61.メイ
遠く、太鼓の音と歓声が聞こえる。
配られたスタジアムジャンパーは、変な匂いこそしないものの見るからに安物で、防寒の効果はないに等しかった。
下にウインドブレーカーを着込んでおくべきだった。
その日集められた三十人前後の中のたった一人の女子である自分が、こんな寒空の下に配置されるとは予想していなかった。
くじ引きで決めたから仕方ないとはいえ、男女平等がこんなところで徹底されていなくてもいいのに。
郊外にある、最大四万人を収容できる巨大サッカースタジアムがその日の私の職場だった。
ビラ配りを三日続けて、ようやくコツを掴み始めた私に次に割り当てられたのは、サッカーの試合の警備の仕事だった。
基本的には観戦に来たお客さんが立ち入り禁止区域に近寄らないように見張っているだけの仕事なのだが、持ち場にあからさまな当たりはずれがあるようだった。
外周と呼ばれる私の配置は多分大はずれの一つだ。
まず屋外でひたすら寒い。
しかも人なんかほとんど来ない。
ただひたすら、基本姿勢という両手を後ろで組んだ直立不動の姿で待機していなくてはならない。
デパートの立体駐車場に似た、灰色のコンクリートに囲まれた空間でぽつねんと佇んでいると、何となく罰を受けて廊下に立たされている気分になってくる。
ちらりとスマホで時間を確認する。
前に見た時から六分しか経っていない。
昼休憩まで、あと二時間以上あった。
何もすることがないと欲望に忠実な思考が頭の中を支配し始めるものだ。
寒い。その上お腹がすいた。
ヒロカの手料理と、二人で一緒に布団に入っている時間を思い出す。
ビーフシチューとクロックムッシュが食べたい。
温かいカボチャのスープと、ミートローフも。
しかし頭の中に浮かぶ妄想と現実の差は残酷で、休憩時間に口にできるのは配給されるバランスクッキーと常温の缶コーヒーだけだ。
ため息を付いて俯くと、見回り役のバイトチーフが遠くから私を睨んでいた。
慌てて背筋を伸ばす。
忘れた頃に、最悪のタイミングで来る人だ。
さっきはスマホで時間を確認している時にやってきて怒声を浴びせられた。
バイトを叱るとあの人の時給はあがるのだろうか?謎のモチベーションがちょっと怖い。
ともあれ、腐っていても仕方ない。
私は基本姿勢を崩さないまま、踵を上げたり下ろしたりしてふくらはぎの筋トレを始めた。
少しでも運動したほうが寒さは紛れるし、足を鍛えれば心肺を鍛えるランニングにも有効だろう。
ついでに、呼吸法のボイストレーニングも同時にやってみる。
両方をきちんとやろうとすると結構集中力が必要で、一時間は潰すことが出来た。
次の一時間は、歌詞に使えそうな言葉を考える時間にした。
それ単体でも魅力を持っている単語、ありふれた二つを組み合わせると想像力をかき立てる言葉の組み合わせなどから、ヒロカが送ってくれた曲の雰囲気に合いそうな表現を模索する。
こちらも中々に充実した時間で、思いのほか休憩時間は早くやってきた。
交代要因のおじさんに頭を下げて、私はその場を離れた。
スタジアムの外周をぐるりと反対側まで回り込んで通用口から中に入り、指示通り通路の端を目立たないように歩く。
関係者以外立入禁止の看板の横をすり抜けて地下に降り、スタッフ控え室の貼り紙がついた重い鉄扉を押し開ける。
入り口の机に置かれた名簿を開いて、自分のIDナンバーを探す。
休憩の時間は控え室の入退記録で照合されるらしい。
現在時刻を自分のIDの横に記入した。
控え室というのは名ばかりで、そこは倉庫として利用するためのスペースのようだった。
二十五メートルプールがすっぽり入りそうな空間に、等間隔に太い柱が並んでいる。
昼休憩の時間ということで、十五人程度が室内にいた。
やはり女性は私だけらしく、話が合いそうな人は一人もいなかった。
