夏
私たちの交際はある意味でとても順調だった。友達でいる時と感覚は大した変化はなかった。いつものようにメールをし、週末に会った。そう、大きく変わったと言えば、毎週、週末に会うようにいなった事だ。私はそれが嬉しかったし、彼女になったのだという自覚も段々と芽生えるようになった。
ただ、私の口下手は大きく変化しなかった。私は、完全に彼に甘えていた。彼はいつも楽しい話を振ってくれるし、その話に相槌を打っておけば許されるという感覚が私の中にあったのかもしれない。
付き合って二カ月。そろそろ慣れてきてもいいのに、私は一向に付き合っているという事に慣れなかった。なんたって初めての本気で好きになった人なのだ。多くの数交際をしているかどうかでその次の交際が上手くいくかどうかは決まらないとその時実感した。
私たちは大型ショッピングモールを見て回ろうという話になり、駅に近い大型ショッピングモールに出向いた。私もその提案が出た時は洋服を見て回ったりするのも楽しそうだなと思った。
店に入るとその日は着ぐるみ姿のキャラクターが店に来ていた。彼は思わず写真を撮る事を提案した。しかし、当時の私は写真を撮る事すら拒むほどに自分に自信が無く、言葉で言い表せない程の恥じらいが自分の中にあった。今考えれば、逆にそんな事をしている自分に恥じらいを感じる。
彼は私の反応に少し戸惑いながら私の手を取って店を回ろうと言った。私は申し訳なさを感じながら彼の言うままについて行った。
一時間くらい経った頃、彼は明らかに顔を曇らせながら
「もう帰ろうか、他に見たいところは?」
と尋ねてきた。
私は彼のそんな顔を初めて見たので、少し怖くなりながら首を横に振ってしまった。彼はそう、と言葉を置いて、駅の方にずんずん歩き始めた。彼は本当に帰るつもりである。
「私、何かしちゃった? ごめんね」
その言葉すら口元まで出てきて発す事が出来なかった。思い当たる節はいくらでもあった。この空気がまさにそれである。
駅は歩いて五分くらいのところにあるから、何とも言えない空気の中、私が必死に話しかけようとしている間に着いてしまった。
このコーンを通り過ぎたら言う、この植木を通り越したら言う、なんて事を繰り返していた私は愚かな事に、今言わなくては絶対に後悔するというところまで来てしまった。
駅を目の前にして、私はその日の勇気を振り絞って、
「ごめん、何しちゃったか教えて」
と言った。
彼は私が言葉を発した事に驚いたのか、少し間を開けてから、
「ううん、今日はもう帰ろうって思っただけだよ。 他に見たいところ、もうないって言ってたでしょう?」
と作り笑いを見せた。この人は嘘が下手くそなのだろうか。
「じゃあ、じゃあ、この空気は何?」
私は生意気な質問をした。私が元凶である事は分かっていた。でも、彼の言葉からその指摘をもらいたかった。そこから自分がどうしていけばいいのかを見つけたかった。
「一緒に写真撮ろうって言ってるのにさ、どうして撮ってくれないの? 俺は一緒に撮りたかったんだよ。 それに、そっちから手を繋いでくれる事は無いし、そっちから話を振ってくれる事もない。俺と一緒にいて、楽しくないんじゃないかなって思ってさ。」
彼は一気に言葉を連ねた後にこう付け足した。
「……もう、今日は帰ろう、俺もなんか疲れちゃった。」
言っている事は、最もだった。逆の立場だったら私だってそう思うだろう。私は、何に恥じらいを持っているんだろう。付き合うという事に恥じらいを持ってしまったら、私の事を好きだと言ってくれた彼を否定する事になるのだ。私がしている事は、最低行為だ。
「そっか、ごめん……」
私はそう言うしかなく、ひとりで駅の方に向かった。私は電車に乗って帰るが、彼はここから自転車だから、帰り道が一緒なのはここまでなのだ。
駅に向かって歩く中、とてもじゃないが振り返る気にはなれなかった。振り返ったところで何だか傷ついてしまいそうな気がした。
気づいたら、私は泣いていた。すれ違う人に見られることなんて気にする暇もなかった。まるで、振られたみたいだった。
駅の入り口に入る時、私は背中を叩かれ、腕を掴まれた。その手は、私が大好きな手だった。だから、声を聞く前に誰だか分かったし、それを思うと余計に涙が出そうだった。
「ごめん」
第一声目はこれだった。私が泣いている事に驚き、申し訳なさそうな顔をした。
「怒り過ぎた、本当にごめん、もう一回戻ろう」
私の目を見て、彼は謝った。謝らなければならないのは私の方なのに、声が出ず、ただ頷くしかなかった。
私たちの小さな喧嘩と呼べるかも分からない喧嘩はこうして起こった。
私たちはこんな喧嘩を通して改善点を指摘しあった。時にはきつい言葉を織り交ぜて、時には連絡を少し断つような期間を経て、それでも仲直りをし、また喧嘩をし、必ず和解した。
