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Whatever  作者: けいぞう
73/78

73.メイ

 その後、駅前広場には数台のパトカーが急行してきた。

 私たちは噴水から降り、広場の真ん中で数百人の観客に囲まれて、『Whatever』を演奏した。

 店長さん達の抵抗も虚しく、すぐにアンプの電源は落とされた。

 それでも私は、ヒロカが力の限り奏でる伴奏に乗せて、何度も何度も自由を叫んだ。

 流石に本間先生一人を相手にするのとは訳が違ったらしく、私達の演奏はサイレンにかき消され、観客たちは蜘蛛の子を散らすように駅前から退散していった。


 店長さん、青田さん、高橋くん、澤田さん、ヒロカと私は、ほとんど組み伏せられるようにしてパトカーに押し込められ、警察署へと連行された。

 事情聴取を受けた後、ヒロカ、高橋くん、澤田さんは両親に連絡が行ってすぐに迎えが来たが、その日の内に父が迎えに来られなかった私だけ、警察署に泊まることになってしまった。


 責任者を名乗った店長と青田さんは、引き続き事情聴取を受けるらしい。

 後日改めて謝罪しに行かなければと思いつつ、私は仮眠室の硬いベッドで眠れない夜を過ごした。

 ヒロカにメールを打ってみたが、両親に絞られているのか、返信は無かった。

 ライブの時の興奮を思い出しながら呆けていると、不思議なほど早く朝はやってきた。

 結局一睡もしないまま、私は迎えに来た父と一緒に警察署を出た。


「……その服は?」


 父の私に対する第一声はそれだった。

 夜の内に連絡を受けて移動し始めたものの、終電では隣の県までしかたどり着けずに駅前の漫画喫茶で夜を明かしたらしい。

 開けて今日、始発に乗ってきたのだろう。

 酷く疲れた様子で、今更娘に事の顛末を問いただすような元気はないようだった。


「貸衣装なんだ。あとで、送り返さないと」

「……そうか。寒くないか?」

「大丈夫。ありがとう」


 警察署の敷地を出て、駅に向けて歩き出す。

 大通りと直行するこの通りは、市役所や総合病院、文化会館などが並んでいる。

 冷たく澄んだ空気の中、革靴とパンプスの足音だけがやけに大きく響いた。

 早朝だけあって車もろくに走っていない。

 ほとんど意味のない信号待ちで立ち止まると、タイミングを見計らっていたかのように、父が漏らした。


「……配信、見てたよ」


 謝る機会を伺っていた私は驚いて、父の横顔を見上げた。


「……本当に?」

「うん。駅前に移動するまでね。……冬実も一緒に見てた」

「……嘘」


 信号が変わって歩き出した父の背中に、慌てて追いすがる。


「何か言ってた?」

「……褒めてたよ」

「何て?」


 信号を渡り終えて、父は小さく笑ってみせた。


「結構上手じゃない、だってさ」

「…………」

「内心は私と同じで、かなりびっくりしてたんじゃないかな。相変わらず素直じゃなかったけど」

「本当に?上手だって言ってた?」


 必死になって、縋り付くように父に聞く。

 なんだか自分が幼い頃に戻ったように感じた。


「本当だよ。普段はあんなに長い間体を起こしてたりしないのに、夢中になって見てた」


 父の言葉から、母が私を見ながらどんな顔をしていたのか、想像してみた。

 モザイクが掛かったような思い出の中の若い母の笑顔を、しっかりと思い浮かべることが出来た。

 私が積み木を上手に積めたとき、ひらがなを読めたとき、時計を見て時刻がわかったとき、その笑顔はいつも私を見守っていてくれた。


「……そっか……」


 ――そうか。

 そうだったんだ。


「……ありがとうな、芽衣。あんなに元気な冬実を見たのは、お父さんも久しぶりだった。お前の歌は、本当に素晴らしかったよ」


 赤に変わった信号の光が滲む。

 どうして私が母のもとを何度も訪れたのか、やっと分かった。


 私は、母に自分の姿を見て欲しくて、褒めて欲しかったんだ。

 ずっと私に欠けていたもの。

 胸の奥底に空いた風穴が、埋まっていくのを感じた。


「芽衣?……泣いてるのか?」

「……っ、ごめん、なさい……。私……」


 数年間、私の体のどこかに溜まっていた涙、子供の頃に流すはずだった涙が、大粒の雫となって私の両目から溢れだした。

 ぼろぼろ、ぼろぼろと。

 その内に、堪えきれなくなって、私は大声を上げて泣いた。

 両手で涙を拭っても、あとからあとから溢れてくる。


「ごめんなさい……。あんなに私を……大事にして、愛してくれてたのに……わたし……ずっと忘れてて……」

「芽衣……」

「一人で、必死になって働いて……私のこと育ててくれて……。私、思い出したんだ……。誕生日に、お母さんが作ってくれた料理……。凄く、凄く美味しかった……」

「…………」

「いやだ……。お母さんが死んじゃうなんてやだっ!まだ一緒にいたいよ……。もっと褒めて欲しい。もっと、歌を聞いて欲しい……。私、今よりもっと上手に歌えるようになるから……だから……」


