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名もなき覇の系譜  作者: こく
第四話 覇の系譜に連なりて
11/12




 目を醒ましたのは、よく見知った長明の家だった。

 仰向けになり、布団に寝かされている。戸の隙間から差し込む白い光の筋が、空中の埃を浮かび上がらせながら、くっきりと床に線を引いていた。眩い陽光。いつの間にか朝が来たのだと、漠然と理解した。

 白狐は混乱する頭を掻き、起き上がる。蟀谷が刺すように痛い。まるで二日酔いのような気持ち悪さも感じる。上体を起こしたことによる眩暈で吐き気が込み上げ、白狐は口元を押さえながら再び横になった。

 何があったんだっけ? まさか、全部夢だったのだろうか。懸命に思い出そうとするも、激しい頭痛に締め付けられて思考もままならない。寝返りを打てば怪我をした顔の側面が枕に触れ、激痛に呻く。

 昨夜は確かあの少年に海に連れ出され──途切れ途切れの回想に、「何だ、ようやく起きたのか」という声が割り込む。見上げれば開いた戸口に痩せた人影が佇み、白狐は眩しさとともに既視感を覚えた。

 覇だった。本物だった。夢ではない。しかし飛び起きようにも体が動かなかった。


「ええと」近付いてくる覇を前に、口籠る。「昨日、僕はどうしたんでしたっけ……?」


「爺に散々酒を飲まされて、酔い潰れて寝た」


「は?」


「俺と話している間に泣き出したから、爺のところに連れて行ったら……」


 話によると、海辺で突如号泣した白狐を見かねた大家(ダージャ)が「古傷を癒すのはこれが一番」などと強い酒を勧め、飲んだくれた末に潰れてしまったらしい。

 途中までは覚えているのに、あるところで記憶がぷつりと途切れているのが一番恐ろしかった。


「僕、そんなに酔っていました……?」


 顔を覆って訊ねると、彼女は無感情に「そうだな」と言う。


「さゆという女についてどれだけ愛しいか散々語って泣き崩れていたな。それが妻の名か?」


「……」


 羞恥の余り耳まで燃えるように熱くなる。酒に強い自信はあったし、今まで記憶を失うほど飲んだことなどなかった。泣き上戸になったことも、大人になってから人前で涙を流したこともなかったというのに──穴があったら埋めて欲しいほど恥ずかしい。

 身を縮める白狐に、覇は椀に汲んだ水を勧める。その間に大家(ダージャ)が姿を現し、「昨晩はすごかったな」などと鷹揚に笑うので白狐は思わず顔を真っ赤にして俯いた。


「あの、ええと、すみません……お見苦しいところを」


「いや何、謝る必要はない。あんたがどれだけ嫁さんを愛しているかは伝わった」


 一体昨夜の自分はこの人たちを前に何を口走ったのか。居たたまれない。いっそ海に沈めて欲しい。両手で顔を覆い隠す白狐は既に泣きたい心情だったが、昨夜の泣き上戸で涙が枯れたのか鼻の奥が痛くなっただけだった。


「まあ、なんだ」大家(ダージャ)はしゃがんでこちらの肩を叩く。「人っていうのは案外強かで、もう駄目だと思っても、生きて行かれるもんさね」


「……」


 間近で目が合った、彼の眼差しは存外優しい。古木に埋め込んだような、落ち窪んだ双眸は含蓄に富んだ人間の深みを宿している。白狐はゆっくりと、自分が生きていることを確かめるように息を吸った。


「もう全部失ってどん底にいるように思えても、あんたは今ちゃんと此処にいるよ」


 まだ死んでいない。生きている。白狐はぼんやりと浮かんだ言葉を反芻する。絶望はした。だが、まだ自分は生きているのだ、と。


「……ありがとうございます」


 白狐は赤くなった鼻の下を押さえながら小さく言う。妻恋しさに女々しい醜態を晒した羞恥はまだ残っていたが、逆に吹っ切れたのかもしれない。涙が枯れてからからに渇いた心が、ほんのりと温もりを取り戻したかのようだった。


「しかし、朝廷の貴族というのはあんなに無防備なものなのか。殺されかけたばかりなのに、酒に毒でも入っていれば今頃死んでいたぞ。平和ボケも甚だしいな」


 覇の言葉は厳しいが、揶揄した言い方に棘はない。思わず自嘲し、「そうかもしれませんね」と肩を竦める。もし彼らが悪意を持っていれば白狐の命はなかっただろう。そう考えると少しだけ恐ろしく、白狐は自分がそう感じることに何だか安堵した。

