音
「見て見て! 海だよ!! あっ! 船!!」
「ほんと! 海見るの何年ぶりだろ… 東京に出てから一度も見てなかったな…」
「えっ!? そうなの? 私は夏にも彼と見たよ。」
「うるさい!!」
初めて乗る電車を乗り継いで、3時間以上かかってやっとその駅に着きました。
パンフレットの写真で見ていたけれど、ログハウス風のその駅は実際に降り立ってみると想像以上に素敵でした。
そしてその構内にあった駅文庫は、そこだけがタイムスリップしたかのような異質な空間でした。
年期の入った壁やベンチは黒ずみ、本はみんな赤茶けていて、薄暗いけど温かみのある照明が室内をセピア色に染めていて、まるで昭和映画の中に迷い込んだみたいでした。
私達は互いに写真を撮り合い、ちょうど通りかかったおじさんに2人一緒に撮ってもらいました。
ちょっとノスタルジックな気分を味わってみようと適当な本を一冊取ってベンチに座ってみたんですが、もう10月だというのに蚊がすごくて、これはすぐに諦めました。
その駅は高台にあって、改札口を出た所から辺りを一望する事ができました。
お菓子でも食べながら旅館まで歩こうと思っていたんですが、売店やコンビニはおろか、見える範囲にお店らしい建物は一軒もありませんでした。
別荘地ということもあって大きなお屋敷みたいな建物ばかりで、緑もたくさんあって、今の私の生活とはまるで違う世界でした。
その日は天気も良く、2人の旅はとても気持ち良くスタートしたんです。
大学を卒業すると、私は小さな家具メーカーの事務員として就職しました。
東京に出ることを父は反対していましたが、母が味方についてくれました。
母の妹が東京にいるので、その近くに部屋を借りて住むという条件付きで、私は学生の頃から憧れていた東京での暮らしを手に入れたんです。
最初こそ楽しくて、朝食にちょっと凝ったサラダを作ってみたり、部屋を暗くしてキャンドルを立ててみたり、たいして飲めもしないワインを買ってみたりして、憧れだったお洒落なドラマの真似事のような生活をしてみました。
でも毎日の満員電車での通勤や、今まで母がやってくれていた掃除や洗濯などをこなすだけで疲れてしまい、すぐにそんな余裕は無くなってしまいました。
仲の良かった友達はみんな地元にいるし、勤めたのが小さな会社なので同僚もいません。
3つ上の先輩がいましたが彼女とはあまり話しが合わず、たまにお昼を一緒に食べることはあっても、仕事帰りや休みの日に遊んだりする事は全くありませんでした。
『帰ろうかな… 』
かなり早い段階でそんな事を考えていましたが、父の反対を押し切ってまで出て来たのだから、せめて2年は頑張ろうと自分に言い聞かせて過ごしていました。
そんな気持ちを悟られないように、母と電話をする時はできるだけ明るい声で話すようにしていたつもりなんですが、それでも何か伝わってしまうのか、会話の最後はいつも、
「辛かったらいつでも帰ってきていいんだからね。」
「大丈夫 大丈夫! 元気 元気! 」
このやり取りでした。
自分なりの目標としていた2年が近づいた頃、私の生活が一変する出来事がありました。
いつも来る取引先の営業の男性に食事に誘われたんです。
最初は戸惑いもあったのですが、何度か食事に行くうちに彼の人柄の良さに惹かれ、私達はお付き合いをするようになりました。
仕事帰りに待ち合わせて食事に行ったり、休みの日に映画や動物園に行ったり、彼はとても優しくてすごく幸せでした。
もちろん実家に帰るのは取り止め、『もしかしたらこの人と結婚するのかな?でも結婚したら桐江利恵になっちゃうな。 きりえりえ、変な名前だな』なんて考えたりもしていました。
でも2年経った頃から2人の気持ちはすれ違う事が多くなり、付き合って3回目の私の誕生日の前日に私達は別れました。
彼の仕事が忙しくなってなかなか会う事ができなくなり、会っても私が不機嫌だったりして… 同じチームで働いていた女の子に彼の心は移ってしまったんです。
他の人を好きになったなんて話しは聞きたくなかったし、彼のそういう無神経なところが嫌でした。
でも… 隠し事のできないそういう不器用なところが好きでもあったんです。
その時は母との電話でも元気を装うことができず、私は電話口で泣いてしまいました。
「帰っておいで」
「うん」
母の言葉に素直に返事をしていました。
電話を切ったあとも私は泣き続け、そして朝には熱が出て、起き上がるのも辛い状態になってしまいました。
会社に休みの連絡を入れてから少し眠ったのですが、症状はあまり変わりませんでした。
頭痛がひどいので本当は動きたくなかったけれど、明日は土曜で休診なので今日のうちにと思って近くの病院に行きました。
待合室で待っている間も頭が痛く、私は目を閉じてずっと下を向いていました。
「いとう えりさん」
一瞬自分が呼ばれたのかと思って顔を上げると、「はい」と言って前に座っていた女の人が立ち上がりました。
『なんだ… 』と思いながら何気なくその人の顔を見た私は思わず立ち上がっていました。
「恵利!? 恵利だよね!? わたし! わかる? 利恵よ!」
「利恵!!」
運命的な再会でした。
伊東利恵と伊藤恵利、私達は幼なじみで幼稚園から中学校までずっと一緒でした。
高校、大学と別々になり、私が東京に出たこともあってずっと疎遠になっていました。
だからもし道ですれ違っただけなら、お互い気づかなかったかもしれません。
興奮して大きな声を出してしまったので他の患者さんにジロリと睨まれ、「じゃ、あとで」と小声で言って恵利は診察室に入っていきました。
「いいよ いいよ 私は熱がないんだから全然平気だよ」と言って、その日は恵利がうちに来てお粥を作ってくれました。
話したい事はたくさんあったけど風邪をうつしてしまうと悪いので、また日を改めて会う約束をして、その日恵利は帰っていきました。
驚いた事に私達はもう1年も、ほんの目と鼻の先のマンションでそれぞれ暮らしていたんです。
私の風邪が良くなると、早速恵利の部屋で再会を祝して乾杯をしました。
恵利の部屋は私の部屋と違って、ピンクを基調にしたとても女の子らしい部屋でした。
恵利は昔から可愛らしい物が好きで、お姫様に憧れたりするような女の子でした。
男兄弟の中で育った私とはまるで正反対。
『お互い変わってないな』なんて考えて、ちょっと可笑しかったし、嬉しかったです。
「ねぇ利恵 これ、覚えてる?」
「わっ!懐かしい!多分実家にあると思うけど… 」
幼稚園の時、近所のおもちゃ屋さんでお揃いで買ってもらったクマのぬいぐるみでした。
「名前は? 覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ! 私のが男の子でクーちゃん 恵利のが女の子でマーちゃん 2人合わせてぇ…」
「クマちゃん!!」
私達はしばらく笑いが止まりませんでした。
心の底から大声で笑ったのは本当に久しぶりでした。
当時の同級生の話しや一緒にプールに行った事、その帰り道に恵利の自転車のチェーンが切れてしまって炎天下の中を2人で泣きながら歩いた事…
2人ともよく覚えていました。
久しぶりに会ったのに私達はすぐに昔の2人に戻り、そして笑い、楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。
気がつくともう23時を回っていて、明日はお互い仕事があるのでその日は解散しました。
その翌日、私は会社に退社届けを提出しました。
そばに恵利がいるならこのままでもいいかな とも思ったのですが、やはり一度実家に戻ることにしたんです。
次に会った時その一連の話しをすると、恵利はとてもがっかりしていました。
「えぇ…なんでぇ… せっかく会えたのにぃ… 」
それは私も同じ気持ちでした。
ちょっとしんみりとした雰囲気になってしまい、『何か話題がないかな』と考えた時、ふっと思いつきました。
「そうだ! 恵利! 有休取れない? どっか旅行に行こうよ! 2人で!」
「旅行?」
一瞬考えた恵利ですが、すぐに
「うん!行こう! そういえば、一緒に行った旅行は修学旅行だけだよね。行こう行こう!! わぁ なんかすごく楽しみになってきた!」
「うん! 気ままな女2人旅!」
「美人幼なじみ 湯けむり殺人事件!」
「ダダダダッ ダダダッ ダーダー♪」
私達は声を上げて笑いました。
私はもういつでも有休が取れるので、日程は恵利の都合に合わせる事にして、どこに行くかはお互いに探してみる という宿題にしました。
翌日私は休みだったので引っ越しに向けて部屋の片付けを進めていると、恵利から電話がかかってきました。
「ねぇ利恵、来週の水曜から一泊でどう? 課長に話したら、来月から忙しくなるからその前に羽を伸ばして力を蓄えてこいって。」
「あはは いい課長さんだね! いいよ それで! でも今から旅館取れるかな? 平日だから大丈夫かなぁ?」
「それはまかせて!すっごく良さそうなとこ見つけたの!さっき電話したら空いてるって!しかも、平日だから安いの!」
「さすが恵利様!仕事が早い! 私、まだ何もしてなかったよ。」
「ふふっ だと思った。じゃ今日の帰りパンフレット持って行くね!20時頃になっちゃうけど平気?」
「うん、いいよ! じゃあ恵利の大好物のクリームシチュー作って待ってる!」
「やったね!じゃ後でね!」
恵利の持ってきたパンフレットを見て私も即決でした。
「いいね!ここ! すごい素敵!」
一緒にシチューを食べながら、予約は明日恵利がする事に決めました。
「ここ露天風呂大きいよね!あぁ 早く行きたいなぁ。」
「あっ 卓球がある! どう?勝負する?」
その夜の私達は、まるで子供の頃に戻ったようにはしゃいで盛り上がりました。
恵利が帰った後、やっぱり退社届けを出すのはちょっと早かったかな と後悔しました。
こんな楽しい時間、もうちょっと長く味わっていたかったな。
「あっ、あの十字路だ! あそこを左に曲がって真っ直ぐ!」
駅前にタクシーは停まっていましたが、天気もいいので私達はのんびりと歩いて旅館に向かいました。
「これきっとみんな別荘だよね? 建物も大きいけど、庭もすごいね。」
「ほんと すごい! あそこなんかヤシの木みたいなのも生えてるし、日本じゃないみたい。」
「こんな優雅な暮らしもあるのね…」
ため息まじりに別荘を眺めながらパンフレットの地図を頼りに15分ほど歩くと、目印の郵便ポストが見えてきました。
子供の頃に見た記憶のある円柱形のポストがかわいかったので、そこでも私達は一緒に写真を撮りました。
「地図だとここが入口だけど… なんだかすごく広いね。」
「てか森じゃん。」
私達のいる場所は敷地の入口なのですが、周囲の自然が残されたままで、その奥にあるはずの建物はそこからでは全く見えませんでした。
でもちゃんと舗装された道が奥へと続いているので、私達はその緩い坂道を上り始めました。
道の両側にはたくさんの色んな木が生えていて、空気はひんやりとしていました。
「ねぇ、川もあるよ!なんかほんとに森だね。」
