たったひとりの君だから【前編】
高校一年生。それなりに頑張って入った学校だったけれど、さほど楽しくなかった。僕はとてもとても運が悪く、不幸だった。
その不幸は僕の家に先祖代々受け継がれた名字に起因する。
高校に入ってみたら同じ学年に途方もなくモテる奴がいた。それはもうモテるなんてものではなく、小規模なアイドルだった。女子達は皆当たり前に名前を知り、ひとめ見ようと騒いでいる。グッズとか作ったら売れそうなそのモテようは見てるぶんにはなにかの祭りのようであったが、問題としてキャーキャー言われているその男と僕は同じ名字だった。
藤倉。珍名ではないけれど、そこまでゴロゴロいる名前じゃない。顔貌は全く似ていないため、兄弟かと疑われることもなく、皆不幸な偶然をひとめ見て、あるいは一度聞いて察する。
ただでさえ影が薄いのに、最近の僕は氷をたくさん入れて数時間経ったあとのカルピスより影が薄い。
一応、気の毒がってくれる友達はいる。
影が薄いのなんて昔からだし、そのことが原因で意地悪をされているわけではないし、そこまで気にすることもないのかもしれない。
でもこんなさえない僕でも高校に入ったらそれなりに楽しくやれて、女の子とも話したりして、明るく楽しく過ごせるんじゃないかというささやかな願望は無残に打ち崩された。
そんなにものすごいことではない。しかし、奴がいなければ起こり得なかったであろう小さな不幸の数々。たとえば名前を聞いて頬を綻ばせた女子が、顔を見てガッカリするなど、思春期の青少年には地味にきついダメージの出来事が頻発。奴がいなければ影こそ薄くても無駄にガッカリされることはなかったのに。
それから教師に名前を呼ばれた時に周りがあれ、と確認してくる。あぁ、そんな奴もいたな、の目はいっそ消えそうになるくらい影が薄いことを実感させる。
最近では藤倉じゃないほうの藤倉とか言われる始末。さりとてみんなに下の名前で呼んでもらえるほど明るく弾けたキャラでもなかったため、無用な混乱を避けるためなのか最近ではもう呼ばれること自体減ってきた。
「かずくん!」
背後から声が聞こえたので足を早めた。
「かずくんかずくんかずくん! かーずーくーん!」
「……なに」
「あ、こっち向いた!」
橘千春。
同じクラスの女子生徒。入学してまもなくから勝手に人を「かずくん」呼びして好きとか言ってくるこいつのことを僕は全く信用していない。顔が可愛いし、罰ゲームなのか、単なるからかいなのかわからないけれど、僕に声をかけるようなタイプじゃない。
「姿を見たから、声をかけたくなったんだ」
「あそう」
「かずくん、おはよう! 今日も素敵だね! はぁー……すごい……すごい好き!」
「いつまでやるの、それ……」
「いつまででも! 私がかずくんのこと好きじゃなくなるまで!」
「あのさ……ぼ……俺に構ってもいいことなんてないよ」
「いま、ぼくって言おうとして俺に言い換えたよね? ね? ね?」
「……るさいよ。そんなことないし……」
「そういうとこがなんかくすぐるの!」
「もうやめてよ。恥ずかしい」
「照れてるとこが可愛いからなおさらやめなーい」
何故だか妙なもののターゲットにされてしまったこれもきっともうひとりの藤倉のせいだと思うことにする。さっさと離れようとすると背後に大きな声がかかる。
「かずくん!」
「う、うるさいってば、声、小さくして……」
言うとこちらに駆け寄ってきてものすごく顔を近づけて耳元で小声で「だいすき」と言って去っていった。これは早急になんとかしなければならない人生の議題。
「清和また橘にからかわれてたのか? ひゅー! 羨ましいね!」
ちっとも羨ましくない本音が透けて見える声はクラスメイトの沼田、その後ろにドンちゃんこと土門もいる。