しかし、八月の末、私たちは付き合い始めて半年を迎えていた。夏は喧嘩が絶えなかった。酷い時には週に三回も喧嘩をし、大きな喧嘩の度に私は彼の家に出向いて喧嘩を終わらせていた。
そんな八月で、私たちの交際が終わろうかという時が来ていた。私たちの喧嘩はいつも小さな事がきっかけで始まってしまう。例えば、メールの返事が遅いとか、会う約束をしていたのにキャンセルになったとか、集合時間に遅刻したとか、そういう話だ。
そんな話が、今回は別れ話になってしまったのだ。別れ話を切り出したのは彼の方だった。付き合い始めとは大きく異なり、私も彼も慣れ合って冷たい態度を簡単にできるようになってしまっていた。
その日の喧嘩のきっかけは電話だった。電話でなかなか会話が弾まないのである。弾まない上に彼がゲームをしていたるするから、弾もうにも弾めないのだ。前にもこのような喧嘩があり、そんなことなら電話の回数は減らそうという話にもなったが、ついつい電話をしてしまい、遂にはこの始末である。
その結果、
「前から思ってたけどやっぱお前とは合わないわ。」
と言って、彼は勝手に電話を切った。
私は慌てて電話をかけ直した。しかし、取り合ってくれるわけもなく、何度も拒否された。
その日の夜、彼からメールが来た。
内容は、しばらく距離を置きたいという事だった。会う事はもちろん、連絡も一切取らないという条件のもと、距離を置く事を提案された。戻る気はあるのかと尋ねた。彼の返答は、分からない。ただ、戻るように努力はしてみる、というものだった。
私は正直、その時に終わりを覚悟した。しかし、彼に対する気持ちは全くもって薄れてなどいなかった。こんな喧嘩でここまでになってしまう事には理不尽さや腑に落ちない部分があったが、私はこんな事で嫌いになれなかった。なれるはずがなかった。私が本気と言うからには、こんな事で気持ちが揺らぐようではおかしいのである。例え、彼がこの喧嘩で私に嫌悪を抱いたのだとしても、私が変わる必要はない。そう思った。
私はなかなか眠りにつけない日々を送った。喧嘩した時の事を振り返っては、あの時もっとこうしていれば良かった、と過去の事ばかりを悔んだ。過去に起こした事はどうにもできないのだから、今どうするかを考えたところで、今は連絡すら取ってはいけないのだから、意味がなかった。連絡を絶ちたいと思うほどに追い込んだ自分を恨んだ。
きっと、私が悩んでいる今も彼はいつもの明るさで学校生活や部活を楽しんでいるに違いなかった。私はまともに食事すら摂れないというのに、どうしてここまで違うのかと自己嫌悪に陥ることもあった。
私はそんな生活を三日間送った。
距離を置くと言った三日後、彼から連絡があった。もっと長引くと思っていたから、私はその時久々に生きた心地というものを味わった。
彼はメールで電話をしないか、と話を持ちかけてきた。
私は慌てて電話をかけた。一刻も早く、彼の声を聞きたかった。
「もしもし」
私は冷静を装って声を発した。ここで浮かれてはいけない、と思った。彼は話そうと言っただけで、これからも付き合おうと言ったわけではないのだ。
「もしもし、元気にしてる?」
彼はこう言った。もちろん、元気であるはずがない。しかし、この声を聞けば全てがどうでもよく思えた。
「うん、話ってどうなったの?」
私はその話を聞きたくて電話をかけたのだ。
「俺はもう一回付き合ってもいいと思ってる。けど、付き合うかどうかはそっちが決めて」
照れているのか、なんだかぶっきらぼうに聞こえた。私は驚きと嬉しさで涙が溢れ出した。今思えば、私はこの人との喧嘩の度に泣いている気がするが、私が誰かと付き合っていく中で涙を見せたのは彼が初めてである。喧嘩の度に終わりが来てしまうのではないか、自分の不甲斐なさ、それでも仲直りできている事に、私は大きく感情を揺さぶられているのだ。それを彼は重いと言うが、私の本気の度合いはその地点にまで来ている故なのである。そんな事を伝えたらまた重いと言われそうなので言わないが。
「うん、元に戻ろう」
私は涙声を殺しながら伝えた。私はこの日の喧嘩を一生、忘れないうちは忘れないと思う。距離を置くと大々的な事を言ったのに、三日で連絡が来たのは、彼が耐えきれなくなったからだと聞いて余計に嬉しくなった。喧嘩の勢いで言ってしまっただけで、彼は私の事を思ってくれていたのである。
私たちの夏の連続で起こってしまう喧嘩は、この日を持って消えていった。夏と共に終わりを迎えたのである。
私は、どれだけ喧嘩を重ね、酷い事を言い、言われたとしても、彼に対する気持ちは変わらないのだと実感した季節だった。
続く




