74.ヒロカ
「待ってるからねーーーー!!!早く迎えに来てねーーーー!!!」
声の限り叫んだ。
私の声は、なんてか細くて弱々しいんだろう。
メイの声だったら、もっと遠くまで力強く響くのに。
特急電車はなだらかに曲線を描く線路の上を滑って、十数秒の内に見えなくなった。
振っていた両手をゆっくりと下ろす。
気がつけば、ホームには私一人だった。
時間は止まらない。
止まらない時間の中にだけ、歌は流れていける。
メイが歌詞に込めた言葉の意味を胸に刻みこんで一つ頷くと、線路の先を向いていた体をくるりと改札に向けて、ゆっくりと歩き出した。
駅員さんにお願いして、入場券は持って帰らせて貰うことにした。
財布の奥にそれをしまいこむ。我ながらおセンチだが、こんな宝物があってもいいだろう。
駅舎から出て、家に向けて歩き出す。
日が沈みかけると気温もどんどん下がっていく。
そう遠くないどこかで雪が降っていることを思うと、余計に寒さに拍車がかかった気がした。
ピーコートのポケットに両手を突っ込んで、駅前の桜並木を進む。
春になれば桜のトンネルになるこの場所も、今の時期は寒々しく寂しいだけの裸並木だった。
強風に髪の毛をめちゃくちゃにされながら、橋を渡る。
夕暮れ時の橋から見る光景は普段と何も変わらない。
この町を囲む山の斜面にちらほらと家の明かりが灯っていた。
宵闇は、桜橋の欄干を真っ黒に染めて、まるで影絵の世界に迷い込んだかのようだ。
見上げる空だけが、ドラマチックで鮮やかな色彩を放っていた。
七割が藍色。二割が茜色。
両者に挟まれた残りの一割は、誰も名前を知らない、でも世界で一番綺麗なんじゃないかと思えるグラデーション。
立ち止まって、空が完全に藍色に染まるまで、私は橋の中ほどからの景色を眺めていた。
自分はこの橋からの眺めが好きだったんだと実感した。
大通りに入る。
昨日までの賑やかさが嘘のように、アーケード街は閑散としていた。
二十六日になっただけでこうも変わってしまうと、昨日までの賑わいこそがクリスマスの奇跡だったんじゃないかと思えてしまう。
文化祭の後の帰り道にも思ったが、お祭りの後は、始まる前よりずっと寂しくて物悲しい。
紺野書店に辿り着くと、しまい忘れたのかサンタとトナカイのぬいぐるみがディスプレイウィンドウの中に転がっていた。
店内に入ってガラス戸を開き、拾い上げる。
少し防虫剤の匂いがした。
また来年まで、この子達は押し入れの奥で眠る運命だ。
「……おかえり」
いつもと特に変わらない様子で、新聞の向こう側からそれだけ言ってくるお父さん。
昨日の夜は怒り心頭で大目玉を食らわせてきたのに、からっとしたものだ。
今の気分的には、後腐れないその性格はありがたかった。
小声でただいまを言って、階段を登る。
二階のレジで何か言いたげに頬杖をついているお母さんと目を合わせないようにして、バックヤードに逃げ込む。
流石に説教疲れしたのだろうが、おかえりも言ってもらえなかった。
だから私も無言を貫くことにした。
部屋に入る。
電気をつけると、呆れるくらいいつもと同じ私の部屋だった。
昨日までと違うのは、トマスがいなくなっていることだけ。
私は押入れにサンタとトナカイを仕舞って、ハードケースからギターを取り出した。
警察に連行される時にボディをどこかにぶつけたらしく、エンドピンのそばに三センチくらいの傷が付いてしまっていた。
指先で傷跡をなぞると、剥がれた塗装の下の木のざらついた感触が指に返ってくる。
音に影響はなくても、やっぱり少しショックだった。
静かに、『Whatever』の前奏を奏でる。
昨日のライブでは途中までしか演奏はできなかった。
思い出すと、何度も弾いたはずのその伴奏が酷く愛おしく、改めて素敵な曲だと実感した。
指慣らしが済んだところで気分を切り替えて、全く違うコードを爪弾いてみる。
今日のお別れを、風花の舞う風景を思い出しながら、コードを繋げていく。
私の心情を鏡のように映し出すメロディが、導き出されるように生まれていった。
サビになりそうなメロディにだけ、自分で歌詞をつけて歌ってみた。
『この星の何処かで降る雪が 僕の町にまで届くなら
この歌はどこまで行けるかな?
