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名もなき覇の系譜  作者: こく
第三話 悪鬼に憑かれし闇に
6/12




 頭が重い。首筋が軋み、食いしばった奥歯から空気が洩れる。初めに思い出したのは寒さと、体の節々の痛みだった。

 苦労して顔を上げると、夢の続きのような暗黒に包まれている。砂っぽい、湿った匂い。壁も天井も黒と灰色の連なりで、夜目の利く白狐でさえしばらく慣れるのにしばらくかかった。

 身動きが取れない。後ろ手に縛られた腕は柱に繋がれ、引っ張ってみてもびくともしない。荒縄の結び目が手首に食い込み、肩も肘もすっかり強張ってくたびれている。随分長いこと同じ体勢で捕らえられていたらしい。唾液の苦い味が舌根にこびりついている。薬で眠らされたのだろうか。

 自分はどうやってここまで運ばれたのだろう。どれくらい気を失っていたのか。ほんの数刻か、一晩か──それとも数日? 立体感のない暗闇と曖昧な浅い夢は、白狐の感覚をすっかり鈍らせ、時間も空間も全てが平坦に広がっているように錯覚させる。

 最後に意識があったときから辿ろうにも、記憶がぼろぼろと解れ、古びた茣蓙の穴のようにところどころ空白があり、何もかもがはっきりしない。

 そうして思考が混濁したまま、どれくらい経っただろう。手足の痛みと痺れるような寒さが骨身を蝕む。血液の流れが滞り、死が近付いているのが自分でも分かる。いっそ眠ってしまいたいが、目を瞑っても眠気は来ず、苦痛は増すばかりだった。

 ふと、壁を隔てた向こうで何かが近付いてきた気がして、白狐は重々しく頭を擡げる。


「……」


 複数の足音。乾いた軋みと空気の流れで、戸が開いたのだと分かる。しかし、暗いことに変わりはない。途端に、目に光が飛び込んで来た。突然勢いよく燃え上がった松明の炎に、朧げな室内の様子が浮かび上がる。瞬きするのも、今の白狐には億劫だった。


「──長明」


 見慣れつつあった若者の顔に、陰影が揺れている。猛禽のような目が、灰色に透けていた。「はい」と答えた彼の声に、感情の機微は読み取れない。

 その背後には、大家(ダージャ)がいる。

 長明よりも一回り背の小さな壮年の男は、初めて見えたときと変わらず、親しみの欠片もない態度で白狐を見下ろしていた。


「どうして……」


 掠れた息が口から漏れる。考えるよりも先に困惑を露呈してしまうあたり、白狐は既に考える力をほとんど失ってしまっているらしい。痛めつけられた肉体が身じろぎする度に悲鳴を上げ、辛うじて残っていた気力を奪っていく。

 はく、と空気を求めるように口を開く。訊きたいことが沢山あった。少なくとも白狐はそう信じていた。蜃に襲われたこと、子どもたちは無事なのか、何故自分がこうして拘束されているのか。しかし彼らの無表情は鉄製の壁のようで、問いかけようにも脆い意志はさらさら砂のように崩れていくのだった。

 お前に言うべきことはない、とばかりに無言を貫く長明と大家(ダージャ)に、何度も逡巡した後、ようやく出たのは「縄を解いてください……」という弱々しい懇願である。自分でも驚くほど、情けない声だった。

 答えはない。じりじりと松明が空気を炙る音だけが天井を這う。沈黙が続くほど徐々に白狐の中の何かが擦り減っていく。

 おもむろに大家(ダージャ)が白狐の前に膝をついたが、あのときのように縄を解くことはなかった。


「……」


 顔を覗き込まれる。鈍色の目が、膿んだ瞼の下で光っていた。動物じみた瞳孔は、思わず顔を背けたくなる鋭さと、同時に心を掴んで離さない奇妙な磁力を宿している。

 大家(ダージャ)がおもむろに口を開いた。語りかけるような言い方だった。


「あんたは、もうとっくの昔に気が狂っていたんだよ」


「……え?」


「本当は気付いていたんだろう?」


 顔を覗き込まれ、内臓が締め付けられるような嫌な感覚を覚える。咄嗟に浮かんだはずの反論の言葉が喉から出ない。彼の顔を間近で見るうちに、脈拍が早くなった。

 火に照らされた大家(ダージャ)は年老いた樹木に目鼻がついたようで、人間なのかそうでないのか判然としない。皮膚には黒い染みが浮かび、幾つも刻まれた皺は彼の精悍で逞しい顔つきを際立たせる。


「どうして、僕を助けたのですか?」


 独りでに白狐は零していた。「僕をこの村に置いた理由は何なのですか……?」


 大家(ダージャ)に、そしてその後ろの長明に問うたつもりだった。ほつれた黒髪が額に掛かったこの大家(ダージャ)の甥は、確かに白狐の世話係として数日を共に過ごしたはずだった。

 しかし、棒切れのように立つ彼の姿に、白狐は途端に自信が持てなくなる。本当に彼は、自分の記憶にあるのと同一人物だろうか?

