Ⅱ
静かな海辺。松明を手にした覇に案内されるまま、白狐は足場の悪い岩場を歩いていた。一歩進めるごとに全身が痛んだが、口には出さなかった。
長話にすっかり飽き、散歩に誘ってきた少年は足取り軽く、黒々と濡れた岩と岩を飛び、上下する松明が火花を躍らせる。
海蝕洞の窪んだ岩壁が、霧がかった水面が仄かに群青を帯びていた。徐々に夜が明け始めている。夢で出会ったときから、ようやく時間が進んだようだった。
「ねえ」付いていくのが精一杯の白狐は、どうにかその背中に訊ねる。「あなたの名前は、何というのですか?」
「名はない」
きっぱりとした声が返ってくる。顔を上げると、意外にも目が合う。
覇の黒々とした瞳は、松明の灯りを受け、月の光を透かし、僅かに紫色を帯びているように見えた。くっきりとした黒いまつ毛が、幾重にも眼球の中に映り込んでいた。
「覇とは天の聖旨。大家から覇と見なされた子どもは二度と、名も呼ばれなければ、男とも女とも扱われない。覇は覇という生き物なのだ」
そうしてどこか寂しげに付け加える。
「大人になって、誰かと愛し合うことも、子を持つこともない」
立ち止まった、彼の横顔は釘付けになるほど千伽によく似ていた。頭では分かっているのに、過去の千伽と話しているように錯覚してしまう。
「あなたは……それをどう思っているのですか?」
それを訊くことでどんな答えを期待していたのか、白狐は自分でも分からない。
覇はすぐ答えなかった。黒い髪が、海風を受けてさらりと靡く。野生の匂いが、磯に混じって振り撒かれる。やがて白狐の方を振り向いた彼がどんな顔をしていたのか、笑っていたのかよく見えなかった。
「月天子の血なんぞ糞喰らえだ。これで充分か?」
「……それは」
「例え覇が必要とされる時代が来たとして、求められるのはお前の幼馴染のように今の朝廷に近しい者だろう。俺がこの力を振るう機会など、千年待っても来るまいよ。この寂れた村で朽ち果てるのが関の山だ」
返答を待たずに、覇は再び岩場を進み始める。白狐は苦労しながら、彼の後を追った。濡れた岩盤は均衡を崩しやすく、油断すれば浅瀬に転がり落ちかねない。冷たい飛沫が時折足首にまで撥ねる。
ぐらぐらと揺れる左足をどうにか前に一歩踏み出し、覇の横に並んだ。息が切れていた。
「あの」話題を変えたかった。「さっき雪を降らせたのはあなたですよね」
「まあな」
覇はため息とともに吐き出す。そんな分かり切ったことを聞くな、と呆れられたようだった。
「どうして、雪を降らせたんですか」
「今年の夏は酷く暑かったからな」
事もなげに言い放つ。ちらり、と。口元に微笑を浮かべた。冗談なのか本気なのか区別がつかなかったが、それだけで何だか納得させられてしまうのだった。
想像を現実に変える。そんな規格外のスコノスこそが覇に与えられる資質なのだと、ようやく実感が湧く。思えば千伽は初めから特別だった。そのことに気付いていながら、本当は何も知らなかったのだと。
苦笑交じりに、白狐は問いを重ねようとする。この集落で自分の見てきたものは、一体何が本物で、何が幻だったのか。自分の生活に覇がどれだけその力を以て介入していたのか。
そんな疑問を見透かすよう、覇が横目でこちらを見やった。
「どれが現実かどうかなんて、そんなに重要なことか?」
今度こそ彼は口を開けて笑う。
「それを容易く覆すこの覇と見えながら、よくもまあ、能天気なもんだ」
確かにそうかもしれない。つられて白狐も頬を緩めた。彼は子どもが悪戯をするように、自身の力を使って退屈凌ぎしている。吹雪も怪物も、思うがままだ。
「あなたは、どうしてこの集落に僕を呼んだのですか?」
「お前は何でもかんでも知りたがる」
覇の言葉は、質問ばかりしていないで少しは自分で考えろ、と促しているようだった。二人の間にしばらく沈黙が降り、白狐が答えを探していると彼はやがて痩せた肩を竦める。
「お前が俺を信じてくれたからだよ」
「え?」
「信じただろう。俺がここにいることを」
少し目を見開き、白狐は微笑んだ。「幼馴染がそう教えてくれたのです」
覇の力が全て同じ性質を持っているなら、信じるというのは彼らにとっての原動力であるはずだ。いると思えばいる。逆に言えば、いないと思えばいないのだ。
やや正気を欠いていたとはいえ、時折見え隠れする覇の影を探して集落中を徘徊していた白狐のそれは、彼の幻を現実に変える力とたまたま相性が良かったのかもしれない。
両手を腰に当て、覇は空を仰いだ。
「あんなにも誰かに探してもらったことなどなかった。例えお前が、俺を透かして別の誰かを見ていたとしても、お前と隠れ鬼をするのは楽しかった」
「……」
目を瞑る、覇の表情が彼の微妙な立ち位置を物語っていた。月天子の正式な後継者として認められながら、破滅を招きかねない危うさからどこか集落から敬遠される。