道と交差して小さな川が流れていて、そこを渡った所で道は二又に別れていました。
左側の矢印には『別館』、右側には『本館(受付)』と書かれていたので、私達は本館の方へと進みました。
「あっ!あれだね!」
しばらく進むと木々の隙間に建物がチラッと見えました。
道が蛇行しているのでまた1度建物は見えなくなり、次に大きく左に曲がると正面玄関の前に出ました。
広い駐車場に車は1台も無く、駐車場の後ろには竹垣が長く奥の方へと延びているのが見えました。
「着いた~ 結構歩いたね。」
「ねっ 喉渇いちゃった。」
「やっぱり平日だから空いてるのかな? 車1台も無いけど、、お風呂が貸切状態だったら最高だね!」
「うん! ねぇ、あの竹垣がそのパンフレットに載ってる露天風呂への道じゃない? なんかすごくいい感じ!」
「ほんとだ、湯の小路って書いてある。いい雰囲気だね! じゃ行こう!」
自動ドアを2つ抜けて私達は中に入りました。
「こんにちは! 予約した伊藤です!」
お出迎えも部屋への案内も女将さん自らがしてくれました。
「今日は他に泊まっている方はいらっしゃるんですか?」
「本日は男性のお客様が1名別館にお泊まりですが、この本館にはお客様方だけでございます。」
「じゃ、お風呂は貸切りですね!? やったー!!」
私達が手を叩いて喜ぶと、
「た・だ・し! 泳ぐのは禁止です!」
女将さんが強い口調でピシャリと言って、それからニコッとして笑い出したので私達も笑いました。
女将然としたいかにも営業スマイルという感じではなく、どこか家庭的な温かさとユーモアがあって、ちょうど母親と同世代の女将さんに私達はとても親しみを感じました。
「お食事なんですが、別館の食堂に御用意させていただいてよろしいでしょうか?」
「別に、いいよね?」
「うん」
「では、御夕食は17時半ですので、それまでどうぞごゆっくりお寛ぎください。」
館内の一通りの説明を終えて女将さんが出ていくと、私達は窓から外を眺めてみました。
2階の角部屋なのですが、片方の窓からは木々の隙間に別館らしき建物が少し見えるだけで、もう片方は竹林になっていて葉っぱが窓まで届いていました。
「うーん… これはちょっと絶景とは言えないな… 」
「そうだね、なんか蚊がすごそう。でもさぁ、森の中で夜を過ごすってちょっとロマンチックじゃない? 眠れる森の美女!」
「はいはい 恵利お姫様。」
恵利がそのまま室内を見て歩いている間に、私は用意されていたティーバッグのお茶を入れました。
「恵利姫様、お茶が入りましたでございます。 本日は、りんご麦茶でございます。」
「りんご麦茶? 何それ?」
「だって ほら」
「ほんとだぁ 初めて見た!」
私達は向かいあってソファに座り、お茶を飲みました。
「おいしい!」
「これ下にあった売店で売ってるかな? ねぇ、これ飲んだら売店見に行こうよ!」
「うん、お風呂も16時からだし、それまでちょっと散歩してみよっか。」
私達しかいないから当たり前なのですが、廊下はしーんと静まり返っていて物音が一切しないので、普段ほとんど意識した事のない、歩くと靴が絨毯に沈み込む感覚が妙にはっきりと感じられました。
とてもきれいに掃除されているのですが、建物の古さと茶色の絨毯が少し重たい空気を作っていました。
「利恵… 暗いね… 」
小さい頃からとても怖がりな恵利が私の方に少し近づきました。
「まだ電気を点ける時間じゃないんじゃない? 仕方ないよ、だって外が森なんだもん。大丈夫!もし私達だけだからってケチって点けてないなら、私が文句言ってあげるから!」
「ふふっ 利恵って昔からそういうとこしっかりしてるよね。ソフトクリーム事件覚えてる?」
「だってあれは、あれは私のだけが明らかに小さかったんだもん。」
「そう、利恵が文句言ったら店員さんが『これでもかっ』ってくらいのソフトクリーム作ってくれて、でも利恵、それを私達に見せびらかしてるうちに落としちゃったよね。」
「だってバランスが取れないんだもん、盛ればいいってもんじゃないのよ。」
「でもすぐに店員さんが新しいのあげるよって言ってくれて、そしたら利恵下向いたまま『普通サイズでいいです』って。」
「恵利あなたよく覚えてるわね。」
「あの時の利恵、かわいかったなぁ」
「それはそれは、どうもありがとうございます 今はこんなですけどね。」
私達は笑いながら階段を下りて売店に向かいました。
「誰もいないね…」
「やっぱりあれかな、暇だから仲居さんとか他の人達はみんな休みなんじゃない?」
私達はまだ女将さん以外の人の姿を1人も見ていませんでした。
「利恵あったよ!りんご麦茶!みかん麦茶もある!これ絶対帰りに買っていこっと。」
「それより私はこっちのバナナ煎餅が気になる…」
売店を出て奥に進むとゲームコーナーがありましたが、ゲームの電源は全て消えていて、そのコーナーの隅に卓球台が置かれていました。
「卓球台あったけどなんかこの静けさの中で2人で卓球しても… ねぇ…」
「うん すごく混んでてうるさいのも嫌だけど、なんかちょっと寂しいね。」
そのまま廊下を進むと《大広間》とありました。
扉が開けっ放しになっていたので中を覗いてみると、そこは畳の広い部屋で、一段高くなったステージの隅にカラオケのモニターが置かれていました。
湿気取りのためなのか、棚や押し入れを全て開けてクーラーを入れているようで、冷たい風が廊下まで流れてきていました。
「そうか、わかった! きっと普段は本館に泊まってる人はここで食事するのよ。でも今日は私達しかいないから、だから別館まで食べに行かなきゃいけないんだわ。」
「言われてみたら確かにそうかも。」
「だって、なんでわざわざ別館まで行かなきゃいけないんだろうって思ってたのよ。きっと面倒くさいから1ヶ所にまとめたかったのね。」
「でもさぁ 利恵、この広い部屋の真ん中で2人だけで食べるのもなんか変だよ。」
「まぁ、それもそうね。」
廊下の突き当たりに《湯の小路・湯小屋→》《別館→》と案内が出ていました。
反対側は厨房などがあるバックヤードのようでした。
矢印に従って裏口まで進み、重たい木製の扉を開けると、木々に囲まれた道の向こうに別館が見えました。
そして扉を出てすぐ右には竹垣に囲まれた細い道があり、それがずっと奥へと続いていました。
「これが湯の小路だね。 お風呂見れるかな? ちょっと行ってみようよ!」
「うん!」
その道は屋根も竹でできていたので、まるで竹かごの中に入っていくような不思議な気分でした。
パンフレットの写真では道の両脇にあやめが咲いていたのですが、花の時季ではなかったのが残念でした。
葉っぱに隠れるように置かれた足元灯と等間隔にぶら下がる裸電球が、白玉石の敷かれた飛石の道を優しく照らし、2人の影が色んな方向に大きく映し出されました。
「この灯りの感じとか、何となく夏祭りを思い出す雰囲気じゃない?」
「あ わかる! 金魚すくいとかあったら似合いそう。」
そんな話しをしながら進んでいくと、とても古そうな木造の建物の前に出ました。
看板に湯小屋(露天風呂)と書かれていて、どうやらその建物はお風呂だけの建物のようでした。
「敷地の使い方がすごく贅沢よね。」
「うん 広い。それにこの建物も雰囲気あって素敵だね。開くかな?」
恵利が扉に手をかけましたが、鍵がかかっていて開きませんでした。
建物の周りを歩けそうな感じだったので、ちょっとそっちに進んでみました。
「ねぇ 利恵、こっち入っていいのかな?旅館の人だけが通るとこなんじゃない?道だけど道じゃないよ?」
「大丈夫よ!探検よ 探検! 昔よくみんなでヘビ山の探検とかしたね、懐かしいなぁ。」
「私、探検なんて嫌いだったもん… 」
建物に沿ってぐるっと回ると、ちょうど玄関の真裏が竹林に面していました。
「これってたぶん部屋から見える竹林だよね? 本館は全然見えないけど。」
さらに進むと竹の並びが少し途切れている所がありました。
竹だけでなく普通の木や雑草もたくさん生えていて先の方までは見通せないのですが、そこだけは奥に繋がっているように空間が開いていました。
「もしかしてこれ本館に通じる近道なんじゃない? 行ってみようか?」
「えっ やだよ、もう戻ろうよ。」
「じゃ、恵利はここで待ってて、私ちょっと行って見てくるから。」
私が1人で林の中に入って行くと「利恵ぇ 待ってよぉ」と言いながら、すぐに恵利が追いかけてきました。
このパターン小さい頃から何度もあったな と思い、可笑しくなりました。
「ごめん、やっぱり道じゃないのかなぁ、だんだん狭くなる。」
「ねぇ、もう戻ろうよぉ」
初めは普通に歩けるくらいの幅があったのに、両側の雑草が増えてきて、徐々に道ではなくなっていくように感じました。
でも地面はいつも人が歩いていて踏み固められているようにも見えました。
「きゃっ!!」
「えっ! 利恵! どうしたの!?」
「あはは ごめん ネコ。」
突然横から白い猫が飛び出してきて、私の足にじゃれついてきたんです。
「ほんとだぁ かわいい!!」
「旅館で飼ってるネコなのかな? 馴れてるね」
「きゃっ!!」
猫好きの恵利が触ろうとしゃがみかけた時、今度は恵利が声を上げました。
「何!? どうしたの!?」
「利恵! あれ… あれお地蔵さんじゃない?」
「えっ!?」
恵利の指差す方を見ると、猫が飛び出してきた雑草の陰に、下を向いた状態でお地蔵さんが倒れていました。
全体が苔で緑色になっていて、もう長いことそのまま放置されているようでした。
さらに奥には壊れかけた祠があり、そしてその祠の中に猫のエサが置かれていました。
「誰かがここでこの子にご飯をあげてるんだ… でも、こんな… そばにお地蔵さんが倒れてるのに…」
「利恵ぇ なんか怖いよ… 戻ろうよ。」
「うん」
私達はすぐにもと来た道を引き返しました。
「利恵、ネコちゃんがついてくる。」
「放っといて大丈夫よ、きっといつもこの辺で遊んでるのよ。」
じわじわと湧いてくる恐怖心から私達は徐々に早足になっていました。
建物をぐるっと回って湯小屋の入口まで戻ると、もう猫はついてきていませんでした。
「なんでお地蔵さんが倒れてるのにそのままにしてるんだろう… 」
「そうよね、しかもその祠でネコにご飯あげるなんて、ちょっとおかしいよね。」
「絶対バチが当たるよ… 早く部屋に戻ろう。」
私達が早足で湯の小路を歩いていると、今度はどこかで男の人同士が怒鳴り合っている声が聞こえてきました。
本館の裏口まで戻ると、どうやら別館で言い争っているようでした。
「どうしたんだろ? なんかすごい喧嘩してるみたいだよ。」
「大丈夫かな? でも私達じゃ止められないし、早く女将さんに知らせないと!」
私達は急いで本館に入り、廊下を走って受付に向かいました。
「いない!」
「どこにいるんだろう!」
「たしか部屋の案内に緊急の電話番号も書いてあったわ!」
私達は階段を駆け上がりました。
「きゃっ!!」
部屋のドアを開けると目の前に女将さんがいたので、私は思わず声を上げてしまいました。
「あら 驚かせちゃってごめんなさいね、お布団を運んでおきました。本当はお食事中に運びたかったんですが、あいにく今日はちょっと手が足りないもので、申し訳ございません。」
