Ⅱ
それからどれくらい経ったか。大家の言う通り、白狐はしばらく眠った。酷く体が疲れていて、考え事をするのも億劫だった。
やがて目を醒まし、意識がはっきりしてくるにつれ、今度はじっとしていることが苦痛になった。睡眠を経て気が緩んだためか、顔の傷口にずきずきと疼痛が走り、どの体勢になっても痛む。鏡がないのでよく見えないが、相当こっ酷く浅瀬の底にぶつけたらしい。
「……」
白狐は上体を起こし、時間をかけてよろよろと立ち上がった。水を飲みたい。取り留めなくそんなことを考えたが、大家が持ってきた椀は既に空になっている。頭の隅にはまだ彼の刺した釘が残っていたものの、白狐はさして気に留めず戸口の方へ向かった。
三和土に干してあった履物はもう充分に乾いている。心もとないほど軽い戸を押し、やっとの思いで外へ足を踏み出す。
途端に、光。強烈で生々しい磯の匂いに包まれた。
息を吸い込む。新鮮な空気が肺に入った。湿気で重たくなった森のそれとは違う、爽やかで苦い味がする。
夕暮れの光を浴び、青海原を駆ける風が、白狐のすぐ側を駆け抜けてはくるくると廻った。
──海である。
あばら家は、海を見下ろすように建っていた。砂浜よりも幾分高台になった平地に、これと同じような粗末な家が軒を連ねる。家々の窓から窓へ綱を渡し、布や衣服が干してある。女たちが外で煮炊きをしながら話す声が聞こえる。
少し視線を下げれば、海辺の岩場が浜の奥に続き、険しい地形を避け、水と触れ合うように無数の浜梨の花が咲き乱れていた。野生に伸びるに任せた灌木の茂みは森と紛うほどどこまでも続き、夏らしい濃紅と青葉は目に突き刺さるほど鮮やかで、夕焼けの色と混じって極彩に照り映える。
「……うわあ」
思わず感嘆の声が出る。こんなにも一面に咲いた浜梨を白狐は見たことがなかった。人の手の入っていない自然の織りなす光景が、白狐にはむしろ新鮮に映る。くらりと酔うほど、鮮烈な花が風に触れて香った。
視野を遠くに転じれば、茫漠と広がる大海原に、絶え間なく打ち寄せる波の泡。眼下には砂と砂利の混じった厳つい海岸線が、視界の端までせり出すように続き、険峻な岩崖と鬱蒼とした長遐の木々が集落を隠している。
この漁村は海からしか見えない──花盛りの浜梨に紛れ、ひっそりと神に守られているかのようにつくられた集落。白狐は自ずと桃源郷の物語を思い出す。
よくある御伽噺だ。辺鄙な山奥、人知れず仙人が暮らす里は一年中桃の花が咲き乱れ、人々は憧憬を込めて桃源郷と呼ぶ。桃源郷に迷い込んだ旅人は丁重にもてなされるが、一度外に出れば二度とその里を見つけることは叶わない──。
浜梨に囲まれた漁民の集落は、そういった幻想的な風景を彷彿とさせる。
その一方で、遠目に映る人々の貧しそうな恰好や、住まいの素朴さは生々しい。御伽噺にしては俗っぽく、白狐はその目新しい暮らしぶりに夢想を抱くより自身の世間知らずを痛感した。
海辺に住む人々は朧省にも涼省にもいるが、その暮らしぶりを間近で見たのは初めてだった。船で海に出て、魚や貝を獲る漁民は大概身分が低く、辺鄙な土地で慎ましく暮らしていると聞く。
実際に見るのと聞くのでは印象は大違いで、まめまめしく働き、単調で無駄のない日々を積み重ねる漁民たちの生活に、自分が如何に作り物の箱庭の中で育ったのか今更理解させられた。
立ち尽くしている内に、少しずつ日が傾いていた。夏の夕暮れは長い。山側へと傾いた太陽はじりじりと稜線を燃やし、沈むのを渋るかのように熱気を発散していた。海からの風がなければ干乾びてしまいそうな暑さだ。
ふらふらと歩き出し、とにかくどこかで水をもらえないかと周囲を見回す。人の声に釣られるまま、小さな広場のようなところで火を焚き、大鍋で何かを煮ている女たちがいるのを見つけたが、近付く前に手で追い払われてしまった。