 死にたくないと思えるだけの現世の執着と意地がこの絶望の淵に落ちても尚湧くのか、と。

 そんな思考は、急にぐい、と顔を寄せてきた覇の艶めいた笑みのせいで吹き飛んだ。


「もし、俺がもう少し歳を取っていたら寝込みを襲っていたやもしれんなぁ」


「……え?」


 間近に残された吐息。くすくすと笑いながら、軽快な足音とともに去っていく華奢な背を見送り、白狐は間抜けな声を出した。


「襲うって、え?」


 それが暗殺のような生命を脅かす類の意味でないことは察せられた。しかし、頭が追いつかない。しばらく呆然と飲みかけの水の椀を手にしたまま、白狐は目をぱちくりとさせる。


「……何だ、気付いてなかったのか?」


「は」呆れたような大家(ダージャ)の声にようやく現実感が戻り、白狐は口を押える。「すみません、幼馴染に似ていたもので、てっきり……」


 そう、てっきり男の子だと思っていた。話し方も古風で尊大で、あの同性ながら見惚れるような魔性を持つ幼馴染の少年期に瓜二つだったから。

 だが確かに言われてみれば、あの()()──すらりと手足が長く顔立ちも整っていて、一般的な感性から見れば女の子だと概ね気付けただろう。

 とはいえ、しかし。相手の性別を間違えるという最大限の無礼に加え、去り際に残された言葉の意味。白狐は動揺していた。己が動揺しているという事実に、更に波のような動揺が押し寄せてくる。

 あれしきの少女相手の挑発にまごつくほど初心ではないが、こんなにも狼狽えたのは偏に彼女が千伽に似ていたためだろうか、親子ほど歳の離れた少女がまるで何もかも知っているかのような顔をして嫣然と笑ったためだろうか。

 分からない。二日酔いでひたすら頭が痛かった。


「じゃあ、あんたは本当に何も知らなかった訳だ」


「ぐうの音も出ません」


「いや、そうじゃなくて」大家(ダージャ)は欠伸交じりに言う。「どうして俺たちが、あんたを覇から遠ざけようとしたのかってことだよ」


「え?」


 もう一度間抜けな声が出る。そのとき、外からがたんと何かが崩れるような音が響き、顔を向けると入り口で長明が片膝をついていた。何をしているのかと思えば、汲んできた井戸水を半ば零し、口元を押さえて肩を小刻みに震わせている。


「ちょっと……」白狐は口をぱくぱくとさせる。「どうしてそんなに笑っているんですか」


「いえ、だって、本当に」


 切れ切れに紡がれた長明の言葉は遂に堪えきれず笑い声の中に埋没した。こんなにも笑っている彼を見たのは初めてだった。ぐぐぐ、と苦しそうな息を漏らす彼を見て、唖然とする。


「どういうことですか?」


「どうもこうも、要するにあんたは冤罪だった訳だ」


 冤罪? と物々しい単語を繰り返す。思えば、昨夜大家(ダージャ)たちに拘束されたことも、吹雪の中漁師たちに追い回されたことも、白狐が蜃に憑りつかれたからという説明で終わっていた。蜃などという悪霊が存在しないのなら、彼らの目的は別にあったはずだ。


「覇は子孫を残すことがないよう、人々から遠ざけられる。だが、あの覇を男だと思っていたのなら、あんたは自分の行動が俺たちにどう映っていたのか考えもしなかっただろう」


「──……え」


 ああそうか、そういうことか。ようやく分かった。白狐はまた顔を覆う。

 この集落に来てからの自分は、夢で見た“覇”を探し出そうとあちこちを徘徊していた。傍目から見れば、一人の少女を執拗に追いかけ回している男として警戒されてもおかしくはない。

 そもそも自分には妻がいるとか、幾ら幼馴染に似ていようと年端もいかぬ少女に手を出すような不埒ではないとか、そういった弁明が口許を過ぎては消えていく。そうだ、自分の事情を彼らに打ち明けなかったのだから、誤解を招くのも当然と言えば当然だった。

