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名もなき覇の系譜  作者: こく
第三話 悪鬼に憑かれし闇に
7/12




 轟々と。激しく吹き荒れる風が、白狐の髪を、着物を乱す。裸足で踏む地面には雪が積もり、それが風に流れて白霧のように視界を遮って、また晴れた。


「……はっ」


 思わず詰めていた息を吐き出す。無味無臭の雪が口の中に飛び込んできて、冷たい。振り向けば、暗闇の中に蠢く人影が幾つも見えた。目が合った、のが分かった。

 走り出す。全身の肌が泡立つほどの興奮が駆けるが、躊躇はなく、空間を裂く白刃になったような気分だった。夜明け前、まだ暗く、鬱屈とした闇が広がる海辺は、無数の白いものが風に混じって飛び交っている。


「おい、待ちやがれ!」


 纏わりつくような誰かの品のない声を振り切って、全速力で走った。早く、早く。凍りかかった枯れ草を踏み、勾配を下って、海に向かって。

 右へ、左へ、猛風が吹き乱れる。白狐の背を押したかと思えば、嘲るように引っ張り戻す。無意識に突き出した手で握った小刀を、まるで風を切り裂くようにして構えた。そうしていると自然と勇気が湧いてくるのだった。

 敏から託された小刀は血抜き溝もなく、ただ魚を捌くための包丁といった素っ気ない形である。人を刺したり、刃同士を交えるような代物ではない。白狐もこれで真っ向からやり合うのは無理があることくらい分かっていた。

 ちらりと振り向いても、誰が追いかけてきているのか、人数は何人か、そういったことは吹雪に妨げられ、ほとんど読み取れない。恐らく漁師の男衆だろう。塗りこめられたような漆黒に、揺れる松明の焔が亡霊の魂のように幾つも浮かんでいる。


 海へ。


 白狐は自分を鼓舞するように、呟いた。海へ、海へ。

 そうだ、思えば初めから、呼ばれていたのだ。繰り返し繰り返し、寄せては返す波のように。

 海にいる。

 それが何であるかは知らないが、白狐はそれが海にいることを知っているのだ。


 耳が、喉が、肺が痛い。冷たい空気が触れるところから容赦なく切りつけてくるようだった。まつ毛に飛びついてきた雪の一片が、白く滲んで視界を遮る。

 目元を拭う。脚が覚束ないのがもどかしい。長い時間気絶し、縛られていた白狐が、果たして頑健な男たちから逃げきれるだろうか。そんなことすら、考えない。

 黒々と渦巻く海面が迫る。波打ち際から、何の躊躇いもなく陸の境界を越えて海に飛び出した白狐の姿は、彼らの目にどう映っただろう。やはり狂気の沙汰だろうか。

 真冬の海の冷たさに覚悟して身を固くした白狐だったが、裸足の裏に氷粒のような飛沫が撥ねることはなく、代わりに予想外の固い感触が押し返した。驚きの余り踵から踏み外して転びそうになる。事実、体幹を崩せばつるりと滑ってしまうような凹凸のない氷が足元から広がっていく。

 捻りそうになった足首を立て直し、氷面を蹴った。走る勢いだけが白狐の体の均衡を支えていた。畏怖や逡巡で僅かにでも身を仰け反らせると、それだけで横滑りして海に落ちかねない。

 凍結した海を走るなど、白狐には初めての経験だった。そもそも海というのは塩が含まれているから凍りにくいのではなかったか。冬になっても湖や川のように白い氷にならず、絶え間なく波を寄越す海を遠目に眺めながら、幼馴染がそう言っていたのを思い出す。あれは何歳の頃だっただろう。

 千伽の言葉など素知らぬ様子で──言い換えれば、それはこちらの思考や自然の法則を凌駕したように──黒くぬめつく波は、次々と音を立てて凍りつき、まるで白狐に進むべき道を示しているかのようだった。

