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Whatever  作者: けいぞう
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63.ヒロカ

 真夜中より少しだけ空が明るくなり始めた頃、私はスマホのバイブ音で浅い眠りから目を覚ました。

 永遠にメールが届き続ける悪夢をみたりしたので、またか、と思ったが違った。

 振動が長い。

 これは着信のリズムだ。


 まさか、メイ?

 反射的にスマホを拾い上げようとした手が怯むように止まる。


 声を聞きたい。

 でも、あれだけメールを無視したあとで、何を言っていいのかなんて思いつかない。


 恐る恐る、伏せて置かれたスマホをひっくり返してみる。

 ほとんど真っ暗闇だった部屋の中がほのかに照らされて白んだ。


「え……?頼子さん?」


 画面に表示されていた名前は、私の予想を裏切るものだった。

 時刻はまだ五時を少し回ったところで、普通に考えれば電話なんてかけてくるような時間帯ではない。

 何か、非常事態だろうか?

 私は慌てて通話ボタンをタップした。


「……もしもし?頼子さん?」

「あ、寛ちゃん、やっと出てくれたー!」


 スピーカーから聞こえてきたのは、真っ昼間よりも元気そうな頼子さんの声だった。


「……何?」


 どうやら心配したような非常事態ではないことが分かって、私の声は途端に不機嫌なトーンに戻った。


「昨日の夜九時くらいに電話したんだよ。ほら、本間先生と話したあと、寛ちゃんむくれてさっさと一人で帰っちゃったでしょ?大丈夫なのかなーって思って、心配してたの」

「ああ……ゴメン。あのあとすぐ帰って、寝ちゃってたから……。ってか、それにしてもこんな時間に電話しなくてもいいじゃん。電話出れないことくらい、たまにはあるでしょ……?」


 今までどんな風に夜を過ごしていたかを隠して、単純に早朝に叩き起こしたことを非難する立場を演じる。

 そんなややこしいことをしなくてはいけないのは、きっと後ろめたさがあるからだ。


「えー。でも、何回もかけたんだよ?一時間おきくらいに。気になっちゃって夜中に目が覚めて、またかけたんだけどそれでも出なくて、諦めて寝たんだけどやっぱり気になってちょっと前にまた目が覚めたの」


 呑気で舌っ足らずな発音。

 普段だったら頼子さんのチャームポイントくらいにしか思わないのに、今の私には結構なストレスだった。


「……そう。別に大丈夫だから。もう満足?切っても良い?」

「あー、待って待って。切らないで。寛ちゃん、今から出て来られない?」

「はぁ?」


 必要以上に険悪な声が漏れ出る。ちょっといくらなんでも非常識だ。


「出てくるって、何処に?今何時だと思ってるの?何で?」

「えっとね、新山公園に。今は朝の五時十分。私何度も起きたからもう寝付けなくなっちゃって。寛ちゃんが原因なんだから、責任取ってほしいの。ね?」


 穏やかな口調で、責任を取れと来た。頼子さんは、こんな空気を読まない行動をする人だっただろうか?


「……行って、何するの?」

「お話」

「何の?」

「うーん、色々」


 ため息が漏れる。

 私だって今から目覚ましが鳴るまでの短い時間を寝直そうとは思わないが、真冬の早朝に公園でお話って……。

「じゃあ、待ってるから。来てくれなかったら、冬眠してるカエルさん掘り返して寛ちゃんの机の中に入れちゃうからね」

「な、ちょ……!」


 どんな脅しだ……。

 一方的に切られてしまった電話の画面を睨みつけて、しばらく固まる。


 最後の脅し文句はともかくとして、何となく頼子さんの話し方には有無を言わさない迫力があった。

 ライブの見通しが立たなくなって落ち込んでいる私を、なんとか励まそうとしてくれているのだろうか?


