08.メイ
暗い部屋の中でテレビの明かりだけがちかちかと瞳に映る。
根拠の怪しい健康食品をとてもお得だと紹介する通販番組。
関西で起きた少年犯罪について、ずれた再発防止を語るコメンテーター。
お笑い芸人が俳優をちやほやしておべっかの限りを尽くす、映画の宣伝が目的のバラエティ番組。
アイドルが営業スマイルを維持するために裏でどれだけ苦しんでいるかの特集。
どのチャンネルに合わせても苛立ちが募った。
テレビの中の見え透いた虚飾は、すべての人がそういうものと割り切った上で楽しんでいるのだと思っていた。
そしてそれを楽しめない自分が捻くれているのだと。
しかし信じ難いことに、作る側が大真面目だったり、見る側もその内容を信じていたりするケースがあるらしい。
この画面が見せようとしている事柄は世の中の表なのか、裏なのか。
それらがコロコロと変わっているのか。
そんなことを気にせずに楽しめる人たちが大多数だから、今もこの装置は当たり前のようにホテルの各部屋に置かれているのだろう。
適当にザッピングしていると、洋楽のプロモを垂れ流しているチャンネルがあった。
言葉や文化が違ければ、その内容に変な疑問を抱くこともない。
私はリモコンを傍らに放って、ぼんやりと画面を眺めていた。
数曲目で、聞き覚えのある男性ボーカルの声に気付いた。
力強い発声と、少し粘っこい英語の発音。
間違いない。芸楽館で聞こえてきたのは、このバンドの曲だ。
芸能に疎い私でさえ聞き覚えがあったということは、かなりメジャーなバンドなのだろう。
テレビが映しているミュージックビデオは、あの日女生徒が歌っていた曲のものとは違う、綺麗だけどとても悲しげなメロディだった。
また休日に、音楽室のそばに行ってみようか。
もう一度あの曲を聴きたいと思った。
軽やかに、幸せそうに自由を歌っていたあの歌声を。
隣の部屋のドアが開いた音がした。
時刻は十二時過ぎ。やっと父が帰ってきたのだろう。
気の迷いとしか言いようがないが、その時私は、なんとなく父と上手く話せるかもしれないと思っていた。
壊れた機械をずっと放置してて、ある日気まぐれに直ってたりしないかと動かしてみるような。
私は父の部屋の前に立った。
ノックしようと右手を持ち上げたまでは良かったが、遅れてきた戸惑いが私の体を硬直させる。
突然、がちゃりとドアが開いた。
「……芽衣?どうした?」
抑揚のない声が私に聞く。
フチなしメガネの向こうから、クマを貼り付けた目がこちらを伺っている。
七三で分けた髪に、少し白髪が増えただろうか。
元がどうだったかもはっきりとは思いだせないから、ただの気のせいかもしれない。
血の繋がっていない私の戸籍上の父は、無言で私の返答を待つ。
誇張でもなんでもなく、私はその様子をまるで機械のようだと思った。
幾つか用意していた、雑談のきっかけになるような話題を全て飲み込んで、私は嘘を吐いた。
「……お小遣い、欲しくて」
「……ああ、そうか」
合点がいった様子で、ズボンのお尻のポケットからボロボロの二つ折り財布を取り出す。
「来月までは忙しそうだから、先にまとめて渡しておくよ」
三万円を私に渡して、父は私を押し退けるようにして部屋の外に出た。
「障害が出ていて、これから工場に戻るところなんだ。朝まで帰れないと思う」
早口でそれだけ言い残して、父はそのままエレベーターに駆け込んで行ってしまった。
「…………」
お金なんか、本当は有り余っていた。
お小遣いとして渡されるお金は全く手付かずだったし、生活費だって毎月一万円以上余っていた。
私の実の母は、あの人と再婚して間もなく失踪した。
まるで初めからそうするつもりだったかのようだった。
結果、私という存在は戸籍上の親子関係という呪縛となって、処理できないババのように父を苦しめることになった。
私にはその事実が申し訳なさすぎて、情けないことに、彼と向かい合うとまともに話をすることも出来なかった。
保護者として身元を保証してくれて、衣食住を確保してくれて、親として為すべき責任を全て果たしてくれている。
感謝を伝えたいのに、そこに至るコミュニケーションの入り口が固く固く閉ざされている。
ただ甘えているだけしか出来ない。
このお互いをすり減らすような関係は、後何年続くのだろうか。
エレベーターはさっさと一階まで行ってしまった。
小さな窓の外に見えるまばらな光が、こんな小さな町にも確かに人の営みがあることを伝えている。
この光の数の何倍、面倒な人間関係が絡まり合っているのだろう?
私は三枚の紙幣を握りつぶしたまま、しばらくそこに佇んでいた。