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名もなき覇の系譜  作者: こく
第五話 いずれ帰りゆく彼の地よ
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 それから一か月余りを漁村で過ごした白狐は、長遐の家に帰ることにした。

 理由は色々あったが、実際ここに来た当初から、漠然とそうしたほうがいいような気がしていた。白狐が長く滞在するほどイダニ連合国の目がこの漁村に向くのではないか、という懸念もあった。


「ずっとここに居ればいいのに」と、覇は口を尖らせて散々ごねた。彼女の可愛らしい我儘に心が動かないでもなかったが、白狐は肩を竦めて笑う。


「僕には帰るべき場所があるのです」


「それは長遐ではないのだろう?」


「ええ。でも、今の僕には長遐も必要な場所なのだと思います」


 如何に言葉を重ねて説明しても、覇はすっかり拗ねてしまった。そういうところはなるほど年相応に見える。

 集落を発つ日になってようやく姿を見せてくれた彼女は、怒っているのか気を引きたいのか、全く年頃の娘がいる父親とはこういう心境なのだろうか、と白狐は思わずにはいられない。


「また来ますよ」


 約束をする。口先だけで取り繕うつもりはなかった。そう遠からず会えるだろう。一人で暮らしていくには、白狐はあまりに非力で無知で、この集落の者たちとの交流は様々な助けになる。

 大家(ダージャ)と覇に並んで、早朝の見送りに来た長明は「送っていきます」としきりに心配していた。白狐はその申し出を有難く断り、集落の者たちが分けてくれた食糧を土産に手を振る。


「お世話になりました」


「体に気を付けてな」


 大家(ダージャ)の別れの言葉は短い。あなたも、と白狐が笑うと、彼も小さく日に灼けた唇を捲るように緩めた。

 それから覇に目を向けると、彼女は挨拶など不要とばかりにただ微笑んでいる。隣の長明は「すみません」と眉を下げた。


「あなたがいなくなるのが寂しいようです」


「まさか」


 彼女は目を細める。黒いまつ毛が柔らかく上下した。朝の霧がかった空気の中、片足に比重をかけて優雅に佇むその姿は、初めて夢の中で出会ったときを思い起こさせる。


「近いうちにまた来るといい。この集落はお前を歓迎する」


「ありがとうございます」


 名残惜しく振り返りつつ、白狐は彼らと別れた。踵を返し、長遐の山に向けて歩き出す。背後では、三人がしばらく立って見送っていた。磯の匂いに包まれたそれぞれの影は霞み、何だか水底に佇んでいるかのようだった。

 まるで夢を見ているような──だが、白狐は彼らが夢でも幻でもないことを知っている。


 川沿いを辿り、白狐が長遐の家に辿り着いたのは太陽が西の空に傾いていく刻だった。

 途中嵐のように降り出した夕立はいつしか過ぎ去り、雨雫の名残が屋根から垂れて音を立てている。うるさいほど鳴き喚くはずの蝉たちはしんと静まり返り、ただ幻想的な虹色の輪が虚空に浮かんでいた。

 西の空一面には黄金の雲がかかり、その央では奇妙なほど円い太陽が彼方へ沈もうとしている。じりじり灼ける暑さが地表に残り、夏がそこに未練がましくしがみ付いているかのようだった。

 玄関から家の中に入る。室内は薄暗く、静かだ。留守の間に誰かが踏み荒らした痕跡もなく、安堵半分、物寂しさ半分を抱えて帰宅する。

 陽が沈めば、いよいよ家の中は夕闇に包まれた。暗くなった木造の家にたった一人で過ごすことにはまだ慣れそうもない。

 柱や梁の下には藍色の影が長く延び、それががらんと広い畳の上に貼りついているのは陰気な眺めだった。残光はすっかり消え、暑さの名残だけが這うように漂っている。

 白狐は寝所として使っている部屋から洗っていない油皿を探し出し、厨に持ち出す。乾いて埃が溜まり、酷く固まっている油塊を苦労しながら擦り取り、そこに新しい油を注いだ。漁民の集落から分けてもらった、海獣の油だった。


「……」


 火を点けると、独特の匂いが立ち昇る。動物の血のような濁った生臭さと、潮の香り。白狐はほっと目を細める。瞼を瞑れば、海がすぐ近くにいるようだった。

 薄っすらと埃を被った厨房で白狐は独り、小さく灯った炎をしばらく眺める。感傷や、心細さのようなものがないでもなかった。だが心を蝕み、胸を掻き毟りたくなる狂気はない。今はそういった自分の寂しさを受け入れるだけの心の猶予があった。


 さて、やらなければならないことが山ほどある。まずは軽く拭き掃除をして──それから食事の支度を。明かりを頼りに、必要なものを探す。自分で分かるくらい手際は悪かった。

 恐らく、そう簡単に上手くはいくまい。失敗も多くするだろう。それでも、積み上げていかねばならない。些細な日々をひとつずつ、慎重に。例えそれがいつか誰かの手で呆気なく崩される日が来ようとも、生きている限り忍耐は続く。あの村の漁民たちがそうしているように。


 長遐に一軒だけ建つ家に、ぽつりと小さな光が灯っていた。季節は緩慢な夏を逃れ、熱気の名残が仄かに香る。ふと外の闇を見透かし、覇のことを考える。狭い世界を生きる彼女のことを、そして都に残してきた幼馴染のことを。

 この先、彼らが出会うことはきっとないだろう──東と西の端に離れた彼らが、覇が世間に知られていないということ自体が平和の証なのかもしれない。それが彼らにとって退屈極まりない世界なのだとしても。

 自分の力を振り翳すよりこの国の平和を選んだ千伽のためにも、白狐は生きなければならない。今は遠い都の景色に思いを馳せる。いつか彼の地に帰る日を夢見て。


 白狐が都に戻るのは、それから六十二年後のこと。自分の帰りを待つ人々に再び出会うため、仮初の平穏の中に身を置き、そのときまで長遐で静かに待つことになる。




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