78.メイ
体中の筋という筋を伸ばした。
深い呼吸を何度も繰り返して、自分という容器に少しでも多くの酸素を取り入れられるように横隔膜を良く解した。
温かい蜂蜜入りの紅茶も飲んだし、かりんののど飴も二粒食べた。
体育館の袖にあたるスペースは普段、各競技のボールや卓球台、スコアボードなどを仕舞っておくため物置として使用されているのだが、今はそれらは全て別の倉庫に運び出されている。
入念に掃除をしたらしく、リノリウムの床は鏡のように輝いていた。
談話室から借りてきたと思われる一人がけのソファが二脚と、ガラスのコーヒーテーブルが設置され、差し入れらしいペットボトル飲料が十数本置かれている。
どこから調達してきたのか空気清浄機まで稼働させてあった。
物置特有のカビ臭さなど微塵もなく、その部屋は立派に私達の控え室としての役割を果たしてくれていた。
「よし……っと。どう?メイ。おかしいところない?」
姿見で衣装のチェックをしていたヒロカが、私の前に躍り出てポーズを決める。
音符の描かれた白いハイカットスニーカーに、ニーソックスと赤いチェックスカート、ノースリーブのブラウスの首元にはゆるく巻いたリボンタイ。
二年前と違うのは、すっかりトレードマークとなったフルールドリスのヘアピン。
「うん、大丈夫。かわいいよ」
私が微笑みかけると、ヒロカもにっこりと目を細めて笑った。
「私は……どうしようかな。室内だとこのジャケット、途中で暑くなるかも……」
「あ、じゃあ一曲目だけ私もジャケット羽織っていくよ。二曲目の始めに、一緒に脱いじゃお」
紺色のテーラードジャケットを着込んで、ヒロカは改めてストラップに体を通す。
「うわー、懐かしい!」
「ね!二年前と同じ!」
二人で姿見の前に立って、私たちは黄色い声を上げた。
私にとって二回目の、ヒロカにとっては三回目のバンドバトル本番を数分後に控えて、私たちは二年前と同じ衣装姿の自分たちを鏡に映してはしゃいでいた。
「それにしても、ヒロカ……。ホントに変わらないね」
いつか私が願った通り、ヒロカの身長は二年の月日が経っても一センチも伸びていなかった。
エレアコと対比すると子供のように見えてしまう体型は相変わらずだった。
成長期が早めに終わってしまっていた私もほとんど背は伸びなかったので、二人の身長差は変わらず、私にとっての理想通りのままだった。
「ふふん、変わってないのは見た目だけで、テクニックはあの頃とは比べ物にならないのだよ」
へそを曲げるかと思いきや、ヒロカは誇らしげに胸を張ってみせた。
その胸も、二年前と変わりなかった。
ステージでは、去年ヒロカがサポート参加したというバンドの演奏が続いている。
この曲が終わったら、私たちの出番だ。
「あの人たち、凄く上手だね」
Lillyは、今時珍しいほど王道的な構成のフォーピースガールズバンドだった。
漏れ聞こえてくるリズムは正確そのもので、ボーカルも声量に迫力がある。
「うん、去年より、ずっと上手くなってる気がする」
懐かしがるような口調で答えるヒロカに、私は少し意地悪をしてやることにした。
「さすが、ヒロカが浮気しちゃうだけのことはあるね」
「え!?あぁ……あ、あははは……」
「どの娘がタイプだったの?やっぱり、ボーカル?」
「ちょ、タイプとか、そういうんじゃないよ!ただ、一生懸命練習してるの見てたら、なんかほっておけなかったってだけで……」
「ふーーーん」
冗談のつもりだったのに、段々本気で妬けてきてしまった。
面倒見のいいヒロカは、きっと後輩受けも良かっただろう。
女の子四人に囲まれてちやほやされている様を想像すると、持ち上げていた唇の端が痙攣した。
「……なんか気合い入っちゃった。悪いけど、本気で勝ちに行かせてもらおうかな」
リハーサルの時、ボーカルの娘が私に対するライバル意識を隠そうともせずに睨みつけてきていた。
むき出しの敵意を受け流して笑みを返すと、更に視線に険を込められたようだった。
その時から、彼女とはあまり仲良くなれないような気はしていた。
でもそういう関係も、悪くないものかもと思えた。
恨まれても、妬まれても、今の私は笑い飛ばせる。
だって隣には、ヒロカがいてくれるんだから。
「……最初から、負ける気なんかない癖に」
「あら、分かっちゃう?」
私たちは笑う。
これから向かうステージに待っている、幸せな時間の予感を噛み締めながら。
「Irisの皆さん、スタンバイお願いします!」
ドアの向こうから、私たちの出番を知らせる声がする。
私たちは頷きあって、触れ合うだけの軽いキスをして、そのドアを開く。
手を繋いで短い階段を駆け上り、緞帳の影で待機する。
ちょうどLillyは演奏を終えて、下手の袖にはけて行くところだった。
「さあ……いよいよ、です。大トリを務めるのは、まさかの復活を遂げたあのデュオです!」
スピーカーから発せられる高橋くんの声が、抑えきれない興奮をほとばしらせるように告げる。
たったそれだけで、黄色い歓声が湧き上がった。
「ナカシマさん。思い出しますね、二年前の今日のこと!」
「はい。審査員の立場からはあまり多くは言えませんが……正直私もワクワクしてます」
「ここに来ている三年生はみんな同じ思いでしょう!私ももちろんその一人です!」
「あーあ、ハードルギュンギュンあげてくれちゃって……」
呆れるように言いながらチューニングチェックをしているヒロカは、しかし余裕の表情だった。