どんなに遠く離れても 心繋いで離さないで
いつか暖かな春の日に 君に歌って欲しい』
「……はは」
案外上手に詞が付けられたと思う。
私が作詞したなんて言ったら、メイは驚くだろうか。
窓の外を見上げる。
すっかり陽は落ちて、星のない狭い夜空が私を見下ろしていた。
「……ねぇ、メイ。もう、いいよね?」
ひんやりとした部屋の空気を震わせて、私の呟きは誰にも届かずに消える。
「……私、上手にお別れ、できたよね」
部屋の隅に置かれたウサギが、無言で私を見ている。
もちろんその問いに答えてくれたりはしない。
白亜のボディに、ぽたりと雫が落ちた。
警察署にいるときも、家に戻って両親に問い詰められているときも、そしてメイを見送るときも。
ずっと堪えていた涙が、今更思い出したように頬を滑っていった。
音楽を使って自分を表現して、私達の周りに溢れる悪意や無関心に立ち向かい続けていた時間。
掛け値なしに素晴らしい経験だったし、強くもなれたと思う。
でも、もっと二人で笑っていたかった。
二人で遊んで、じゃれあって、気持ちを伝え合って。
普通の恋人同士みたいに、甘い時間を過ごしていたかった。
演奏のことで頭が一杯で楽しむ余裕のなかった文化祭。
ちゃんとしたプレゼントも渡せなかったクリスマス。
秋に出会って、冬枯れの町でお別れをした。
お互いの誕生日さえ一緒に過ごせなかった。
春には、並木道の桜の雨の中を二人で並んで歩きたかった。
暖かな日差しの中、新山公園で一緒にクレープを食べて、お互いのを一口ずつ交換したりして。
夏には、大通りのお祭りに行きたかった。
浴衣を着て、かき氷を食べて、盆踊りをして。
そうだ、海に行く約束をしたはずなのに。
ビー玉通りでメイに似合う水着を選びたかったのに。
別に特別なイベントが無くたって構わない。
いつかみたいに二人で映画を見たり、ゲームセンターで一緒にゲームをしたり、入ったことのないカフェに入ってみたり……。
想像してみると、この狭い町の中でもいくらでも楽しい思い出を作れたはずだった。
もっともっと、メイに見せたいものが沢山あった。
丘の上の小さな遊園地と動物園。狭いけど味のある、古ぼけた映画館。
私が通った小学校と中学校や、子供の頃よく遊んでいた小さな公園。
私がどんな風にこの町で育って来たか、どんな場所に思い出があるか、一つ一つメイに聞いてもらいたかった。
なんとも思っていなかったこの町は、メイといれば特別な場所だった。
メイが私を好きでいてくれるから、私が生まれ育ったこの町を好きだと思えた。
明日から私は、何を想ってここで過ごせば良いんだろう。
一人になって、元通り灰と錆と枯れ草の色に戻ってしまった、この町で。
涙が次々と溢れる。
ギターのボディの上を流れた雫は、畳の上に小さな染みを作った。
「メイ……。メイ……。寂しいよ……っ。一緒がいいよ……。……隣りにいてよっ……。……おまじない、欲しいよ……」
駅では必死に堪えていた弱音が、堰を切ってこぼれ出した。
今更言っても彼女には届かない。
それでも止まらない。
笑顔で見送れたことを誇らしく思うのに、心の裏側で自分の強がりを責める言葉が暴れている。
矛盾する想いはどうあっても私の胸の中には同居できなくて、私はただただギターを抱きしめて泣いた。
全力で相手を想って大切にしていれば、どんな結果でも後悔することなんかない。
いつかメイに自分が言った言葉を思い出した。
そんなの、ただの受け売りの、実感の伴わない言葉でしかなかった。
だって、全力だったはずなのに。
本気で大好きだったから、自分にできることは全部やり遂げたはずなのに。
こんなにも胸が苦しい。
もっと一緒にいたい。
二つに裂かれたみたいに、心が痛い。
人を好きになることと、その人と離れること。
あまりに短い時間の中で、それらが劇的に私の身に降り掛かった高校一年の冬。
十二月二十六日の夜は一生で一番長く、言葉に出来ないほど切ない夜だった。




