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Whatever  作者: けいぞう
77/78

77.ヒロカ

 噴水広場での弾き語りは、私の新しい日課になった。

 夏休みが終わって二学期が始まり、クラスメイト達が本格的な受験勉強に追われる中、私は一日も休まずに駅前に通った。

 雨が降れば高架下に場所を変えた。

 警察に声をかけられる度に許可を取っていることを確認する手続きのために時間拘束され、酔っぱらいにからまれて演歌の伴奏をさせられ、嫌な思いをすることも少なくなかった。

 演奏中に何箇所も蚊に刺されたり、セミが背中に止まってきて悲鳴をあげたりもした。

 もちろん両親には怒られ、呆れられた。


 それでも続けている内に、若い巡査さんと洋楽についてお話をする機会があったり、ホステスのお姉さんに『氷雨』を聞かせて感涙されたりと、新鮮な体験をすることも出来た。


 暑さのピークも過ぎ、町のそこかしこから金木犀の香りがする季節が来て、衣替えの時期を迎えた。


 私にとって特別な季節。

 終わってしまった夏を惜しむ日々も過ぎて、町が急速に彩りを失っていく。

 日照時間が減っていくことを日ごとに実感し、駅前を通り過ぎる人達の表情も寂しげに曇っていった。

 私の演奏に足を止めてくれる人の数も、日に日に減っていっている。

 それが季節のせいなのか、それとも単純に飽きられてしまっているのか。

 その答えを直視する勇気はなかった。


 これから、また冬が来る。

 どんなに技術を鍛えても寒さには抗えない。

 かじかんだ手では、まともにコードを抑えることも出来なくなる。


 私は何月何日までこの日課を続けられるだろうか。

 どれだけ気温が下がったら、私の両手はギターを奏でられなくなるんだろうか。


 募る焦りの中でも、私は毎日曲を作り続け、歌い続けた。

 移り変わる季節と、同じ場所からの風景。

 過ぎていく日々の中に潜む変化。

 気温、日差しの強さ、風の匂い、雨の匂い。

 感じ取れるものは全て、私が待つ人がくれるもの。


 だから愛しい。

 だから、私はそれを歌い続ける。


 ――十月中旬。

 また、文化祭の時期が近づいていた。




 その日は、いつもより沢山の麻高生が私の演奏を聞いてくれていた。

 文化祭の準備が始まって間もない時期で、生徒たちのテンションも少しずつ上がり始めていたのかもしれない。

 今年もバンドバトルが開催されると通達があったので、その話題を振ってくる人も何人かいた。

 その度私は「一応参加するつもり」とだけ回答することにしていた。

 Lillyへの加入を断ってしまった以上、出るとすれば私一人ということになる。

 凛ちゃんたちも今年はかなり気合を入れて来るだろう。

 果たして私の弾き語りで、どこまで対抗できるだろうか。

 不安ではあったか、不思議と不参加という選択肢は思い浮かばなかった。

 通り掛かる人達が、口々に応援の言葉をかけてくれていたからかもしれない。


 午後五時を回ると、辺りはもう真っ暗だった。

 ランプを象った街灯が噴水を取り囲むように六つ、それぞれ広場を円錐形に照らしている。

 噴水は十五分毎に水を噴き上げ、その様が水中の照明でライトアップされる。

 噴水を眺めながら私の歌を聞いていってくれる人達も、回を負うごとに人数が減っていった。


 六時のライトアップが終わった。

 途端に手元が暗くなる。

 照明の落ちた舞台に取り残された気分の私は、小さく息を吐いてピックを弦に挟んだ。

 今日はもう終わりにしよう。ギターからストラップを外す。


 ふと、薄闇の中から辺りを見渡す。

 遠くに見える麻生高校の校舎。

 教室にはまだ幾つも光が灯っている。

 本校舎だけでなく、芸楽館にもちらほらと灯りが見えた。

 音楽室も、最近遅くまで使用しているバンドがあるようだった。

 何となく、凛ちゃんがそこにいるような気がした。


 私は考え直して、もう少しだけ演奏を続けることにした。

 遠くに小さく見える音楽室の窓の灯りで、私は二年前の今頃のことを思い出す。


 自然と左手が、Gのコードを形作っていた。

 『Whatever』。

 メイがいなくなった直後は、どんなに気をつけても自然とコーラスのパートを歌ってしまって落ち込んだ。

 それ以来なんとなく歌うことを避けてしまっていたが、不思議と今日は歌ってみたい気分になった。


 もしかしたら、それは何かの予兆だったのかもしれない。