「……」
未練がましく目を向ければ、背中に負ぶった赤子を守るようさっと一歩離れた女に睨まれ、白狐は自身がここでは歓迎されていないことを思い出す。誰かに訊くよりも自分で探す方が早そうだった。
そのときだった。白狐は遠目に小さな影を捉える。湾岸に沿って茂る浜梨の中に、黒い陽炎が誘うように揺れている。それは少年の形をしていて、白狐は考えるより先に走り出していた。
息を切らし、集落の高台にやってくる。日没が近い。沈みゆく夕陽が、彼方の水平線とすれすれに触れ合って黄金の一本道をつくっている。
周囲は咲き乱れる浜梨の花の茂みに鬱蒼と囲まれ、何だか秘密めいていた。白狐は消えてしまった陽炎を追い、奥へ奥へと進む。枝が、葉が皮膚に刺さって引っ掛かるが、気にならない。
ああ、何だっけ、と白狐は思う。前にもこんなことがあった。幼馴染と一緒に邸を抜け出したあのとき。庭の径を知り尽くした頼もしい千伽の背を追って、生い茂った木々を掻き分け、鬼ごっこだったか隠れ鬼だったか、二人でじゃれて遊んだのだ。
腕に擦り傷をつくって、着物を汚して、近習に見つかったときにはそれは手酷く叱られたけど、外の世界を知らない白狐の手を引いてくれたのはいつだって千伽だった。
怒られようが会うことを禁じられようが、千伽はあの不思議な力でひょいと護衛の目を掻い潜ってやってきた。幻影を操るばかりか、世界を思い通りに動かす千伽のスコノスの無敵ぶりにやがて皆諦めて大体好きなようにさせてもらっていたんだっけ。
「千伽?」喘ぐように息をして、白狐は声を出す。「どこですか?」
気付けば汗をぐっしょりとかいて、頭が重い。途切れかけた夕陽の残光が、浜梨の葉に沿って濃い陰影をつくり、白狐を飲み込んでいくようだった。
ぐるりと一帯を見回す。随分時間が経ったような気がしたが、白狐はずっと、すぐ傍に幼馴染が隠れているように錯覚していた。探すのが下手な白狐を揶揄って、今にも葉陰から満面の笑みで飛び出てくるような、そんな高揚とした予感。
意識が白み、朦朧としてきたところで、白狐はようやく誰かが近付いてくる声と気配を感じ取る。幻覚ではない、もっとはっきりとした現実の呼び声。それが見知らぬ若い男の声だったので、白狐はようやく我に返った。
立ち止まる。背後から慌てたように、がさがさと浜梨を掻き分けて誰かがやってくる。
「ああ、やっと見つけました!」
一際大きな音とともに現れたのは、見知らぬ若者だった。随分走ってきたのか額に汗を掻き、それが彼をより幼く見せている。細い紐で縛った黒髪には青葉が引っ掛かり、白狐は咄嗟に手を伸ばして払ってやりたくなった。昔幼馴染とそうし合ったように。
「──あなたは?」
ぜいぜいと膝に手をついて喘鳴を吐く彼に、白狐は一歩引いて訊ねる。自身の足が覚束なくなっていることに気付いたのはそのときで、よろめいた拍子に眩暈を覚えた。
「私は……ああ! 大丈夫ですか!」
くらりと傾いたのを支えられ、どうにか卒倒せずには済んだものの、心配する彼の声の大きさに白狐は顔を顰める。「大丈夫です」と一言断ってから支える手を押し退け、白狐は改めて若者の顔を見た。
「し、失礼しました。つい慌てて、はぁ」
一息ついて、彼は両手を合わせて伝統的な挨拶をする。
「私、大家から客人の身辺の世話を任された長明と申します」
「ああ、どうも……」
白狐は面食らいながらも反射的に袖を合わせて挨拶に応えた。少し躊躇ったのち、「白狐と申します」と名乗ったのも無意識だった。身の上は明かさないほうが良いかと後悔したが、どうせこの名前に入った白の一字の意味だってこの集落の者には分からないだろうと思い直す。
「大家から言いつけられていたのに、戻ってみたら家の中が蛻の殻で血の気が引きました」
