非現実から虚構、そして異世界へ
セカイ系は、日常(=現実)と非現実を対立軸とする物語であった。
しかしながら、「非現実」である創作物が、「非現実」というテーマを扱うことは自己言及にあたり、否応なしにメタ的な要素を孕んでいくことになる。従ってセカイ系における言説では徐々に「非現実」という語は姿を消し、代わりに創作物を意味する「虚構」という言葉に置き換わっていった。
では、「日常」と「現実」の関係はどうなったかというと「日常=現実」というセカイ系的な想像力が定着して、この二つの言葉は互いに同義語として扱われるようになってしまった。
その結果、セカイ系の後、ゼロ年代中頃には「現実と虚構」という言い方が流行ったが、これは二次元平面(x-y)のアニメ・漫画と、それに正対する私たちを繋ぐz軸のことを意味している。ここにきて、セカイ系に排除されたz軸が再浮上したのだ。
それは、私たち鑑賞者と創作物の関係性であり、つまり、鑑賞者も創作物のテーマに内含されることになった。
メインキャラクターにテンプレートなオタクキャラが登場するようになったのはこの頃であり、作中でネットスラングが話されたり、実在する街や風景がそのまま舞台/背景として採用されるケースが増えたのも無関係ではない。
セカイ系を駆動していた「非現実」という想像力は「現実ではない」という否定語である。それは「ここじゃない」というような現状否定こそ目的であり、特定の志向性を持たない。極論すれば、ここじゃなければ「どこ」かは構わないのだ。
それに対して、ゼロ年代は「虚構」という言葉を用いるようになったため、それが指し示す対象は創作物に限定されていた。
ゼロ年代、オタク文化圏において「虚構」という語が意味したのはアニメ・漫画のなかの世界で、その代表は例えばハイファンタジーであり、学園ものあった。
では、セカイ系とゼロ年代の分水嶺に立つ文章を一つ見てみよう。
ゼロ年代ライトノベルブームに先鞭をつけた『ゼロの使い魔』(ヤマグチノボル)のあとがきに記された著者の言葉だ。
そして、ああ、僕はなんというか、異世界に対する憧れというのが強い。とにかく、ここ
じゃないどこかに行きたいという欲求が常にあります。初めて訪れる街が好きです。異国
の写真を眺めるのが好きです。月の裏側ならなお素晴らしい。そこが、『ここ』ではない、
どこか別の世界なら、言うことはありません。
このなかでヤマグチは、「ここじゃない」という現状否定を訴えているが、それならばどこを望んでいるのかというと、二度も「どこか」という語を使っているように、具体的な「どこ」を望んでいる訳ではないと受け取れる。
しかし、欺瞞というべきか矛盾というべきか、事実ヤマグチが『ゼロの使い魔』に選んだ世界観は王道の学園ものである。
「ここじゃないどこか」と言って異国や月の裏側を例に挙げつつ、実際はテンプレに従ってしまうあたりに、セカイ系とゼロ年代のハイブリッドを見て取れる。そしてもちろん「どこか別の世界なら、言うことありません」という言葉に異世界ものの鼓動が聴こえる。
「現実と虚構」について考えていたゼロ年代から、どのような経緯で異世界ブームが発生したのか、まだ私のなかでまとまっていない。
ゼロ年代は、テーマがメタ的かつ自己言及的なため、自家中毒に陥っているところで脱出口として異世界を見つけたのだろうくらいには思う。それも、ゼロ年代の「現実と虚構」がセカイ系の「日常と非現実」とそう変わらない想像力であったのに対して、異世界ものの「この世界と別の世界」は独自的な部分も多いことから、セカイ系以来の問題系に大きな変化がもたらされるのではないかと楽しみにしている。
ここでは示唆するに留めるのだが、異世界転生の作品群を指して、異世界という割にハイファンタジーばかりという批判をたまに見かけるが、それに答えるためには少なくともヤマグチがこのように語ったゼロ年代前半までは遡って考えなくてはならないだろう。実際に、異世界ものは、異世界に転生/転移するのが目的でそのあとは目的がない、派生して、目的を見つけるのが目的というような作品も多く、この点に関してはセカイ系の「ここじゃないどこか」の精神をそのまま引き継いでいる。良い悪いは別にして、だ。
ゼロ年代との比較で言うなら、主人公が「別の世界」に行くというのは、そこだけ切り取れば素朴すぎると思ってしまう。ゼロ年代が「現実と虚構」というテーマと格闘しながらも代表作と目される作品で、安易に主人公がアニメ・漫画の中に入っていく事例がなかったのは、ジャンルとして自らのテーマと真摯に向き合っていた証左だと考えている。とはいえ、『ドン・キホーテ』しかり『不思議の国のアリス』しかり、そういった展開は普遍性を持っていて、その割に(特に現代では)扱いの難しいジャンルなので、なんとか異世界ものから傑作が生まれてくれないかと期待を寄せている。
そして、時間が許せば私も書きたい。
本論は、私の今後のためのメモみたいなもので、特に最後は取り留めのないものになってしまった。
読者にはがらくたを漁らせてしまったが、その中から一つでも気になるものを見つけてくれていれば、と願うばかりだ。