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歴雑記

001 攘夷と北海道開拓

作者: なのあら

幕末の肥後熊本藩に轟武兵衛という人物がいました。

かつて私は、この人物は、坂本龍馬の蝦夷地開拓に参加して、

明治期に屯田兵になって北海道に移住した人だと聞いたことがありました。


しかし、人物事典やWikipedia、インターネットのどこにも、そのような話はありませんでした。


彼は、尊王攘夷派の人物でした。

幕末期には熊本藩の方針と合わず、牢に入れられました。

明治になって、釈放されて明治政府に出仕しましたが、すぐに退職し、数年後に死去しています。

北海道には渡っていませんでした。

熊本で死去していたのです。

聞いた話は、事実ではなかったのです。


ところが、さらにインターネットで検索を続けていると、思わぬ事実を見つけました。


坂本龍馬は本気で蝦夷地や鬱陵島を開拓したいと考えていたこと、

松浦武四郎という人物が製作させた「蝦夷屏風」に、轟武兵衛の手紙が貼り込まれていたことです。

この「蝦夷屏風」は、松浦武四郎が交流した人々との手紙を貼り付けた屏風です。

松浦武四郎は、幕末の蝦夷地の探検家で、北海道と名付けた人物です。


坂本龍馬と松浦武四郎の二人は、北海道開拓にかかわっていたのです。

北海道云々というのは、まったく根拠のない話ではなかったようです。



坂本龍馬は本気で、蝦夷地や鬱陵島を開拓したいと考えていました。

このことは、坂本龍馬好きの方々には常識なのでしょうが、

彼に対する知識のない私にとっては、初めて知ることでした。


もう一方の人物、松浦武四郎は、幕府の役人となって蝦夷地探検を行っています。

また蝦夷地だけでなく、北方の日本の辺境地への探検を繰り返しています。



江戸時代中頃から幕末にかけて、ロシアが南下してきて、蝦夷地が脅かされる事態になっていました。

工藤平助は、天明元年(1781年)から天明三年(1783年)にかけて『赤蝦夷風説考』を著述しています。

林子平は、寛政三年(1791年)に『海国兵談』を著述しています。

この工藤平助と林子平は仙台藩の人物です。


田沼意次の時代には、幕府による蝦夷地開発が検討され、天明五年(1785年)には、蝦夷地へ探検隊が派遣されました。

蝦夷地の開発は、その後中断していましたが、享和二年(1802年)に幕府は、蝦夷奉行を置きました。


その後も、松浦武四郎による蝦夷地探検など、北方辺境地域への探検が行なわれていました。

その成果をうけて、幕府は蝦夷地を直轄領とします。

安政三年(1856年)には、幕府は箱館奉行を置いて蝦夷地を管理しました。



松浦武四郎は尊王攘夷派と交流がありました。


松浦武四郎の「蝦夷屏風」には、藤田東湖という人物の手紙も貼り込まれています。

藤田東湖は水戸藩の人物です。

幕末の水戸藩と言えば、水戸天狗党です。

尊王攘夷派の有力な一派です。


先述した轟武兵衛は、長州と関係のある人物です。

轟武兵衛は、国学者林桜園の門下生で、肥後勤王党の一員です。

池田屋事件に参加した宮部鼎蔵の同志で、長州の久坂玄瑞と交流があり、

文久三年(1863年)の八月十八日政変による七卿落ちに従って、長州へ逃れている人物です。

尊王攘夷派の一派です。


また松浦武四郎は、長州の吉田松陰と交流がありました。

長州の吉田松陰が久坂玄瑞に鬱陵島の開拓をするように指示していたという話もあるそうです。

坂本龍馬は、この久坂玄瑞と交流がありました。

久坂玄瑞も尊王攘夷派でした。


坂本龍馬は、長州の尊王攘夷派の影響を受けているようです。

坂本龍馬は慶応三年(1867年)に海援隊による鬱陵島への航海を計画していたそうです。

ですが海援隊は使う予定だった船「いろは丸」を失ったため、鬱陵島への航海が出来なかったのです。

その直後に土佐藩の岩崎弥太郎が鬱陵島へ航海しています。

(「龍馬の遺言」小美濃清明著 2015年)


この坂本龍馬が蝦夷地開拓を計画していたのです。


坂本龍馬の北海道開拓について、このような証言があるそうです。

「◎北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると云つて居りました。

私も行く積りで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古して居りました。

或日望月さんらが白の陣幕を造つて来ましたから、戦争も無いに幕を造つて何うすると聞けば、

北海道は義経を尊むから此幕へ笹龍桐の紋を染めぬひて持つて行くと云つて居りました」

(川田瑞穂『千里駒後日譚』(明治32年)楢崎龍関係文書 ウィキソース)