このふたりは入学してからなんとなく僕と行動を共にしているさえない同士の仲間ではあるが、沼田は無駄に騒がしい奴で、僕とドンちゃんをどことなく馬鹿にしているふしがある。本当はもうちょっと上の階層に移動したいのだろう。
彼は思っている。“俺はお前らとはちがうのに”その気持ちが言動に透けて見える。それでもひとりになるのは嫌だから、“さえない軍団”のリーダーみたいな顔をして僕らといる。
「橘も清和なんかからかってないで俺のとこにくればいいのにな! 土門もそう思うだろ?」
「えー……」
やや太めの肉体を揺らして、ドンちゃんが不思議そうな顔をした。
「お前にはわかんねーな!」
それが不満だったのか、沼田はドンちゃんの天パ気味の頭をクシャクシャと掻きまわす。
「あれ絶ッッ対裏あるからな! 橘なんてレベルたけー女子が清和なんかにご執心するはずねえし!」
「……わかってるよ」
「マジ気をつけろよ。本気にしたら後で傷付くんだから」
だから分かっていることをズケズケと……。素直に嫌な奴だなぁと思う。
「だいたいさぁー、橘って俺よりは低いけど清和より身長あるんじゃね? 俺よりはないけど……」
確かに橘は女子の中では身長が高いほうで、小柄ではない。僕と並ぶとだいたい同じくらいに感じられる。けど、明らかに高いというほどでもないような気がする。それにこっちはまだ成長中だ。
だが、言いたいことはわかる。
身長だけではなく、彼女は健康的で綺麗な肌と髪を持っていて、やや童顔なのにスタイルは良くて、スカートから覗く太ももがすらりと長い。おまけに明るくてよく笑う。僕とは釣り合わない子だった。
「絶対本気じゃねーよアレは」
沼田がブツブツ言うそこに黙っていたドンちゃんが割り込んだ。
「でもさ、なんでそんなことすんの」
「清和の反応が面白いんじゃね」
「僕はそんなことないと思うなぁ……」
さすがに酷いと思ったのかドンちゃんのフォローが入る。彼はいい奴だ。しかし、沼田はドンちゃんや僕が自分に意見すること自体が気にくわない。上だと思っているから。
非常に忌々しい顔で「お前にはわかんねーだろ! お前女子と話したことあんのかよ!」と吐いて先に教室に入っていった。
「あいつ嫌な奴だなぁ……」
ドンちゃんの呑気な声に力なく「そうね」と同意した。普段は無神経な程度の沼田の態度は女絡みだと特に悪くなる。
幸いにも数日後、沼田は彼の思う格上のグループに入れてもらったらしく、こちらに絡んでくることはなくなった。しかし持ち前の空気の読めなさでだんだん嫌われはじめ、だんだんパシリっぽくなってきている。集団の中で卑屈な笑みを浮かべ頭をど突かれている彼をよく見るが知ったことではない。世は無常。学校社会は厳しい。
しかし、沼田があれだけ言うということは客観的に見ても橘の行動はやはり怪しいということだろう。
そしてもうひとつ、僕には彼女が信用できない大きな理由があった。
橘はモテる方の藤倉を女子数人で追いかけている輪の中にいた。それも一回じゃない。複数回は見た。あちらの藤倉はクラスがちがうから知らないんだろうと侮っているのかもしれないが、僕のほうは構われてからそれとなく観察するようになっていたので知っている。
本当はあっちの藤倉が好きなんだろう。そして、同じ名字の僕をついでにからかっているのだろう。理由としては弱いかもしれないがそれくらいしか考え付かない。
*
放課後、教室に入ろうとすると橘千春がほかの女子生徒としゃべっていた。思わず入り口で立ち止まる。それがいけなかったのか、恋話が開幕されてしまった。女子達は順番に現在の恋愛模様について語っていく。
「千春は藤倉好きじゃないの?」
突然名前が出て、橘に数人の視線がいく。
「え、あんなのぜーんぜんだよ! 本当は興味ないもん! 本気なわけないじゃん」
ぜーんぜん……。
これは僕のことだろう。あれだけ構っておいて、裏ではこれだから女は怖い。
「私、好きな人いるし!」
「え、やっぱりあっちの藤倉?」