 いや、それにしても。


「ねえちょっと、長明は笑いすぎですよ」白狐は呆れて首を振る。「酷いですよ。僕は殺されかけたんですよ?」


「すみません、だって」


 大家(ダージャ)の甥は何がそんなにおかしかったのか、すっかり笑い上戸になっている。


「あなたがどのような人か分からないまま、覇のことをお教えする訳にはいかなかったんですから」


 げほげほと咽て、彼は咳払いをして笑いを誤魔化した。「どうか無礼をお許しください」


「はあ」


 ため息が出る。自分がどれだけ危険な目に遭ったかを思えば文句のひとつやふたつも投げてやりたかったが、長明の笑い方は底の抜けた盥のようだし、白狐は頭が痛かった。


「なあ、俺たちゃ嘘はついてなかっただろ?」大家(ダージャ)はすっかり興が乗ったよう、にやにやしている。


「あんたは初め、“少年がいるかどうか”って訊いたんだぜ」


 初めてここで目を醒ましたとき、彼と交わしたやり取りを思い出す。大家(ダージャ)は白狐の問いに素っ気なく、「そんな奴いねえよ」と一蹴したのだ。白狐は吃る。


「で、では、あなたは気付いていたのですか?」


「いや? あの姿を見りゃあ誰だって女だと分かるだろ」


 それこそ、ぐうの音も出ない。幾つか反論や言い訳を口にしかけて、結局は何も言えなかった。彼らと自分のどちらに非があるのか、どちらが責められるべきなのか、二日酔いのまま考えるのは億劫すぎる。

 大家(ダージャ)は目を細めた。


「まあ、あれだな。よその女にうつつを抜かすような輩じゃないってことは、昨夜で充分に伝わったよ」


「もう、何とでも言ってください……」白狐は横になったまま肩を落とす。「不名誉な濡れ衣が晴れて何よりですよ、全く」




 ***




 頭痛と吐き気に耐えながらうとうとと午前を潰し、昼過ぎになって、ようやく酒が体から抜けてきた。白狐は身なりを整え、表に出る。

 家の外は、昨晩の猛吹雪が嘘のように晴れていた。空はからりと乾き、暑いがさほど不快ではない。浜辺は漁から戻ってきた船が並び、男たちが齷齪と働いている。無事に夏が戻ってきたのだと、燦々たる日差しに目を細めた。


「あ」


 声が出る。立ち並ぶ家々の陰に、覇が腰掛けていた。浜梨の花を手に摘み、鮮やかな色が足の白皙と相俟って眩しい。白狐はゆっくりと近寄る。


「あの」


 顔を上げた、覇の表情には愉悦が浮かんでいた。こうして明るい光の中、真正面から向き合えば千伽との違いを多少は見出せそうな気もする。


「何だ?」


「一応、誤解を解いておきたくて」


 白狐が全てを言い切る前に、彼女は、ああ、と声を漏らした。件の不名誉な冤罪の話をしたかったのだが、弁明を試みるほど自分が空回っているような気になるのは不思議だった。

 おまけに覇が、「からかっただけだ、本気にするなよ」などと嫣然と笑うので、白狐はまたも赤面する。

 彼女はくすくすと笑いながら立ち上がり、坂を下っていく。風を浴びた黒髪がさらさらと流れていく。すらりとした脚を交互に動かして海に向かう覇は、美しい若鹿のようだった。

 後方から誰かが近付く気配がする。振り返れば、大家(ダージャ)がやってくるところだった。白狐の髪が顔の前を泳ぐように靡く。


「彼女は、集落の人々からも離れていなければならないのでは?」


「いつも隠している訳じゃない。あんたみたいな外から来た奴や、危ないことがあったときにあの洞窟の中に閉じ込めているんだ」


 まあ、閉じ込めたってあいつは自分の力でこっちに悪戯してくるんだけどな、と。

 あの吹雪や怪物のことを、悪戯という一言で済ませてしまうのは度量の大きさゆえか諦めか。眩しそうに孫の華奢な背中を目で追う彼の眼差しにも愛着のようなものが見られるのが、白狐の心を少しだけ和ませた。

 そうして並んで景色を眺めていると、ふと笑いが込み上げる。覇か、と。


「なるほど」


 噛み締める。その資質は、千伽に相応しいと思った。遠くにいる幼馴染のことを思い、砂浜の子どもたちの群れに混じっていく彼女を眺めていると、大家(ダージャ)が不思議そうな顔をした。


