67.メイ
特急電車が新麻生駅に到着するまでが待ち遠しくて堪らなかった。
目的地に近づくにつれて寂しくなっていく風景とは逆に、もうすぐヒロカに会えると思うと、じっとしていられなくなるような気持ちが高ぶっていった。
車両に一人、窓際の席に腰掛けて中途半端なお河童頭を指先で弄びながら、私はこの髪をヒロカにどう説明しようかと思い悩む。
せめてヒロカの学校が終わるまでの間に美容院に行って、切りそろえてもらったほうが良いだろう。
そういえば、鞄とカードケースをヒロカに預けたままだった。
まず紺野書店に行って回収しなくては。
席に座っているのがもどかしくなって、私は到着の十五分前にはデッキに移動して、ドアの窓から外に流れていく景色を眺めていた。
眼に入るのは枯れ木や枯れ草、裸の田畑ばかりで、歩いている人よりもカカシの数のほうが多いような風景。
天気も冬らしい薄曇りだ。
見ていて楽しい物なんて何もない。
でもこの電車の行き着く先には、間違いなく私にとっての最高の幸せが待っている。
ようやくチャイムとアナウンスが流れ、ゆっくりと電車が減速を始める。
私は少しの荷物を詰めたリュックを背負い直して、焦らすようにゆっくりと開く扉の隙間からホームに降り立った。
都心よりもきつく張り詰めている冷気と、殴りつけるような北風が私の髪を揺らす。
私は早足で改札をくぐり抜けて、小さな駅舎を後にした。
大通りまで確か約二キロメートル。
自分で稼いだなけなしの現金の残高を思うと、タクシーなど使える訳もなく、歩いて渡瀬川の方面に歩き出した。
新麻生という名前の割に麻生よりも駅の規模はかなり小さく、駅前もバス停とタクシー乗り場、レンタカーショップとその駐車場くらいしかない。
それでもあちこちにクリスマスシーズンらしい飾り付けが施してあって、三週間前よりも少しだけ華やかな雰囲気を醸し出していた。
考えてみれば今日はクリスマスイブなのだが、平日の昼過ぎということもあって相変わらず人通りはほとんどなかった。
ヒロカたちは今、よりにもよって期末試験を受けているらしい。
明日から冬休みとはいえ、暦のめぐり合わせを恨みたくなるような気分に違いない。
そういえばヒロカ、試験は大丈夫なのだろうか?
ここ最近は作曲とライブの準備でろくに勉強していなかっただろうし、その前は私と遊んでばかりだった。
赤点なんか取っていなければいいのだが……。
と、事実上休学状態になっている私が心配するのも妙な話だった。
猛烈な強風に耐えながら桜橋を渡ると、大通りが見えてきた。
ヒロカと一緒にクリスマスの飾り付けにはしゃいでいた日が遠い昔のことように思い出される。
『クリスマス・イヴ』のインストに合わせて鼻歌を歌っていると、紺野書店の看板が見えてきた。
ガラス戸に雪の結晶が描かれて、サンタとトナカイのぬいぐるみが吊るされていた。
遠慮がちに入り口の扉を開くと、一階のレジで新聞を読んでいたお父さんが顔も上げずにいらっしゃいませーとだけ声を上げた。
普通のお客を装って、そのまま二階への階段を登る。
「いらっしゃいませー。……あら」
コミックの陳列作業をしていたらしいエリカさんが、私に気付いて声を上げた。
「メイちゃん?どうしたのその頭?!」
予想通り、最初にそのことを指摘されてしまった。
私は苦笑いを浮かべて会釈した。
「お久しぶりです。ちょっと、色々事情がありまして」
「寛に聞いたわよ。お母さん、大変だったんですって?……もういいの?」
「えっと、あまり良くはないんですけど、明日ヒロカと約束があって、一旦戻ってきたんです」
エリカさんは手にしていたコミックを棚に戻して、こちらに歩み寄ってきた。
「その髪……寛が見たらうるさそうね」
「やっぱり、そう思います?」
「うん、絶対騒ぐわ」
「今のうちに美容院に行ってきます。メンバーズカード鞄に入れっぱなしで、ヒロカにその鞄を預けたままだったから返してもらおうかなって」
「鞄ね。ヒロカの部屋にある?取ってくるわ」
