72.メイ
差し出された右手を、私は握り返すことが出来なかった。
本当は、すぐにでもその手をとって、この部屋を飛び出して行きたい。
でも、この町にヒロカを残して行こうとしている私は、本当にそんな選択をしていいんだろうか。
きっと、私たちが外に出て演奏をしたらかなりの人たちが見に来てくれるだろう。
いくら認定をもらったとはいえ、ちょっとした混乱を生むことは間違いない。
大きな歓声をもらえたとしても、その逆の反応もより一層強くなるだろう。
軽音部にされた仕打ちや、エリカさんの昏い言葉が蘇ってくる。
私が一緒にいられるならまだいい。
くだらない逆恨みや歪んだ独占欲なんていくらでも押し返して彼女を守ってあげられる。
でも、私は……。
「ねえ、思い出して。私が作った曲」
気がつけば、目の前にヒロカがいる。
ヘーゼルの両目を輝かせながら、まっすぐに私を見つめている。
「メイがいない間に作った曲。私、負けなかったよ。挫けないで、ちゃんとここまで漕ぎ着けられたよ」
か細い声に込められた決意が、はっきりと私に伝わってくる。
何度も何度も繰り返し聞いた、ヒロカが生み出したメロディたち。
私は歌詞を重ねるとき、彼女が孤独に打ちひしがれている姿を少しでも想像しただろうか?
はっきり思い出せる。
まるですぐそばにヒロカがいて、毎日の出来事や、楽しかった思い出を語り聞かせてくれているように感じた。
どんなに疲れ果てた夜でも、その瞬間は私も一人だなんて感じなかった。
母の病状、先が見通せない将来、まるで自分が透明になったかと錯覚するような無関心に晒されたむなしさ。
気づかないうちに私の中に募る闇を打ち払ってくれていたのは、間違いなくヒロカとの繋がりだった。
これからも私は、そうして生きていくんだろう。
そばにいても離れていても、彼女の存在なしには、私は今の私ではいられない。
「……私なら、大丈夫だから」
その言葉を、信じられる。
信じることで、私も自分を失わずにいられる。
私がヒロカを守るなんて、とんでもない勘違いだったのかもしれない。
私だって、彼女がいなきゃだめなんだ。
ヒロカと共有した思い出が、何よりも強く私を支えてくれているんだから。
私は迷いを振り切るように、彼女の右手をとった。
「ごめん。……そうだよね」
一度強くうなずいて、その手に力を込める。
「本当にごめん。男らしくないよね、こんなんじゃ」
「……メイ」
かすかにヒロカが笑った。
私も微笑み返す。
私たちには、夢がある。
もうどこに向かって生きてるのか分からないまま毎日を過ごすのはやめたんだ。
自分と、自分の大切な人を信じて、無茶かもしれない未知の世界にも飛び込んでいかなきゃいけない。
手をつないだまま私はカメラに向き直って、力強く笑った。
「麻生駅駅前の噴水広場。準備が出来次第ライブ再開!みんな、絶対見に来て!」
Bスタジオにいったん撤収し、ミリタリーコートを羽織る。
ヒロカもドレスの上に真っ赤なピーコートを着込んだ。
もしかしたらひどくちぐはぐな格好かもしれない。
でもそんなことを気にしている余裕はない。
青田さんがスタジオのライトバンを店頭に回してくれた。
店長さんがワイヤレスのマイクやアンプ、トランスミッタなどの機材を積み込んでいく。
信じられないことに、ナカシマギターショップの前には十数人の人だかりが出来ていた。
私たちが店の外に出ると歓声が上がる。
高橋君と澤田さんが人を掻き分けて道を作ってくれる。
私とヒロカは手をつないでバンの後部座席に転がり込んだ。
「乗ったね。いくよ」
「ちょ、青田くん!私も乗る!」
「私たちも!」
人を掻き分けながら、助手席に店長さん、荷台に高橋君と澤田さんが乗り込む。
ライトバンはクラクションを鳴らしながら大通りを走り出した。
「高橋君、アンプ、バッテリー入れておいて!」
「了解!」
「澤田さん、二人のメイク治してあげて!」
「はい!」
振り返ってみると、店頭にいた人たちがライトバンを追いかけるように走っているのが見えた。