 問題なくメインのパートを歌えた。

 そのことが少し寂しい。

 自分の中のメイとの思い出が薄れてしまったように感じて、自然と声量もギターの音も控えめになっていった。


 いけない。

 私は沈みかける気持ちを奮い立たせて、右手とお腹に力を込めた。

 メイの力強い歌声を思い出して、少しでもそこに近づけるようにと声を張り上げる。

 何も見えない闇の中でも、その音は確かに空気を震わせて響く。

 私は自由なんだと、この世界に訴えかける。

 誰にも届かなくても、無視され続けたとしても、その音を途切れさせないことが今の私の使命だと思った。


 まるでその声に引き寄せられるかのように、そのシルエットは私の眼前に浮かび上がった。

 ゆっくりと、噴水広場に向けて歩いてくるすらりとした影。


 いつかその日が来ると信じて、いつその日が来てもいいようにと心がけていた。

 だから、みっともなく慌てたり、取り乱したりすることはない。


 私はただ、歌い続けた。

 私の人生を変えるきっかけをくれた、その歌を。


 目の前の街灯が照らす光の円錐の中に、彼女は足を踏み入れる。

 編み上げの黒いブーツと、ダメージジーンズ。

 歩調に合わせて揺れるミリタリーコートの裾と、腰まである黒い髪。


 六時十五分。

 背後で噴水が水を噴き上げる。

 ライトアップが始まった。

 私の目の前、三メートル先で立ち止まったその人の姿が、スポットライトに照らされるように浮かび上がった。


 二年前のバンドバトルの時と変わらない姿で、彼女はそこにいた。

 変わっているのは、胸元に輝くアヤメのネックレスだけ。

 私のヘアピンと同じ、フルールドリス。


 私は、最後のサビを歌う。

 今日まで繰り返してきた練習でどれだけ上達出来ているのか、私自身には分からない。

 だから、聞いてもらいたかった。

 初めてカラオケで弾き語りを聞いてもらったときより、きっとずっと上手に出来ているはずだ。


 私は、変わったんだ。

 メイとの出会いで。

 メイと過ごす時間の中で。

 そして、メイと離れて過ごす寂しさに耐える日々の中で。

 そのことを、今目の前にいる彼女に伝えたかった。


 歌い終えて、私は立ち上がる。

 いつかと同じように、深々とお辞儀をしてみせた。


 拍手が聞こえた。

 惜しみない賞賛の音だった。




 顔を上げる。

 見つめ合う。

 それだけで通じ合えるはずだった。

 でも今は、溢れ出しそうな気持ちが喉のあたりでつかえて、そう簡単には空白の時間を埋めることができなかった。


 私たちの間を、風が通り抜ける。

 噴水が止まり、また辺りが暗くなった。


「……隣、いい?」


 数秒の沈黙を破ったのは、メイのその一言だった。

 私が小さく頷くと、担いでいたボストンバッグを地面に下ろして、私のすぐ横に腰掛けた。

 昔と違う、海を思わせるような爽やかな香りが微かに鼻をかすめた。

 これは、香水だろうか。


 言いたいこと、伝えたいことが山ほどあったはずなのに。

 すぐにでも飛びついて泣き出してしまいたいのに。

 何故かそう出来ずに、ただ私は無言で彼女の隣に座った。


 メイも同じなのか、すぐに私を抱きしめたり、キスしたりはしなかった。

 触れ合いたいのに、すぐにでもお互いの感触を確かめたいと両腕が疼くのに、理由もわからずそうすることを避けているような、不思議な空気が二人の間を漂っていた。


「……久しぶり、だね」


 探るように、私は切り出した。

 隣でメイは自分の膝に頬杖をついて、クスリと笑った。


「うん。久しぶり」

「……来るなら来るって、連絡くらいくれてもいいのに」

「ゴメンね。……ちょっと、びっくりさせようと思ったんだけど」 


 不自然な間を空けた後で、そんなことを言う。

 その歯切れの悪さは、二年というブランクのせいではないような気がした。


「……しばらく、こっちにいられるの?」


 大きな荷物を気にしながら、私は恐る恐る尋ねた。


「え?……しばらくっていうか、もうずっとこっちにいるつもりだけど……」


 少し照れくさそうに髪を耳にかけ直しながら、彼女はちらりとこちらを伺うように視線を投げてきた。


「え?!」


 流石に驚いて、私はメイに向き直る。

 何となく昔とちょっと雰囲気が違うような気がすると思ったら、うっすらアイシャドウとリップを引いているらしい。

 どちらも薄い桃色で、華やかな顔立ちにさりげない色香を添えている。

 そんな場合じゃないと思いながらも、胸が高鳴るのを止められなかった。