 父の腕が、私の体を抱きしめた。

 ヒロカとは違う、大きくて包み込まれるような感触。

 あまりに懐かしくて、温かくて、優しくて……私はまた声を上げて泣いた。

 父の頬を伝った涙が、私の額を濡らした。


 私たちは二人、朝日も登りきらない早朝の交差点で、しばらくの間泣き続けた。



 一晩を越して崩れたメイクが、涙で更にぐしゃぐしゃになってしまった。

 私はコンビニで拭き取り式のメイク落としを買って、新麻生駅の待合室のベンチに腰掛け、とりあえず顔全体を丹念に拭いた。

 年末の駅構内は大きなキャリーケースを転がした帰省客ばかりで、ドレスにコートを羽織ってほとんど手ぶらでいる私は思い切り浮いてしまっていた。


 父には、友達とお別れを済ませてから後を追うと伝えて、先に電車に乗ってもらった。

 流石にあんなことのあとに隣り合って電車の席に座るのは照れくさい。

 父も同じだったらしく、気をつけてくるようにと私に言い含めて改札をくぐっていった。


 私はスマホを取り出し、ヒロカに送ったメールを読み返した。


『新麻生駅で待ってる』


 ヒロカが来てくれたら、時間の許す限り話をしようと思っていた。

 母のこと、父のこと、私自身のこと。


 麻生を離れると告げたら、ヒロカはどんな反応をするだろう。

 なんとなく、もう私の考えていることは伝わってしまっているような気もしていた。


 改めて辺りを見渡す。

 小さな土産物屋の併設された待合室。

 ペットボトルをリサイクルして作ったらしい青色のベンチが数脚並んでいる。

 時刻は正午近くになって、帰省客とキャリーケースの数は更に増えたように感じた。

 この駅には特に愛着のようなものはない。

 毎日ヒロカが改札まで見送って手を振ってくれた麻生駅のほうが、ずっと思い出深い。


「……今日は、『また明日』って言っちゃいけないんだよね……」


 ぼそりと呟いて、俯く。

 自分で決めたこととはいえ、いざ目の前に迫った別れに胸が詰まる。

 さっきとは違う涙が込み上げてきてしまいそうだった。


 スマホにイヤフォンを差し込んで、プレーヤーを立ち上げる。

 ヒロカが入れてくれた音楽達と一緒に並んでいる、Irisのフォルダーをタップ。

 二人の練習を録音したものや、ヒロカが作曲してメロディをハミングしているもの、百近い曲目がリスト表示される。

 一番古いファイルは、今から三ヶ月前のもの。


 三ヶ月……。長かったのか短かったのか。

 感覚的にはどちらとも言える。

 でも一般的な人間関係という意味で言えば、やっとお互いのことを知り始めて、相手に対する認識を固め始めるくらいの時間じゃないだろうか。

 たったそれだけの期間で、私たちはこれだけの音楽を残して、お互いを好きになって、一緒に追いかける夢まで見つけた。


 ヒロカと過ごした時間に思いを馳せながら、百二十分以上あるIrisのフォルダーを一巡通して再生した。

 ヒロカが送ってくれた写真を眺めたり、メールを読み返してみたりしながら、自分の手のひらの中の端末に詰まった二人の思い出を振り返った。


 ほんの少し前までヒロカのことを「紺野さん」なんて呼んでいたことを思い出して可笑しくなった。

 初めてお互いを名前で呼んだ夕暮れの音楽室。

 まだ少ないレパートリーを何回も何回も繰り返し練習していた。


 初めて二人で撮った写真。

 ヒロカとデートして歩いた大通り。

 あの大きなウサギのぬいぐるみは、今も変わらず大切にしてもらっているのだろう。

 私が居ない夜には、ヒロカはあれを抱きしめて眠るのかもしれない。『そばかす』の歌詞のように。


 ヒロカへの想いに気づいて逃げ出そうとした日。

 ヒロカは、私を探してくれた。

 思い悩む私の元に駆け付けて来てくれた。