「な、なんであんなに人が?」
揺れる車内でヒロカが目を白黒させながら悲鳴のように言う。
「多分、携帯で配信見ながら出待ちしてたってことだろ」
「嘘……そんなスターみたいな……」
「今日に限っちゃ、間違いなく市内のスターだって、お前ら二人」
作業する手を止めずに、高橋君が笑う。
その言葉を裏付けるように、クリスマスの飾りつけがされた大通りを、駅に向けて急ぐ人たちの姿が目立ち始めた。
「あれだけ堂々とライブの告知しちゃったんだから、二人とも腹括れよな」
「あ、冴木さん、こっち向いてて!あー、マスカラ塗れないから揺らさないでー!」
「車に言って」
バンは高架沿いの横道に入り、速度を上げた。
「青田さん、そ、そんなに急がなくても!」
顔を固定したまま私が叫ぶ。
口紅を手にした澤田さんに鬼気迫る表情で睨まれた。
「こういうのは、熱が冷めたら終わり。もう着くから準備急いで」
言われたヒロカがチューニングを確認する。
高橋君がエンドピンになにやら機材を差し込んでスイッチを入れた。
たちまち車内が大音量のハウリングに包まれる。
「馬鹿!音量下げてから!」
「すんません!」
「あっはははは!なんか楽しくなってきたぞー!寛香ちゃん、なんか弾けー!」
「え、えっと!」
「遅い!すぐ弾け!それでもギタリストか!」
「……は、はい!高橋くん、歪ませて!」
「あいよ!」
スクラッチから八分音符の規則正しいダウンストローク。
驚くほど単純なのに、すぐにそれと分かるリフ。
『The Shock Of The Lighting』。
飛び込むように私は歌いだした。
高橋君と青田さんも続く。
「Yeah!!」
店長が足を踏み鳴らし、ダッシュボードを叩いてパーカッションする。
「ちょ、寛ちゃん!メイク直せないってば!」
「もーいいや!このまま行く!」
ちょうど車は駅前に入った。
いつもなら閑散としているはずの広場に、コート姿の若者がひしめき合っていた。
予想していた人数の数倍……二百人はいるかもしれない。
すでに一般車両用のロータリーが埋め尽くされて車が入れない状態だ。
噴水を中心に群がっていた人たちがいっせいにライトバンを見つけて声を上げる。
「バス停のほうにつける。そのままアンプかついで行って演奏続けて」
青田さんの指示が飛ぶ。
車は耳障りなスキール音を響かせて噴水の裏手側に停車した。
「冴木、マイク!」
高橋くんから黒くずっしりとした無線マイクを受け取る。
最低限の音量の調整だけ済ませる。
「紺野、ヘッドセット!マイク角度気をつけろ。鼻息入るぞ!」
「わかってる、ありがとう!」
澤田さんがヒロカの頭にそれを装着して手早く髪の毛を整える。
「オッケー、行けるよ!」
「よっしゃ!」
スライドドアが全開にされると、ディストーションギターの音が車外に解き放たれる。
弦を爪弾きながら、ヒロカが先に下りる。
店長が駆け寄ってくる人たちの前に躍り出て両手を広げた。
続いてアンプを抱えた高橋君が後ろから追いかける。
私もすぐにその後に続いた。
先を駆けるヒロカが、迷わず噴水の縁に飛び乗った。
一心不乱にダウンストロークを繰り返す姿に、嬌声があがる。
アンプはライトバンのボンネットの上に置かれた。
私は噴水の逆側の縁に立った。
すぐ背後で飛沫を上げる噴水の冷気を吹き飛ばさんと、私はもう一度頭から歌い始める。
私の声が、ヒロカのギターが、駅前広場を駆け抜ける。
ほんの数分で、舞台を変えたライブが再開された。
自分の声が聞き取れなくなりそうなほどの歓声。
寒々しい灰色の駅前広場は、一瞬にして熱気溢れるステージに変貌した。
飛び散る水滴にも構わず、私は体を折り曲げて声を張り上げる。
比例して湧き上がる聴衆の反応。
文字では感じられなかったボルテージが膝の下から舞い上がってきた。
それをねじ伏せるように、ヒロカのコーラスを伴った私の歌声がさらに音量を高める。
いつの間にか、すぐ隣にヒロカが来ていた。