 自分がどの方向に走っているのか、まるで見当がつかなかった。ただ無我夢中で、均衡を崩して転ばないように、追手に捕まらないように、それだけに全神経を注いでいた。

 ぜいぜいと、呼吸が浅く、途切れ途切れになる。吹雪の中にいるのはそれだけで想像以上に体力を使った。凍って春雨のようになった髪の束が口に入るのが煩わしい。


 髪を掻き上げた途端、背後が俄かに騒がしくなる。思わず振り返る。それが良くなかったのだろう。追いかけてきた松明の集団が、ひび割れた氷面から次々と水柱を上げて海に落ちていくのと、白狐が前のめりになってすっ転ぶのはほとんど同時だった。

 痛みに、声も出ない。もんどりうって横に一回転しながら、右手の小刀を地面につき立てたのは体に染み付いた武術の本能のようだった。つんのめるようにして、反動のまま体勢を立て直す。

 膝をついた辺りから、嫌な音が響いた。真冬の海に飛び込むのを免れた代わりに、ぐらりと足元が傾く。刃を力任せに引き抜き、前方に脱出しようとした白狐は、それが最早不可能であることを悟った。

 まるで流氷のようだ。実物を見たことはないが、白狐はそう思った。見渡す限り凍りついていたはずの海面はいつの間にか四方八方に亀裂が走り、白い断面を剥き出しに砕けていく。一度始まれば止められない連鎖は非情にも白狐のところまで届き、立っているところが大きな音とともに分断され、ぎょっとした。

 落ちる、と思った。ぷかぷか白狐を乗せて浮かぶ氷塊は、船と呼ぶには余りに心許ない。咄嗟に隣の氷に飛び移る。

 一か八かの賭けだった。脚力が足りず、そのまま落ちてもおかしくはなかった。足首が水に浸かり、余りの冷たさに悲鳴を上げそうになる。最早それは痛みに近かった。どうにかしがみ付いた氷の地面もまた、不安定に揺れながら黒い海を漂い始める。即席で造った(いかだ)のように。

 顔を上げる。目の前に、闇の中に屹立する一際黒い連なりが見えた。夜目の利かない者ならば、海に寝そべる巨人の背とでも思ったかもしれない。ごつごつとした岩の輪郭が、空と曖昧に溶け合いながら見上げるほど高い場所まで続いているのが辛うじて分かる。


 白狐はそのときになって初めて自分がどこに向かっていたのは気付いた。岬である。


 長い年月をかけて波に浸食された海崖が、競り出したところ。長明の家からも見えた、集落を隠すために築かれたかのような自然の壁。

 ──海霧の立ち込める中、岩盤の上に佇む夢を見た。あれが始まりだった。銀の怪物の夢を見たとき、白狐は岬の方に誘われた。そして今、同じ場所に白狐はいる。

 覚悟など、今更決めるまでもない。

 口に小刀の柄を(くわ)え、岩壁目がけて力一杯に飛び出す。黒曜石のような海面が眼前に迫り、ぎゅっと目を瞑るが、指先が辛うじて岩肌に届いた。

 必死に腕を伸ばし、ばらばらと崩れていく礫の破片の中に自分の体重を支え得るものを探す。何でもいい、届け。右手の爪が割れたのを気にする余裕もない。

 派手な水音を立て、両足が海に浸かった。しかし白狐の手は確かに岩の突起を掴んでいる。濡れた岩壁は滑りやすい。落ちる、という危機感。どうやってそこから脱したのか、自分でもよく理解できない。ただ、無我夢中で登れそうな場所を求め、手探りで掴んだ平らな岩盤までどうにか這い上がるだけの根性は残っていたらしい。


 膝をつき、咽る。口から零れた小刀の刃が場違いに軽やかな音を立てる。氷のような海に足の感覚はすっかり麻痺していた。

 はあはあと息をつき、白狐は汗なのか海水なのか雪なのか分からない、顔についた水を拭った。視界の端にはぬらぬらと怪しく揺れる水面が映り、ぱらぱらと破片が零れてはここまで飛沫を跳ねさせていた。

 ここは、などと現在地を確かめることすら彼らは許さないらしい。松明を持った追手が迫っている。彼らは海上を歩く無謀な挑戦を諦め、浜から回り込んでこちらに向かっているようだった。

