた筒のようなこの地形に馴染むよう、ひっそり建てられている。集落の家々と同じよう粗末ではあるものの、やはり神を祀るような深遠とした趣があった。覇の住む家なのだろうか。
「あちらへ参りましょう」
無言で頷く。さしあたりそうするほかなかった。
小柄な覇を先頭に、白狐、長明、大家と数名の男たちが列をなす。ぎこちなく浅瀬を掻き分けて進む彼らの影が、月明かりに照らされてゆらゆら水面を揺蕩った。