 私は仕方なく、重い腰を上げて椅子の背にかけてあった制服に着替えた。

 六時には校門も開くから、学校に直行できる準備をしておくことにした。

 紺色のダッフルコートを羽織り、軽い鞄を肩にかけて、部屋を出て階段を降りる。

 当然ながら家の中もほぼ真っ暗闇だ。

 一階で眠る両親に気づかれないように忍び足で店内を通り抜けた。


 スイングドアを少し引いた時点で、隙間から斬りつけるような冷気が流れ込んでくる。

 気温は0度近い上に、風が強い。

 身震いを一つして、部屋にニット帽を取りに戻ろうか少し悩んだが、面倒なのでやめた。

 せめて靴下を上げられるだけ上げて見たが、全身が縮こまるような寒さはほとんど和らがなかった。


 まだ街灯がついている。

 東の空は微かに白んできているが、空全体が分厚い雲に覆われているせいか真夜中と大して変わりなかった。

 冬の朝の登校はいつも早足で体を暖めながら歩くのだが、今日はバイトによる筋肉痛と寝不足からくる頭痛が酷くてそんな気にはなれなかった。

 

 とぼとぼと新山公園を目指す。

 煌々と明るいコンビニの灯りを横目に、高架沿いの通路を抜けて、図書館の裏手に出る。

 ほどなくして見えてきた新山公園。

 外周に植えられた金木犀さえも、寒さに葉を縮こまらせて眠っているように見えた。

 白く煙る息を両手に吐きかけながら敷地に踏み込む。

 霜柱を踏み壊す感触を感じながら、芝生の広場を目指した。

 東側に設けられた半円のタイル敷きステージに、黒いダッフルコートを着込んだ女子生徒が腰掛けているのが見えた。

 私に気付いて、右手を大きく振ってきた。


「おはよう。寛ちゃん」

「ん……」


 必要最低限の反応だけを返して、頼子さんに歩み寄る。

 彼女に倣って膝くらいの高さのステージに腰を降ろしかけて、タイルの表面に白い氷の結晶のような模様が見えたので、やめた。

 下手に触れたら皮膚が張り付いてしまいそうだと思った。


「鼻、赤くなってるよ」

「……そりゃ、これだけ寒ければね……」


 言って、頼子さんを見る。

 ミトンとイヤーウォーマーで完全防備なせいか、彼女の顔色は普段と変わりなかった。


「上手く借りられてたとしたら、このステージで演奏することになってたんだね」


 縁に腰掛けたまま上半身を捻って、ステージ全体をキョロキョロ見回す頼子さん。

 半円の半径は三メートルくらいの小さなものだ。

 ステージのバックには白鷺が二羽連れ立って飛ぶ様子を描いた壁画が聳え立っていた。

 改めて見た感想は、正直そこまで魅力的な舞台ではないかな、という程度のものだった。

 アラベスクパターンのタイルは薄汚れていてあちこちヒビが入っているし、隙間からはいくつか雑草が覗いていたりする。


 それにしてもよりにもよってその話題かと辟易しながら、私はコートのポケットに両手を突っ込んで顔を歪めた。


「ねぇ、お客さんに囲まれたステージに立つって、どんな気分なの?」


 何故か妙に嬉しそうに言って、頼子さんは縁の上に立ち上がった。

 辿々しくエアギターのような動きを始める。


「……どんなって……」


 そう簡単に言葉で表現できるようなものではない。

 こんな気分を抱えた極寒の朝でも、思い出すと胸に熱いものがこみ上げてくるような、特別な感覚だった。


 できるなら、もう一度味わいたい。

 私がそんな風に思って奮起することを、頼子さんは期待しているのだろうか。


「私も、体験してみたいなぁ。多分、一生そんな機会はこないだろうけど!」


 両手を上げて、ステージの端で決めポーズをしてみせる頼子さん。

 失礼だが彼女がやると、ライブというより学芸会の演劇の一コマのようだった。


「……でもね」


 脱力するように両腕を降ろす。

 ミトンの両手がコートの裾を叩いて、ばふっと音を立てた。


「四月に会って友だちになった時、寛ちゃんも、そんな人の一人だと思ってたよ」

「……え?」

「ほら、私達、クラスの中でも目立たない方だったじゃない?私、寛ちゃんは磨けば光る美人さんだとは思ってたけど、まさかこんなに綺麗になっちゃって、しかもバンドまでやるようになっちゃうなんて。全然想像もしてなかった」