 二人で学校をサボってホテルで過ごした一日。

 誰にも邪魔されることのない、大切な人との二人だけの世界。

 みっともなく泣きじゃくる私を、優しく包んでいてくれた温もり。

 理屈も建前も飛び越えて、彼女は私の心に暖かな光を灯してくれた。


 文化祭を目標に、練習を続けた毎日。

 高岡では初めて人前で演奏して、自分の歌を聞いてもらう楽しさを知った。

 自分の体を使って、自分がここにいることを訴える手段を身に着けていった。

 高橋くんや澤田さんとも、ヒロカを通じて少しずつ話す機会が増えていった。


 そして、バンドバトル。

 ヒロカと立った、初めてのステージ。

 雨のような歓声。

 私達が作った、みんなの笑顔。

 ヒロカと共有した、人生で最高の経験。


 最後のライブも、終わりはあんな有様だったけど、私にとっては大成功だった。

 母に聞いてもらうことが出来て、褒めてもらえたのだから。


 できるならもっと、母に私の歌を聞いてもらいたい。

 私の大好きな人が作った曲に、私の想いを乗せた歌を。


 気がつけば時刻はもう夕方。

 足元にあったはずの日向が、待合室の隅っこまで移動していた。

 帰省客ももう一人もいない。

 土産物屋も店じまいしてしまったようだ。

 一人きりなのをいいことに、私はイヤフォンから流れてくるヒロカのハミングに合わせて、目を閉じて、小さく口ずさんだ。


『あと何回 愛してるを言えるだろう

 あと何回 ありがとうを言えるだろう

 そんなことが怖いのは きっと今だけだから』


「……いい歌だね」


 すぐ隣から、声が聞こえた。

 私の大好きな人の、甘くて優しい声。

 いつの間にか、すぐ隣にヒロカが座っていた。


「……それはメロディがいいから?それとも、歌詞がいいから?」

「うーん、両方、かな」


 私は笑う。

 ヒロカも、笑った。


「目、腫れてるよ」

「メイだって」

「あのあと、どうだった?」

「……怒られた。夜通し、こっぴどく。冬休みは外出禁止って言われたんだけど、無視してメイに会いに行こうとして、また怒られた」

「どうやって出てきたの?」

「どうしても学校に行かなきゃいけない用事があるからって、嘘ついてきたの」


 コートの下は見慣れた制服だった。

 またいつか同じ服を着て、ヒロカと同じ学校に通えるといいなと、ぼんやり考えた。


「……ねぇ、ヒロカ」


 ベンチの背もたれに体を預けて、私は天井を仰ぐ。

 レンガ造りの天井と、端が黒くなって切れかけた蛍光灯。

 ちかちかと瞬く光に、視界が滲んだ。


「あのね……」


 どこから話したものかと言葉を探す私の隣で、ヒロカは小さく笑った。


「……分かってるよ」


 伸ばした足をブラブラと揺らしながら、ヒロカも私と同じように天井を仰ぎ見た。

 特急列車が通り過ぎる音と振動が、待合室内に響いた。


「何が?」

「何でも」

「まだ何も言ってないのに?」

「うん」

「……どうして、分かるの?」

「私に、分からないと思う?」


 隠し事を見抜いたみたいに、得意気にヒロカが言う。


「……行かなきゃいけないんでしょ?」


 その声の最後がほんの少し震えたことに、私は気づかないふりをした。


「……うん」

「メイは、自分でそうするって決めたんだよね?」

「……うん」


 短く答える。

 細かく事情を説明したら、私の声も震えだしてしまう気がした。


「……あーあ」


 予想より早く消えてしまった線香花火を惜しむような声を出して、ヒロカが嘆息する。

 でもすぐに気を取り直したようにベンチから立ち上がって、大きく伸びをした。


「ま、第一章はこんなもんでしょ」


 振り返るヒロカが微笑む。