狭い足場の上で踊るようにステップしながらギターのネックと頭を振って、私に背中を預けてくる。
私は後ろからヒロカをハグして歌い続ける。
二人の体をリズムが繋ぐ。
私の声帯から生まれる振動が、ヒロカの指先まで伝播する。
共振を起こすようにして、私たちの体の中の感情は膨らんでいく。
曲の最後には、もう私の声に意味なんてなかった。
ただひたすら、激しく掻き鳴らされるヒロカのギターと一緒に、音を振り絞っていた。
まるでここにいることを必死に訴えるような、私たち二人の叫び。
私が体中の酸素を使い果たすとき、同時にヒロカも右腕を止める。
一瞬の静寂の後、爆発のような歓声が巻き起こった。
息を整えながら、噴水の周りを見渡す。
三百六十度、隙間なく人に埋め尽くされた噴水広場。
これがみんな、私たちを見に来てくれた、私たちの演奏を聴きに来てくれた人たち。
広場に入りきらず、外周のバスターミナルにまで人が溢れかえっている。
演奏が終わっても、私たちを、Irisを呼ぶ声が止まらない。
もう、本当に何も言葉が見つからない。
ヒロカと見詰め合って、笑って、そして同時に叫んだ。
『メリークリスマス!』
背中に夕日を浴びながら、私たちは並んで辺りを見渡す。
足元では、店長さんと高橋君と青田さんが私たちに殺到する観客を抑えてくれていた。
目抜き通りの遠くから、こちらに駆けてくる人たちの姿が見える。
これ以上増えると、バスもタクシーも入ってこられなくなるだろう。
そうなれば、ライブなんてやっていられない。
反対側出口の交番から警官も駆けつけるだろう。
それでも、何故か私たちに焦りはなかった。
ただただ、興奮と感謝の気持ちでいっぱいだった。
「集まってくれて、ありがとう!」
マイクに向かって叫んで、ヒロカと手を振る。
私達を見上げる、数えきれないほどの笑顔。
「すごいね……。なんでこんな事態になっちゃったんだろ」
他人事のような口調で、ヒロカがキョロキョロしながら言う。
「うーん、たぶんねぇ」
自分で告知をしておきながら、私はわざとらしく考えこむ素振りをしてから、答えた。
「クリスマスだからだよ」
笑い声と、指笛と拍手。
隣でヒロカが声を上げて笑っていた。
「っていうかメイ。さっき気づいたんだけどさ」
「え、何々?」
「……意外とさ、カップル少ないんだね。クリスマスなのに」
今度は私が笑う番だった。
「そこ?そんなこと気になった?」
「……恋人同士だよって二人、手繋いで挙げてー!」
ヒロカの声に、人混みの中からちらほらと手が上がる。
十数組のカップルが、二人で過ごす時間を割いてまで駆けつけてくれていた。
「おー、じゃあさっきまで、二人で配信見ててくれたのー?」
「……ごめんなさい、ムードのない曲ばっかり演って……」
私が頭を下げると、また笑い声が上がった。
「二人はどうなのー?!」
人混みの外れから、一際大きな声が私たちに聞いてくる。
声のした方を見やると、なんと頼子さんだった。
ちゃっかりお客さんの一人という顔をしている。
「……私達?」
反射的に、お互いの顔を見てしまった。
もともと怪しまれていたせいもあってか、冷やかすような疑うような声がどっと沸いた。
「あ、あははは、私たちは、ノーコメント……え?」
口ごもってごまかそうとするヒロカの右手を取って私は、えいっと持ち上げた。
きっかり三秒、私の行動の意味が伝わるまで、しんと広場が静まり返った。
直後、今日一番の大歓声が爆発した。
「え、え、えぇえ……。ちょ、っと……メイ……」
みるみるうちにポストみたいに真っ赤になるヒロカ。
私だってきっとほっぺたくらいは赤くなっている。
それでも私はヒロカに手を下ろすことを許さなかった。
ざわつきが収まらない。
手を上げた直後に二人で大笑いしていたら、とても気の利いた冗談になったんだろうけど、あいにく私は冗談にするつもりはなかった。
ヒロカの生々しすぎる反応が、見事に疑惑を確信に塗り替えてしまった。