「…………」


 一応褒めてくれている言葉のはずなのに、嬉しいとは思えなかった。

 多分、もっと違う意図を込めた発言のように聞こえたからだ。


「実はね、ちょっとだけ複雑だったんだ。なんていうのかなぁ……。森の隅っこで、一緒に木のウロでドングリ齧ってるみたいな関係、すごく気に入ってたんだよ」


 小柄な私達二人は、クラスの男子に小動物コンビなんてあだ名をつけられていたことがあった。

 それにしても独特な例え方だった。


 私だって、不安だらけの高校生活の始まりに、すぐ後ろの席に自分と気の合う人が座っていてくれたことは、とても幸運だったと思っていた。

 ……思っていた?


 頼子さんはステージからすとんと飛び降りて、私と向き合った。


「ねえ、寛ちゃん」

「……うん」

「寛ちゃんは、どっちがいいの?」

「え……どっちって?」

「目立たない小動物と、脚光を浴びる森の人気者」


 黒目がちな双眸が、私を見つめる。

 なんとなく、頼子さんの言いたいことが分かってきた気がした。


「私ね、Irisの寛ちゃんのファンだよ。多分他の人達よりも、過去を見てたぶん、思い入れもきっと強い。寛ちゃんは、もしかしたら地味な私にも活躍できる場所があるのかもしれないって教えてくれた。すっごく大切な友達だよ」


 好きなお菓子の話をするみたいな気楽な口調で、頼子さんは言い切った。

 普段からは想像もつかないほど、今の彼女は堂々としていた。


「でも、もしギターを弾かなくても、冴木さんと一緒にステージに立たなかったとしても、それもそれでいいんだ。その時はまた一緒に、森の隅っこ暮らし」


 薄くそばかすの浮いた頬にえくぼを作って、頼子さんは笑う。


「いつでも、戻ってきていいんだからね。疲れちゃったらさ」


 その言葉に、私は少し救われたような気分になって、肩の力を抜いた。


「……ありがとう、頼子さん」


 素直にお礼を口にすると、凍てついていた心が温まった気がした。


「実はね、会場のこと行き詰まって、ちょっと疲れちゃってたんだ。今からクリスマスに間に合うように手配できるところなんてもう見つからなくて……」

「そっか……」

「なんだか周りの人たちがみんなで、私たちがやりたいことを妨害してきてるみたいな気がしちゃって……眠れなくてさ。そもそもみんな、私達の演奏なんて聞きたいと思ってくれてないんじゃないかなんて思えてきて……」


 掲示板の書き込みや画像のことを思い出す。

 練習を見に来てくれた人たちも、そのときに親しげに話しかけてきてくれた人たちも、実はただの野次馬根性だったのかもしれない。

 純粋に私達の音楽を聞きに来てくれた人は、果たして何人いただろうか。

 今考えてみると、自信がない。


 そんな私達が、学校の外に飛び出してまでライブなんて、もしかしたらのぼせ上がった考えだったのかも知れない。

 壊されたギター、取り消された賞品、高橋君との間に流された根も葉もない噂……。

 私たちがどんなに努力を重ねたところで、悪意の片鱗はどこまでも付いて回ってくる。

 どんなに純粋に、真摯に音楽に向かい合っていたとしても、人前に出ていく以上、それらは避けられないということは認めるしかなかった。

 そしてその事実は、私一人で立ち向かうにはあまりに重く、恐ろしいものだった。


「色々調べてみたんだけどね、普通は、ライブハウスとかでも単独ライブなんてほんの一部のバンドしかできないんだって。色んなバンドの前座をやったり、いっぱい下積みしながら練習して宣伝して、そのバンドだけのお客さんで会場が埋められるようにならないと、普通はできないことなんだって」