 炎に照らされた男たちの顔を肩越しに振り返り、それがこの村で働く漁師であることを改めて見留める。少なくとも、一、二人くらいは顔に見覚えがあった。

 奇妙だったのは、彼らがさも当然のように──初めから道順を知っているかのように、飛び岩を伝って岩壁を登り始めたことだ。


「階段……?」


 おかしい、ここは海崖の一部の張り出した岩盤ではないのか。白狐は顔を上げ、自分のいる地点の背後と、その反対を確かめる。

 そう、まるで自然がつくりだした岩の階段のようだった。遠くから見ただけでは単に屹立する岩肌と思った崖の外側に、ささやかながら段差が小刻みに設けられ、それを伝って上まで登れるようになっている。

 見上げた先は鈍色の空に溶け込んでいた。何かが待っている予感がする。根拠はなく、ただそう感じる。ならばいつまでもへたり込んでいる訳にはいかない。

 白狐は小刀を拾い、剥き出しの岩肌を片手で掴んで体を支える。反対側は海だった。ひゅ、と股の下を何かが通り抜けるような恐怖を覚える。そも、階段とは言ったものの人が一人通るのがやっとの幅で、ところどころが崩落して欠けている。足を踏み外してあの海に落ちればまず助かるまい。

 背後に迫る光の気配を感じながら一歩踏み出す。また一歩。夜に生きる目だけが捉えられる、僅かな反射だけが段差の位置を教えてくれた。礫岩の間に積もっていた雪が、激しい風に吹き消されていく。膝が震えているのが自分でも分かった。

 下を向いてはいけない。竦む脚を叱咤する。そんな白狐を揶揄するように、耳元を唸る強風は体を押したり引いたり、時に前触れもなく鳴りやんだり、白い雪片とともに行く手を妨げる。


 ──鳴り止め、止まれ、止まれ。

 白狐は駆け出す。蛮勇、だが崖にしがみ付いて一歩一歩進んでいては追いつかれるのも時間の問題だろう。すっかり感覚を失った素足の裏で、雪とも小石ともつかないものを踏んではそれが遥か眼下に落ちてゆくのを音だけで感じた。

 時折手さえついて、四足の獣のように絶妙な体幹を保ちながらよじ登る。下から近づく男たちの声が、存外近い。「近づけさせるな」と風に混じった怒鳴り声。彼らは知っている。この先に何があるのか──何が待っているのか。

 見上げる。濁った空が近かった。手を伸ばせば届きそう、とまで思った。代わりに下を見下ろす勇気はない。もしそうしていたら、どんな頑健な男でもたちまち足が竦んで動けなくなっただろう。それだけ、白狐の居場所は日常からかけ離れた、高いところにあった。


 現実に引き戻したのは、怒声と松明の炎。振り返った頃には既に男たちの手が白狐の腕に伸ばされていたところだった。

 咄嗟に身を引き、一歩足を段差に踏み出す。瞬きの間に色々なことが起こった。仰け反った白狐に、容赦なく繰り出される松明の突き。火の色が眼球の表面を掠める。右手に握った小刀でそれを弾き飛ばし、先頭の男と目が合う。時間が止まったようなその瞬間、驚愕と怒りに満ちた目が白狐を射抜いていた。

 くるりと円を描くようにして宙を舞った松明がそのまま暗闇の底に落下していく。海に落ちた音は聞こえない。海崖を這うようにつくられた岩の階段で、何かが爆発したようだった。

 肌を灼くような殺気、怒り。研ぎ澄まされた武人のそれというより、ただの暴力的な熱気といったほうが近い。白狐は手の中で小刀を回す。不意に余裕が生まれたのは、相手の方が切羽詰まっているように見えたためだ。

 日々の労働で肉体こそ鍛えられているものの、真っ向から刃を交えることに関しては白狐の方が数段上。それに、大勢で挑んだところでこの狭い階段では一人ずつしか相手に出来ない。加減する程度の猶予があったのは幸いだった。

 彼らを、海に突き落として命を奪うのは気が引ける、などと考えるのは甘いだろうか。司旦がこの場に居れば、まず間違いなくそう言うだろう。

 小刀が中空を踊る。威嚇と牽制のためだった。男の目に一閃、光が襲う。逆手に持ち替えた刃で彼の顔面を真横に引き裂くのも今ならば容易いことだった。だが、白狐は素早く踵を返して残りの階段を駆け上がる。