「あぁ びっくりしたぁ、でもちょうど良かった! 別館で男の人が喧嘩してるみたいです! すごい大きな声で怒鳴ってます!」
「えっ!? ごめんなさい! ちょっと部屋の電話使うわね。」
なかなか繋がらないようで、女将さんはいくつかの番号にかけ直していました。
やがて電話が繋がり、かなり厳しい口調で相手に注意をしているようでした。
「あなたたちの前でみっともない所をお見せしてしまって、本当にごめんなさいね。」
「あっ いえっ 私達は全然いいんですけど… 大丈夫ですか?」
「えぇ 実は料理長なの… 決して悪い人間じゃないんだけど、ちょっと変わった男で… 職人だからどうしても料理に対するプライドが高過ぎてね… 」
「そうなんですね。」
「あっ また、ごめんなさい、あなた達にするお話しじゃないわよね。でも料理の腕は間違いないから、御夕食楽しみにしていてくださいね。 では、間もなくお風呂の準備もできますので、お食事の時間までどうぞごゆっくり。」
少し慌てて去っていく女将さんを見送ったあと、私達はまたソファに座ってりんご麦茶を飲みました。
「別館に泊まってる人と、その料理長さんが喧嘩してたのかなぁ?」
「そうなんじゃない?その人が不味いとか何か文句でも言ったのかな?」
「腕は間違いないって、美味しいのは嬉しいけど、気を遣って食べなきゃいけないのはちょっと嫌だね。」
「うん… 」
「でも普通たとえ不味くてもあまり口に出して『不味い』なんて言わないよね。もしかして残すと怒られるのかなぁ?」
「まさかぁ さすがにそれはないでしょ。」
「そうだよね、じゃあどうしたんだろう。」
「料理長の態度が悪かったとか、そんなとこじゃない? いいよ、そんな事いつまで考えててもしょうがないから、ご飯の前にお風呂行こ!」
16時を回ったので部屋にあった浴衣を持って出ると、今度はちゃんと廊下の電気も点いていました。
私達はさっきと同じ道を辿って湯小屋に向かいました。
「あっ!さっきのネコちゃん!」
湯小屋の前にさっきの白猫が座っていて、自分の体を舐めていました。
「かわいい!」
恵利がしゃがんで頭を撫でると、猫はしっぽを立てて伸びをしながら恵利の足に体をすり寄せてきました。
「女将さんではないよね? きっと この子にご飯あげてるの」
「うん、もしかしたらその料理長なんじゃないかな? ただ何となく、さっきの話しを聞いての勝手なイメージだけど。」
「私もそう思ってた。聞いたイメージだと、お地蔵さんが倒れてても知らんぷりしてそうな感じがするよね。」
その時、猫が急に歩き出したのでその先を見ると、さっき竹林に行く時に曲がった建物の角の所に男の人が立っていました。
近づいてきた猫が足に纏わりついてもその人は全く動かず、じっと私達の方を見ていました。
服装から例の料理長であることはすぐにわかりました。
「あっ、こんにちは。今日こちらにお世話になります。よろしくお願いします!」
何となく予想していましたが、返事は無く、そして無表情のまま料理長はこちらに向かって歩き始めました。
すぐに恵利が私の後ろに隠れるようにちょっと下がりました。
私も怖くて逃げ出したかったのですが、失礼だと思い、必死に作り笑いを浮かべていました。
「か、かわいいネコちゃんですね。」
料理長は私達から視線を外したままゆっくりと近づき、すれ違いざまに前を向いたまま一瞬だけニヤっと笑い、そのまま湯の小路へと入っていきました。
「笑ったよね?」
「うん ゾクっとした… 」
私まで怖がると恵利がとても怯えてしまうので、私はわざと明るく振る舞い、必死で平静を装いました。
「うーん 女将さんが言ってたけど、やっぱりちょっと変わってる人みたいね。人と喋ったりするのは苦手で、頑固で、The職人!て感じね!」
私は1人で無理やり笑いました。
「でも… あの人が笑った時、なんか怖かったよ… 」
「あれでも満面の笑みなんだよ きっと! 私達を歓迎して! だってほら、ネコちゃんがあんなに懐いてるんだもん。取っつきにくいってだけで、悪い人じゃないのよ!」
「でも、お地蔵さ…」
「あー もう! 恵利は! 外見とか雰囲気だけで人を判断しちゃダメ! よし!気を取り直してお風呂へ! レッツゴー!」
恵利を勇気づけようと無理やり明るく振る舞ったことで、自分自身も意外なほど冷静になることができました。
湯小屋の中に入ってみると、そこは駅にあった駅文庫と同じようにほっとするようなどことなく懐かしい気持ちになる優しい空間でした。
「ものすごく古い旅館って感じね。何かの映画でこんな感じの建物出てきたな。高級ホテルもいいけど、やっぱり温泉は和風でこんな感じの方が気分出るわね。」
「うん、湯小屋っていう名前もなんか好きだな。」
「あっ! ねぇ! あそこに販売機あるけど、恵利お金持ってきてる?」
「ううん」
「あ~ 残念! 牛乳飲みたかったぁ、あとでお金持ってきて飲も! 腰に手を当てて!」
「あはは おじさんだ、でも私も腰に手を当てて飲みたい!」
恵利にも笑顔が戻ったところで私達は脱衣所へと進み、室内の大浴場で体を洗ったあと、露天風呂と書かれた扉を開けて外へ出ました。
パンフレットの写真で見た通り、全体が岩に囲まれているそのお風呂はとても素敵で、思った以上に広かったです。
岩肌をつたって滝のようにお湯が流れていて、周りには色々な植物もあって、もし周囲を囲う目隠しの竹垣がなければ、この森の中にそのまますんなりと溶け込むような、そんな自然のままの雰囲気のお風呂でした。
湯気とは別にどこからかミストが出ているようで、白い霧がひんやりと気持ちよく、湯面を覆うようにその霧が立ち込める様子はとても幻想的でした。
中庭を眺めながら休憩できる場所があったので、私達はしばらくお湯に浸かったあと一度お湯から上がり、浴衣を着て竹製の椅子に座りました。
ひんやりとした夕方の風が、火照った体をゆっくりと冷ましてくれました。
「気持ちいいね~ この椅子の座り心地も最高~」
「うん 気持ちいいねぇ 東京なんて帰りたくなくなっちゃうなぁ。」
「ほんと 都会に憧れてたけど、やっぱり私にはこういう自然に囲まれた環境の方が合ってるんだって実感したわ。ここで雇ってくれないか、あとで女将さんに聞いてみようかな。」
「あはは もし利恵がここで働くなら、私毎月遊びにくるよ。」
「いや、私けっこう本気なのよ。」
「本当に? でも旅館の仕事って、思ってる以上に大変だと思うよ。 前にテレビのドキュメンタリーでやってたけど、お客さんから色んな注文とかクレームが来たりして大変そうだった。」
「でもそれは結局どんな仕事でも同じじゃない? 女将さんもすごくいい人だし、なんかこの広々とした環境がすごく気に入っちゃったのよね。 よし! あとでちょっと話しだけでも聞いてみよっと。」
少し寒くなってきたので、私達はもう一度お湯に浸かりました。
「このあと部屋に戻るとちょうどご飯の時間ね!お腹空いた~」
「うん お腹空いた!でもあの料理長さんが作るのってどんな料理かなぁ?」
「うーん 海も山も近いから、お刺身と山菜の天婦羅と茶碗蒸しとか、、きっとそんな定番な感じじゃない? むしろそんないかにもって感じのがいいわね。」
「どうする?もしピザとかだったら、利恵、料理長さんと喧嘩しないでね。」
「あはは まさかぁ でもどうだろ、もし本当にピザが出てきたら文句言っちゃうかもね。」
笑いながら空を見上げると、たくさんの赤トンボの羽が夕日でキラキラ光っていてとても綺麗でした。
お湯から上がった後、私達は一度部屋に戻ってから別館に向かいました。
「なんかあっという間に夜になったね。」
「急に寒くなってきたし、さすが森ね。」
お風呂から戻る時はまだ少し明るかったのですが、本館の裏口を出ると外はもうすっかり暗くなっていました。
風も強くなっていて、木の葉のさざめきが幾重にも重なり、それは繰り返し押し寄せる波の音のようでした。
「お湯はいかがでしたか?」
別館に入ると受付に女将さんがいて、笑顔で私達を迎えてくれました。
「もう 最高でした!」
「すごく良かったです!」
「綺麗だし広いし、雰囲気もいいし!」
「泳いだでしょ。」
子供のいたずらを見つけたお母さんのような不意の言葉に、恵利は慌てて両手を振りながら「泳いでないです!」と答えましたが、私は思わず「あっ 泳ぐの忘れた。」と言って笑ってしまいました。
女将さんも笑いながら「いいわ でも岩で足を切った人もいるから気をつけてね。」と言って歩き出し、食堂に案内してくれました。
食堂には掘りごたつが2列に並んでいて、私達は奥の窓側の席に案内されました。
ガラス扉の外には仄かにライトアップされた素敵な日本庭園が見えていましたが、私達の視線はすぐにテーブルに並ぶ料理に惹きつけられました。
「わぁ すごい! おいしそう!」
それを見た私達は、間違いなく今日一番の笑顔になっていました。
「お飲み物はどうなさいますか?」
「ビールください!」
私が即答しました。
女将さんが部屋から出ると、すぐに恵利が小声で「ピザじゃなくてよかったね。」と言い2人で笑いました。
「期待通りというか、期待以上ね! 盛り付けも素敵だし、食べなくても美味しいのがわかるわね!」
「うん! 目で見て美味しい! やっぱりあの料理長さんすごいんだね!」
すぐに女将さんが戻ってきて2人のグラスにビールを注いでくれました。
「それじゃ、 かんぱーい!!」
グラスもビールもとても冷えていて、今まで飲んだビールの中で一番美味しいと感じました。
「これ秋刀魚だよね? なんでだろ、家で食べるのと全然違う!ふっくらしててすごく美味しい!」
「この煮物も!春菊って苦手だったけど、これなら食べられる!てか美味しい!」
料理は見た目通りどれも美味しく、私達は一品食べるごとに興奮して味を確かめ合いました。
「もう1本飲むよね?」
「もちろん!」
2人ともそんなにお酒は強くないのですが、美味しい料理と冷たいビールの相性の良さは格別でした。
ビールが無くなりそうなので、恵利が内線電話でもう1本注文しました。
「ビールちょっと待っててね だって。きっとこういうお料理だとお酒も美味しいんだろうけど、寝ちゃうもんね 2人とも。」
「あはは そうだよね、あとでまたお風呂入りたいし、すぐ寝ちゃったらもったいない。」
少しして、部屋の入口に向いて座っていた恵利の視線につられて振り向くと、女将さんに案内されて男の人が入ってきていました。
向こうもこっちを見ていたので目があってしまい、ちょっと気まずくて、あやふやな会釈をしながら自分の料理に向き直りました。
私達とは逆端の窓側の席に案内されたのは30代くらいの男の人でした。
『あれが別館に泊まってる人ね。』
『ちょっとカッコいいんじゃない? 利恵、いいんじゃない?(笑)』
『やーねぇ 私は全くそんな気分じゃないわよ!』
目と目でそんな会話をしていると、急に恵利が何かに怯えるような表情を見せました。
「恵利? 何? どうかしたの?」
「あっ… ううん… 何も… 」
ドン!