「すみません、お願いします」
バックヤードの方へ小走りで駆けて行くエリカさんを見送って、私は内心に渦巻く一つの疑念を吐き出すべきか、躊躇していた。
気付いてしまってから今日まで、ずっと私の頭に張り付いていた悩みだった。
「おまたせ。これよね?」
濃紺色の通学カバン。
ストラップや小さなぬいぐるみがついているヒロカの較べて、私のそれは飾り気がない。
「はい、ありがとうございます」
数冊の教科書が入っているだけの薄い鞄を受け取り、サイドのポケットからカードケースを取り出す。
ポイントカードやメンバーズカードはその中に入れることにしていた。
「でも、美容院今日やってるかしら?ビー玉通りのAshってとこでしょ?」
「あ……そっか、今日って」
「うん、イヴだからね。もしかしたらお休みかも」
メンバーズカードには不定休と書いてあるだけだ。
エリカさんが電話の子機を拾い上げて操作する。
商店街の店舗の電話番号は登録されているようだった。
電話が繋がると二、三やりとりをして、子機を戻す。
「ダメ。今日明日と大晦日と元日はお休みだって」
「そうですか……。たしか、大通りにもいくつかありましたよね、床屋さん」
エリカさんは小刻みに首を横に振った。
「あれは本当に『床屋さん』だからね。年寄りばっかりで、年頃の女の子の髪なんてかっこ良く切れないと思う。小学生みたいにされちゃうかもよ」
「それは……参ったな」
私は頭を掻いて、考えを巡らせる。
今から高岡まで行ってこようか。
そうなると帰りは夜になってしまって、ヒロカとの準備の時間はかなり短くなってしまう。
「……もし良かったらなんだけど、私やってあげようか?」
「え?エリカさんが?」
思わぬ提案に私は目を丸くする。
「若いころ友達のとかやってあげてたことがあって、寛のもちょっと前までは私が切ってたの。この町の床屋にかかるよりはずっとまともに仕上げてあげられると思うけど」
エリカさんの性格的に考えて、それなりの自信がなければそんな提案はしてこないはずだった。
店内のポップなども彼女の自作だと聞いているから、かなり手先は器用なのだろう。
「でも、お店は大丈夫なんですか?」
「今日はほとんどお客さんも来ないだろうしね。一時間くらい離れてても問題無いわよ」
「……じゃあ、すみません、お願いしてもいいですか?」
エリカさんはニッコリと笑って、私をバックヤードの方に案内した。
段ボールを隅に寄せて、姿見と丸椅子を用意するエリカさん。
大きめのバスタオルを私の肩から下に巻き付けて、準備は完了した。
ヒロカの髪を切るときに買ったのか、思ったより本格的なシザーケースを持ち出してきた。
「何か、注文とかある?」
霧吹きで私の髪を満遍なく濡らしながら尋ねて来る。
私は少し悩む。
「あまり具体的には……。あ、変な注文かもなんですけど」
「ん?」
「その……かっこ良く、してください」
「……オッケー」
基本的には彼女のセンスに任せておけば大丈夫だろう。
私は肩の力を抜いて、櫛で髪を梳かされる感触に身を委ねた。
銀色のハサミが私の項の下に滑り込んで、独特の音を立てながら髪束を切り落としていく。
エリカさんの手さばきと体さばきは堂に入ったもので、プロの美容師にかかっているかのようだった。
子供の頃は、私も母に髪を切ってもらったことがあったのかもしれない。
いつの頃からか、前髪だけは自分で整えるようにして、後ろは伸ばしっぱなしになっていた。
あまりに長くなりすぎた時は近所の床屋に切りそろえてもらっていたが、感覚的には伸びすぎた枝を剪定する作業をお願いしているようなもので、おしゃれなんてヒロカに会うまではまともに考えたこともなかった。
梳きバサミというものの存在も最近知って、痛く感心したくらいだ。
「すごく真っ直ぐで、扱いやすい髪ね。仕上がりをイメージするのも楽だわ」
私はお礼を言って良いのか謙遜して良いのか分からず、少し笑った。
