Ⅰ
乾いた痛みに目を覚ます。どこが痛いのかも分からなかった。ただひりひりとひび割れそうな感触が沁みる。暗闇の中、それが夜なのか目が狂ったのか分からないまま、白狐は朦朧と、痛覚を頼りに意識を手繰り寄せた。
無意識に患部を探そうとして、腕が動かないことに気付く。顔を歪ませた拍子に、皮膚の動きにつれ湿った、布のようなものが頬に当たった。剥がそうと顔の向きを変えると、乾燥した血が固まって、激痛に声が出そうになる。
思ったよりも傷は深いらしい、と白狐はどこか冷静に自身の大怪我を受け止めていた。顔に傷をつけたという実感はまだ湧かなかった。
体のあちらこちらが軋むようで、具合が悪い。おまけに手足を縛られているらしく、身動きが取れない。ここはどこだろう、と目を開けて、ようやく感覚に現実味が出てくる。口の中で、じゃり、と砂を噛む苦味が広がった。
どうにか首を傾けると、自分は藁を編んだ敷物の上に寝かされているらしいと分かる。身体に掛けられている布も、到底寝具などとは呼べそうもない粗末な代物で、あちこちが痛むのは藁のささくれが刺さっているせいかもしれない。
暗闇に満たされた家の中は──それも白狐が家と呼ぶのも躊躇われるような物置じみた造りだったが──木造で、狭かった。入り口と思しき辺りに何やら道具が積み重なり、壁には釣り竿のようなものが立てかけられている。中央に囲炉裏があり、煙だしの穴から斜めに射し込む光が白狐に丁度当たっている。
家具らしきものはない。床には細かな砂が散らばり、濃密な海の匂いが充満していた。板壁を挟んだ向こうから、波の音が聞こえる。
「起きたか?」
不意に声をかけられ、白狐は顔を上げようとする。しかし体が思うように動かない。空気に触れている箇所から水分が抜け、全身が干乾びていくような心地だった。
「……」
誰、と声も出ない。唇がひび割れて痛む。どうにか顔を背け、目を細めた。入り口らしきところに、黒々とした人影が立っている。それがことの外細くて小柄な体躯だったので、まだ夢の続きなのではと疑いが過る。
それは困惑するほど、あばら家に似つかわしくない、すらりとした佇まいだった。
「夜の海に身投げするとは命知らずめ」
尊大な口振りの割に声は高かった。顔は良く見えない。裸足で歩み寄ってきた影が、白狐の顔を覗き混む。逆さまに目が合ったとき、思わず声が出かけた。
──千伽?
喉が痛み、咳き込む。体を折り曲げて噎せると、その度に全身の骨が砕けそうになる。
「馬鹿者が」
そう言う少年は、かつて子どもだった頃の千伽そのものだった。まるで、記憶の中にある少年時代の幼馴染が、そっくり目の前に現れたかのように。まだ夢の中にいるのか、或いは生死の境で過去の記憶を見ているのか。動転して余分に噎せた白狐に、少年はしゃがんで背を叩いた。
「喋るな。砂ごと塩水に浸かったのだ。声を出そうとすればまた傷めるぞ」
その声音もまた千伽だったので、白狐は幼馴染に宥められている心地になる。かつて、自分が幼かった頃に何度もそうされたように。
「……せ、ん……」
「うん。落ち着け」
少年が否定しなかったので、白狐は何だか気が鎮まるのを感じた。あれほど焦がれた、懐かしい、幼馴染の声。ようやく会えた、という安堵に息苦しさとは違う涙が滲む。
枕元に膝をついた少年は、どこからか取り出した布で、白狐の唇を湿らせた。ひび割れに沁みたが、少しずつ喉に水分が通う。
「まだ辛いなら眠れば良い。もう海になぞ飛び込んでくれるな」
耳元で囁かれるままに頷いた。千伽に言い聞かされたように、宙ぶらりんだった心が着地する。白狐は再び目を瞑り、幼馴染に気配を感じながらうとうとと微睡みに落ちていった。
それからどれだけ眠っただろう。次に瞼を開いたときはすっかり日が昇り、あばら家の中は明るくなっていた。煙だしの穴から差し込む陽光は、あの暗闇を彷徨うような夢心地をすっかり散り散りにし、ただ立体的な現実感だけを残している。
