Ⅰ
初めて迎えた長遐の夏は、酷暑だった。
家の裏手の山桜は散り、青葉が茂る森の中は蒸し暑いばかり。貯蔵していた食糧のほとんどは無くなるか駄目になるかで底を尽いた。
木造の家は山間の窪みに寄せられるようひっそりと建てられている。来たばかりのとき外壁は幾分新しかった気もするが、日を追うごとに雨風にやられて色褪せていた。山の上から吹く風のため、数日おきに激しい夕立があり、春先は特に泥汚れが雨戸や縁側に撥ねる。それをきれいにする術を持たない白狐はただ為すがままに任せていた。
雨上がり。滴に濡れた青葉はその色を濃く、鮮やかに光らせている。美しいといえば美しかったが、これが猛烈な湿気と独特の匂いを生むので有難くない。青葉の匂いは夏の訪れを予感させ、同時に白狐には肺の息苦しさを感じさせた。
毎夏、都を避け、冴省へ涼を求める生活を送っていた白狐は、こんなにも過酷な夏を経験したことがない。生来肺を患い、食べるものもなく、これから訪れる猛暑をどうして生き延びよう。
日々はゆっくりと緩慢に進んでいった。暑さで時間の流れが鈍り、一日一日を運ぶのにも苦労しているようだった。
昼間、太陽はじりじりと森を灼き、夕立はひとときだけ馬鹿げた熱気を冷ましてはくれたが、すぐに空気を籠らせる湿気を残して過ぎ去る。そうして雨が止むや否や、おびただしいほどの蝉の声がわんわんと木々の間を飛び交い、憂鬱に拍車をかけるのだった。
白狐はこのまま死にたいと思った。朝廷を追放されてから半年が過ぎようとしている。一人で生きるにはあまりに寂しかった。
誰もいないがらんとした家で、寝て醒めるほかは何もしない。否、出来ない。いつも女官や近習が付き添い、自力で着物すら着たことがない男である。髪を梳くのも、身体を洗うのも、いつもそれをしてくれる誰かがいたというのに。
生まれながらの白髪──ただそれだけの理由で、何の力もない男が神の如く崇められ、檻付きの祭壇に飾られ続けた。それがどれだけ愚かしいことか、当の白狐が一番理解している。
かつて白狐は自ら人形に成った。この国にはそうした人形への信仰によって保たれる均衡があった。そして今、均衡は崩壊し、人形は棄てられ、ただ虚しく死ぬのを待つばかりとなった。
いや、違う。ここも別の牢獄だ。死を許さないものが白狐の体内にある。
意思に相反し、否、無意識下にある生への本能そのものであるかのよう、それは容赦なく白狐を生かし続けた。食べ物を口にせずとも、心臓を動かし、血を巡らせ、朝になれば目を覚まさせた。
不老不死という馬鹿げた絵空事が、いつしか白狐の身体の中で息衝いている。死ぬに死ねないというのは全く惨めで情けなかった。かつて第二王朝時代に流行した不死研究の成果が、千年もの時を経て実現されようとしている。それも、得体の知れない西大陸の連中の手によって──。
白狐は自分がその試作品になったという自覚が何となくあった。故に、自身がもう長いことろくに飲まず食わずのまま生きている現象を特に不思議には思わなかった。
ただ自分を失脚させ、辺鄙な山に連れてきたのはイダニ連合国の連中に四六時中監視されているような居心地の悪さは常に付き纏った。彼らは姿こそ現さなかったが、白狐が長遐から逃げ出さないよう何らかの手立てを講じているに違いない、と。
自分が何のために生かされているのか、考えるのは気が滅入る。イダニ連合国の連中は特にそのことを白狐に説明する気はなさそうだった。首謀者であろう義弟の顔は幾度となく悪夢に見た。そしてそんな男に妹を奪われ、喪失した痛みに繰り返し苛まれるのだった。
そして白狐は日がな一日、都に置いてきた妻のことを考えた。女々しいと言われようが何だろうが、彼女が心から恋しかった。
妻が無事に生きているかどうか定かでない。此度の一件は、表向き影家の謀反という形で広まっている。皇帝の気分次第、はたまた皇帝に取り入った義弟のやり方次第では、影家に属する者たちがまとめて斬首されてもおかしくない。
そんな中、のうのうとこんな場所で生きている己の無力が歯痒く、腹立たしかった。
***
その夜、海の匂いがする夢を見た。