突然私の後ろから手が伸びてきて、私達のテーブルにビールが置かれました。
「わっ!! びっくりしたー あっ ありがとうございます…」
ビールを置くと料理長は何も言わずにそのまま戻って行きました。
その様子を見た女将さんが慌てて走ってきて私達にお詫びを言って、それから料理長を追いかけて行きました。
「あーびっくりした、でもさすがに今の態度はないわよね。」
ちょっとカチンときたのでそのままグチグチと文句を言おうとしたんですが、恵利の表情がまだ強ばっていたので、また先ずは自分が冷静にならなきゃと思ってビールを一口飲みました。
「まぁきっと普段はお客さんの前に出たりしないんでしょうね。こんなに美味しい料理が作れるんだから、もうちょっと愛想も良くできそうなもんだけどなぁ、 はいっ 恵利 ビール。」
「あっ うん ありがと。」
その後はまた楽しくお喋りをしながら食事を続け、2本目のビールと同時に料理もほぼ無くなりました。
タイミングよく女将さんが持ってきてくれたデザートは栗のアイスクリームでした。
「美味しい! 栗のアイスって初めて食べた!」
「うん 美味しいね!」
「気に入っていただけてよかったわ。これも料理長のアイデアで自家製なんですよ。季節によって色んなアイスを作るんで、ぜひまた他の季節にも来てくださいね!」
「はい! 絶対また来たいです! ねっ!恵利!」
「うん!他のアイスも食べてみたい! それであの… 料理長さんに、あの… お料理どれもすごく美味しかったですって、料理長さんにお伝えください。」
「はい わかりました 伝えておきます。 ああ見えて料理を誉められた時だけは嬉しそうな顔をするのよ。でもさっきの態度はダメね!きつく言っておきますので、、本当に申し訳ございませんでした。」
「いえ、私達は全然気にしてないです。ホントにどれもすごく美味しかったです!それとあの… 今はここで人の募集とかってしてないですか?」
「人の募集?」
「中居さんでもお掃除の仕事でもお料理でも、どれも全く経験は無いんですが…」
「もしかしてあなたが働きたいって事?」
「はい!そうです!実は私、今勤めている会社を辞めてもうすぐ田舎に帰る予定なんです。それでこの恵利ともなかなか会えなくなってしまうんで、思い出作りに旅行する事にして…」
「まぁ そうなの…」
「ついさっき来たばかりですけど、なぜかここがすごく気に入ってしまって、、もし働けるのであれば一生懸命やりますのでどうでしょうか?」
「うーん… あなたみたいに明るくて元気な子なら本当はぜひ働いてもらいたいんだけど…」
「ダメですか?」
「正直、うちは今すごく厳しい状況なの、今年に入ってからはお客さんもかなり少なくなってしまって… ちょっと色々あって… 」
「色々?」
「…… 」
「ちょっと利恵! すみません、女将さん、気にしないでください。利恵は思いつきですぐ口に出したり行動しちゃうとこがあるんです。」
「そんな事ないわ 私だってちゃんと考えてるわよ。」
「ごめんなさいね 今はとても人を増やす余裕は無いのよ… それどころか、このままここを続けていけるかどうかも…」
「そうなんですか… わかりました。」
たしかに私は恵利の言う通りあまり深く考えずに行動してしまう事もありますが、ここで働いてみたいという気持ちはどんどん強くなっていたのでとても残念でした。
「でもまた絶対に遊びに来ますから!私、会社のみんなに最高の旅館だって宣伝しておきます!だからぜひ続けてください!」
「うん!私もたくさん宣伝する!」
「ありがとう 何だかすごく勇気をもらったみたいだわ。弱気になっちゃダメよね、ありがとう。」
部屋に戻ってちょっとくつろいでいると、部屋のドアがノックされました。
「はーい」
「ごめんなさい、ちょっとよろしいですか?」
女将さんの声でした。
私がドアを開けると、たくさんの果物がのった器を持った女将さんが立っていました。
「これ、もし良かったらどうぞ召し上がって。」
「えっ! いいんですか!?こんなにたくさん!?」
「ええ!遠慮なくどうぞ!もちろんサービスよ!料理がすごく美味しかったみたいよって料理長に話したら、いつの間にかこれを」
「うわー すごい!嬉しい!」
「おいしそー!」
「よかったわ!喜んでもらえて。でもあなたたちの分しか作ってなかったから、すぐに別館のお客様の分も作らせたわ。大声をあげたお詫びの意味でね。」
「ありがとうございます!ぜひ料理長さんにお礼を言いたいです!それに女将さんも、本当にどうもありがとうございます!」
「いいのよ あなた達には元気をもらったし。 料理長には私から伝えておくわ。もしまたぶっきらぼうな態度だとせっかくの気分も台無しになっちゃうもの。それではお邪魔しました、どうぞごゆっくり。」
「すごいね!どうする?お風呂行ってから、、いや、食べよう!」
つい数分前には『もうお腹いっぱいだ~』なんて言っていたのに、2人とも果物に夢中になりました。
「おいしー!」
「やっぱり料理長さんいい人だね!」
「何よ 恵利ったら あんなに怖がってたくせに。」
「もう怖くないもん。」
「まったくー」
お風呂上がり用に果物を少し残しておいて、私達は2回目のお風呂に向かいました。
「ちょっと怖いけど、真っ暗の中の露天風呂っていいわね。」
間接照明のぼんやりとした明かりで、お風呂はさっきとはまた違う素敵な雰囲気に包まれていました。
「でも残念だなー。もしここで働いたら毎日このお風呂に入れたかもしれないのになぁ。」
「そう さっきびっくりしたよぉ まさかホントに聞くなんて思ってなかったもん。それに、働いてる人はのんびり露天風呂に入ったりなんてできないと思うよ。」
「でもきっと料理長の作る美味しい賄い料理は食べれるわよね!」
「もぅ 利恵は、そんな不純な動機ばっかりで…」
「冗談よ。」
「ぜんぜん冗談に聞こえなぁい。」
「あーぁ 諦めるしかないかぁ。でもなんだか女将さんも大変そうだけど。 そういえば色々ってなんだろう?」
「色々?」
「ほら、女将さんが言ってたじゃない、色々あってお客さんが少なくなっちゃったって。何があったんだろう? もしかしてここで殺人事件があった とか!?」
「ちょっと変な事言うのやめてよぉ。」
「冗談よ。」
「またぁ そんな話しは冗談でもやだよぉ。」
「あはは ごめんごめん! よし! 牛乳飲も! 」
「えっ 今飲むの!? 大丈夫かなぁ、なんかお腹こわしそうな気もするけど… 」
「旨いものは宵に食えっていうでしょ! 楽しい旅行で、美味しいご飯を食べて、素敵な露天風呂で温まって、まさにこのタイミングよ牛乳は!」
「知らないからね、私より利恵の方がお腹弱いんだから。」
私達は浴衣を着て自動販売機で牛乳を買いました。
「ほら、恵利も早く左手を腰にあてて。 それでは、かんぱーい!」
2人とも半分くらいを一気に飲みました。
「あぁー 美味しい!」
「やっぱり普段飲むのとは全然違うわね!露天風呂と牛乳の組み合わせ、これはもう魔法ね。」
「あはは、あとは利恵のお腹さえ無事ならね」
「お二人ともいい飲みっぷりですね。」
ふいに後ろから声がして、振り向くと別館に泊まっている男の人が立っていました。
「なっ、なんですか急に!」
見ず知らずの、しかも風呂上がりの女性に急に声を掛けるなんてどんな神経してるのよ!と思い、私は相手を睨みつけました。
「あっ すみません 驚かしてしまったみたいで、私フリーのライターをしている胡桃崎と申します。もしよろしければ少しお話しを聞かせていただければと…」
「何ですか 話しって。」
「いや、やはりあなた方も興味本位というか、怖いもの見たさというか、そういった感じなのかなぁと…」
「はぁ? 何言ってるんですか!?」
失礼な上に要領を得ない相手の話しに、私はますます苛立ちました。
「何言ってるかさっぱりわからない! 恵利!行こ!」
「あっ いやっ すみません、ここに泊まっているのは、やはりあの噂を聞いてそれでなのかな と思いまして…」
「噂? 何ですか 噂って。」
「あっ ご存知なかったんですね、いえっ 大丈夫です。すみません、急に声を掛けたりして失礼いたしました。」
「ちょっと待ってください!」
私は足早に立ち去ろうとする男の人を呼び止めました。
「ちょっと利恵ぇ…」
「いいの 恵利は黙ってて。あの噂とか聞かされて、その中身がわからないままじゃ気持ち悪いじゃない。ねぇ、あなた!あの噂って一体何なんですか?」
私は自分でも口調がかなり刺々しくなっているのを感じました。
「いや、もし知らなかったのなら、あまり…その…」
「いいから話しなさい!」
彼の話しは1年前に遡りました。
「私はオカルトやギャンブルと、あとまぁアダルト雑誌なんかの原稿を書いてるライターなんですけど、ある雑誌の担当さんからこの旅館の話しを聞いて、これはネタにできるかな?と思って来てみたんです。
この旅館の社長、つまり女将さんの旦那さんが1年ほど前に亡くなったんです。ちょうどその頃から宿泊客がチェックアウト後に行方不明になったり、崖下で遺体となって発見されたりと、まぁ偶然かもしれませんがそんな事が重なって起こったんです。その崖下で亡くなっていた方は自殺と断定されたそうなんですが、遺族は納得していないようです。
ほら、ここは別荘地でしょ、この辺りに1年を通して住んでる人って実際は少なくて、だからその人達の関係って言わば顔見知りばかりの小さな村みたいな感じなんでしょうね。そんなだからそういうちょっと変な噂なんかはすぐに広まるみたいです。
それであの旅館は何かあるんじゃないか?なんて噂が広まって、耳の早いオカルト好きの間でも話題に上るようになっていたタイミングで、友達同士の2組の若いカップルがここに泊まったんです。東京から来た彼らはそんな噂なんて全く知りませんでした。でも彼らが… 見ちゃったんですよ… 」
「ちょっ ちょっ ちょっと待ってください! もしかして怖い話しですか? いやだよ 聞きたくないよぉ。」
「じゃ恵利1人で先に部屋に戻ってる?」
「なんでそんな意地悪言うのぉ 戻れるわけないじゃん… 」
「続けてください。」
「いや、でも彼女が…」
「大丈夫です。恵利には私がついてますから」
「いいんですか?」
「大丈夫よね? 恵利」
「あまり怖くない話し方でお願いします。 あぁ… でもやっぱり聞きたくないなぁ…」
恵利は私の腕を強く掴んでいました。
話しの続きが気になって仕方なかったとはいえ、恵利に冷たすぎる態度をとってしまったと後からすごく反省しました。
「じゃあ続けますね。その時彼らは別館に泊まっていたんです。だから私も別館を指定して泊まっているんですが。 そして4人は夜中に1つの部屋に集まって、かなり遅い時間まで騒いでいたんです。みんな自宅じゃないですからね、開放的な気分になっていたんでしょう。それが1時を回った頃です、強い音でドアがノックされて、おそらく他のお客さんからうるさいってクレームが入ったんだと思います。で、ノックしたのがあの料理長だったんです。」