肩口で不揃いに並んでいた毛先が落とされ、輪郭がシャープになっていく。
あらかたの形が整うと、エリカさんは慎重に、少しずつハサミを入れていく。
「エリカさん」
「ん?何?」
作業に集中しているのか、感情の薄い言葉が返答する。
私が軽く俯くと、正面を向くように両手でやんわりと頭の向きを是正された。
鏡の中に、見慣れないショートヘアの私と、真剣な表情のエリカさん。
「……どうして、あんなことをしたんですか?」
吐き出した言葉は空気を震わせて、エリカさんの耳に届く。
一言そう言ってしまえば、もう後戻りは出来ない。
「え?あんなことって?」
声色を変えず、質問が返ってくる。
私は必要以上の気持ちを込めることを慎重に回避しながら、更に続けた。
「どうしてあの日、ヒロカのギターを壊したんですか?」
「…………」
髪を切る音だけがバックヤードの空間に響く。
言ってしまってから、よりにもよって彼女が刃物を持っていて、私はまともに身動きがとれない状態であることを思い出した。
まさか突然刺されたりはしないだろうが、髪型の出来上がりには影響するかもしれない。
「何で、私がそんなことをしなきゃならないの?」
口調は変わらないが、小さく笑うような吐息が混じった。
私は鏡の中自分を見つめながら、もう冗談にすることは出来ないことを覚悟した。
「私も分かりませんでした。いくら考えても、あなたの気持ちが分からなかったんです」
「待って待って。その前に、なんで私が壊したってことになってるの?」
茶化すように笑う口調のまま、なおもその手は私の髪を切り続ける。
「ステッカーの話。ヒロカがお気に入りのものにはステッカーを貼るって、言ってましたよね?ギターにもステッカーが貼ってあって、それを壊されたのに、ヒロカがあまりに平然としているので驚いたって」
「ええ、だって事実だもの」
「……どうして、あのギターにステッカーが貼ってあることを知っていたんですか?あの黒猫のステッカーは、文化祭のリハーサルの前にヒロカが貼ったものです。そのあとリハーサルのために取り出そうとするまで、ずっとケースに入ったままでした」
「…………」
「私以外は、誰も見ていないはずなんです。あのケースを開けて、壊した人以外は」
沈黙。
鏡越しに見える彼女の表情は、相変わらず微動だにしていない。
髪を切ることに集中しているのか、その振りを続けているのか。
「……どうしてか、分からない?」
項に触れる、冷たい金属の感触。
背筋がぞくりとするが、動揺を悟られないように私は気を張った。
「……はい、どうしても、わからないです。あんなにヒロカのことを心配していたエリカさんが、どうして」
「あなたなら、分かってくれるかと思ったんだけどな」
腰のシザーケースにハサミを戻して梳きバサミに持ち替えながら、エリカさんがひとりごとのように呟く。
「私に、自分と同じ部分を感じない?自分のことを、歪んでいると思わない?」
「……」
エリカさんの声を自分のもののように感じてしまう錯覚。
正確に言えば、自分の中に作り出したもう一人の私の声。
「でも最近のあなたは、少し違ったかもね。それと、寛も……」
すうっと、その視線から感情の光が消える。
エリカさんと、過去の私、今の私、すべてが同居しているかのような姿見の中。
脇腹を伝う冷たい汗の感触に、私は小さく身震いした。
「……きっと何か、転機が訪れたのね。寛と会ったことなのか、音楽を始めたことなのか……それともその両方?」
私の後頭部で、梳きバサミが刃の開閉を繰り返す。
切られる髪、隙間に落ちて切られない髪、その独特の形状が髪のボリュームを軽減させてくれる。
切られるか残されるか、気まぐれなのか偶然なのか。
何故かその両者が、自分とエリカさんに重なるような気がした。
「想像してみて。もし、そんな転機がずっと、何年経っても訪れなかったとしたら、どうなってたと思う?」
私にとっての転機。