 手放しで大満足とまでは言えないまでも、概ね納得しているという顔だった。


「Irisは、まだまだこれからだからね。曲作り、練習、サボらないで頑張らないと」


 両手を拳にして気合を入れるポーズを作るヒロカ。

 ね?と同意を求められて、私も微笑み返し、立ち上がった。


「うん……。頑張らなきゃね」


 視線を交わして、頷き合う。

 自分たちがやりたいこと、やるべきことがはっきりしているなら、明日以降もなんとかやっていける気がする。

 例え、お互い離れ離れだったとしても。


「……時間、大丈夫?特急の本数、少ないから」

「……うん、大丈夫」


 答えながら、本当は電車の時間なんて確認していなかった。

 お別れを済ませたら、すぐ次の電車に飛び乗るつもりでいた。

 もう少しだけ、あと一本後の電車で、と別れを先延ばしにしていたら、きっとこの前向きな気持ちはどんどん寂しさに侵食されてしまうだろう。

 私はゆっくりと待合室の自動ドアをくぐる。ヒロカも無言でついてきた。


 時刻は四時三十分。

 丁度二人で、放課後の校舎で練習をしているはずの時間。

 見慣れた夕焼けが、悲しいくらいいつも通りで、綺麗だった。


 発券機で、乗車券と特急券を購入する。

 ヒロカも隣で入場券を購入する。

 一緒に改札をくぐる。

 すぐ目の前のホームに、十分ほどで特急が到着するはずだ。

 券に印字された車両の乗車口まで移動して、二人で並んで立つ。

 このまま二人で何処か遠くまで逃避行することができたらと、過ぎってしまった考えを私は必死に振り払った。

 ヒロカの手には小さな一枚のチケット。

 私の手には、大きな二枚のチケット。

 私達の行き先は違う。


「……店長さんと青田さんに、謝っておいてくれる?いっぱい迷惑かけちゃったから」

「うん。分かった」

「あと、このドレス。あとで郵送するから。延滞料とか掛かってたらちゃんと払うって、伝えておいて」

「うん」

「…………」

「…………」


 沈黙。

 下手なことを口にすると、二人で保とうとしている空気が崩れてしまいそうだった。

 遠く、談笑している女の子二人組の声が聞こえてきた。

 ほんの少しの時間でも、あんな風にヒロカと笑って話すことが出来たら良いのに。


「……ねぇ、ヒロカ」


 私がそう呼ぶ声は、弱々しい迷いの響きを含んでいた。

 無理して強がって、お別れなんか寂しくないってふりをして、このままでいいのか。

 自分の都合で勝手を言って、ヒロカをこの町に残して出て行く私をどうして黙って見送ってくれるのか。

 そう尋ねようとしていた。

 本心ではそんなことを口にするつもりはないのに。

 ただもう一度大好きだと、必ず迎えに戻ってくると伝えたいだけのはずなのに。


「やぁ、メイちゃん。久しぶりだねー!」

「……え?」


 ヒロカに向き直った私の眼前に突きつけられたのは、サンタの格好をしたクマのぬいぐるみだった。


「……あれ。もしかして僕のことを覚えていないのかい?ショックだなー。あ、サンタの格好してるからわからないのかな?」

「…………トマス?」


 私がその名前を口にすると、赤い帽子と赤いコート姿のそのぬいぐるみは、嬉しそうに体を上下に揺すった。


「良かった!覚えててくれたんだね!僕は嬉しいよ!」


 両手で熊のぬいぐるみを顔の前に構えて、ヒロカは腹話術の真似事をする。

 男の子ぶった口調と声が、偉そうに続ける。

 記憶の中のトマスの話し方と、そっくりだった。


「良いかい、メイちゃん。前にも言ったかもしれないけどね、人生には出会いがあれば別れもあるんだ。でも、僕たちはまたこうして会えただろう?だから、悲しんだり、落ち込んだりなんてしなくっていいんだ」