 顔立ちや佇まいが、がらりと変わった訳ではない。なのに、これまで彼とともに繋いできた関係、文脈がすっ飛んで、切り離された場所で白狐はこうして縛られている。まるで、突然夢から醒めたように。

 そもそも、彼らは白狐の気が狂っていたのだと言った。

 ──いつから?

 白狐の心の揺れを透かしたように、長明が僅かに目を大きくして光を映す。


「あなたは、蜃を引き付ける力があるようです」


「……」


「蜃に魅入られた者は、夢と現実の境を見失い、やがては狂って死んでいきます。同時に蜃は、取り憑いた人間を軸に様々な害を撒き散らします」


 害。それは瞬きの間に川を凍らせるような現象だろうか。それとも、あれさえも白狐の見ていた夢だったのだろうか。


「この村の漁師は、海に出るため蜃の生み出す幻影に慣れています。惑わされなければ、魅入られることもないのですが……」


 彼はそこで言葉を切った。瞼を伏せた、その表情は白狐がそうでなかったことを物語っていた。惑わされなければ、魅入られることはない。では、自分は既に手遅れだということだろうか。


「心が虚ろな者は、悪霊に魅入られる」大家(ダージャ)は儀礼の詔を読み上げるよう、どこまでも粛々としていた。


「蜃に魅入られた者は、殺すほかない」


 胃の腑に氷塊を落とされたようだった。言葉が出てこない。大家(ダージャ)の眼差しは、如何なる言い訳も通用しない、無機質な鉱石の光沢を思わせる。

 白狐は悟る。既に自分は、彼らにとって対話するに値しないのだと。悪霊に憑かれた者として、打ち棄てられた病人も同然の扱いを受けるほかないのだと。背筋が凍った。反論しなければならないという焦りだけが空気となって口から無為に出ていく。

 例え白狐がそれらしい説明をしたとしても、彼らは聞く耳を持たなかっただろう。気狂いした者の言葉など誰が受け取ろう。絶句している白狐に、長明はただ錠を下ろすように「禊は夜明けに」と告げた。

 禊、と訊き返すのも悍ましかった。その意味するところは何となく想像できたが、白狐の耳を通り過ぎた「首を掻き切って血を海に流す」という説明にはもっとぞっとさせられた。

 彼らには何らかの意味があるであろう清めの儀式も、一息で首を落とす朝廷の斬首刑を知る白狐にとって余計な苦痛を伴う殺し方でしかない。そうした原始的な手法に固執する彼らの中に染みついた、土着な信仰心の方が余程狂気に映る。

 しかし、やはり自信を持てない。本当に狂っているのはどちらか、或いはどちらもか、判断するだけの理性が残っていないのである。


「ま、待ってください」


 踵を返した彼らの背に、どうにか声を振り絞った。まだ分からないことがある。面と向かって訊ねるには憚られたことも、今となっては気にする必要もあるまい。


「どうしてあなたは大家(ダージャ)と呼ばれるのですか。この村は皇国の外にあるとはどういう意味なのですか?」


 一息に捲し立てる。声が小さかったためか、彼らはしばらく答えない。その独特の間が、白狐の中に残った理性の一片を探しているのか、田舎の話し方の癖なのかよく分からなかった。

 大家(ダージャ)は、ちらりとこちらを一瞥し、背を向ける。慌てて首を伸ばしかけた白狐に、彼は素っ気なく言った。


「何の話だ?」と。


 戸が閉まる。微かな空気の流れが止み、白狐はまた暗闇の中に一人取り残される。彼らの残した言葉を反芻し、初めに考えたのはこれが悪い夢なのではないかということだった。

 それがどれだけ愚かしい願望か知りつつ、白狐はこの状況を悪夢だと思い込むことで平常心を保たんとした。じっと身を固めて目を瞑り、貼り付いたような静寂から引っ張り上げられるのを待って、幾何。一向に現実が帰ってこないどころか、肉体に強いられる苦痛が再び耐え難いものになるにつれ、気力を妄想に費やすことも辛くなってきた。

 関節が凝り固まっている。せめて肩だけでも動かすことが出来れば、いや、縄が解かれなければどうにもならない。辛うじて自由な指先は寒さで悴んでいた。動くことも眠ることも出来ないこの体勢が、苛立ちともどかしさを募らせていく。

 そもそも、今はいつだろう。真夏だというのに、この寒さはどうしたことだろう。季節すらも自分は勘違いしていたのだろうか。それとも、夏から自分はずっと眠りこけていたのだろうか?