 一際強い潮風が髪を嬲り、倒れかける。視界の遮るもののない開けた空間は、ようやく辿り着いたのだと白狐に知らせた。頂上、すなわち大海原を見晴らす高台の岬。暗闇の果てに聳える、岩崖。その頂には疎らに白いものが積もった灌木がびっしりと生えていて──。


「──っ」


 ぎょっと身を引く。海崖の地表には、巨大な孔が空いていた。珍妙な地形だった。まるで巨人の眼球がそっくりそのままくり抜かれた痕のような、或いは隕石が直撃して穿たれたような、あまりに巨きな円形の孔が空に向けてぽっかり口を開けている。その縁に、白狐は立っていた。小人になったような気分だった。

 ぐらり、と足元が揺れる。盤石かと思った地面は、悲劇的なほど脆かった。足を滑らせた、と言ってもいい。辛うじて、海側とは反対に体の比重を乗せることは出来た。だが、残念ながら地面は遠い。

 落ちる。何故。

 見開いた目が虚空を映す。無慈悲で不条理な結末に、虚しく問う。何故。それは敗北の確信だった。背中に鈍痛が響く。脛が引き裂かれる。斜面になったところを転がり落ちているのだと分かった。

 土臭い。浜梨と思われる茂みが白狐の体を受け留め切れず、ばきばきと荒々しい音を立てていく。手を伸ばして枝を掴むが、それは呆気なく折れてしまった。孔に落ちる。暗黒の底に吸い込まれるように。

 胃が競り上がるような感覚。必死な指先が空を切り、白狐はあっという間に何もない空中に放り出される。

 ちらりと眼下に映った暗黒は微かに揺れていた。海がある。落ちる。

 頭上で、男たちのどよめきが耳を掠めた。それは動揺、歓喜、どちらだっただろう。思考の余地なく、白狐の息が止まった。殴り飛ばされるような衝撃とともに、水に落下する。あまりの痛みに、また海が凍りついたのかと思うほどだった。


「──……?」


 すぐに不可解なことに気付く。いや、気付くというほど立派な思考を伴ったものではない。何せ海であれ何であれ、泳いだ経験のない白狐は手足をじたばたさせるのが精一杯で、ただ死を覚悟するような冷たさがないことに違和感は覚えていた。

 無機質な暗色ではあるものの、海水は奇妙に生温い。海水とともに流れ込んだ砂か、よく分からない海藻の切れ端か、とにかく無作法にも口に入った何かを吐き出す。鼻がつんと沁みる。空気を吸うことも吐くことも出来ない状況は白狐を慌てさせた。

 細かな気泡が次々と浮かび上がっていく。足で海底を蹴ることが出来たのは幸運だった。水面から顔を出すが、すぐに体が沈むことに気付いて必死に腕を動かす。どうすれば泳げるのかさっぱり分からなかった。

 荒ぶる波が口の中にまで入り込む。塩辛い。酷い味だった。ようやく浅瀬に辿り着いて、口と鼻を拭う。力が抜けて立ち上がれない。膝ほどの海水に浸かりながら、白狐はどうにか周囲を見回す。

 静か、だった。今までの騒ぎが嘘のように、しんと静まり返っている。白狐が暴れさせた水面だけが場違いに揺らいでいるものの、月の白光が差し込み、それが岩のひとつひとつを芸術品のように際立たせていた。

 月?

 顔を上げる。そうしていると、まるで底の抜けた筒の中に落ちたように錯覚させられた。岩壁にぐるりと囲まれたその場所は、自然がつくり出した海の洞窟だった。長い年月と海蝕により天井部分が崩落し、頭上はぽっかりと巨大な孔が空いている。

 円形の夜空には三日月が浮かび、それが猫の目のようだった。


「……」


 雪は、風はどこに消えたのか。そよそよと頬を撫でる夜風は滑稽なほど穏やかで、夏の匂いがした。海に落下した瞬間、季節が逆転したかのように。


 水音が響く。


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