さすが二連覇してる人は落ち着きが違う。
「では、前置きはこれくらいにして、参りましょう!第一回バンドバトル覇者……奇跡の復活です」
しんと静まりかえる会場。
私は最後の深呼吸を済ませる。
ヒロカは左手を振ってから、ゆっくりとネックを掴む。
並んで立ってステージを見つめたまま、私たちはこつんと拳をぶつけあった。
「Irisです!どうぞ!」
大歓声の中、私たちはステージへと歩き出した。
すこし勿体つけるようにゆっくりと歩を進める。
私は真ん中、スポットライトが照らすマイクスタンドの前、舞台の主役の立ち位置に陣取る。
目の前には、バスケットコート三面分の空間を埋め尽くす、人の海。
すこしの間、私はその光景を眺めていた。
私たちの演奏を待ちわびて、ステージを見上げるいくつもの視線。
またこの場所に来られた。
そう思うだけで、胸がいっぱいだった。
あの夜、二年ぶりの再会を果たしたあの瞬間から、ヒロカはずっと私のそばにいてくれた。
父の名義で借りたボロアパートの一室に泊まり込んで、ギターを弾いて、歌を歌って、抱きしめて、キスをして。
少しずつ私の中に凝り固まった感情を解きほぐしていってくれた。
今その全ての思いは、私の胸元で解き放たれるその時を待っている。
ふと、視界の隅に見覚えのある金髪を見つけて、私は少し驚いた。
人混みから少し外れた、体育館の壁際に、その人はいた。
まさか、見に来てくれているとは思っていなかった。
その腕には、金髪碧眼の赤ん坊。ヒロカの弟の勇くんだ。
私の視線に気づくと、エリカさんは少し気まずそうに視線を泳がせた後、負けを認めたような苦笑いを浮かべて見せた。
私は呆気にとられ、そのあとほっとして、微笑みを返した。
『なんとか、なってるみたいですね』
『……まあ、ね』
一往復だけ視線で会話を交わして、私は正面に向き直った。
さあ、歌おう。思いっきり。
ヒロカの言うとおり、負ける気なんかない。
どんな人の心にだって、今ならこの声を深く響かせて、揺さぶってやることが出来る。
流れ始めたイントロは、『rock 'n' roll star』。
自分に発破をかけるつもりの選曲だったのに、その歌詞はまるで今の私の気分を歌っているかのようだ。
ヒロカの伴奏が、力強く私の背中を押す。
スタンドを両手で握りしめて、私は押し寄せる音の波に自分の声を飛び乗らせる。
過去も未来も切り離された。
ヒロカの右手が生み出すリズムだけが私に今を与えてくれる。
歓声と演奏がぶつかり合う。
その音を聞きつけたのか、開け放たれた体育館の入り口から新たな観客がなだれ込んでくる。
負けじと腹回りに鞭を入れて声量を高めると、ヒロカのピッキングも力強さを増す。
右手側のバスケットゴールの下に、Lillyのボーカルの娘の姿を見つけた。
レスポールギターを手に、呆けたようにこちらに視線を送っている。
右手で拳銃の形を作って、ウインクと一緒に、見えない弾丸を撃ち放つ。
驚愕、衝撃、呆然。
そんな言葉が似合う彼女の表情。その手からレスポールが滑り落ちる。
相手に充分なダメージを与えた手応えに満足して、私は人差し指の先に軽く息を吹きかけた。
振り返ると、ヒロカも悪戯っぽい笑顔でちろりと舌を出して見せた。
まずは挨拶代わり。
まだまだ、こんなものじゃない。
私たちはここにいる全員に、もっともっと大きな衝撃を届けるつもりでここに立っているんだから。
絡まりあって高まっていくテンション。
名前も知らない人達と、一体になって盛り上がる感覚。
歓喜に埋め尽くされた空間の中で、私にとって一番特別な人を……ヒロカを、誰よりも近くに感じていた。
二人の音で曲を組み立てていく過程で、私たちは深い深い意識の底で繋がり合い、会話をしていた。
『ねえ、ヒロカ』
『ん?なぁに?』
『……ありがとうね』
『……何、改まって?』
『私ね、ヒロカに会えて良かった』
『……私もだよ。私の方こそ、ありがとう。メイ』
『ヒロカ、愛してる』
『私も。愛してるよ。メイ』
一曲目が終わる。
突風のような衝撃を伴って、大観衆の嬌声が降ってくる。
私たちは力強くハイタッチして、心から笑った。
もう、今までとは違う。
このステージには邪魔なんか入らない。
最後の最後まで、自由に音楽を楽しんでいいんだ。
すでに高揚感でいっぱいだった胸の中で、名付けようもないような感情が爆ぜる。
何度も、何度も。
堪えきれなくて、私は感謝の言葉を叫んだ。
一晩かかっても語り尽くせないような喜びの塊を、そのたった一言に詰め込む。
私の声に応えてくれる歓声。
私一人の体には収まりきらない幸せが、全員の体に伝播して増幅されていく。
私にその奇跡を与えてくれたのは、世界で一番愛しい人の奏でる音色。
見つめ合う。
私たちは、二人で一つだ。
メロディと歌詞がそうであるように、切り離すことなんて出来ない。
音と言葉は結びついて初めて、それぞれの意味を超越し、世界を作り変える力を紡ぎ出していくんだから。
もう嘆いたりなんかしない。
誤魔化したり、俯いたりもしない。
未来は、私たちのものだ。
頷き合い、ジャケットを脱ぎ、二人で投げ捨てる。
期待に輝く笑顔が、視界いっぱいに溢れていた。
私はそれに応えるべく、体の中身を全てぶつけるように、マイクに向けて叫んだ。
「次行くよ!付いて来てね!」
私たちの舞台は、まだ幕が上がったばかりだ。
to be continued.
Iris never withers.