 取り留めない思考は無力感を際立たせるだけで、何の役にも立たなかった。すう、と波が引いていくように束の間冷静さが戻り、「禊は夜明けに」という長明の宣告を思い出しては、それがあとどれくらいなのか逆算しようと無意味に努力する。

 白狐にとって確かなものなどひとつもなかった。記憶も、信頼も、時間の流れさえも。


「──……」


 蜃のこと、大家(ダージャ)の名前、長明の言葉。そして自分が死ぬこと、都に残してきた思い出。現実逃避と絶望を繰り返し、焦りと投げ遣りを積み重ね、遂に白狐は何もかもを諦めた。絶え間なく与えられた苦痛は最早感じなくなり、単調な暗闇は虚しいばかりで、白狐の心を暗澹と塗り潰してゆく。

 どうでもいい。夢も、現実も。思考を止めたことはほとんど敗北に近かった。理性の停止は、心の死だ。それでも、少しでも楽な方向へと意識を手放したかった。

 目を瞑りかけた、途端。かたん、と何か固いものが床に落ちる音で、白狐は心臓が口から飛び出そうになる。

 音のない空間に慣れた耳に、突如降ってきた何か。咄嗟に、鼠か、とにかく動転して身を捩らせる。動けない。柱に固定された体が反動で引っ張り返され、思わず喚き散らかしたくなった。内側に籠っていた何かが爆発したように、辺り構わず悲鳴を上げることで精神の均衡を保とうとしたのかもしれない。

 寸でのところでそれを思い留まったのは、頭上から、しぃ、と白狐の狼狽を咎めるような小声が聞こえたためである。それがなければ、完全に正気を失っていた。


「……は」


「声を、出さないで」


 どうにか首を捩じろうとして、酷い痺れに顔を顰める。気が付かなかったが、白狐が縛り付けられている柱の背後に、細い採光用の窓があるようだった。体をどう捻っても見えなかったものの、外側から引っ張り上げられたらしい僅かな隙間が、怪物の瞼のように開いているのが匂いで分かった。

 誰かいる。どくどくと激しく脈打つ鼓動が苦しい。白狐はごく小さな声で訊ねた。


「敏?」


「しずかに」


 少年の声は素っ気なかった。随分と高いところから聞こえる。外から窓にしがみ付いているのだろう。暗闇を通じて微かに伝わる敏の呼吸は、緊張や恐怖とは別の、何かに耐えているような響きがあった。


「それ、あげます」


 彼の言う、それ、が何なのか分からない。どうやらこの無謀な少年は、外から窓をこじ開け、隙間から何かを落としたようだった。床のどこかにあるであろうそれを探そうと不自由な腕を動かしたとき、再び敏は「しぃ」と注意を促す。

 白狐は動きを止め、耳を澄ませた。遠くから海鳴りがする。低く唸る波間に、誰かの気配が潜んでいないかと。そうしてしばらく肩を縮めた後、白狐はまだそこに敏がいるかどうか確かめる。


「ねえ、どうしてですか……?」


 どうして、には様々な意味が含まれていた。どうして自分を助けてくれるのか、どうして自分は捕まってしまったのか。しかし、答えはない。どれだけ待っても反応はなく、彼はとっくにいなくなってしまったのだろうか、と思う。

 或いは、敏という少年など端から存在していない、のかもしれない。

 臓腑が縮み上がるような、嫌な感覚が込み上げる。ここに閉じ込められて、幾度味わったか知れない、深い深い恐怖。底の見えない谷を覗き込んだような、言葉にし難い嫌悪感。

 瞼を閉じ、どうにか息を吸った。自分が半泣きであることにそのとき気付いたが、もう白狐には守るべき矜持も意地もない。そう自覚すると、何故だかほんの僅かに、勇気のようなものが湧いてきた。