……もしヒロカに出会えていなかったら。歌うことも音楽に触れることも知らずに、ただ無気力に過ごすだけの時間が続いていただろう。
仮定するだけでも恐ろしくなるが、知らなかったならそれが恐ろしいことであることにも、ずっと気づけないままだったのかもしれない。
「私も、色々考えはしたのよ。偶然知り合った日本人の影響で、日本文化のことに興味を持って、言葉も勉強した。何か新しい刺激が得られるかもしれないと思ってこの国で暮らし始めたんだけど……しばらくして本当の動機に気付いたわ。イングランドには忘れたい過去しかなくて、見るもの全てが嫌な記憶を喚起させて、住み続けられなくなっていたんだと思う。
文化も宗教も違うこの国であの人に出会って、半信半疑なまま恋愛の真似事をして……。そのうちに子供が出来て、自分にとって守るべき存在が得て……そうするうちに、思い悩む時間もなくなっていくだろうって考えてた」
生粋の日本人と比べてもまったく違和感がないエリカさんの発音や語彙力。
考えてみればそれは並大抵の努力で身につくものではない。
意固地に和食や日本茶に固執していたのも、自分の育った環境と全く違う文化や風習に傾倒することで、自分の中に何らかの変化が生じることを期待してのことだったのかもしれない。
必死にもがきながら、いつかは自分の存在に納得出来るだけ意義を見出して、心の中に根付いた歪みを払拭できる時が来ると信じていたのだろう。
「でも、頭の何処かでいつも思ってたのよ。大切なはずのものが、実は自分を縛る枷なんじゃないかって。歪で醜い自分にどんなに嫌気が差していても、妻とか母親って立場で、思ってもいないような綺麗事を言わなきゃいけない。実感のない言葉を並べ立てるほど、自分が引き裂かれていくのを感じるのよ」
しかし、結果としてはどの試みも実を結ばなかった、ということなのだろうか。
「……でも、エリカさんにはヒロカが……」
娘に自分と同じ轍を踏んで欲しくないと憂いていた姿は、私の目には嘘偽りのないものに見えていた。
だからこそ、私にはエリカさんの凶行が信じがたかった。
「……三十年近くも長くこじらせているとね、他人からは理解不能なほど、ねじ曲がってしまうものなのよ」
ついにエリカさんは、私の髪を切る作業を中断した。
私の正面に立って、虚空に視線を彷徨わせている。
「確かに、寛のことは愛してる。幸せな青春を送って欲しいとも、私みたいな自棄な恋愛や結婚じゃなくて、本当に好きになった人と……その人のためなら何十年の苦労も厭わないと思えるような関係を築いて欲しいとも思う。でも、それもきっと私の本心からの願いなんかじゃない。母という立場なら持っているべきという常識に捏造された、まがい物の感情でしかないの。内心では、私が産んで育てた娘がもし、いとも簡単にありふれた幸せを……私がどんなに焦がれても得られなかったものを手に入れてしまったら。そう想像することが怖くてたまらない。……私が今まで足掻いてきた時間は無意味だったと思い知らされる気がして……」
「…………」
「いつからか、人間関係の中で思い悩んだり、躊躇ったりする寛香の姿は、私の支えになっていったわ。壁にぶつかったり躓いたりする度に泣きついてくる、弱くて脆くて、私がいなければ成り立たない存在。この世界で唯一、こんな私に意味を与えてくれるのが、寛香なのよ」
口調はあくまで愛おしげに、彼女は異常な言葉を口にした。
私は悟られないように、固唾を呑んだ。
「――でも、成長するにつれて、寛香は逞しくなっていって、ついには私を頼らなくなった。それどころか私に反発するようになっていった。ギターを始めて、あなたと出会って、活き活きと過ごす姿を見ても、私の心には親心みたいなものは芽生えなかった。あったのは焦りと嫉妬。それだけ」
普段の彼女の振る舞いを見ているだけに、俄には信じがたい言葉。
しかし、それが嘘でないことが、私には分かってしまった。