これもまた、長州の尊王攘夷派の影響があるのでしょう。


外国を打ち払うことと、国土を守ることは、表裏一体です。

長州藩の攘夷論者の中では、鬱陵島開拓や蝦夷地開拓が大いに語られていたのではないでしょうか。


坂本龍馬は、松浦武四郎、吉田松陰、尊王攘夷派の影響を間接的に受けていたのでしょう。


この尊王攘夷派の盛り上がりを受けて、

文久三年(1863年)と文久四年(1864年)に長州で下関戦争、

文久三年(1863年)に薩摩で薩英戦争が起こりました。


長州も薩摩も外国勢力に敗北します。

その結果、薩長の尊王攘夷派は、攘夷を捨てて開国へ方針転換をします。


その後は開国派が政治の主流となり、倒幕派となって明治政府を作ります。

坂本龍馬は明治政府の樹立を見ることなく斃れます。



明治政府は尊王開国派です。


ですが、蝦夷地開拓事業を進めました。

日本の辺境の土地を守ることは、外国勢力を排除して日本が独立する条件のひとつです。


明治政府は、北海道開拓使を置いて、北海道への屯田兵入植を進めました。

松浦武四郎は、明治二年(1869年)に北海道開拓使判官になりました。

また「北海道開拓の父」と呼ばれる、島義勇(しまよしたけ)という人物がいました。

この人は佐賀藩士で、若年の時、佐藤一斎、藤田東湖、林桜園などに学び、

明治政府に出仕して開拓使判官になり、後に佐賀の乱を起して刑死します。

彼もまた、幕末に蝦夷地を探検していました。


坂本龍馬の子孫も北海道へ入植しています。

仙台藩は、藩主が私費を投じて藩士とともに北海道へ入植しています。

会津藩士など旧幕府の士族も北海道へ入植しています。


攘夷派も開国派も、それぞれの立場で北海道開拓にかかわっています。


幕末から明治期の人々は、開国と攘夷の違い、佐幕と尊皇の違いを越えて、

日本の国土を守らねばならないという気持ちを持っていたのでしょう。


北海道開拓事業に着目すると、

江戸幕府、尊王攘夷、坂本龍馬、明治政府へと続く、

外国勢力から北海道を守ろうとした先人たちの努力の跡が見えてきます。




<年表>

天明元年(1781年)~天明三年(1783年)工藤平助、『赤蝦夷風説考』を著述

寛政三年(1791年)林子平は、『海国兵談』を著述

寛政四年(1792年)~寛政五年(1793年)ロシアのラクスマンが大黒屋光太夫を連れて来航

享和二年(1802年)幕府、蝦夷奉行(箱館奉行、松前奉行)を置く、

文化元年(1804年)ロシアのレザノフの来航

文化五年(1808年)フェートン号事件

文化八年(1811年)ゴローニン事件

文政七年(1824年)大津浜事件、宝島事件

文政八年(1825年)異国船打払令


天保十三年(1842年)松浦武四郎、朝鮮半島への渡航を断念する

天保十四年(1843年)松浦武四郎、「西海雑誌」を著述する

弘化二年(1845年)松浦武四郎、第1回蝦夷地探査、商人の配下として、蝦夷地探検

弘化三年(1846年)松浦武四郎、第2回蝦夷地探査、松前藩医の配下として、蝦夷地探検

嘉永二年(1849年)松浦武四郎、第3回蝦夷地探査、国後、択捉探検

嘉永三年(1850年)松浦武四郎、「初航蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」を著述、出版


嘉永六年(1853年)黒船ペリー来航

慶応元年(1865年)日米修好通商条約

天保十一年(1840年)~天保十三年(1842年)清国でアヘン戦争


嘉永六年(1853年)松浦武四郎、吉田松陰と海防問題を語り合う


安政二年(1855年)幕府、蝦夷地を直轄地とする

安政二年(1855年)松浦武四郎、蝦夷御用御雇

安政三年(1856年)松浦武四郎、第4回蝦夷地探査、蝦夷地、樺太探検

安政三年(1856年)幕府、箱館奉行を置く

安政四年(1857年)松浦武四郎、第5回蝦夷地探査、蝦夷地探検

安政五年(1858年)松浦武四郎、第6回蝦夷地探査、蝦夷地探検

安政三年(1856年)~安政四年(1857年)島義勇、箱館奉行の配下として、蝦夷地、樺太探検

安政三年(1856年)~万延元年(1860年)清国でアロー号事件


文久三年(1863年)下関戦争、薩英戦争

元治元年(1864年)池田屋事件、吉田稔麿、宮部鼎蔵など死去


慶応二年(1866年)坂本龍馬、薩長同盟

慶応三年(1867年)坂本龍馬、亀山社中を海援隊と改称する

慶応三年(1867年)坂本龍馬、京都近江屋で暗殺される


明治二年(1869年)北海道開拓使が置かれる

明治二年(1869年)松浦武四郎、北海道開拓判官となる

明治二年(1869年)島義勇、北海道開拓判官となる

明治二年(1869年)島義勇、北海道開拓判官を罷免される

明治三年(1870年)松浦武四郎、北海道開拓判官を辞職する

明治四年(1871年)松浦武四郎、「竹島雑誌」を出版

         この書の竹島は、現在の鬱陵島のことです。

         (現在の竹島は当時は松島と呼ばれていました)

明治七年(1874年)島義勇、佐賀の乱を起して刑死する




参考:

Wikipedia 2017年9月時点

龍馬の遺言 小美濃清明著 2015年 藤原書店

松浦武四郎記念館HP 松坂市

川田瑞穂『千里駒後日譚』(明治32年)Wikisource reference

  千里駒後日譚 楢崎龍関係文書 ウィキソース

  高知県の漢学者、川田瑞穂による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(一回)


(完)


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