「お願いです──教えてください」暗闇に呼びかける。吐き出した言葉が、宙に浮かんでいるように錯覚した。「僕は、夢を見ているんでしょうか?」


 自分がつくり出した幻でも構わない。誰かに届けば、という一心で、か細い声を出す。


「この村は一体何なんですか?」


 随分長いこと返答はなかった。だが、白狐は待った。そうするのが正しいことであるように思われた。じっと聴覚を尖らせ、己と外界を隔てる肉体が溶けていくよう、闇の中で息を殺す。


「海に、行って下さい」


 敏の声が返ってきた。


「きっと──」


 待っていると思うから。不思議と、白狐は聞き取れなかった彼の言葉の意味を読み取った。顔を上げる。


「──蜃が?」


「いえ」首を横に振った気配があった。「蜃なんて、本当はいない」


 その瞬間。白狐は黒く塗りこめられた空間に、銀色の蝶が一斉に舞うのを見た。それはほんの一瞬の出来事で、だがはっきりと思い出せた。ああ、あのとき。凍りついた川辺で、彼はそう言ったのだ。

 蜃なんて、本当はいない。


「信じて」


 敏の声もまた、何かに縋るように震えている。


「あなた、悪い人じゃないんでしょう?」


 その質問に白狐は上手く答えることが出来なかった。子どもの思う勧善懲悪の中に己を位置付けられるほど、白狐の立場は単純ではない。だがその躊躇こそが、白狐の心根を象徴しているとも言えた。

 細く、海風が舞い込む。外の匂いがする。砂塵を帯びた、自由の匂い。分かりました、と白狐は己に言い聞かせるように囁く。


「信じます」


 それきり、敏が応えることはもうなかった。


 しん、と。海鳴りは止んでいる。窓が閉まったのだろう。また自分は夢を見ていたのか、と疑う必要はなかった。縛られた手首で探った先、固いものが指先に触れた。注意深く手繰り寄せ、それが何らかの刃物であることが分かる。

 時間はなかった。迷う余地もない。冷え切った小刀で自身を傷つけないよう、音を立てないよう、白狐は手首を拘束している荒縄を断ち切ろうと苦心する。

 縄は固く、粗末な刃は決して切れ味が良いとは言えない。取り落としそうになる度、いちいち心臓が凍った。集中している頭の片隅で、過去のことが思い出される。

 敵に捕まったとき、拘束されたとき、どうやって脱出するか──修羅とは縁のない上流貴族。しかし影家の儲君という立場上、()()()()()()武術の知識を頭に入れる機会はあった。万が一のとき、自害する術も知っている。冷静になったためか、昔教えられたことが記憶の引き出しから次々と零れてきた。

 まさか、そんな危ない事態に陥ることはあるまい。同じく武術を習った若かりし千伽と暢気に笑い合ったことも覚えている。こんな朝廷とは遥か離れた僻地で役に立つとは、想像もしなかった。

 息を漏らす。ただでさえ楽ではない体勢、縛られたまま縄を切るのは困難な作業だったが、冷たい刃の心地良い重量が手に伝わり、それが白狐を現実に繋ぎ止めてくれる唯一の楔のように感じられた。

 もう少し。

 慎重に、だが的確に、不自由な手首で出来る限りの力を込める。何か引っかかっていたものが取れたように、途端に縄が緩んだ。その勢いで、小刀が音を立てて床に落ちる。白狐は殴られることを覚悟した子どものように強く両目を瞑った。


「……」


 音を聞きつけて誰か駆け付けては来ないか。しばらく生きた心地もしない。無音が続く。白狐は意を決し、素早く足首の縄を解きにかかる。ここまで来て、引き返すつもりは更々なかった。

 早く、早く逃げなくては。悴んですっかりくたびれた指先で、固い結び目を解く。力を籠め、緩んだところから引き抜いて手早く脚も自由にする。立ち上がろうとして、転びかける。両足がかつてないほど痺れていた。

 息を止める。


「……」


 誰か来る。何者かの足音が入り口に近づくのを聞いた瞬間、白狐の覚悟は決まっていた。床に転がっていた小刀を拾い、目線の高さにある窓から思い切って脱出する。自分でも感心するほど素早い身のこなしだった。ぎい、と蹴った床が軋んだ。

 構うものか。雨戸を押し明け、潮風を一杯に浴び、高さも見ずに暗闇目がけて飛び降りる。幸い地面は近い。猫のように柔らかく着地した白狐は顔を上げて、言葉を失う。


 外は白く、真冬のように吹雪いていた。




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