「……それって……またこっちに引っ越してくるってこと?」

「うん。近くにアパート探して、一人暮らしするつもり。しっかりお金貯めておいたから、卒業まではこの町で問題なく生活出来ると思う」


 一人暮らし。

 卒業。

 その言葉の中に並ぶ単語に、実感が湧かない。

 嬉しいことのはずなのに、すぐに気持ちが喜びに直結しない。

 その理由を考えて、私が聞かなきゃいけないことを思い出した。


「……あのさ」

「ん?」

「……その、お母さんは?」

「……あぁ、うん」


 その質問を予想していなかったみたいなフリをして、メイは夜空を仰いだ。

 言い出しづらそうに、深い呼吸を二回繰り返して、また髪を弄ぶ。


 心配する私の視線を感じ取ってか、メイは少し笑った。

 その横顔は、私の見たことのない、大人びた表情をしていた。


「……出来る限り一緒にいて、お話をして……私達の歌を沢山聞いてもらったよ」


 いつかメイが母親のことを語るときに漂わせていた微妙な戸惑いはもうない。

 二年の間に、距離を埋めることは出来たのだろうか。


「……なんて言ってた?お母さん」


 私は知らなければいけない事実から逃げるように、遠回りする言葉を選んだ。


「ヒロカの声と曲が、可愛らしいって言ってたよ。大切にしなさいよって、なんだか偉そうに言ってた」


 懐かしむような口調。

 自分の生まれ育った場所を思い出して語るような、穏やかな響きだった。


 でもそれは、また会うことが出来る人に対して用いる表現でないことが、はっきりと伝わってきていた。

 続きを促すような私の沈黙に、メイは小さく呟く。


「……ちゃんと、お別れ言ってきたよ」


 息を呑む。

 覚悟していたつもりで、出来るなら直視せずにいられたらと望んでいた自分を自覚する。

 私達がそばにいられるようになったということの意味を、改めて思い知る。


 メイの短い言葉の中に込められた様々な思いに、果たして私はどれだけ共感できるだろう。

 メイが今欲しがっている言葉を、私はどれだけあげることができるだろう。


「……私ね、ヒロカ」


 寂しげな口調で、まばらな星空に向けて続ける。


「悲しいはずなのに、涙が出ないんだ。お父さんなんか、ずーっと泣き続けてたのに。私って、薄情なのかな?」

「…………」


 返す言葉が、思いつかない。

 私達がすぐに抱き合って再会を喜べないのは、その疑問がメイの胸に引っかかっているからなのかもしれない。


 大切な人が抱く疑問に答えてあげられないことは、もどかしくて、悲しい。


「ヒロカに、ずっと会いたかった。でも、向こうにいる間、お母さんに縛られてるなんて感じなかったし、一秒でも長く話してたいと思ってた。苦しんでるのを見ると辛かったし、楽になって欲しいとも思った。奇跡みたいに病気が良くなって、すっかり元気になるって夢を何回も見た」


 私はただ黙って、その左手に右手を重ねた。

 せめてメイの体に溢れる痛みが、そこから自分に逃げてくればいいのにと願った。


 その自分の行動で、やっと一つ言葉を返してあげることが出来た。


「……痛がってるの、分かるよ。だから、薄情なんかじゃない。そんなこと、言わないで」


 私たちは似ている。

 二人ともどうしようもなく未熟で不器用だ。

 自分がどう感じてるのかさえ上手くわからなくて、伝えられないことがある。

 だから自分を感じさせてくれる誰かとの繋がりを求める。

 自分を表現できる手段を探してもがいている。


「……ヒロカのこと、大切な友達だって伝えたの。恋人だって、打ち明けられなかった。そう言ったら、お母さん、自分のせいで娘がおかしくなったんだって思い込んで、苦しんじゃうんじゃないかって気がして……」


 一%の悪意もないその言葉に、私は自分の胸を踏み潰されたように感じた。

 私達の関係が、『おかしい』。

 それも、嫌になるほど分かっていたつもりだった。

 でもそれをメイの口から聞くと、例え死の淵にいる母を思いやってのことだったとしても、辛かった。

 ギターを壊されたときよりも、離れ離れで過ごした時間よりも、ずっとずっと痛い。


 黙っていたって、別に構わないはずのことだった。

 私も心の一部では、そんなこと知りたくなかったと嘆いている。


「……ごめんなさい……。ヒロカ。私……自分が分からなくて……本当にあんな別れ方で良かったのか……もっと話しておかなきゃいけないことがいっぱいあったんじゃないかって思いだしたら、苦しくて……情けなくて……」