 思い上がりとか、勘違いとか、私が一番気をつけて避けてきたことだったはずなのに、どうして今まで忘れていたんだろう。


「もうちょっと、地道にやっていくことも考えなきゃ駄目だね。らしくなかったよ」


 メイがこの町を離れてしまうかもしれないことだって、まだそうと決まった訳じゃない。

 私の勝手な早とちりかもしれないし、最悪学校を卒業してある程度自由が利くようになってからだって、チャンスはいくらだって作れるはずだ。


「あーあ、何を必死になっちゃってたんだか。見苦しいったら……」

「ごめん、寛ちゃん」


 私の言葉尻を食って、頼子さんが声を上げた。


「え?」

「……ごめんね。先に謝っておくね」


 よく分からないことを言い出して、頼子さんは右手のミトンを外した。


 ぱちんっ、という小さな音とともに、薄暗い世界がブレる。

 目の前にいたはずの頼子さんが、視界の左隅に移動していた。


 何が起こったのか分からなかった。少し遅れて、左の頬がジンジンと傷むことに気がついた。


「……頼子さん?」

「……寛ちゃんのその言葉を聞くまで、寛ちゃんがそんな顔をするまで、私もそれでいいと思ってたよ。どこか遠くに行っちゃってた寛ちゃんが、また身近な私の友達に戻ってくれるなら、それで私は満足なんだって思ってた」


 頬に触れる。

 外気に冷やされた皮膚を、自分の体の一部じゃないみたいに感じた。

 ヒリヒリと痛むその一箇所だけが、私に確かな感覚を伝えていた。


「叩いたのは、ごめん。あと、言ってることとやってること滅茶苦茶になっちゃって、ごめん。でも私が聞きたいのは、そんな話じゃなかったみたい。本当に言いたかったことも、さっき話したこととは全然違う」


 右の手のひらを包むようにして胸の前に両手を合わせて、頼子さんは視線を伏せた。


「私ね、文化祭の日……寛ちゃんのギターが壊された時、慌てて冴木さんを呼びに行ったの。寛ちゃんが大変って言ったら、冴木さん、風みたいに走って行ったよ。私だって寛ちゃんのこと凄く心配だったけど、おどおどしてる私なんかが行っても仕方ないって思い知らされちゃうくらい、凄い迫力だった」


 押し殺した声音。

 私達の関係に黄色い声を上げていた頼子さんと、同じ人とは思えない。


「友達を取られたなんて思いたくなかったけど、そういう考えが頭を過ぎっちゃう時もあった。でも一緒にいる二人が楽しそうで、冴木さんも寛ちゃんを本当に大切に想ってるのが伝わってきたから、何も言えなかったんだ」

「…………」

「冴木さん、すごい人だよね。いつも堂々としてて、優しくて、正義感が強くて……そんな人が、追い詰められたからって、クラスのお金を持ち出すとか……自分の体を売るような真似とか、普通は絶対しないと思う。でも彼女はそうしたんだよ。寛ちゃんとステージに立つために」


 ゆっくりと顔を上げて、私を真っ直ぐ見つめる。

 半年以上も友達でいて、初めて見た彼女の真剣な表情。


「なのに、寛ちゃんはどうしちゃったの?ちょっと行き詰まったからって、いじけて疲れたなんて言って。私なんかに少し優しいこと言われたからって、安心した顔して言い訳なんかしだしちゃってさ。前言撤回だよ。そんな顔して私のそばに戻ってきてくれたって、全然嬉しくない。お願いされたって、今の寛ちゃんと友達になんか戻らないからね」

「……頼子さん……」

「……思い出して寛ちゃん。ステージに立ってた時、聞いてた人達はどうだった?聞きたいと思ってくれる人がいないなんて、私には信じられない。だって、冴木さんの歌なんだよ?どうして寛ちゃんが信じてあげないの?」