白狐は体を起こそうとし、拘束されていることを思い出した。まだあちこちは痛かったが、水が欲しかった。斜めの陰影に分断された家の中は荒れ果てていて、誰もいない。
だが海の音は変わらず聞こえる。それだけで、あの少年がすぐ傍にいるようだった。
目が覚め、自分が寂しさの混迷の末に何をしでかしたのか少しずつ理解しながら、あの少年が昔の千伽だと白狐は信じて疑わなかった。そうでなければ説明できない。十代の半ばに差し掛かり、長く伸ばした黒髪を無造作に風に晒していた、あの頃の千伽──。
千伽に会いたい。小さくても構わない。粗末な家に一人縛られて転がり、危機感はなかなか戻らなかったが、あの千伽のことを思い出すと無性に心細かった。自分が正気を失っていることに、白狐は頓着しなかった。
それから幾何か経って、複数の見知らぬ男たちがあばら家の中に入れ違いで出たり入ったりした。彼らが何を話しているのか白狐は端から理解することを諦めていた。ただ貧相な衣裳と剥き出しになってよく灼けた肌が、彼らを粗野に映し、賊でも捕まったのかと漠然と考えていた。
やがて人の出入りもなくなり、太陽が南中に差し掛かった頃。白狐に降り注ぐ光がいよいよ強くなり、喉の渇きも限界になりつつあった。とはいえ手首足首を荒縄で縛られ、藁敷きの寝床でもぞもぞと芋虫のように蠢くのが関の山。さすがの白狐もこのままではまずいという現実感を取り戻しつつあった。
そうしている内に、また戸が開いた。白狐はぎしぎしと痛む首を上げる。入ってきたのは、先程の男たちより一回りも二回りも年を取った壮年の男だった。
「……」
三和土で履物を脱いで上がってくる足の先まで健康的に日灼けし、見た目の年齢に反して足取りはしっかりしている。床が軋む音が近付くのを、白狐はただ何も出来ずに待つほかない。
肌の色のためか、その男は古木を削り出した彫刻のようだった。ぱさついた髪を後ろで縛り、背丈は白狐より恐らく頭二つ分ほど低い。眉間や頬の皺は長年の苦労や経験を刻み込んだかのように深く、思わず身を引きたくなるような威容がある。
腫れぼったい瞼の下から鈍色の目が覗き、その胡乱気な眼差しが白狐を落ち着かなくさせた。
「よそから来たんだろ、あんた」
ぶっきら棒で、突き放すような嗄れ声。白狐は僅かにたじろぎ、辛うじて頷く。男は無表情のままだったが、次にしゃがんで白狐の背中に回された荒縄を解きにかかったのは意外だった。
縄を引っ張られた拍子に痛みで声が洩れかけたが、男は気にした風もなく白狐の手首を自由にすると、今度は足首の縄の結び目を解き出す。自身の手首にくっきりと刻まれた赤い痕を撫でながら、白狐はされるがまま男の手際の良さを眺めるほかない。
「……あの、僕は」
針を飲んだように気管が痛む。声が掠れて言葉が出ない。思わず喉元を押さえると、男は不快なものを見たように顔を顰めた。
「酷ぇ顔色だ。何か飲んだ方がいい」
そう言い残して、足早に立ち去ると、男は陶器の椀のようなものを手に戻ってくる。「飲みな」と言われるまま受け取り、白狐は中の水を一息に呷った。相手が何者かとか、中に毒が入っているかもしれないとか、そういった懸念は頭の片隅にも浮かばなかった。常ならば近習を通したものしか口にしない自分がどれだけ水に飢えていたか、冷たい水を胃の腑に流し込みながら白狐はきんと頭痛を覚える。
う、はあ。息を吐いて、口元を指で拭う。顔を上げれば、男と目が合う。鈍色の目は猛禽類のような鋭さを持っていた。
「あ、ありがとうございます……」
男は答えない。ただ無表情のままほとんど空になった椀を受け取る。白狐は彼から質問が来るのを待ったが、あまりに長く沈黙が続いたので耐えかねて口を開く。
「失礼ですが、あなたは……?」
彼は顎を持ち上げ、初めて正面から白狐の顔を見た。檻の中にいる珍しい生き物を見るような、怪訝な眼差しだった。自分から名乗るべきかと思ったが、立場を思えばそれも躊躇われた。
