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色は匂へど  作者: 拾遺
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彼の行方

洗面所のLED電球の下で鏡に映すと、やっぱり服はコーヒーの茶色に染まっていた。


今が夜でよかった。

昼間だったら家までの数分ですら少し恥ずかしい。


手洗いで大方汚れを落としてしまってから、部屋着に着替えてリビングの椅子に腰かける。


結局彼には六百円のパック寿司を奢らせてしまった。


店の電気ではっきりと現れた彼の顔を思い出してジタバタ足を動かす。


ライブハウスではファンの人たちの影に隠れて、それほどステージに近づいたことはない。


でも断言できる。


背負っていたギターケースには彼の好きだと言っていたアーティストのステッカーが貼ってあったし、笑った口元のホクロの位置も同じ。


そして彼の首には、いつもライブでツグハが付けているものと同じアクセサリーが揺れていた。


銀色のプレートペンダント。

シンプルな装飾とバンド名であるサザンカのモチーフが刻まれたもの。


何せそれをつけたツグハのポスターに囲まれて寝起きしているのだ。


見間違えるはずもない。


「まじか…」


興奮と戸惑いでぐちゃぐちゃの私には、精々そのくらいの感想しか口にできない。


ただ、いくら頭の足りていない私でも分かる。


これヤバいやつだ。


推しが同じ街にいる。ちょっと買い物に行った先や、駅のホームなんかで会えてしまうかもしれない。


喜ばないファンがどこにいるというのだ。いるのなら私の前に現れてほしい。


きっと今日も眠れない。


半年前のあの日と同じくらい神経が高ぶっているのが分かる。


気分も上々で口に入れた寿司はすっかり冷えていて、わさびの味がツンと鼻の奥を刺激した。





翌日。


当然のように眠ることができなかった私は、大学が休みなのをいい事に、自室でのんびり動画サイトを開いていた。


動画は勿論Sasanquaのライブ映像。


自作の曲は、ライブで披露された後にこうして動画サイトに投稿されるのだ。


中でもツグハが作詞作曲した曲は評判が高い。

ノリの良いテンポ感の曲に、少し気だるげで、でも真っ直ぐ前を見られるような歌詞。


彼のエネルギッシュな歌声と合わされば、それはもうパチパチと爆ぜる火花みたいな演奏ができ上がるのだ。


他のメンバーの演奏も忘れてはいけない。

ベース、ドラム、シンセ。ツグハの歌を支える音はどれも華やかで楽しい。


ツグハはたまに他バンドとのコラボもやっているけど、Sasanquaのメンバーとの演奏中に見せる笑顔が一番輝いている。


幸せそうなその顔を見ていると、私まで幸せになる…。


ツグハの歌はそれだけの力を持っていた。


次にライブ行ったら、私がファンだって気づいちゃうかな。

そしたらもっとお話できちゃうかも。


そんな妄想に浸っていた私を現実に引き戻したのは、私の名前を呼ぶ母の声だった。


折角いいところだったのに。


少し不機嫌なままその声に応じると、どうやら来客があったらしい。


新しく引っ越してきたお隣さんだから、アンタも来なさいと言われ、渋々部屋着から一応人前に出られる格好に着替える。


欠伸をしながらリビングへ向かうと…なんか聞いたことある声。


え、え、嘘でしょ。


いやそんなことある!?


階段を駆け下りてリビングへ通じる扉を開けると。


「ああ、お邪魔してます」


そこには母と談笑する推しの姿があった。





「ほら、アンタも早く挨拶して」

「…蓮浦五花です…よろしくお願いします…」


消え入りそうな声で言うと、彼はニコリと笑ってみせた。


「馬渕紹羽です。こちらこそよろしく」


マブチツグハ…やっぱ推しじゃん!


もう私の頭の中はカオスだ。数え切れないくらいの?と!が飛び交って大変なことになっている。


自分の家のソファに推しが座っている。

何だかとてもアンバランスだ。


何とか叫び声を上げないように奮闘していると、ツグハは母親に視線を戻した。


「実は僕、昨日五花さんに会ったんですよ。そうだよね?」

「あらぁそうなの!」


今五花さんて!名前呼ばれました!?


ブンブン頭を縦に振ると、彼は「服大丈夫だった?」と優しく尋ねる。


「ぜ、全然!平気です!」

「よかったぁ…迷惑かけちゃって本当にごめんね」

「いえ、そんな…」


一人話についていけていなかった母に昨日の件を説明すると、母は目を丸くしている。


申し訳なさそうにしているツグハに何か言うんじゃないかとヒヤヒヤしつつ、目の前にある紅茶に口をつける。


私のお気に入りのカップに淹れられたミルクティーはいつもより少し甘い。


「運命みたいねぇそういうの」


なぜ今そんなとんでもないことを!


思わずミルクティーを吹き出しそうになってしまった。


ツグハも驚いているみたいだ。

そりゃそうだろう。会って間もない人と“運命”なんて言われたら誰だって困る。


しかしツグハはすぐに笑顔に戻った。


「そんな、僕なんて五花さんには勿体ないですよ」


アハハと愉快そうに笑う母を睨む。


私の視線を他所に、母とツグハは楽しそうに話し始めてしまった。


私もツグハと話したい。だけどそんなの絶対ムリ。


だってそんなことしたら心臓止まっちゃう!


仕方なく母の横で小さくなってちびちびとミルクティーを飲む。


「引っ越しの時、部屋にピアノ入れてたわよねぇ?音楽もなさるの?」


気がつくと話は彼のことに変わっていた。


たしかに今思い出すと、母と買い物に行く時に偶然引っ越し作業中のトラックを見ていた。


その時はうるさくないといいなぁなんて思っていたけど。


「電子ですけどね。一応バンドをやってまして」


それ知ってます私!


「Sasanquaっていうバンドでギターとボーカルをさせてもらってます」


それも知ってます!なんなら推してます!


あら素敵ねぇ、と興味津々な母に、ツグハは照れたように頬をかいた。


「そういえば五花、アンタ大学入ったらギターやりたいって高校の時言ってたじゃない」


唐突に私に話が回ってきてしまった。


たしかに高校の時はバンドに憧れていた時期もあった。


でも現役バンドマンの前でそんな話しなくても!


「そ、それは昔の話でしょ!恥ずかしいからやめてよ」

「恥ずかしいって…そんなこと言うなら、さっきから飲んでるそれ、馬渕くんに出したやつなんだけど」


私は今度こそミルクティーを吹き出した。

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