「……えへへ。全く相手にされてないんだけどね」
藤倉。これはあちらのモテる藤倉のことだろう。確かに全く相手にされていない。今その事実が若干胸のすく思いだ。
「あっちの藤倉はさー、なんか色々面白いだけで……好きとかそんなんじゃ全然ない」
その時沼田の言葉が頭を過った。
『清和の反応が面白いんじゃね』
ガラガラと扉を開いて中に入ると橘はびっくりしたように背筋を伸ばした。
「あ、聞いてた……?」
「聞いてたよ」
「ま、いっかぁ」
橘はてへと笑ってまた友達と話を続けようとする。
橘千春にとって僕に対するいたずらはその程度。よくわかった。
本音がバレたのだから明日からは近寄ってこないだろう。
*
「かーずくん!」
僕の予想に反して、次の日も橘は声をかけてきた。
「昨日……まさか聞かれるとは思ってなくて……でもどうせ知ってたよね」
「橘さん」
「なに」
「話しかけないでもらいたいんだけど」
「え、なんで……」
「不快だから」
彼女の大きな目が見開かれて揺れた。
「藤倉……私のこと嫌い?」
「嫌いだよ」
あんなことをされて、嫌いじゃないはずがないだろう。橘が何を考えているのか、少し驚く。
「そっかぁ。ごめんねー、嫌がることして」
あっけらかんと、彼女は言った。なんでもないことみたいに。
「もう……やめてくれればいいから」
軽い気持ちでからかっていたのだろうけれど、あんまりだ。僕にだって人の心はある。顔をあげて彼女の顔を見たとき、違和感を感じて怒りが胡散した。
「ごめんね藤倉」
「じくら」部分をちょっとだけ平らな、妙なイントネーションで言った橘は気がつくともういなくなっていた。
授業中、橘はずっと元気がなかったけれど、放課後になってついに泣きだした。
唐突に泣き出した彼女に友達が心配そうに声をかけていたけれど、彼女は何も言わず腕に顔を突っ伏して泣き続けた。
いつもあんなに明るくて、友達もたくさんいて、悩み事なんてそうないんじゃないかくらいに思っていた彼女が泣いている。
もし全く関わりがなかったら、あんな人にも悩みがあるんだな、くらいに思って、その悩みごとすらも自分とは違う次元のものなんだろうな、なんて思っていたかもしれない。
それを視界に入れないようにしていたけれど、モヤモヤが膨れ上がる。
僕は今朝、彼女に酷いことを言った。
いや、気にするようなことではないと思って言った。だって彼女は、あっちの「藤倉」が好きで、僕のことなんて、何も気にしていない。そのはずだったから。それに彼女のほうも気にした様子はなかった。
もしかしたらあの「藤倉」はやっぱり僕の思ったのと逆だったんじゃないか。
それはしてはいけない期待だから、なるべく考えないようにしていた。
そんなことはあり得ない。
あっちが好きで僕のほうが冗談。常識的に考えてそれが妥当だ。誰に聞いたってそう答えるだろう。学校じゅうの女に好かれているようなやつと、薄まったカルピスのような僕では比べるべくもない。
自分とは全く関係ない理由で泣いているのかも。
声をかけてお前なんて関係ないと言われたら。馬鹿にされたら。
だけど、立ち去る寸前、一瞬だけ見た彼女の顔。
いくつもの思いが胸を去来して、ずっと気が晴れない。
自分の考えに自信が持てなくて、声をかける決心がつかない。あっちの藤倉より、僕が好きなんて、普通に考えてありえないから。
でも、橘は泣いている。自分があんな風に言ったあとに。
思い切ってかたんと立ち上がった時に扉のほうから女子生徒の会話が耳に入ってきた。
「聞いた? 藤倉君、彼女できたんだって」
「本当に?」
「うん、本人がそう言って、今一緒に帰ったんだって」
なんだ。そうか。
僕はそのまま鞄を持った。
それから泣いている橘の後ろを通って教室を出た。
*
橘千春が声をかけてくるようになったのは四月の半ばだった。
クラスの親睦を深めようとか、お祭り好きの誰かが言い出して、学校帰りにほとんど全員参加でみんなでカラオケに行った。