 頭をがつんと殴りつけられたような衝撃。

 さっきの平手打ちなんかより、その言葉のほうがずっと強烈だった。


「先生に止められたらそれで諦めちゃうの?文化祭の時の冴木さんの覚悟は、そんな半端なものじゃなかったよ」

「だ、だからって……」


 定まらない視点を頼子さんの足元に逃がしながら、私は声を絞り出す。


「どうすればいいの……。文化祭で演奏しに行っただけでも、ギターは壊されて、メイはあんな酷い目にあったんだよ。人前に出て行くって、もの凄く怖いことなんだよ。頼子さん、想像できる?」


 私の震える声を、子供の言い訳みたいに聞き流して、頼子さんは小首を傾げる。


「私には、確かに分からないよ。全然想像もつかない。でも私、もう一回あの時の再現を見たいんだ。だから、負けないで欲しい」

「そんな……無責任だよ。私たちがどんな目にあってもいいから、望む人たちだけの為に演奏しろって言うの?!」


 私が声を荒げると、同調するように北風が強く吹きつけた。

 ぎゅっと目を閉じてやり過ごし、ゆっくり目を開くと、頼子さんは変わらない表情のまま、私を真っ直ぐ見つめていた。


「……今度は、私たちも一緒だから」


 頼子さんの両手が、私の左手を掴んで包む。

 はっとするくらい熱くて、力強い感触だった。


「私も高橋君も、同じだけの覚悟で協力するよ。酷い目にあうとしたら、その時は私たちも一緒。お願い。私たちも一緒に、連れて行ってほしい」


 いつの間にか、寒さを忘れている自分に気づいた。

 左手から伝わってくる体温と、熱意の温かさ。

 麻痺していた感触が少しずつ戻って来る。


「わがままなお願いだって、分かってる。でも止められないくらい、二人が見せてくれたものが凄かったんだよ。妬まれたり、言いがかりつけられたりって反応だって、あって当然だと思う。私だって羨ましくて、どうして寛ちゃんの隣にいるのが自分じゃないんだろうって思っちゃった。取り残されたって思った。冴木さんに嫉妬した。彼女が転校して来なければよかったのにって、本気で何度も思ったよ」


 罪を告白するように、自分の中の弱い部分をわざとさらけ出そうとするように、頼子さんは言う。


「……でも、それが全てみたいに思わないで。きっと何倍も、二人を応援したい人達が絶対にいるから。私だってそうなんだよ。複雑だけど……認めたくない部分もあるけど、黙って納得するしかないくらい、二人がやって見せたことは凄かったんだ。……今でも最後の拍手の瞬間、はっきり覚えてる。本当に感動したんだ」


 その言葉を証明するように、頼子さんの瞳はみるみる潤んでいった。


「私の友達が、あんなに沢山の人達を笑顔にしたんだって思ったら、私だってもっと頑張れると思う。未来に不安があっても、どんな邪魔が入っても、自分のやりたいことを貫き通すのが大事なことなんだって、信じられる気がするんだよ」


 驚いた。

 頼子さんは、私なんかよりずっと具体的な夢を持って、それに向かってひたすら頑張っているんだと思っていた。

 私の姿が、そんな彼女を逆に励ましていたなんて、想像もしていなかった。


「……ほんのちっぽけかもしれないけど、まず一つ私も、私の役目を果たすよ。寛ちゃんがくじけそうになってるなら、私だけが伝えられることを、全部伝えるから」


 頼子さんは一つ大きく息を吸い込む。

 叩きつけるような北風が私たちの髪を揺らす。

 その音に負けないようにと、頼子さんは必死に声を張り上げた。


「挫けたりしたら、許さないから!あんなに私をほっぽっておいて、ここでへこたれたら、絶対許さない!」


 まるで頼子さんの言葉を遮ろうとするかのように、さらに風が強まる。

 よろめきながら二人、それでもお互い視線はそらさずに、手を繋いで足を踏ん張る。


「寛ちゃん、負けないで!どんな理不尽も乗り越えて、もう一度ステージで、冴木さんと笑って見せて!私達に、頑張れば素敵なゴールが待ってるかもしれないって、信じさせてよ!」