何だか礼儀正しいが、調子外れな子だな、と頭の片隅に浮かんだ。「そんな大袈裟な」と漏らしかけるが、彼は汗を拭って「あなたを見失ったと知られたら大家から何と叱られるか」と顔を引き攣らせているのであながち誇張でもないのかと思う。
「大家はあなたを介抱し、もてなすようにと命じられました。どうか怪我が治るまで私たちのところに留まってください」
しかし、と否定しかけたが、若者の顔に「言いつけを守らねば叱られてしまう」という仔犬のような表情が浮かぶので、如何せん断りにくい。それに、粗野な田舎者らしからぬ彼の誠実な言葉遣いに心を動かされないでもなかった。
白狐が躊躇いがちに頷いたのを見て、長明は幾分安堵してから急かす。
「ささ、早く戻りましょう。暗くなればこの近くには蜃が出ます。空に光があるうちに帰らなければ」
「蜃?」
白狐は歩き始めた長明の後に続きながら問う。すると彼は振り返り、しい、と声を潜めた。その仕草は何だか仰々しくて、律儀に迷信を畏れる子どものようであり、異端の狂信者のようでもあった。
「幻を見せる海の悪霊です。聞いたことはありませんか」
「少しだけ」白狐は肩を窄めながら答える。海から離れた都で育った白狐には縁の遠い話ではあった。
「海の上の船乗りを幻影で惑わすとか、書物で見た程度です。この辺りにいるのですか?」
「ええ」
この若者は多くを語りたくはなさそうだったが、その割に白狐の顔をじっと覗き込んできた。「お心当たりが?」
間近で見る彼の目は、鷲のようにくすんだ鈍色で、光の加減で仄かに金を帯びる。そのときになって白狐は初めて彼に大家との血縁の繋がりを感じさせることを見留め、同時に心の底を見透かされるような居心地の悪さも覚えた。
「いえ」
短く首を振る。例の少年のことを、この長明に話すのは得策でないように思えた。長明もまた大家がそうしたように「そうですか」とあっさり引き下がり、「では行きましょう」と踵を返す。
後に続きながら、白狐は問うた。半ば好奇心だった。
「蜃とは、夜になると顕れるものなのですか?」
「そうですね。大抵、奴は暗い時間に活発になります。黄昏から夜明けにかけて、様々な形で海辺にやってきた人を惑わせるのです」
「しかし」浜梨の灌木を足で掻き分けながら首を傾げる。「あなた方漁師は、毎朝早い時間に海に出るのでは? 蜃に襲われることはありませんか」
長明は少し間を置いて、笑ったようだった。背中を向けていたので、表情は見えなかった。
「季節によりますが、確かに夜明け前に船を出すことが多いですね。貧しい漁民なので、そうでもしなければ生活が出来ないのです」
白狐は何と言うべきか分からなかった。無神経なことを聞いた、と恥じるべきだったかもしれない。
自分は悪霊に惑わされたのだろうか。しかし、もしそうならこの長明というやけに慇懃な若者や長遐の端にある漁民の集落が幻でないという確証もない、とも思う。
まだ夢の続きにいるのか。なら、あの千伽に似た少年にまた会えるに違いない。長明の後ろをついていきながら、白狐は浜梨の茂みの向こうで少年の影が手を振ったのを垣間見たような気がした。
***
夜になって、大家の言葉通り食べ物が饗された。長明の家──白狐が寝ていたあばら家──で振る舞われた芋や野菜の入った鍋料理やら、雑穀を炊いた飯やら、白狐には馴染みのない田舎の郷土料理は見るからに素朴で、一番面食らったのは生魚を薄く捌いた刺身だった。
長明手ずから捌いたという何たらというこの魚はこの時期よく釣れるのだと丁寧に教えてくれたが、白狐には魚を生で食べる慣習がない。海辺で暮らす人たちがそうして魚を食べることは知っているものの、体の弱い白狐を抱えた影家ではまず御法度である。