「大家だ」
「え?」
「そう呼ばれている。ここの集落の長につけられる呼び名だ」
だとすれば、彼は長老のような立ち位置なのだろうか。確かに彼にはそう呼ばれるに相応しい貫禄と風格を宿している。とはいえ、大家という呼び名は見過ごせない。
「それは……どういうことですか?」
白狐が困惑したのには訳があった。大家とは古風な言い回しで、非常に身分の高い男──ともすれば皇帝──へ向ける呼称である。
黄色い衣裳を身につけることを許されるのが皇帝ただ一人であるのと同様に、この国でその肩書を迂闊に名乗れば不敬罪で捕まりかねない。
「どうもこうもしない。伝統的にそう呼ばせているだけだ」
「……」
「それよりあんた、その髪、気の毒になぁ」
真っ向から、皮肉でもなくしみじみと言われ、白狐は面食らう。今まで庶民に物珍しく見られることも、畏怖されることもあったが、この白髪を気の毒に思われたことはなかった。
思わず「え?」と声を高くして聞き返せば、大家は眉間の皺を解かずに言う。
「目立つだろ」
「はあ……」
確かに目立つが。思わず自身の髪に手を伸ばし、すっかり短くなった後ろ髪に触れる。彼の着眼点がどこに向いているのかいまいち判然としなかった。
「鳥っていうのは大抵、雄の方が派手な羽色してるんだよ」大家は唐突に言う。「何でだか知ってるか?」
ああ……と白狐は曖昧に頷く。かつて朝廷に献じられた孔雀を見たとき、幼馴染が教えてくれたことがあった。あの絢爛な目玉紋様の尾羽を持つのは、雌ではなく雄なのだと。
「雌に求愛するため、ですよね。華やかな羽で雌の気を引くのだと聞きました」
「違う」
無愛想に否定されたので、白狐は少しむっとする。
「目立つためだよ」
「目立つ?」
「ああ」大家は白狐の方をちらりとも見ない。
「雌は卵産んで雛を育てなきゃならないだろ。それを狙われないよう、目立つ色をした雄が外に出て敵の気を逸らすんだとよ」
「……」
「雌が派手で綺麗な雄を選ぶのは、そういうことだ。囮として役に立つやつを選んでるんだよな」
人間は女の方が派手で、鳥とは逆だな。さして面白くもなかったが、彼は声を立てて笑った。白狐は笑えなかった。
大家は直接こそ言わなかったものの、白狐の白髪を目立つだけの囮のような──上辺だけのものだと言いたかったのだろうか。自分の髪をそんな風に評されたのは初めてだった。髪を、というより白狐自身を軽んじられたようだった。
それでも反論する言葉は浮かばない。ただ目立つだけ。悔しいがその通りだった。
黙り込む白狐に、彼はもうそれ以上何かを言うことはなかった。
二人の間に、轟くような波の音だけが届く。彼の頭に混じった白髪が、光を浴びて透ける。野生の太陽に灼かれた、精悍な顔立ちが白狐を居心地悪くさせた。頬を掻こうとして、そこに包帯が巻かれていることを思い出す。
「僕は一体、どうなったんですか?」
我ながら奇妙な質問だとは思ったが、訊かずにはいられなかった。自身の記憶を遡るには、あまりに正気を欠いていた。今こうして大家という老年の男と向き合っている光景すら、夢か現か判然としない。
「あんたは明け方、浜辺で倒れて気を失っているところを漁に出るうちの男連中が見つけたんだ。この集落ではよそ者なんて滅多に来ないから、怪しいからって多数決で縛って様子見したんだが」
一旦言葉を切った大家は、独特な間を置いて言葉を継ぐ。
「死にかけていること以外特に異常が見つからなかったんで、話を聞くことにした。奴隷商人でもなさそうだし、あんたどっから来た?」
「……」
口をぱくぱくとさせたのは答えに窮したからなのだが、傍から見れば白痴にでも見えたかもしれない。実際、彼らの目から見れば白狐は深夜に徘徊していた狂人以外の何者でもないだろう。
白狐は如何に振る舞うべきか逡巡した。先程のこの男の言葉からして、ここの集落の者は白狐が朝廷の貴族であるということに気付いていないのだろう。そうでなければ白髪を見てあのように礼を欠いたことを言えるはずがない。