「料理長さんが?」
「えぇ、男の子がドアを開けるとすぐ目の前に料理長が立っていたんです。料理長が怒っているような表情だったので、てっきり騒いでいた事を注意されるんだと思ったんですが、料理長は何も言わずにただじっと彼の顔を見ているだけで、彼が『何ですか?』と聞いても料理長は無言のままでした。何も話さない相手にただじっと見つめられるっていう気味の悪さは、何となくわかりますよね。そしてその気味の悪さは次第に恐怖に変わってきて、それに耐えられなくなった彼が『騒いですみませんでした。気をつけます』と一方的に謝ってドアを閉めようとすると… ガッ!!っと」
「きゃっ!!」
「あっ すみません、つい…」
「そうやって急に大きな声出したりするのやめてください!」
「すみません、えっと、その…ガッと料理長がそのドアを押さえたんです。そして彼の肩越しに部屋の中にいる3人を見てニヤッと笑ったんです。」
「何でですか? 何で笑ったんですか?」
「わかりません。 実はさっき、その時の話しを聞こうと思って料理長に話しかけたんですが、なんだか急に怒りだしてしまって…」
「あぁ、それが私達が夕方に聞いた怒鳴りあってた声ね。」
「いや、私は決して怒鳴ってなんかいないんですよ、向こうが一方的に捲し立ててくるのを抑えようとしていただけなんです。何で怒るのかもわからないし、方言なのか呂律が回ってないのか言葉が不明瞭で、その上怒鳴っているから何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。あの人ちょっとおかしいんですよ絶対!」
「そんな事ないよぉ… 料理長さんはいい人だよ… 」
「そうよね、私達も最初はちょっと変わってる人だなって思ってたけど、おかしいなんて言い方は失礼だわ。」
「いや でも、 いえ、そうですね。先入観で私が勝手に悪人に仕立てあげているだけかもしれません。で、続きですが、料理長はそのまま無言で立ち去ったんです。料理長と対面した男の子以外の3人は料理長の怒ったような表情を見てないですから、ドアが閉まるとまた騒ぎ出したんです。だから彼が慌ててそれを制して、宴会はお開きにしてそれぞれの部屋に戻ったんです。」
「バカ! ほんとだよ! 何も喋んないで鬼みたいな顔で睨んでたんだよ!」
「でも俺達そんなにバカ騒ぎってほどの大声でもなくね? 旅館に遊びに来てんだから他もみんな騒いでんじゃねぇの?」
「いや、絶対ヤバいって! お前あの顔見てないからそんな事言えんだよ。とにかく今日はもう終わりにしようぜ。」
「うん、私もちょうど眠くなってきたし、裕太、もう部屋に戻ろ」
「わかったよ、じゃまた明日な。 てかお前ら、早く仲直りしろよ。」
2人が部屋に戻っていくと、美香がお風呂に行くと言い出しました。
「こんな時間に?」
「別にいいよ、浩平は来なくて、1人で行くから。」
「何言ってんだよ、危ないから俺も行くよ。」
「危なくなんてないから いいよ 来なくて。」
1人でさっさと出て行ってしまった美香を俺は慌てて追いかけました。
「なぁ美香、、いつまでも怒ってないでいい加減許してくれよ」
「別に怒ってないよ。 ただ呆れてるだけ。」
「だからごめんてぇ…」
何度も謝りながら俺は美香を追いかけました。
昼間にちょっとした事で喧嘩したんだけど、美香の怒りは日付をまたいでもなお持続していました。
美香が先に出てしまわないように俺はすぐに風呂から上がりました。湯小屋の休憩スペースで美香が出てくるのを待っているとほんの2.3分差で美香が出てきました。
「あれ? 早いな。 ゆっくりしてて良かったのに、俺ここで待ってるから。」
「違うの、誰かが露天風呂の外を歩いてたの、ガサガサ足音みたいなのが聞こえて、それで怖くて…」
「こんな時間に? それ絶対覗きだろ! 捕まえてやる!」
外に駆け出ようとした俺を美香が引き留めました。
「浩平待って! 置いてかないでよ! 怖いじゃん! それに危ないよ。」
どんな相手かわからないのは確かに怖いので、俺達は息をひそめて湯小屋のドアを開けて外の様子を伺いました。
「女の露天風呂だとあっちの方だけど、真っ暗だな。これ懐中電灯がないと危なくて歩けないな。」
「いいよもう、早く部屋に戻ろう。」
「とりあえず朝になったら旅館の人に話しておくか。」
部屋に戻りながら、俺の頭の中にはあの料理長の顔が浮かんでいました。たとえ懐中電灯があったとしてもあの暗さの中を歩けるのは慣れている人間だけだ、そう思いました。
部屋に戻って美香がドライヤーで髪を乾かしている間、俺はソファーに深く座ってつけっぱなしだったテレビをぼんやりと眺めていました。ローカルの通販番組で女性タレントが矯正下着の紹介をしていました。
『あぁ… この人…懐かしいな… 久しぶりに見た… えっと… 誰だっけな…… … 』
暗い森の中で、俺は1本の太い木に向かって立っていました。そのゴツゴツとした木肌の溝には赤茶色の虫が何匹も蠢いていて、ジュクジュクと白い泡を出しながら木の皮の下に潜り込んで幹を食い荒らしているようでした。やがて皮がボロボロと崩れて剥がれ落ち、腐りかけて黒ずんだ幹が剥き出しになると、まるで中から何かが出てこようとしているかのように幹が膨らみ始めました。徐々に立体的に浮かび上がってきたのはあの料理長の顔でした。顔はぐにゃぐにゃと歪みながら怒りや笑いの様々な表情を浮かべ、それと同時に内側から涌き出てくるように顔の色が次々と変化していました。そして真っ赤な怒りの表情がだんだんどす黒く変わりながらさらに膨らみ始め、目と鼻から赤と黄色のドロドロとした液体が溢れ出し、ついにブシャー!!と音をたてて破裂しました。
『うわーーっ!!』
横を見ると美香がまだドライヤーで髪を乾かしていました。
5時起きで長時間の運転をして、昼間は遊び回り、ついさっきまで飲んでいたんだから疲れていて当然でした。
金縛りにあった時のように全身が痺れていて、起き上がってベッドに行く気にもなれず、俺はまたそのままの姿勢で目を閉じました。
一定で変わらないドライヤーの音が妙に心地よく、網戸から入る風が外の自然の香りを部屋に満たしていました。
次に美香に起こされた時、部屋の中は真っ暗でテレビも消えていました。
「起きて! 浩平! ねぇ! 起きて!」
「あ… あぁ…… 何時…?」
「ちょっとちゃんと起きてよ!何か変な音が聞こえるの。」
「音…… ?」
今度は夢も見ずに熟睡していたので、自分が今どこでどんな状況でいるのかをすぐには理解できませんでした。
「あ… そっか… 旅館か… 」
「ほら、 聞こえるでしょ? 何かを叩いてるような音…」
確かに俺にも3回くらいその音が聞こえましたが、それ以降音は鳴りませんでした。
「止まったね。 何かが壊れて直してたんじゃないの?」
「だってこんな時間だよ。」
「あぁ… うん… なんだろなぁ…」
ほんとは『そんなのどうでもいいじゃん』と思っていたのですが、これ以上美香のご機嫌を損ねたくなかったので、一応ポーズとして俺は網戸越しに外の様子を見てみました。
「ん!?」
「何? どうしたの?」
「誰か歩いてるな。懐中電灯の明かりが林の中を動いてる。」
「何してるの?こんな時間にあんな所で。」
「なんだろう、確かに変だな…」
翌朝、俺は朝食前に裕太を誘って風呂に行きました。
昨夜の話しをすると裕太はすぐにこの建物の周りを歩いてみようと言い出しました。
ここでも俺は『食事を食べたらどうせすぐにチェックアウトするんだし、わざわざそんな事しなくても… 』と思いましたが、そんな話しを美香にされるとまた俺の株が落ちると思って仕方なく付き合いました。
「多分この辺だな、昨日覗き魔が歩いてたのは。」
「どっかに穴でもあんのかな? とても中が見える雰囲気じゃねーけど。」
「たしかに、それに上に登れる感じでもないな。覗きじゃなかったのかな? そんでその後懐中電灯の明かりが動いてたのはこっちの、、多分この奥の方だ。」
「ほんとかよ、こんなとこ夜中に歩く理由なんてあんのか? 今の時間でも気味わりーぞ。」
「あれ? でもあそこに何かあるな。」
近づいてみるとそれは祠で、中には1体のお地蔵さんがありました。
お供え物などは何も無く、しばらく手入れをされていないようなそんな印象を受けました。
2人ともなんとなく無言で手を合わせました。
「でもこれさぁ、この祠… なんか手作り感満載だな。小学生がちょっと頑張って夏休みにお父さんと一緒に犬小屋を作りました って感じ。」
「確かにそうだな。ちゃんとした物ではないな。」
そう言いながら祠の周りをぐるっと回ろうとした俺の目にとんでもない物が飛び込んできました。
「おい!! 裕太!! 」
「うわっ! マジかよ… 本物なのかこれ… 」
祠の後ろにある太い木に5寸釘で藁人形が打ちつけられていました。
「ちょっとなんかヤバいな… 戻ろうぜ。」
「美香たちにはこの事は黙っといた方がいいな。」
「当たり前だろ!」
俺達は急いで部屋に戻り、朝食を取ると早々に旅館を後にしました。
「彼から聞いた旅館での話しはザッとこんな感じでしたが、実はその帰り道に彼らは車で事故にあったんです。後ろを走っていた車に追突されて、はじかれた彼の車がガードレールに突っ込んだらしいです。スピードも出ていたから女の子2人が全治6ヶ月の大ケガをして、特に美香って子は顔に傷が残ってしまったそうです。追突した犯人はまだ捕まっていないようですが、彼はその事故が呪いのせいなんじゃないかと思ったみたいです。」
「呪いの藁人形… そんな事ってほんとにあるんですか?」
「地方によっては実際にそんな儀式が行われている所もあるようですが、本当に呪いなんてものがあるのかどうか… 真偽の程はどうなんですかねぇ。そもそも彼らは夜中にちょっと騒いだってくらいで、呪われるような理由が無いですからね。で、彼らは元々結婚を考えていたので、責任を取る意味でも彼女の回復を待ちながら結婚の話しを出しているそうですが、事故後の彼女は人が変わったように無気力というか鬱っぽくなってしまって話しが進まないと言っていました。そしてその事故があった事で旅館の噂はさらに広まって、しばらくの間は大学のオカルト研究会みたいな団体客や心霊なんかに興味のある宿泊客が多く訪れたそうです。でも彼らの自動車事故以降はおかしな事が起こらなくなったんです。だから現状はなんとも中途半端な状態になってしまっているんです。心霊スポット的な話題が続けばそれ目当ての宿泊客も見込めるんでしょうが、かといって変な噂があるから一般の人は気味悪がって敬遠するしで、経営は厳しいみたいですね。」