初めは遠慮していたが、あまり拒絶すれば相手の気分を害するかもと散々逡巡した末、勧められるまま恐る恐る一切れだけ口に入れてみると、生臭さは一切なく味は淡白だった。
「美味しいです」
ぎこちなく咀嚼しながら微笑めば、向かいに座った長明は安心したように笑い返す。二人きりの食事の席であっても、彼は慇懃さを崩さず白狐にあれこれ気を回し、客として細やかにもてなした。
長明は大家の甥にあたるそうだ。随分若い、と驚けば「兄弟が多いのです」と彼は何だか照れ臭そうに笑った。成人はしているようだが、歯を見せると本当に、子どもの名残がありありと浮かぶのが微笑ましかった。
「あなたはこの辺りでは珍しい話し方をしますよね」
そう訊いたのは単なる好奇心だった。昼間に広場で見かけた女たちは漁民らしいきつい訛りで話していたが、長明の言葉遣いは滑らかで淀みがない。彼は顔を曇らせた。
「私は、何か失礼なことを言ってしまいましたか?」と。
「いえ、そうではなく」
手元に箸を揃え、長明は少し考えるような素振りの後に言う。
「幼い頃から、そういう風に躾けられているのです」
躾け、という言葉自体がこの漁村に似つかわしくないように思えた。その疑念を読み取ったよう、彼は窓の外を見ながら続ける。
「この集落には皆それぞれ役割があります。漁師は漁師の言葉で話しますが、私は色々なことをするので訛りがない方が都合がいいのです」
「色々、というのは、僕のような外からの客への世話も含むのですか?」
「そうかもしれません」彼はまた歯を見せて、あの子どものような笑顔になる。「しかし、私が知る限りあなたはこの集落に訪れた初めての客人です」
それだけは嘘ではないのだろう。実際こうして家の中にいても、常に外から誰かが自分を見張っているような奇妙な感覚がある。長明に訊ねてもはぐらかされてしまうだろうが、幼い頃からそうした環境に身を置いてきた白狐は、人目には敏感な方だった。
警戒されていることは間違いなかった。ただ彼らの注意深さが、田舎の村特有の排他思想なのか、もっと別の理由があるのか判断がつかない。
そうして、彼らが何か白狐には言えないようなことを抱えているとして、それに首を突っ込むべきかも分からなかった。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、あなたたちは僕を助けてくれるんでしょう?」
幾ら世間知らずといっても、他人からの好意を気安く受け取れるような生温い環境にばかりいた訳ではない。都で綺羅に手酷く裏切られたことが、白狐をいつになく疑心暗鬼にしていた。らしくない、という自覚はあった。
ううん、と長明は悩むように首を傾げる。それが演技なのか、そうでないのか判断がつかない。
「大家のご意向です」
「彼は何と?」
「生憎、私には知らされていないのです」
それは嘘だろう。彼らは何かを隠したがっている。そんな思いが確信を帯びる。
白狐はどうしても、脳裏に焼き付いた少年のことが頭から離れなかった。そして、長明が口にした蜃という悪霊のこと。とても他人に構うほど生活の猶予もなさそうな彼らが、自分を丁重にもてなす理由。
密かに首を振る。白狐に出来たのは、「そうですか」と相槌を打ってさり気なく気まずい話題を終わらせることだけだった。
いずれにせよ、久し振りにまともに口にした食物は白狐の体に染み渡るようで、白狐は自分が生きていることを他人事のように実感する。こんなにも都から離れた地で、見知らぬ人が作った、名前も知らない魚料理を食べて、生きている──。
「……」
ふと手を止め、じっと椀の底に残った汁を見つめた。涙が出るような感慨も、情動の揺れもなかった。心をどこかに落としてしまったように、悲しくもなければ嬉しくもない。
そんな白狐を、長明はじっと食い入るように見つめている。