遠くで波の打つ音が聞こえる。寄せては返す、渚のさざめき。穏やかな磯の香りが鼻に抜けていく。白く霞んだ視界は、早朝の海霧のようだった。
白狐は自分がどこかに立っていることに気付いた。ここはどこだろう。
ぼんやりと白んだ周囲を見回し、黒くて固い岩場の片鱗を見つけた。窪みに水が溜まり、時折押し寄せる海波が泡立ちながらそこに入り込んでは、また去っていく。
その繰り返しに、心がざわつくようなものを覚えた。海という底知れない茫漠とした空間の広がりは、いつでも陸で暮らす人間の心を竦ませ、同時に魅了する。黒々とした水のうねりに、つい身を乗り出して足元を掬われそうになる。
「……」
ふと顔を上げる。何かがいる。風に流され、ゆったりと海霧が薄れていく。塩辛い、苦みのある匂い。泡立つ飛沫。その全てを浴びるよう、じっと膝を抱え、目を瞑る人影。
子どもだった。岩場にしゃがむ、鼻先がちらりと垣間見える。潮風に晒され、ぱりぱりと強張った黒髪を垂らし、如何にも貧しい粗野な格好をしているのに、剥き出しになった手足は目に沁みるほど白い。
つい、見惚れたのは何故だっただろう。まだ年端もゆかぬ、十才そこそこの少年。体つきは痩せていて、よく見れば膝を抱える指にたことも創ともつかぬものがある。衣服は何かの生き物の皮を鞣したような、表現し難い色合いで、およそ飾り気というものがない。
しかし、そこには荒削りの美があった。野生動物のように、厳しい自然の中で逞しく生きる力。都という箱庭で、蝶よ花よと真綿に包まれて育てられた白狐には到底届かない、たじろぐほどの生命の美しさだ。
あ、と声が洩れそうになる。少年がこちらに気付く。目が合った。その、つるりとした双眸に、思わず息を吸った。細い空気が蛇のように肺に入り、逃げ場なく蜷局を巻く。咽る寸前に、息を止め、ただ目を奪われる。
「……千伽?」
黒々と濡れた眼。ぞっとするほど端正な目鼻立ち。少年の顔が、幼馴染のそれと重なる。年齢に見合わない、整った──言い換えれば、完成された──美しい顔を持つ少年。
彼は白狐がそこにいたことを初めから知っていたように、何の感情の機微もなく、ただひとつ瞬きをした。それがなければ、作り物の人形だったと言われても得心した。むしろ、ぬめりと目蓋が滑らかに動くのが、綺麗すぎて不気味なほどだった。
不意に身体が傾く。地面の感触が薄れた。意識が遠のく。喉に詰まった空気の塊が競り上がり、空咳が出そうになる。息が出来ない。
何か言おうとしているのに、言葉が出ないようなもどかしさに駆られ、白狐は少年に向け、虚空に手を伸ばした。
──はっと目を開く。仰向けで布団に寝転がり、白狐は真夜中の天井を見上げていた。
濃密な闇だった。夢から醒めたとき特有の、混乱がしばらく続いた。自分がどこにいるのか、分からない。少しずつ室内に拡散してしまった意識を掻き集め、海の気配の名残に耽る。
ぼやけた眼を数度閉じたり開けたり繰り返し、ようやく自分が眠りにつく前と同じく、長遐の家に一人でいることを理解した。途端に襲ってくる、胸を掻き毟りたくなるような孤独感と、寂しさと、鼻先を掠める磯の香り。
白狐は首を持ち上げる。
「……海?」
まだ、夢が続いているのだろうか。それとも夜の静寂が生み出す錯覚だろうか。家の壁の向こうで、微かな海鳴りがする。寄せては返す、波の音。仄かな潮風。耳を澄ますほど、海の気配ははっきり感じられる。
夜闇の中、海面を往来する波の動きを想像し、白狐はぶるりと身震いした。恐怖を拭うよう、寝室の雨戸に手を伸ばす。思い切って力を込めて戸を引けば、むわ、と湿気を含んだ風が吹き込む。
夏の溜息のような、土と森の匂い。夢の名残を攫うよう、白狐の意識のどこかにあった遠い海の記憶をきれいに掻き消す。雨戸の隙間に首を伸ばし、そこが何の変哲もない木々が腕を伸ばしている深夜の森であることに息をついた。
安堵なのか、失望なのか、自分でも分からなかった。
***
ある昼間。楯井戸の中を覗き込む。ぽちゃん、と奥深くで釣瓶の沈む音。暗い地中を流れる水脈から、塩水の匂いがした。
「……?」
白狐は首を傾げ、縄を引き上げる。たっぷりと汲まれた水が、釣瓶から滑るように溢れ、左右に揺れながら日光を弾いて煌めいた。金具が軋むような音を立て、透明な地下水を地上まで連れてきた。