みんなでわいわいやるのは得意じゃない。むしろ少し苦手だった。でも、まだ入学したばかりでクラスの雰囲気にも慣れてない状態でそれに不参加する勇気はなかった。後日自分だけ馴染めない可能性だってある。
それにこの頃はまだ、入学したての浮わついた感覚の中、こんな自分が高校に入って少しでも変わるんじゃないかと、根拠のない甘っちょろい期待をしてもいた。
しかし、やはり僕は僕だった。
店に向かう道の途中、僕は群れからはぐれた。
すっかり周りを見失ってひとりでお店に向かっていると、道路の少し先でやたらとニコニコした女子生徒がひとり立って待っていた。それが橘だった。
「おーい、なにやってるの。はぐれちゃうよ」
「……ごめん。もうはぐれてる」
橘はふふ、と笑って「行こう」と前を歩きだす。
ひとりじゃないことで妙な安心を覚えたのもあって、ふたり、どこかのんびりした足取りでお店に向かう。
「カラオケ、全員は一緒に入れないよねー」
「どうするのかな……」
「分割するんじゃない」
「みんなで行く意味あるのかな」
「……まぁ、多少は……あるのかな?」
女子と話すのなんてそんなに得意じゃなかったけれど、彼女はちょっとした言葉や相槌を言う時もニコニコ笑っていて楽しそうで、それは可愛くて、話している僕も楽しくなった。
「カラオケ、好き?」
「好きだよ。でも私だいたい後半食べてばっかりで」
そんなどうでもいい話を幾つかしながら道を行く。
しばらく行ってお店が見えてきた頃、橘が思い出したように言う。
「あ、あの、名前、なんだっけ」
聞かれてその時点で既に藤倉の名前は有名だったので小声でボソボソと言った。
「……藤倉……清和」
橘が「あぁ……」と言って頷く。
だいたい、名乗ると必ずと言っていいほどあちらの藤倉の話になる。
僕は僕を待っていてくれた彼女からそちらの藤倉の話を聞きたくなかった。その時点で軽い好意を芽生えさせていたから。
「えっと、じゃあ……」
橘は首を少し傾けてから「かずくんだ」と言って笑った。
分割されて適当に押し込まれることになったカラオケの部屋。橘は自分の仲の良い友達のいる部屋ではなく、僕と同じ部屋に入ってきて隣に座った。時々みんなで笑うようなことがあると、わざわざ確認するように僕の顔を見て、楽しそうに笑った。
僕は柄にもなく浮かれて、ドキドキしていた。
その翌日、彼女があちらの藤倉を囲む輪の中にいるのを見るまでは。
落胆したけれど、どこか、やっぱりな、という気持ちもあった。人生そんなに都合の良い風にはまわらない。今までも、これからも。
「かずくん! やっほー」
教室に戻って腰掛けていると、いつの間にか戻って来た彼女の笑顔は、昨日とはどこかちがって、嘘くさく感じられた。
僕はだからその時から常に彼女に対して信用はしないという、警戒のバリアを張っていた。
僕が女子に免疫がなく、すぐに赤くなるのを面白がって彼女のからかいはエスカレートしていった。下の名前を気安く呼ぶだけでうろたえる僕は楽しい玩具だったろうと思う。
しかし、繰り返されれば慣れていく。
それでも最初に「好き」と言われた時にはドキっとしたし、びっくりして彼女の顔を覗き込んだ。
「あ、反応した!」
「えっ」
「だってかずくん、最近なに言っても全然そっけないんだもん。最初の頃はもうちょっとびっくりしてくれたのにー。すぐ赤くなってさー」
やたらと早口で言われて気が付いた。また、からかわれたのだと。
橘が場を離れた後、その様子を見ていた沼田が寄ってきて言う。
「お前、あんなの軽く返せよ〜。本気じゃないんだから。ノリ悪いな」
「あ、あぁ……」
なんとなく頷いたけれど、後で冷静になる。
あの手の冗談が人を傷付けることを、彼女はなんとも思わないのだろうか。
教室の反対端で明るく笑う彼女が、自分とはとても遠い存在に思えた。