「……寛香があなたに惹かれていること、気付いてたわ。友達なんて関係では収まりきらないほどの想いを感じた。だから、その気持ちが募り募ってから、悲しい結末が訪れることを願ったの。きっと寛香は深く傷付いて、絶望するだろうから。その時はきっと、また私に縋り付いて泣いてくれるに違いないもの。昔みたいにわあわあ声を上げながら泣き叫ぶあの子を慰めながら、あの子に必要とされながら、私は自分の価値を感じたかったの……」
静かに語るその無表情な美貌に、私は一種の狂気を見た。
その声が静かであるほど、異様さは際立った。
「私を……利用してたんですか?」
「……そういうことになるかもね。でも、あなたは私の期待した結果をもたらしてはくれなかった」
ヒロカ本人の想いは、日を負うごとに確実に私に傾いていく。
そして、私はそれを拒む気配がない。
それがエリカさんの誤算だったのだろう。
徐々に自分が必要とされなくなっていく感覚。
それだけは、今の私にはどう足掻いても想像することができない。
試みることさえ恐ろしくて出来そうもない。
「分かってくれなんて言えない。こんな歪んだ欲望のためにずっと娘を私物化していいはずがない事も分かってる。……でも少なくとも、今はまだ早いのよ。まだ、あの子にとっての拠り所は、私であって欲しい。もしあなた達がステージで大成功を収めたら、きっと二人の繋がりは揺るがないものになってしまうと思った……。だから、壊したの。あの子とあなたを結んでいた絆を」
声を荒げることも、泣きわめくこともない。
自分を狂わせる激情を抱えながら、それを表面上は覆い隠す術だけを知ってしまった人の、悲しい告白。
もう、何も言えなかった。
ギターのことを責める気にもなれない。
自分がいずれ陥っていたかもしれないその強烈な歪みに圧倒されながら、自分が女であることを改めて呪った。
もしも私が男だったら、時間をかければ彼女を、諦めに近い形でも納得させることはできたのかもしれないのに。
二分の一の裏表の違いのために、私達の関係を無条件で引き裂ける権利と理由を与えてしまっている。
自分の中に抱えた問題をやっと乗り越えたと思えば、目の前にはもっとずっと強力な困難が立ちふさがっていた。
「……っ」
唇を噛みしめる。
それでも、おいそれと引き下がることなんて出来ない。
私にはヒロカを諦めることなんて出来ないのだから。
背筋を伸ばして、真っ直ぐにエリカさんを見据えた。
「エリカさん」
「……何?」
私はタオルの下で、両手をきつく握り締めた。
鏡の中の自分が、今まで見たことのない表情をしていた。
「私、ヒロカのことが好きです。親友としてじゃなくて、ヒロカのことを愛してます」
十五年と少ししか生きていない人間が「愛してる」なんて、人は笑うかもしれない。
でも、その人と一緒に生きて、成長して、二人で感動を共有して、一緒に幸せになりたいと思う。
笑顔を見るとそれだけで幸せ。
泣き顔を見たら胸が潰れそうに痛い。
それが愛情でなくて他の何だと言うのか。
「子供じみた主張だと思われるかもしれません。でも、私は私が一番ヒロカを幸せに出来るって、信じてます」
「……大きく出たわね」
嘲りを隠そうともしない口調。
重ねてきた年月の差をちらつかされると、若木のように細く頼りない自分の決意を信じられなくなりそうになる。
でもそんな素振りは絶対に見せない。
「私がヒロカのそばにいるのは、自分の歪みを癒やすためなんかじゃない」
「……口ではなんとでも言えるわ。内心は分からない」
「ヒロカを幸せに出来るなら、何でもします。例え宝物のギターを壊されたとしても、私ならヒロカの笑顔を守れます」
私は真っ直ぐに、エリカさんの視線を受け止めた。
青い目の輝きが、魔性の力を秘めてぎらついているように見えた。
「今はそれだけでいいかもしれない。でもこれからはどう?人一人養って、その上で幸せにするって、どういうことか今のあなたに想像できる?」
エリカさんは、大人と子供という立場の違いを突きつけるように笑う。