 でもメイは、そんな自分を誰よりも許せないと思っている。

 この上その事実を私に隠していたら、きっと彼女の心は罪悪感で潰れてしまうのかものしれない。


 もう二度と会えなくなる人と、どんな風に別れるべきなのか。

 何も条件がなかったとしても、それは間違いなく難題だ。

 時間があまりになかったとか、一度は自分を捨てて蒸発した相手なんだからとか、言い訳を並べて楽になろうと思えばいくらでも出来るはずなのに。

 そうせずに自分を責め続けてしまうのが、メイという人だった。


 きっとそういう心の真っ直ぐさに、私は惹かれたんだと思う。


 だからこの痛みも受け入れて、愛してしまいたいと思う。


「なのにね、私……お葬式が終わった後ね、すぐにヒロカのこと考えちゃった。これで会いに行けるって……。現金だよね。もしかしたら私、本当は……」

「メイはさ」


 その言葉を遮らずにはいられなかった。

 ただ大切な人が二人離れた場所にいたというだけで、彼女がこんなにも自分を痛めつけなくてはいけないことが、受け入れられなかった。


「もう十分辛い思いをしたじゃない。もう、自由になることに、後ろめたさなんか感じなくていいんだよ」


 あんなに一緒にいたかったのに。

 まるで一つの心を二つの体で共有するようにして過ごしていたのに。

 私たちは丸二年もの間、お互いを遠ざけていた。

 それだけでもう、十分すぎるほどの罰を受けていると思う。

 私たちはもう、一緒にいることに罪悪感なんか感じなくていいはずだ。

 私達の場合、お互いがいないと生きていけないというのは、決して誇張なんかじゃないんだから。


「誰も、メイを責めたりしないよ。そんなことする人がいたら、私が許さない」

「…………」

「それに、私だって同罪だよ。一分でも一秒でも早く、メイにここに来てほしかった。そう思わない日なんて、一日もなかったよ」

「……ヒロカ」

「……だから、一人で苦しまないで。その痛いの、私にも分けてよ。いつか痛くなくなる日まで……いつか、笑って歌える思い出になるまで。二人で、一緒に苦しもうよ」


 メイが、少しでも楽になれる場所でありたい。

 たった十七年の間にこんなに苦しんできた人が、報われなかったらそんなの嘘だ。

 私は、何を犠牲にしてでもメイが望むことを叶えてあげたい。


「私、メイのそばにいるから。ずっとずっと……いつまでも」


 もう、離れることなんか考えられない。

 もしまた明日メイがどこか遠いところへ行ってしまおうとするなら、今度はどこまででもついていく。

 もう絶対に、一人になんかしない。


 メイを幸せにしたい。

 私なら、出来るはずだ。そのためにずっとギターを手放さずにいた。

 そのために、いくつもの曲を作り続けてきたんだ。


 私は願いを込めるようにして、その曲を奏で始めた。

 伸びやかで何物にも縛られない、聞く人をどんな悲しみからも解き放ってくれるような、メイのあの歌声を重ねて欲しい。

 そしてメイ自身の痛みも全て、遠く空の彼方へ運び去ってしまいたい。


 戸惑うように、小さな声でメイが歌い出す。

 切なげで、儚くて、でもとても綺麗な声。

 メイの発する音量に合わせて、ストロークに込める力を弱める。

 噴水広場に流れる、小さな小さな自由のメロディ。

 噴水の縁に背中合わせで腰掛けて、私たちは音を紡ぐ。

 そうして過ごす時間が、私達に救いをもたらしてくれることを信じて。


 間奏が終わっても、メイは続きを歌い出さなかった。

 それでも私は伴奏を続ける。

 コーラスを歌う。

 私は、メイがいなければ完成しないパズルのピースであり続ける。

 いつまででも、彼女が歌ってくれるのを待っているという想いを、その旋律に込めて。


 メイの背中が、震えていることに気付いて、右手を止めた。

 やがて、押し殺した嗚咽が、背中ごしに直接響いてきた。


 ピックをスカートのポケットに仕舞って、メイの左手にもう一度掌を重ねた。

 触れ合った部分から、今度はちゃんと痛みが伝わってきた。

 きつくきつく握りしめられたその拳の、驚くほど小さくて頼りない形。

 少しでも早くメイの胸が苦しくなくなるようにと願いながら、私も静かに涙を零した。


 大丈夫。

 乗り越えていける。


 私達が一緒なら、どんな痛みも悲しみも、きっと。


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