「そんな話しがあったんですね… それで女将さんは困ってるのか… でももしかしたらその事故はホントに藁人形の呪いだったんじゃないですか?」
「いやぁ、十中八九誰かのいたずらだと思います。その頃は多くの心霊マニアみたいな連中が泊まってたから、他の宿泊客を驚かそうとして悪ふざけでやっただけだと思います。こういった心霊スポット的な所ではそういういたずらが多いんですよ。それがまた噂を呼んでさらに尾ひれがついて…と。それにしても気の毒ですよ、あの女将さんは2年前に娘さんも亡くされているんですが、その翌年にご主人が亡くなって、それで変な噂を立てられたかと思えば旅館の経営がどんどん悪化していくなんて… 本当に気の毒です。」
「噂はただの噂だったのにね… 」
「でも利恵… 私達もお地蔵さんのとこまで行っちゃったけど、ほんとに大丈夫かなぁ。」
「あっ それは大丈夫ですよ。私もさっき行きましたけど、あのお地蔵さんは何か曰くがあるとかそんなんじゃないんですよ。閉眼供養が…つまりお地蔵さんの魂を抜いてもらう儀式が済んで、それでいざ処分されるって時にご主人がもらい受けてきたらしいです。だから形こそお地蔵さんですけど今はただの石像ですよ。あの祠もご主人の手作りだそうです。ご主人はそういったちょっと変わった物とか珍しい物を集めるのが趣味だったらしいですが、女将さんはそれを疎ましく思っていたようです。まぁそういう趣味の人が集める物って、私が見てもただの石ころとか鉄屑にしか見えないですからね、女将さんの気持ちもわかります。だからご主人が亡くなってすぐに屋内にあった物はみんな処分したそうですが、お地蔵さんはそのまま放っておいて今どうなってるのかも知らないと言ってました。」
「だから倒れていてもそのままなのね… ただの石像とは言えかわいそうだけど…」
「ついでに言うと、多分その当時の藁人形もまだ木の下に落ちていましたよ。泥だらけだったけど、藁で作ってあるわりに形はちゃんと残っていて、しっかり作ってあるんだなぁと変な所で感心しました。まぁそんなこんなで私の仕入れたかったネタは空振りに終わって、ただのんびりと温泉旅行に来ただけになってしまいました。いや大袈裟な脚色をしながら書けない事もないんですがね、実情を知っちゃうと何か気の毒で、この旅館の話しをそこら辺の低俗な雑誌に書こうなんて気は無くなってしまいましたよ。」
その時、湯小屋の入口の扉が少し開いていてその隙間から料理長がこっちを見ている事に気がつきました。
「あっ、 それじゃ、私達はこれで失礼します。」
私が立ち上がると料理長は扉を開けて中に入り、ライターの人を怖い顔でジロっと見てからボイラー室のような所に入っていきました。
「ったく、ほんとに無愛想な男だな。こっちは客なんだから会釈ぐらいしろってんだ! あっ、いや、きっと本当はいい人なんでしょうけど、つい…」
「そういえば果物はもう食べましたか?」
「何ですか?果物って。」
「あの料理長からのサービスです。すごく豪華なやつが後で届くと思いますよ」
「へぇ、果物が。それならその果物があの無愛想を帳消しにできるかどうか期待しておくかな。それじゃ私はこれから風呂に入りますんで失礼します。楽しい旅行中につまらない話しを聞かせてしまってすみませんでした。それと、せっかくなので一応名刺だけお渡ししておきます。まぁあなた方のような若い女性が読む雑誌に私の文章が載ることはないでしょうけどね。」
彼は笑いながら男湯へと入っていきました。
受け取った名刺には名前と電話番号だけが書いてありました。
胡桃崎 一 (くるみざき はじめ)
「くるみ… 変わった名前よね。本名なのかしらこれ」
「名字が複雑だから名前を単純にするっていう典型例みたいな名前だね。だけど利恵ぇ、最初喧嘩になるかと思ってハラハラしたよぉ」
「だって失礼だったじゃない? 見ず知らずの風呂上がりの女性にあんな声のかけ方!」
「それはそうだけど… でも悪い人ではなさそうだったね。あと女将さんかわいそうだね」
「そうよね… 私達には知り合いに宣伝するくらいの事しかできないし… でも大丈夫よきっと、だってほら、人の噂も49日って言うじゃない!少し時間が経てば変な噂なんか忘れられてきっとお客さんも戻ってくるわよ!」
「利恵… 75日だよ… 」
「いいのよ!そんな細かい事は!さて、部屋に戻って果物食べよっと。」
「えっ!? ほんとにお腹大丈夫?」
結局自分でもお腹が心配になり、残りの果物を冷蔵庫にしまってから私達は布団を並べて敷きました。
「あぁ布団がフカフカで幸せ~。小学校の修学旅行以来だね、恵利とこうやって一緒に寝るの。」
「うん、中学の時はクラスが別々だったもんね。あの時私達の部屋は好きな男子の話しとかしてたよ。私は最後まで教えなかったけど。利恵の部屋はどうだった?」
「うーん 好きな男子の話しもしたけど、最後は怖い話し大会になったな。っていうか、その頃に恵利が好きだったのって安斉君でしょ?」
「えっ!? 何で知ってるの!? 絶対誰にも話した事ないのに!」
「恵利の態度を見てればすぐわかるよ。幼稚園からずっとすぐそばで恵利を見てきたんだからね!それでたぶん中1の頃は柴崎君で、小6の頃が… 」
「ちょっともうやめてぇ! 参りました! 許してください!」
「それと今恵利が考えてる事… 当ててあげよっか?」
「えっ!?」
「あぁ…やだなぁ…利恵この後絶対に怖い話しするつもりだ… でしょ?」
「…」
「これはその修学旅行の時に確か由美がしてた話しなんだけどね、小6のお盆に家族で田舎のおばあちゃんちに行ったんだって。そのおばあちゃんちはすごく古くてね、」
「利恵! 利恵! 待って! 今日は怖い話し大会は禁止! ほんとにやだよぉ… さっきの胡桃崎さんの話しを聞いただけで、本当は今もう怖いんだもん… 」
「嘘よ。怖い話しなんかしないわよ。その代わりに恵利の話しを聞かないとね!今日こそはとことん聞き出してやるんだから!さぁ!まずは彼との最初の出会いの場面からね!さぁどうぞ!」
「えぇ~… それもやだよぉ… 」
「それでね、そのおばあちゃんちのお風呂場には磨りガラスの小さな窓があるんだけどね、」
「はいっ!はい!はい! 話します!話します! 彼との出会いからちゃんと全部話します!」
「よろしい。では張り切ってどうぞ!」
「もぅ… 利恵はほんと意地悪なんだからぁ… えーと、彼と初めて会ったのは…」
とても奥手だった恵利が今は恋愛をしている、私はそれがすごく嬉しかったです。
「へぇ~ そんな感じなのかぁ。恵利も大人になったなぁ。幸せそうで私も嬉しいよ。で、どうなの?もちろん結婚も考えてるんでしょ?」
「え~ どうかなぁ まだそこまで話した事はないけど… だって私が奥さんになってお母さんになるとか自分でもピンとこないもん。でもウェディングドレスは着てみたいけど… 」
「そんな事ないわよ。恵利は絶対にいい奥さんになるし、いいお母さんになるわよ!保証する!もし私が男だったら恵利みたいな人を選ぶわ!」
「あはは、そう? ありがとう。でももし利恵が男の人だったら私も利恵を選ぶよ、ちょっと意地悪なとこはあるけどホントはすごく優しいし頼もしいし!」
「あははは、お互いを誉めあって私達気持ち悪いわね。じゃあこうなったらもう結婚しようか!伊藤が伊東に変わるだけだし。」
「あっ それ! そうなの…それがあるの… 」
「何?」
「変な名前になっちゃうの。彼と結婚すると。きりええり になっちゃうの。」
「えっ!?」
「彼の名字が桐江っていうの。だから私は桐江恵利になっちゃうの。変でしょ?きりええり…って…」
「ちょっ、ちょっと待って! 恵利の彼氏ってフルネームは何ていうの?」
「桐江孝弘」
私は後頭部をいきなり殴られたかのように目の前が真っ暗になりました。
同時に胸の奥に鉛のような黒い渦が現れて、それがゆっくりと回転しながらどんどん重たくなり、その重さで自分が地面に沈み込んでいくような感覚に囚われました。
「利恵!? 利恵? どうしたの? ねぇ利恵! どうしたの? 大丈夫!?」
「あっ、うん… 」
「大丈夫? お腹痛くなっちゃった?」
「ううん… ごめん、大丈夫。 何でもない」
まさかこんな事が…
今恵理が付き合っているのはこないだ私が別れた彼でした。彼の言っていた『好きな子ができた』それが恵利だったのです。
大好きな恵利には絶対に幸せになってもらいたい。でも今の状況を素直に喜べない自分がいる。自分の物を横取りされてしまったような悔しい気持ちがある。嫉妬?私は今でも彼の事が好きなんだろうか…
「ねぇ利恵! ほんとに大丈夫? 」
「えっ? あっ 大丈夫よ お腹なんて全然痛くないわよ。さてと、じゃそろそろ寝よっか。」
「なんか利恵変だよ? お腹痛いの我慢してるでしょ。」
「そんな事ないわよ、大丈夫よ。私は元気!私は大丈夫! よし!じゃあ電気消すよ。」
「でもなんか変だけどなぁ… あっ あの小さいダウンライトだけは消さないでね。」
「わかったわよ。 いい? 消すよ?」
「うん」
ダウンライトの仄かな明かりだけを残して部屋が暗くなると、外の木や窓ガラスが赤い光を反射している事に気づきました。
「あれ? 何だろう?」
私はすぐに窓から外の様子を見てみました。
「ちょっと!大変!何かあったみたいよ! 救急車かパトカーか消防車のランプの光よ!別館の方だわ!」
「えっ!? でも何の音も聞こえなかったよ?」
「騒ぎになるから音を消して来たんじゃない? てことは消防車ではないわね!」
「なるほど。」
「そんな事に感心してる場合じゃないわよ!いいからとにかく行ってみるわよ!」
私達が走って本館を抜けて外に出ると、別館前に停められた救急車にちょうどストレッチャーが運び込まれたところでした。
女将さんが救急車の傍らに立っているのを見つけて私達は駆け寄りました。
「どうしたんですか!?何かあったんですか!?」
「あら、あなた達!騒がしくてごめんなさいね。別館にお泊まりのお客様が急にひどい腹痛をおこしてしまって、それで救急車を呼んだのよ。」
「胡桃崎さんが!?」
「あら、あなた達あの方を知っているの?」
「あっ いえ、さっきちょっとお話ししただけですけど…」
「あなた達お腹は大丈夫? 救急隊員さんの話しだと食中毒の可能性もあるらしいの。」
「食中毒… でも私達は何ともありません。大丈夫です!」
救急隊が女将さんに事情を聞きに来たので、私達は救急車の後ろに回って中の様子を見てみました。
胡桃崎さんが左右に身体をよじりながら苦しそうな呻き声を上げていました。
「胡桃崎さん! しっかりしてください!」
その声が聞こえたのか身悶えながらも彼は顔を少しこちらに向け、そして激しく首を左右に振りながらさらに大きな呻き声を上げました。