「……覚えていません」
ようやく喉から捻り出したのはそんな嘘だった。覚えていない。分からない。本当の意味で、それは真実だったかもしれない。白狐は自分がどうして、どうやってここに辿り着いたのか全く記憶にないのである。
「──そうかい」
大家はあっさりしていて、深く訊ねることをしなかった。着の身着のまま森を彷徨った挙句海に飛び込んだ狂人に何かを追求する気になれなかったのかもしれない。或いは、嘘をついていることを見抜かれたのかもしれない。
いずれにせよ、信用されていないことは明白で、同時に白狐もまたこの大家と名乗る不遜な老人のことを気軽に信用すべきではないことくらいは分かった。
「ここはどこですか?」
白狐は嘘ではなく本心からそう訊ねたつもりだったが、周囲を見回す仕草は幾分芝居がかって見えただろうか。
「ここは、しがない漁民の集落だ」
「漁民?」
「長遐の裏側にある西海岸で、魚を獲って暮らしてる」
白狐は首を傾げる。「異民族ですか?」
「いいや」
大家はそう言いながら立ち上がる。彼の膝の軋みが年齢を感じさせた。
「俺らは月辰族だよ」
あんたと同じな。無声音でそう付け加えられたような気がして顔を上げるが、既に彼は踵を返しかけていたところだった。慌てて白狐は、その背中に呼びかける。
「あの!」
想定外の大声に自分で驚いた。振り返った大家の胡乱気な眼差しを浴び、少し怯みながら白狐は控えめに訊ねる。
「ここで昨夜、黒い髪の少年を見かけたのですが」
「少年?」
「夢の中でも見たんです。黒い目をして、端正な顔立ちの……」
途中で呂律が回らなくなり、白狐は軽く息を吸った。その少年が幼馴染によく似ていて、何故だか自分を呼んでいる気がしたのだ、などという余計な言葉を飲み込み、どうにか続ける。
「彼に会いたいのですが、どこにいますか?」
大家はじっと睨むように白狐を見下ろし、しばらく何も言わなかった。白狐は辛抱強く彼から何か有益な情報が得られるのを待ったが、出てきたのは素っ気ない一言だった。
「そんな奴、この集落にいねえよ」
「──え?」
彼は、ゆっくりと戸口の方へ向き直る。寝惚けてたんじゃないのかね、という嗄れ声は白狐の耳を無為に通り過ぎていった。
そんなはずはない、とは言い返せなかった。白狐はとうに夢と現実の区別を失い、今も酔っ払いのように思考が定まっていない。寝惚けて夢を見たのだと一蹴されても無理のない話である。
ただ何故だか、白狐はあの少年が自分のつくり出した幻影とは到底思えなかった。大家の冷ややかな否定の声を以てしても、あの少年がどこかに実在していると信じて疑わなかった。
そんな意思を表情から読み取ったのだろう。大家はやれやれと引き返し、白狐の前に膝をつく。そうして幾分情の籠った声で語りかけてきた。
「なあ。何があったかは知らないが、あんたは随分痩せてやつれている。そういうときは、よく妙なものを見たり、自分がどこにいるのか分からなくなったりするもんだ。疲れて海の悪霊にでも惑わされたんだろう。ちょっと休めばそんなもの考えなくて済むようになるさ」
「……」
白狐は何も言えなかった。はい、と頷けば、あの少年の姿が脳裏から抜け落ちてしまうような気がした。大家の声は、ころりと何もかも信じたくなる優しさを孕んでいる。
急に脆く薄らいでしまった少年の面影を懸命に追う、白狐の頭は重たい。忘れかけていた傷の痛みや体に蓄積された疲労が、どっと押し寄せてきた。大家は白狐の肩を叩く。
「まあ、少し横になって休むといい。夜になれば食い物を持って来てやる」
そうして退室しかけた彼は、既に意識が遠のきかけている白狐の耳に届くよう、はっきりと告げた。釘を刺されたのだな、と漠然と分かった。
「けど、あんたのことを良く思わない集落の連中もいる。目が覚めても外をうろうろするなよ」