悔しいが、絶対に覆せない立場の差が、私達の間には厳然と存在する。
「……今はまだ、具体的には出来ません」
幸せとは漠然とした概念だ。
それだけに、誰の目から見ても幸福だと言える状態とは、ある意味何一つ不自由ない状態を指すのかもしれない。
金銭的にも精神的にも肉体的にも満たして見せなければ足りない。
今の私には、きっと全ては叶えられない。
「でも、これからの時間全てかけて、全力で備えることは出来ます」
私には時間という可能性が残されている。
未来のことだけは、誰にも否定することは出来ない。
「今すぐ信じてもらうことなんて出来ないと思います。だから、納得してもらえるだけの準備をします。その間に、エリカさんもヒロカと向き合って、ヒロカを自分のそばに縛り付けておく以外の生き方を、見つけられませんか?」
勢い込んで言ったものの、なんて身勝手で、偉そうな物言いだろう。
自覚しながらも、他に表現など思いつかなかった。
「……聞かなかったことに、出来ないかしら?今ならまだ、あなた達は親友同士でいられるし、私も母親と理解者として見守ってあげることができる。でもそれ以上をあなたが望むなら、私は常識を盾にしてあなた達を引き離すことだって考えるかもしれない」
私は視線と言葉に、より一層堅い意志を込めた。
「私は、負けません。もしも力ずくで私達を引き裂くなら、彼女を攫ってでも一緒になります。きっとヒロカは、この家も両親も投げ打って私についてきてくれます。今すぐに、ヒロカがあなたと私、どちらを選ぶか、試してみますか?」
「…………」
エリカさんが俯いて視線を逸らした。
それは嫌悪感の表明にも、眩しい物を見続けることを拒絶する仕草にも見えた。
遠く微かに、大通りに流れるジングルベルが聞こえてきた。
皮肉なほど幸せそうなメロディだった。
長く続いた沈黙を破ったのは、階段を駆け上がってくる足音だった。
「あれ?!メイ!!」
足音が加速する。
鞄を肩にかけた制服姿のヒロカが、私とエリカさんの間に駆け込んできた。
「どうしたのその髪?!え、えぇ?!なんでー?!」
「あ、ちょ、ヒロカ……髪の毛、服についちゃうよ」
「ねぇ、なんで?!何で切っちゃったの?!」
タオルに巻かれた両肩を掴んでガクガクと揺さぶるヒロカと、目を白黒させる私を他所に、エリカさんは無言で階段を降りていってしまった。
ヒロカは母親の存在に気づきもしていない様子だった。
「あ、あのね、ちょっと事情があって、アルバイトしなきゃいけなかったの。それで、動きまわったりするのに邪魔だったから……」
「邪魔?!あの髪が?!誰がそんな酷いこと言ったの?!」
「い、言われたんじゃなくて!自分でそう思って切ったの」
首に巻き付けられたタオルをなんとか内側から解いて、ヒロカの手を取る。
「適当に切ったからみっともなくて、エリカさんに切り揃えてもらったんだよ」
「えーーー、でも……もったいない……」
なおも情けなく顔を歪めるヒロカに、私は軽くなった頭を軽く振って見せた。
「ショート、似合わないかな?」
中途半端になっているかと思ったが、改めて鏡で確認してみると綺麗に仕上がっていた。
前髪の右側だけが少し長く量も多い。計算されたアシンメトリーだ。
「……すっごく似合う」
「でしょ。ならいいじゃない」
私はタオルを丸めて椅子の上に置く。そして改めて、勢い良くヒロカの体を抱きしめた。
懐かしく柔らかい、私にとっての幸せの塊の感触と、お菓子のようなシャンプーの香りがした。
張り詰めていた気持ちが、一気に弛緩するのを感じる。
「……ただいま。ヒロカ」
一瞬驚いて身体を強張らせたあと、すぐに抱き返してくれるヒロカの両腕。
「……おかえり。会いたかった……」
心底安心したような囁き声。それだけで、涙が溢れてきそうになる。
やっぱり私たちは、こうしてそばにいなきゃいけない。
私はそのためなら何でも出来る。
自分に覚悟を促す気持ちが、私の両腕にこもる力を強くした。