「そんなに笑って、どうした?」


「いえ」目を瞑る。「自分の幼馴染が覇たることが誇らしく、少し妬ましかっただけです」


 彼は喉の奥で笑った。それから表情を真面目に戻しながら白狐の隣に立つ。


「あんたの幼馴染は皇帝になったのかい」


 首を横に振る。「彼は初めから、なる気はなかったようです」


「そうかい」


 それが聞けただけで、あんたをこの村に置いた価値があったよ。大家(ダージャ)の言葉はしみじみと染み入るようだった。

 波の音が、漁師たちの威勢のいい声が、子どもたちの笑い声がここまで届く。


大家(ダージャ)


 白狐は目を瞑ったまま口を開いた。


「あなたが僕の髪について言ったことを覚えていますか」


「何だ?」


「この白い髪を、目立つだけのものだと、そう言いましたよね。僕もそう思います」


 戯れる白髪を耳に掛けながら、笑みを零す。躊躇が生まれる前に、早口で話した。


「幼い頃、都の人々はまるで僕のことを神様のように大切に扱い、僕はそれが少し苦しかったのです。実際、僕は神様でも何でもなくて、皇帝の器でもありませんでした。皆の期待を裏切ることが怖くて、彼らの傀儡として生きてきただけなのです」


「……」


「この白い髪が、僕は本当は嫌いだったのだと思います。そう口にすることも、考えることすらあのときは出来ませんでした。矜持であり、武器であり、生涯かけて僕を次期皇帝という立場に固執させてきた枷でもありました」


 大家(ダージャ)は何も口を挟まなかった。相槌を打つことも、白狐を嘲ることもなかった。


「でも」瞼を開くと、海が見えた。「本当は、僕は幼馴染を護るために生きてきたのかもしれません」


「どういうことだ?」


 今にして思えば、大家がこの髪を鳥類の雌雄に喩えたのは言い得て妙だった。雌は卵産んで雛を育てなければならない。それを狙われないよう、目立つ色をした雄が外に出て敵の気を逸らすのだ、と。


「……僕は、きっと囮だったのです」


 イダニ連合国が、覇である千伽から気を逸らすための。それが偶然だったのか、天の采配だったのか今はまだ分からない。いつか分かる日が来るのか、それすらも曖昧だ。

 しかし、白狐がその特異な容姿ゆえに次期皇帝へと推され、連中の注目を集めたことは紛れもない事実だった。そうでなければ、圧倒的な才能と魔性を持つ千伽がやり玉に上げられ、今頃こうして長遐へと追いやられていたのは白狐でなく千伽だったのだろう。

 そう思えば、少しぞっとした。覇を敵国の手に落とす訳にはいかない。何としてでも。


「孑宸皇国であれイダニ連合国であれ、誰も“覇”の存在に気付いていません。その力の持つ意味も、恐ろしさも、まだ知られていない。もしその功績に僕の白髪が少しでも役に立っていたのなら、僕はようやく自分のことを誇りに思えます」


 たまたまだったのかもしれない。様々な巡り合わせが重なって、結果的に都合よく見えただけなのかもしれない。それでもいいのだ。同い年という奇跡のような縁に、何か意味があってもいいのではないか、というただの楽観だ。

 それに、小さな頃から千伽に護られてばかりだった自分が、今度は護る側になれたのだと思うと、なかなか気分が良かった。


「ふうん」


 大家(ダージャ)は短く言う。「何だかよく分からないが、あんたが良かったんならそれでいいんじゃないのかい」


 きらきらと光る波間の輝きを受け、海辺は何もかもが燦然としていた。白狐の目にはとても家とは呼べそうもない、木造の納屋のような住まいが、そこで暮らす人々が、とても美しいもののように思えた。


「日出でて(はたら)き、日入りて(いこ)う。井を()りて飲み、海を漕いで食う」


 遠くで子どもたちが声を揃えて歌っている。その中には敏もいて、こちらが見ていることに気付くと照れ臭そうに手を振った。

 人は強い。世界は広い。何だかそう思い知らされた。自分が如何に狭い世界で飼い慣らされていたか。何も知らなかったかつての自分に、この景色を見せてやりたかった。


「帝力何ぞ我にあらん哉」


 歌に合わせて無意識に口ずさむ。そんな白狐を横目に、大家(ダージャ)は見透かしたように言った。


「気負わず生きろよ、若いの」


「……」


「世の中は、自分の思い通りにならなくて当然なんだから」


「そうですね。全く」


 何でも思い通りになったら面白くないじゃないか。千伽ならきっとそう言うだろう。




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