勢いに任せて、私はマイクに口を寄せる。
今なら、言える。
私が本当に伝えたいことを。
「……私は、ずっとやりたいことなんて見つけられずにいました。大切なものも、何も持っていませんでした。でも、ヒロカと出会えて、歌うことと、自分の想いを歌詞に託すことの楽しさ、素晴らしさを知りました」
しゃべるのは苦手だったはずなのに、私はごく自然にマイクに向けて想いを吐き出していた。
「色々な歌詞を作って、表現したいこと、聞いてほしいこと、全部歌にしてぶつけてきたつもりです。……でも、まだ本当に伝えたいことを、本当に伝えたい相手に言えてないんです」
私は、次に歌う曲を決めた。
歌ってみたい曲はまだまだいくらでもあるけど、時間が限られているなら、この曲だけは絶対に歌っておきたい。
誰よりも、ヒロカに聞いてもらいたい。
「……というわけなので、次の曲は、ちょっとだけ静かに聞いてください。私が、ヒロカを想って歌詞を書いた曲です」
潤んだ目で私を見つめるヒロカの手を、ゆっくりと離す。
私は一歩距離を取って、ヒロカに向き直る。
バンドバトルの時よりも、もっと気持ちを込めて歌える気がした。
ヒロカがいつまで経っても前奏を始めてくれる気配がないので、私はマイクを構え直し、アカペラで歌い出した。
『ねぇ、君はこの風に触れるのかな?
今想いを呟いたよ
行く先も知らない言葉を どうか届けて欲しい』
体に染み付いた習慣のように、私が歌えばヒロカはギターを弾き始める。
真っ赤な顔で、心ここに在らずといった表情のまま、それでも演奏は正確だった。
『ねぇ、夜と涙は あと幾つ?
触れ合えた日に戻りたい
君がいない長く寒い日 僕の知らない季節』
ストロークとアルペジオを織り交ぜて、少しずつ伴奏は盛り上がりを見せていく。
私は目を閉じて、一音一音に想いを込める。
ヒロカが作ってくれた曲の中で、一番穏やかで優しさに溢れたメロディ。
私も、素直な気持ちで湧き出してくる言葉をそのまま歌詞に委ねた。
『同じ空を眺めても 違う星の数 遠い遠い君へ』
誰よりもヒロカに届けたい私の気持ちを語りかける。
視線で、表情で、音程で、声色で……私の、全てを使って。
――ヒロカ。私、ヒロカに出会えて、本当によかった。
歌うことも、想いを歌詞に乗せることも、ヒロカとの出会いが私にくれた最高のプレゼントだよ。
こんなにも幸せな気持ちで、言葉に出来ない感情を伝えることができるなんて、きっと世界で私だけにしかできない。
だから、聞いていてね。どれだけの想いを、この言葉たちに込めたのかを。
『夢で逢えても 夜が明けても ただ恋しくて
今日も僕は 想いを綴るよ
声よりも早く キスよりも強く 時も距離も越えて
奇跡のように 僕らを繋ぐ言葉を探して』
私達の世界は、どこまでもどこまでも広がっていく。
私達が作った、誰にも邪魔されることのない、本当に自由な世界。
その中心に、私達の胸の一番奥に、決して枯れない花が咲く。
『この声は枯れない 君を想う限り 遠い遠い未来も』
ヒロカが、笑ってくれた。
私も笑った。
私の想いが、確かに今ヒロカに届いたことを感じる。
『許されなくても 間違いだとしても ただ愛しくて
明日も僕は 願いを歌うよ
笑っていて欲しい 守ってあげたい すべての痛みを消して
やっと見つけた――』
左手を、ヒロカの頬へ。
私の最後のフレーズに合わせて振り下ろすはずの右手から、スローモーションのように、ゆっくりとピックが落ちていった。
『“世界で一番 君を愛してる”』
後奏を失ったその曲は、私達がただ見つめ合うだけの長い長い沈黙を連れてきた。
私の声が消える時が曲の終わりだとしたら、それはいつなんだろうか。
きっとヒロカの体の中に、私の声は今も響き続けている。
その事を証明するように、ヘーゼルの輝きが潤んで、揺れていた。
私はもう一度、歌詞ではない私自身の言葉に、私の想いを委ねた。
「…………大好きだよ。ヒロカ」
ゆっくりと、私はヒロカにキスをした。