それは『ダメだ!ダメだ!』と言っているように聞こえました。
その後すぐにハッチが閉められ、しばらくすると救急車はサイレンを鳴らさずに発車しました。
「本当にお騒がせして申し訳ございませんでした。救急隊員さんの話しだと、痛がり方が普通じゃないので何か別の病気の可能性もあるみたいで、詳しく調べないと何とも言えないみたいですが、食中毒の可能性もありますので、、あなた達ももし何かありましたらすぐに連絡してください。本当に申し訳ございません。」
「はい、わかりました。私達はたぶん大丈夫だと思いますけど。」
そして部屋に戻ろうと歩き出すとすぐに恵利が小声で囁きました。
「利恵!あそこ… 料理長さんがこっち見てる…」
湯の小道の入口でうっすらと裸電球に照らされて、体半分だけ見える状態で立ってジッとこっちを見ている様子はちょっと不気味でした。
「大丈夫、挨拶してそのまま通り過ぎるからね。」
「うん…」
しかし私達が近づく前に料理長は湯の小道へと入っていきました。
部屋に戻り私達は布団に入りました。
「利恵… やっぱり私あの料理長さん怖いよ。」
「そうね、さっきの竹垣の陰からこっちを見てる感じはちょっと気味が悪かったわね。」
「あのさぁ… もしかしたらなんだけど… 果物の中に料理長さんが何かを入れたりしたって事はないかなぁ? お風呂で会った時は胡桃崎さんまだ果物食べてなくて元気だったし、それに料理長さんは胡桃崎さんの事を睨んでるみたいだったし…」
「まさかぁ… でも絶対ないとは言い切れないわね。あの苦しみ方は食中毒なんかよりももっとこうなんか… テレビドラマの毒殺シーンみたいだったもんね。」
「大丈夫かなぁ… 胡桃崎さん。」
「明日女将さんに病院を聞いて、チェックアウトしてからお見舞いに行ってみよっか? 」
「うん、そうだね。特に観光して周りたい所もないし、病院に寄ってそれから東京に帰ろう。」
「なんだかバタバタした旅行になっちゃったわね。まぁ言い方を変えれば忘れられない旅行に。」
「うん… あのさぁ、利恵が田舎戻ってもさぁ…絶対にまた一緒に旅行とかしようよ!利恵と一緒に色んな所に行きたい!」
「またぁ、 そんな事言っておきながら、もし結婚したら私の事なんか忘れちゃって放っておくんじゃないの? まぁそれでも大丈夫ですよ、私は1人で強く生きますから。」
「また意地悪言う…」
「あはは、冗談よ、絶対また旅行しようね!じゃもう寝るよ。おやすみ」
「うん、おやすみ」
目を閉じても私は眠れる気がしませんでした。
初めての食事、一緒に観た映画、花火大会、誕生日、初めてのキス、クリスマス、笑った事、怒った事、喧嘩した事、泣いた事、2人の好きな曲、彼の声、タバコの匂い、恵利の幸せ、私の部屋、彼の笑顔、私の実家、お母さん、、
色々な場面や感情の記憶が次々と頭の中に浮かび、その度に胸の奥にある鉛の塊は渦巻きながら重たくなっていきました。
やっぱり私はまだ彼の事が好きなんだ。
私の知らないどこか遠くの誰かであってほしかった。
なんで恵利なの?
恵利には幸せになってほしい。恵利は幸せになる。彼は優しい。恵利は優しい。心から祝福したい。悲しい。2人の幸せ。1人の私。仲良し。2人の笑顔。プレゼント。2人の将来。赤ちゃん。彼の笑顔。私の将来。おめでとう。悔しい。恵利の笑顔。悲しい。祝福。ひとりぼっち。羨ましい。彼の幸せ。彼の優しさ。マイホーム。私は大丈夫。2人の笑顔。嫉妬。恵利の両親。お祝い。悲しい。心から祝福。後悔。ひとりぼっち。悲しい。笑顔。涙。悔しい。幸せ。許せない。おめでとう。悲しい。許せない。悲しい……
網戸にしているせいか少し肌寒くて目が覚め、横を見ると掛け布団が乱暴にめくられた状態で利恵の布団は空っぽでした。
『ほら、やっぱり利恵お腹痛くなっちゃったんだ…』と思ってトイレの前まで言って声をかけました。
「利恵? 大丈夫?」
返事がないのでノックをしながらもう一度声をかけてみました。
「ねぇ、利恵、 大丈夫なの?」
それでも返事がないのでそっとノブを回してみるとドアが開き、でも利恵はいませんでした。
「あれ? 利恵? 利恵! どこにいるの!? 利恵!」
隣のお風呂場にも利恵の姿はなく、あとはぐるっと見渡せば室内に利恵がいない事はすぐにわかりました。
壁にかけられた時計を見るとまだ2時を回ったばかりでした。
「えっ!? 何で!? こんな時間に… 利恵! どこに行ったの!? 利恵! 何でいないの!?」
利恵がどこに行ってしまったのか見当がつかず、私の不安はどんどん募りました。
『まさかあの料理長さんに誘拐されたんじゃ…』そんな事を考えていると、
コーン!
「!?」
コーン!
「あっ… 」
コーン!
「…… 」
私は血の気が引いていくのを感じました。
少し離れた所で何かを叩いているような音が鳴っていました。
これはさっきの胡桃崎さんの話しに出てきた音なんじゃないか、釘で藁人形を木に打ちつけている音なんじゃないかと怖くなり、私は急いで布団に潜り込みました。
「やだよぉ… 利恵ー!! どうして!? 何でいないの!? どこにいるの!! 怖いよぉー! 利恵ー!! 助けてよー! 利恵ー!」
その音が聞こえないように私は耳をふさいだまま大声を出し続けました。
声を出し疲れてしばらく息を潜めていると、どうやら音はもう鳴っていないようでした。
布団を少しだけ持ち上げて耳を澄ましてみても、やはり音は聞こえませんでした。
でも怖くて布団から顔を出す事はできませんでした。
きっと窓の外を見たら懐中電灯の明かりが動いてるんだ、なんて想像してしまい恐怖心はどんどん膨らんでいきました。
「利恵ぇ… なんでぇ… どこに行っちゃったの… 怖いよぉ… 利恵ぇ… 」
布団に潜って丸まったまま泣いていると、
ガチャ…… バタン
『!』
部屋のドアが開いて閉まる音が聞こえました。
『誰…? 利恵なの? それとも… 』
目を強く閉じて丸まって震えていると、誰かが布団の上からポンポンと私の背中を叩きました。
「いやぁ…… 助けてぇ…… 利恵ぇ…」
私が泣き声を漏らすと、次の瞬間布団が一気にめくられました。
「きゃー!! いやぁー!!」
「なっ 何よ! どうしたの恵利!? 急に大きな声出してびっくりするじゃない! どうしたの? なに泣いてるのよ!」
「利恵ぇ… 何でいなかったのぉ… どこ行ってたのよぉ… 利恵のバカぁ… バカぁ… 利恵ぇ… 怖かったよぉ… 」
私は利恵に抱きついて泣き続けました。
「何よ恵利、一体どうしちゃったのよ? 大丈夫? 時計よ、時計を忘れてきちゃったから取りに行ってたのよ。」
「時計…?」
「そうよ、お風呂の脱衣所に置いてきちゃったから取りに行ってたの。」
「そんなの明日の朝取りに行けばいいじゃん… バカぁ…」
「何よさっきからバカバカって、もう、、すごく大切な時計なのよ、いつも枕元に置いて寝るの。それよりどうしたのよ?なに泣いてるの?」
「音が聞こえたの… コンコンコンコン…って。」
「カップル達が聞いたっていうあの音?」
「そんなのわかんないけど… 何かを叩いてるような音が外から聞こえたの。」
「私歩いててもぜんぜん聞こえなかったわよ?気のせいじゃないの?」
「そんな事ないよ! 絶対に鳴ってたもん… 」
「そう… それじゃあもしかすると… 誰かが誰かを呪っているのかもね… 」
「えっ!?」
「あはは、冗談よ! もう恵利は怖がりだなぁ」
「だって… 」
「ほら、今度こそもう寝るよ!おやすみ!」
「うん… おやすみ。でも私眠れないかも… おやすみ…。」
恵利は少しの間だけ何度か寝返りを打っていましたが、15分もすると寝息が聞こえてきました。
なんだか自分の妹のようで恵利がとても愛おしかったです。
そして私もいつの間にか眠っていました。
早くに目の覚めた私達はもう一度お風呂に入ってから別館の食堂に行きました。
朝食もとても美味しかったです。
昨夜変な話をしたせいで2人とも最初の一口だけは少し躊躇しましたが、やはり料理長の腕は確かでした。
食べ終わるのを見計らって女将さんが温かいお茶を持ってきてくれました。
「本当に昨夜はお騒がせしてしまってごめんなさい。お腹は大丈夫ですか?」
「はい大丈夫です! 2人とも何ともありません!」
「朝食はいかがでしたか? お新香美味しかったでしょ?」
「ええ! ごちそうさまでした! とても美味しかったです! それであの、、すみませんが胡桃崎さんが救急車で運ばれた病院を教えていただけますか?」
「病院を? あなたたちお見舞いに行くの?」
「はい、そのつもりです。別に知り合いってわけじゃないんですけど… 同じ日にここに来てそれで少しお話しもしたし、ちょっと心配なんで。」
「病院は宇佐南中央病院よ。ここからだと車で15分くらいだから、出発する時タクシーを呼びますね。私も午後に行ってみようと思ってるの。でもあなた達は本当に優しくていい子ね。きっと二人ともいいお嫁さんになるわ。」
「そんな、、ありがとうございます!頑張ります! それじゃこのあと着替えたら売店でお買い物してから帰りますんで、色々とお世話になりました!」
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、元気をたくさんくれてどうもありがとう。またぜひ遊びに来てね!」
「はい! ありがとうございました!」
私達は部屋に戻って荷物をまとめました。
「旅行ってこの瞬間が1番さみしいよね… もう1泊したいなぁっていつもなる。」
「そうね、それにこれから重たい荷物を持って長い時間電車に乗るって考えるとちょっと憂鬱よね… でも仕方ない。よし!私は準備できたよ!」
「うん!私も大丈夫!利恵、時計忘れないようにね!」
「もうちゃんと腕にしてますよーだ」
私達は売店に向かいました。
受付に女将さんがいて「荷物はそこに置いてゆっくり選んでね。」と声をかけてくれたので、私達は入口のすぐ横にある大きなソファの上に荷物を下ろしました。
「えーと、先ずはりんご麦茶とみかん麦茶!これは自分用で、あとは何にしようかなぁ 美味しそうなのがたくさんあるね!利恵は?会社の人とかに買っていくんでしょ?」
「そうね、人数少ないからちょっと豪華なやつにしとこっかな。えーと、、あっ これでいいや、ちょうど人数分入ってるし。あとは自分用のバナナ煎餅っと。決まったよ~」
「えっ もう!? 早いなぁ、まだ全然見れてないよぉ。」
「なにも急いでないんだから、気にしないでゆっくり選んでいいわよ。先にお会計だけしてあそこ座って待ってるから。」
「わかった、それじゃあ、えーと、、どうしよっかな、、」
私は受付でお会計を済ませてから、荷物を置いたソファに座りました。
黒いソファはとても柔らかくて、優しく私を包み込んでくれているようでした。