「……うん」

「今日からは、また僕がそばにいてあげるからね。昔みたいに、いっぱいお話しよう。僕がいなかった間にあったことを、教えてくれると嬉しいな」


 腰に手を当てて、胸を張るポーズをとるトマス。

 なんだか昔より、ちょっと陽気な性格になっている気がした。

 私は思わず吹き出して、帽子を被った頭を撫でた。


「……じゃあ、聞いてもらおうかな」

「何でも言ってくれたまえ」

「……私ね。大切な人が出来たよ」

「ほう!それは素晴らしいことだね!どんな人だい?!」

「……可愛くて、優しくて、あったかくて、すっごくギターが上手でね。素敵な曲をいっぱい私に作ってくれる、とってもチャーミングな人」

「……ほう。それはちょっと、妬けてしまうなぁ。僕がいない間に!」


 体を左右に揺すって怒った振りをするトマス。

 でもその顔は穏やかな笑顔のままだった。


「ごめんね。でも私、その人のことが本当に……」


 喉の奥が締め付けられる。

 それでも、トマスの飄々とした笑顔を見ながらなら、最後まで言える気がした。


「本当に……大好きだから。絶対、迎えに行くって決めたんだ」

「……そうなんだ!だったら、少しの間のお別れなんて、寂しがることはないね!」

「……そうだね」

「ちなみに、ど、どれくらいで、迎えに来るんだい?」

「…………分からない」

「……そうか。……そうだよね。未来のことは、誰にもわからないものだよね」

「……うん。……ごめん」

「……僕に謝ることじゃないだろ?」

「…………そうだよね」


 俯きかけた私の眼前に鼻っ面を突きつけて、トマスは大きな身振りを付けながら言った。


「……でもね、メイちゃん!」

「うん?」

「きっとその人は、メイちゃんが想う気持ちと同じ分だけ、メイちゃんのことが大好きだよ!だから、何年でも、ずっとメイちゃんを待っていてくれるよ!僕には分かるよ!」

「……そっか」


 言葉が、ゆっくりと優しく私の中に染み込んでくる。

 日向に置かれた氷の塊が溶けていくように、心が軽くなっていった。

 言いたいことを上手に言えて、聞きたいことを言ってもらえた。

 ヒロカは本当に不思議だ。どんなときでも、私が楽になれる方法を知ってる。


 ずっとそうだった。いつだって、ヒロカは私を救ってくれた。


 私は、トマスごとヒロカの体を抱き寄せた。

 記憶の中でヒロカと直結している、甘いシャンプーの香り。


「……待っててね」


 私が囁くと、ヒロカもその手にトマスを持ったまま、ぎゅっと私の体を抱き返してきた。


「ごめんね、トマス……。ちょっと、あっち向いててね」


 ヒロカが顔を上げて、少し背伸びをする。

 抱きしめあったまま、私たちは長い長いキスをした。

 今まで共有した時間の価値を二人で確かめるように、これから離れて過ごす時間に対する不安を拭い去ろうとするように。


 ふと、頬に一粒、冷たい感触がぶつかる。

 唇を離して、二人で空を見上げる。

 雨が降ってきたのかと思ったが、それは水滴よりも軽やかに、ちらちらと夕日を反射しながら中空を舞い落ちている。

 ヒロカの髪や、コートの上に落ちて、ゆっくりと解けるように溶けて消えていく。


「……雪?こんなに晴れてるのに」


 私の呟きに、ヒロカが微笑んで応えてくれた。


「これはね、風花だよ」

「……かざはな?」

「そっか。これって、この地方の人しか知らないのかな?何処かで降ってる雪が風に乗って飛んできてるの。私も、久しぶりに見たよ」


 二人で見上げる夕焼け空に、幾つもの小さな結晶が乱舞する。

 まるで妖精の群れの中に迷い込んでしまったかのような、非日常的な光景だった。


「……綺麗だね」

「……うん」


 細かな紙吹雪のように、それは私達が立つホームを飾る。

 ホームに滑り込んできた特急電車の風圧に煽られて、小さな輝きの粒が私達の周りを駆け抜けていく。

 私達二人の別れを、ドラマチックに演出しようとしているかのように。


「……ねぇ、メイ」

「うん?」

「……これも、歌にしようね」

「……もちろん」


 私たちは頷き合って、拳をぶつけあった。

 悲しいはずのお別れの記憶も、心が大きく揺り動かされた出来事なら、きっと素敵な歌に変えていける。

 私達が目指す夢に近づくための、力強い一歩に出来る。


 最後にもう一度、きつく抱きしめ合う。

 私より頭一つ分小さな、とても抱き心地のいい体。

 私は少しでも深く自分の記憶にその感触が残るようにと、全神経を集中してヒロカの背中を掻き抱いた。


「メイ……。大好きだよ……」


 少し息苦しそうで、でも穏やかな声が、私に安らぎをくれた。


「私も。愛してる。ヒロカ」


 はっきりと想いを告げる私の言葉が、ヒロカの顔に微笑みを咲かせた。

 たったそれだけのやり取りで、一緒にいた時間の結論を確かめあえた気がした。


「…………」

「…………」


 私たちはどちらからでもなくお互いの意志で、一つに結びついているべき二つの体を、ゆっくりと離した。

 痛みはない。

 大丈夫だ。


 トマスを受け取って、電車に乗り込む。

 短い発車のベルのあと、空気の抜けるような音とともにドアが閉まる。

 あんまりにもあっさりと、時間通りに電車は新麻生駅を発車した。


 ガラス越しにヒロカの笑顔が見える。

 だから私も、笑っていられた。

 電車はゆっくりと加速して、どんどん視界の中のヒロカを小さくしていく。

 何かを叫びながら大きく手を振っている姿に、私は決意を込めて、もう一度呟いた。


「……待っててね、ヒロカ」



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