覇の系譜の者が滅多に生まれない稀有な存在なら、彼の孤独は彼にしか理解できないだろう。白狐は彼に何と言うべきか迷い、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは僕の幼馴染に似ていると言いましたが、少しだけ僕にも似ています」
「人っていうのはどこかしら似通っているもんだよ」
その言い方が千伽そっくりだったので、思わず笑いそうになる。子どもの姿をしながら世の中の何もかもを分かったような口を利いている彼は滑稽で可愛らしかった。白狐は目を細める。
「僕も昔は、閉じ込められて育ったのです。外のことなぞ何も知らずに、囲われ、護られ、人形のように扱われました」
「覇でもない癖に?」
「病気だったのです」
率直な彼の物言いは、不思議と不快ではなかった。そうして白狐は、幼かった自分が如何に柔らかで無垢な世界に生きていたか、同い年の幼馴染が如何にその力を駆使し、白狐に外の世界を教えてくれたのか、掻い摘んで話してみせた。
覇は、ふうんと一言漏らしただけだった。この少年を過去の己に重ねるのは身勝手な感傷かもしれない、と思う。だが、いつも窮屈なところに押し込められてきた自分になら、彼の抱える鬱憤やどうしようもない遣る瀬なさに少しは歩み寄れるような気がした。
長遐という縁もゆかりもない地で気が狂うほどの孤独に追いやられた白狐が、この少年と共鳴したのは偶然ではない、と。
「なあ」
覇は顔を上げる。つられて目線を遠くにやれば、暗い海がどこまでも続いていた。
暗澹とうねり、薄らと光る海面。夜明けの波間は穏やかだが、水底は見えない。古の詩人が、海の果てを冥府に喩えたのも頷ける。茫漠とした水の動きは背筋に寒気を添え、無数の亡霊の手が突然足首を掴んできそうな、そんな不気味な虚妄が過る。
沈みかけた白い月は遠く、皓々と漣を煌めかせる。海は魔性のように、不思議な妖しさを秘めていた。白狐はやはり、幼馴染のことを思い出す。彼と幾度となく見上げた、孤高の月を。
「お前に子はいたか?」
「いえ、いませんでした」白狐は慣れているとばかりに肩を竦めた。「出来なかったんです」
実際、それを気負っているつもりはなかった。世継ぎが求められる立場ではあったが、いつか出来るだろうと高を括っていた。妻を娶った期間を思えば、周囲が今か今かと期待していたのは知っている。今となっては、子どもがいなくて良かったと思う。
「朝廷の貴族だったんだろう。妻は何人いた」
「一人です。側室を娶るつもりもありませんでした」
僕、こう見えて一途なんですよ。冗談めかしていったが、本心だった。生涯をかけて愛すると決めた女性は、さゆ一人だけだった。こうして朝廷を追われた身となっても、それは変わりない。
そうか、と彼は言った。「まだその妻のことは恋しいか?」
「無論」
即答すれば、返事はなかった。大人の色恋沙汰に興味がなかったのかもしれない。白狐は目を瞑って大きく息を吸う。
二人を取り巻く闇は濃密だが、緩やかな大気の流れが、広大な空間の広がりが、夏の始まりから肺にわだかまっていた閉塞感を解いていく。指先にまで空気が行き渡るのを感じる。心地良さを感じると同時に、瞼を開いた視界は滲んでいた。
「……あれ?」
白狐は自身の頬に指を伸ばす。鼻がつんと沁みたのは海風のせいだと思った。塩辛い匂いが喉の奥に絡まり、目元を濡らしているのが自分の涙だとようやく気付いた。
「……」
泣くつもりなどなかった。慌てて頬を伝う一筋の滴を拭えば、泣いたことに安堵したよう、涙は次から次へと溢れてくる。白狐は内心で驚いていた。
朝廷から去るときも、長遐で孤独な日々を過ごしたときも、白狐は一度も泣かなかった。呆然自失として泣けなかったというのが正しいのかもしれない。大の男がこれしきで挫けるなど情けない、という多少の自尊心もあった。
「泣いているのか?」
覇が静かに、こちらをじっと凝視しているのを感じる。そちらを見ようにも、余計に涙が零れ落ちそうで前を見据えることしか出来ない。子どもの前で泣くなど余りに惨めで、白狐は手で口許を覆って、すみません、と辛うじて謝った。声は震えて、弱々しかった。
「何故謝る」
覇は淡々としている。しかし冷ややかではなかった。「泣きたいなら泣けばいい」
その声音が、否応なしに幼い頃の千伽と重なる。嗚咽が込み上げ、白狐は崩れ落ちるように顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。自分の中で知らず張り詰めていた糸が切れたようだった。
さゆに会いたい。千伽に会いたい。司旦に会いたい。皆が恋しい。
身体の奥から、溜め込んでいた何かが溢れて出ていく。熱く、迸る感情の奔流。声を押し殺し、白狐は泣いた。覇の手が、何も言わず、寄り添うようにその背中を優しく撫でていた。