鼻先を近づけ、無味乾燥な匂いに眉を顰める。試しに素手で掬って口に含み、特に何の味もしないことに肩の力を抜いた。
気のせいか。いや、それとも。
白狐は井戸水を木桶に移し、運ぶ。非力な腕が支えきれず、水面が震える。銀色の雫。ぽちゃ、と跳ねた飛沫が、独りでに笑う子どものように光を弾く。
「……」
足元に纏わりつく。絡み付く。あの日見た夢の気配が、白狐の日常に忍び寄る。しめやかに、渺々と。
海が、呼んでいる。
長く山の中で過ごすと、時に狂気に駆られるという。それは大抵、道を失った者──極度の緊張、恐怖、空腹に晒され続け、遂には幻覚にまで惑わされた遭難者。そうして奥地に迷い、帰らぬ人となることを、「山に呼ばれた」と人々は呼ぶ。
しかし、海の呼ばれるというのは聞いたことがない。極度の孤独で気が違ったのだろうか。有り得そうな話だった。自然のほか何の刺激もない環境に半年も身を置き、白狐の精神はとうに常軌を逸していてもおかしくはない。
それでも、と思う。呼ばれているのなら、応えてもいいのではないか。日常を蝕み始めた潮の幻覚に、白狐は抗おうとしなかった。少しずつ、少しずつ、正常の均衡が崩れていく。
海の白い波頭が森の陰に見え隠れした。裸足の指先に塩水が触れて、はっと気づけば一人で真っ暗な厨に立っていることもあった。
それがどれだけ危険な状態か──守る誰かを欠いたまま、一月ほど経ったある日、白狐は一人で海の匂いのする方へと姿を消した。晩夏の重たい熱気が満ちた、夜更けのことだった。
***
下草を掻き分け──歩いているという感触すらほとんど感じられない──不気味な暗闇に満ちた森を進む。闇も、深い草に覆われた足場の悪さも、何の妨げにもならない。
ぼうっと虚空を目に映す。白狐は、遠くから響く波音しか聞いていなかった。繰り返し、繰り返し、自分を呼ぶ声に誘われるまま。
そこに行けば誰かに会える。白狐の頭にあったのはそんなことだった。長い孤独は、飢餓を生んだ。人恋しい、などという生易しいものではない、気が狂うほどの渇望。誰かに会いたい。声を聞きたい。そんな願いが、海の音に重なり、白狐をゆらゆらと誘う。
その音色に優しさはない。むしろ、底知れない穴を覗き込むような寒気を催す。どうして、と固い木の根に躓いたときに一瞬よぎる。どうしてここにいるんだっけ?
司旦はどこにいるのだろう。いつも傍にいたあの近習は。白狐が一人でこっそり庭に下りると、いつも青い顔をして跡を追ってきた司旦。きっと今頃、僕を探しているだろう。
振り返ってみるが、密度の濃い黒色が貼り付いているだけで、到底現実とは思えなかった。夢か。夢かもしれない。僕が一人でこんなところにいるなんてそもそもおかしな話だ。
司旦、早く僕を見つけて。そう願いながら、矛盾した足はどんどん知らない森の奥へと向かう。よろめき、転び、それでも何かに衝き動かされるように。
海が近い。
踏みしめた地面が急に柔らかくなる。ずぶり、と沈み込み、足を軽く挫いたような感触とともによろめく。転ぶ直前でどうにか体勢を戻したが、関節に嫌な痛みが残る。履き物の隙間に細かな砂が入り込む。
顔をあげ、視野は相変わらず暗かったが、空間の奥行きが桁違いであることは分かった。
生温い風が頬を撫でる。苦い風だった。やけに生々しい、磯の匂い。夢か? 現実か? とうに区別のつかなくなった目が周囲を見回す。波の音が、かつてないほど近かった。
「あ……」
目を擦ると、指の汚れが染みて痛む。涙が滲んだ視界一面に、暗澹とした海面が映る。ぬらりと照る白光は月だろうか。白狐が立つところを境に、森は途切れていた。半歩先は急斜になり、真っ暗な砂とも砂利ともつかぬ凹凸が浅瀬に浸っている。
惹き付けられるように踏み出した足から力が抜ける。あ、と声が出た。転げ落ちる。目の前に海があった。顔を打ち付ける恐怖よりも、それがずっと前から求めていた、正しいことに思えて仕方がなかった。
激痛、そして息苦しさ。砕けるような海水の冷たさに目を瞑る。死が迫っているのに、誰かに抱かれているような奇妙な心地良さに包まれながら、白狐は意識を手放した。