「あなた達なんだか本当の姉妹みたいね。」
お会計の時に女将さんが言ってくれた言葉が頭の中をぐるぐると回っていました。
『そう… 私と恵利は姉妹同然にいつも一緒だった。恵利が笑っている時は私も楽しかったし、恵利が泣いている時は私も悲しかった…。 恵利はきっと幸せになれる… だからそれはきっと私にとっても… 』
胸の奥の黒い渦がまた緩やかに回転を始めました。
その黒い塊を吐き出してしまわないと、自分の感情が全てその渦に飲み込まれてしまうような気がして、私は目を閉じて深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出しました。
体の中にある空気全てを吐き出しても、黒い渦はまだ胸の奥で回転していました。
同じ動作を繰り返し2回目に息を吐き出した時、私の目からは涙が流れていました。
ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界には一生懸命に商品を選んでいる恵利の姿がありました。
「恵利… 」
2つの箱を持って首をかしげながら迷っている恵利に、受付にいた女将さんがニコニコしながら近づいていくのが見えました。
そしていつの間にいたのか、女将さんとは恵利を挟んで反対側の商品棚の横に料理長が立っていて、じっと恵利を見ていました。
恵利は料理長の存在に気づかずにお土産を選んでいます。
「…… 」
なんとなく嫌な雰囲気を感じて、私がぼやけた目を擦りながら立ち上がった瞬間、料理長が恵利に向かって走り出しました。
「恵利!!」
自分でも驚くほど大きな声が出ました。
その声で恵利は顔を上げ、やっと自分に向かって走って来る料理長の存在に気づきました。
「キャー!!」
私も駆け出しましたが間に合う距離ではありませんでした。
しかし料理長は恵利の横をすり抜け、女将さんを抱きしめたのです。
私が駆け寄ると、女将さんと料理長の足元にたくさんの血が流れていました。
「もうダメだ!姉さん!そんな事をしても幸恵は戻ってこないんだ!」
聞き取りづらい声でしたが、料理長は確かにそう言いました。
そして足元の血は料理長の血でした。
女将さんの手に握られた包丁が料理長のお腹に刺さっていました。
女将さんは涙とよだれを流しながら笑っていました。
「恵利!!」
私は泣きながらしゃがみこんでいる恵利を抱きしめました。
恵利も私も震えが止まりませんでした。
「あんた達、怖い思いさせて悪かったな」
料理長が絞り出すような声でそう言うと同時に、女将さんが声を上げて笑い始めました。
白目をむいてよだれを垂れ流したその顔は、あの優しい女将さんではありませんでした。
そして狂気に満ちた笑い声が天井の高いロビーに反響して響き続けました。
東京に戻って1週間ほどして、私は胡桃崎さんに電話をかけてみました。
体調さえ戻れば絶対にあの旅館の事を調べていると思ったからです。
「はい、胡桃崎です。」
「あっ あの、この前旅館で一緒になった伊東です。」
「あぁ、あの時の!こちらからも連絡したかったんですが、連絡先を聞いていなかったので。あの後大変だったみたいですね。大丈夫でしたか?」
「えぇ、私達は。それで、あの旅館では一体何が起きていたんですか?」
「今ちょうどその原稿を書いているんですが、そうだ、もしよろしければどこかでお会いしてお話しできますか?ちょっと衝撃でしたよ。」
翌日、私と恵利は喫茶店で胡桃崎さんから真実を聞かされました。
「今から話すのは義治さん、あっあの料理長さんです、ほとんどその義治さんから聞いた話しと警察からの情報が少々です。」
「無事だったんですね!? 料理長さん!」
「えぇ、急所を外れてたんで、面会して話す事もできたし、そろそろ退院してる頃だと思います。」
「よかった… それであの、料理長さんは女将さんの弟なんですか?」
「あれ?よくご存知ですね。」
「あの時叫んでたんです、姉さん!って。」
「そうです、弟です。幼い頃に受けた声帯の手術の影響で発声が上手くできなくなって、子供の頃はいじめの対象にされたみたいです。それで人と接するのが苦手になって、ほとんど言葉を発しなくなったそうです。今回は事実を伝えるためにとても頑張って話してくれました。確かに聞き取りづらいところはありましたけど、あなた達が言っていたように心の優しい方でした。心が病んでしまった姉を見ていて辛かったと思います。」
「料理長さん…… 」
「そもそもの発端は、女将さんの娘である幸恵さんの自殺でした。幸恵さんは結婚が決まっていて、式まであと数日という時にフィアンセを事故で亡くして、フィアンセの後を追ってしまったんです。そして幸恵さんが亡くなったその時から、女将さんの心は病んでしまったのです。
塞ぎ込んでいる女将さんをご主人は何とか元気づけようとしていたんですが、それは最後まで叶いませんでした。女将さんは『私はこんなに辛いのに、あなたは何でそんなに平気でいられるの!』とよく怒鳴っていたそうです。それでもご主人は決して怒鳴り返したりはせずに、懸命になだめていました。
そしてある日、幸恵さんが命を絶った場所に2人で花を持って行った時に、女将さんが衝動的に身を投げようとしたんです。それを止めようとしたご主人が足を踏み外して断崖から落ちて亡くなってしまったんです。」
「同じ場所で娘さんと旦那さんを… 」
「そして義治さんはその瞬間を見ていたんです。だから『あれは事故だったんだ』と何度も女将さんに言ったそうですが、女将さんは『自分が殺したんだ』と言って、心の闇はさらに深くなってしまったんです。」
「全然そんな風にみえなかったね…」
「うん、すごく明るくて優しい人だと思ってた…」
「そうなんです。確かに明るくて優しい人なんですが、おそらく心の奥深くに全く別の人格が形成されていたんだと思います。」
「多重人格…?」
「専門的な事は私にはわかりませんが、義治さんの話しを聞いている限りでは、そういった病気だったのかもしれません。20代くらいの若い女性に対して怨みを持つようになってしまったんです。若い女性を見ると幸恵さんを思い出してしまうのか、その別の人格が現れて攻撃的な怨みの感情に支配されてしまうのです。もし幸恵さんが生きていればちょうど同じくらいの年齢ですから、他の女性の幸せを見るのが辛くて恨めしかったんでしょう。」
「女将さんがそんな… 」
「あの旅館をチェックアウトした後に行方不明になった女性と、崖下で発見されて自殺として処理された女性、これはどちらも女将さんが殺害したそうです。殺害場所は2人とも幸恵さんが身を投げたのと同じ場所です。警察の取り調べに対して本人が自供したそうです。」
「えっ… 」
「行方不明とされている女性は、おそらく岩にぶつからずに海に直接落ちたんだと思われます。その断崖ではたまに自殺があるそうなんですが、潮の流れの影響なのか海に落ちると遺体があがらない事が多いようです。」
「なんの罪も無い人を2人も… 」
「行方不明と自殺、その2つの事件が起きた時に義治さんは直感で『これには姉が関係している』と感じ取ったそうです。だからそれ以上の罪を重ねさせないように、若い女性が泊まる時は姉の行動を監視していたと言っていました。」
「あぁ… 」
「そして女将さんは2組のカップルが乗った車の追突事故についても、殺すつもりで後ろからぶつけたと、そして藁人形も自分が打ちつけたと話したそうです。」
「藁人形はやっばりホントの呪いだったんだぁ… もし料理長さんがいなかったら… 私も殺されてたのかもしれない… 」
私達はしばらく無言になってしまいました。
何か言おうとしても、上手く言葉で表現できない事ばかりでした。
「えーと、それじゃ私はこの辺で失礼します。あともしよかったら、来月の20日に発売される『月刊ミステリー』を手に取ってみてください!今回の事件の事をもっと詳しく書いた記事が載ると思いますんで!それじゃ!」
「ちょっと待ってください!」
「あっ はい、なにか?」
「胡桃崎さん、毒は大丈夫だったんですか?」
「毒?」
「えぇ、だって救急車で運ばれたじゃないですか。」
「あっ… あぁその事ですか ははは」
「何がおかしいんですか!?」
「だって、毒ってまさかそんな、あはは、あれはただちょっとお腹が冷えただけですよ はははは 」
「えっ?」
「だから、ただちょっとお腹が冷えただけですって、なのに毒だなんて、あははは…」
「……… 」
「利恵!利恵! ダメだよ、落ち着いて。 怒っちゃダ…… 」
「はぁぁ!? 何? もしかしてあなたちょっとお腹が冷えたってだけで救急車を呼んだの!? しかもあんなに生死をさまよってるような痛がり方をして!? バッ…バッカじゃないの! そんな程度の腹痛なら小学生だって我慢するわよ!」
「あぁ もぅ… 利恵ぇ 」
「それにあなた!今お金払わないで帰ろうとしたでしょ!!全部あなたが払いなさいよ!私達これからサンドイッチを頼むから、その分も全部よ!!」
「はっ はい!」
「もぅ…利恵は変わらないなぁ、スイッチ入ったら止められないよぉ。」
「だってただの冷えよ!冷え!そんな事で救急車を呼ぶ人なんている!?まったく情けない男だわ!」
「そんな事言うけど、私結構お似合いだと思うよ。利恵と胡桃崎さん。」
「ちょっと!恵利!バカな事言わないでよ!誰があんなポンポン痛い痛い男なんかと!」
そこに彼が戻ってきました。
「なんですかっ! 会計が済んだんなら早くおうちに帰って腹巻きでも巻いた方がいいんじゃないですかっ!」
「あっ いえ、1つだけおかしな事があるんです。それをいい忘れたんで…」
「はい!手短にどうぞ!」
「えぇ、私達が泊まったあの日、まぁ私は救急車で運ばれちゃいましたけど… あの日もやっぱりお地蔵さんの所の木に藁人形が打ちつけられていたらしいんですよ…」
「それで?」
「その日の藁人形に関しては自分はやっていないと、女将さんがそれだけは認めないんだそうです。まぁそれだけなんですが…」
「はい、それはどうも貴重な情報をありがとうございました。ではごきげんよう。」
彼はペコッと頭を下げて帰っていきました。
「利恵ぇ、そんな態度はさすがに胡桃崎さんに悪いよぉ…」
「だってしょうがないじゃない、自然とそういう態度になっちゃうんだもん。」
「もぅ… でも利恵、今の胡桃崎さんの話し…… 女将さんがやってないなら、なんで藁人形が木に打ちつけられてたんだろぅ? やっぱり私が聞いた音がそうだったのかなぁ?」
「なんで藁人形があったのか、恵利はそんな簡単な事がわからないの?」
「えっ? なんで?」
「そんなの決まってるじゃない、誰かが誰かを呪っているのよ」
「え…… 」
「あはは、冗談よ!さぁサンドイッチ食べよっと!」
「もぅ、利恵ぇ!!」
私の胸の奥にある黒い渦がまたゆっくりと回転を始めました…