 頼子さんがこんなに大きな声を出すなんて、想像もしたことがなかった。

 でも、そうさせたのは私とメイだ。

 普段の自分をかなぐり捨てても、彼女は伝えたい想いを私にぶつけてくれているんだ。

 これが頼子さんの、本当の言葉なんだ。


「お願い……!負けないで!!……二人の世界を、こんなところで終わらせたりしないで!」


 気がつくと、私の両腕が頼子さんの体を引き寄せて、抱きしめていた。

 東の空を覆っていた雲が裂けて、芝生の広場にゆっくりと朝が訪れる。


「……寛ちゃん」

「ごめん頼子さん。少しだけ、こうさせてて」


 腕の中に収まった、華奢な肢体。

 言葉に言い表せない気持ちを、少しでも伝えたかった。


「……頼子さん、ありがとう。私、こんなに素敵な友達を一人にさせちゃってたんだね……」

「…………そうだよ。ちょっとは反省した?」

「うぅん、ちょっとじゃなくて、凄く」


 両腕に力を込める。

 まだ少し頬が痛む。

 私との関係が修復不能になることも覚悟の上で、本気で私を叩いてくれた頼子さんの想いが、そこから染み入ってくるようだった。

 こんなに本気で私達を応援してくれる人がいるのに、ここで妥協なんてしていいはずがない。


「私、やってみる。もう絶対弱音なんか吐かないよ」


 結果がどうでも、全力を尽くす。

 私がメイに言ったことなのに、全然実践できていなかった。

 私には、まだまだできることが残っているはずだ。


「……寛ちゃん」

「……ん?何?」

「……私、二人の関係の邪魔はしたくないんだけどな……」


 妙に深刻な口調で呟く頼子さん。

 私は小さく笑って、もう一度両腕にぎゅっと力を込めた。


「これは、友情と感謝のハグだよ」

「……そっか。それなら、まぁいいかな」


 そう答えた直後、頼子さんの手がギブアップするように私の背中をぽんぽんと叩いた。


「だ、だめ。やっぱ良くない。さ、さすがにちょっと恥ずかしくなってきた……」

「あ、ごめん」


 私は少しの名残惜しさを感じながらも、頼子さんを解放した。


「いやー、私、こういうの免疫ないからさ。ドキドキしちゃうよ」

「……目覚めちゃいそう?」

「……危なかったかも」

「……このことはメイにはナイショね」

「えー……どうしようかな。冴木さんがそれで燃え上がってくれるなら、わざとバラしちゃおうかなぁ」

「……私もちょっとそれいいかもと思っちゃった」


 軽口を交わして、二人でクスクスと笑う。

 何も状況が変わったわけでもないのに、私の気持ちは嘘のように晴れやかになっていた。


 浮いたり沈んだり、迷ったり立ち止まったり。

 変われたと思っていたのに、気付いたらまた昔と同じ場所で足踏みをしていたり。

 もどかしくて歯がゆくて、どうしてもっと上手くやれないのか悩んでばかりで。


 それでも、私は一つずつ大切なものを見つけながら毎日を過ごせていると思える。

 そう気づかせてくれる機会を、皆が私に与えてくれる。

 音楽、友達、大好きな人。

 私はこんなにも大切なものに囲まれて生きている。

 自分が特別だと思ったって良いはずだ。

 そんな自分だけに出来ることがあると、信じてみてもいいのかもしれない。


 思い上がりでも勘違いでもいい。

 後悔する時間だって未来にならいくらでもある。


 だったらまずは、もう一度できることを探してみよう。


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