部屋の端に年季の入った折りたたみ椅子が並べて広げてあり、皆それぞれ微妙な距離感を保ちながら休憩をとっている。
殆どの人はスマホを弄っているが、中には床に腰を下ろしてパイプ椅子の座面に上半身を突っ伏して仮眠をとっている人もいた。
知り合いらしいグループが一組だけいて、部屋の角でパイプ椅子を四つ向きあわせて座り談笑していた。
内二人が金髪、一人が坊主頭、もう一人は髪が緑だった。
「最終で強チェ来てさ、一G連ぜってー入ったと思った」
「あれレア役はかんけーないっしょ」
「でも天井でバケオンリーってのはないっしょ」
「だから、天井もなんも恩恵ないんじゃね?」
「マジか。んで、結局ワンチャン追って全ツッパで四万やられて、閉店二十分前でロンフリ」
「ないわ。んで、RTどんくらい回せた?」
「二百もいかねぇ。ビッグと合わせて五百枚かな」
日本語のはずなのに、何の話なのかほとんど理解できないのが恐ろしかった。
なんとなくそちらの一角には目線を送らないようにして、私はできるだけ人口密度の低い空間に腰掛けた。
ぎちりと嫌な音を立てて軋むパイプ椅子。
換気扇の下でタバコを吸っていた青年がこちらをちらりと見て、私と目が合うとそっぽを向いた。
「お疲れ様。冴木さん、だっけ?」
音もなく近づいてきていた男性に突然横から声をかけられて、私は驚いた。
見れば、見回り役のバイトチーフだった。
至近距離で対峙してみると思ったより年かさの男性で、ジャンパーの下のお腹だけが不自然に膨れているのが分かった。
三十代半ばくらいだろうか。
たるんだ頬の上の細くつり上がった目が妙に攻撃的な印象を受ける。
「……はい」
そんなつもりはなくても返答の声に警戒の色が滲んでしまう。
何となく、名前を呼ぶ口調が粘着質で、不必要に上から呼びつけられた気がした。
「業務中は携帯、見ないようにしてね」
顔に無理やり貼り付けたような笑顔で、小学生に言い含めるような口調で言う。
さっき大声でどやしつけられた時とのギャップが正直薄気味悪かった。
「……はい、すみません」
私が小さい声で答えると満足気に何度も頷いて、やけにテカテカした髪の毛を何度も手でかき上げながら、私の隣の椅子に腰掛けた。
「あー、落ち込んだりはしないでね!この仕事暇なのはすごーくよく分かるから。正直オレも初めて入った時は、隠れてメールばっかしてたし」
声が高く、不必要に大きい。
周りの人達がちらちらとこちらを伺っている。
「でもさ、ほら。ちゃんと真面目にやってれば、その内にメンバーをまとめる役を任されて、もうちょっとやり甲斐ある仕事になるから。時給もちょっとだけ皆より高くなるしね」
さりげないアピールのつもりなのか、チーフの腕章を手の平で擦る。
「……はぁ」
「チーフになってもっと頑張れば、本社の社食のパーティに呼ばれたりもするんだよ。オレも四回……いや、五回かな?そのくらいしか行ったことないけど。社長もいてさ。現場の話とか熱心に聞いてくれるんだよねー。本社はシンヨコビルの十八階で、ワインとか飲み放題で、夜景とかすっげー綺麗で!」
――なんとなく、察してしまった。
三十過ぎの彼の世界はきっとこの人材派遣会社とその派遣先界隈で完結していて、その頂点は社長とか、なんとかビルの十八階なのだろう。
バイトチーフたる彼が新参者の私にアピールできる最高の栄誉が、社食で開催されるパーティ、ということだ。
十五歳の自分にだって分かる。
そんなものは、ちょっといい働きをした羊追いの犬に与えられた骨付き肉くらいのものでしかない。
でも彼は、それは胸を張って年下の女の子に自慢していいことだと信じて疑っていないのだ。
その自慢話までのプロセスの不自然さ、脈絡の無さたるや病的と言えるほどで、自分の世間知らずが可愛く思えてしまうほどだった。
「今の社長は超いい人だよ。この人にならついていけるって思えるね」
彼がどんなにその社長について行きたいと思っても、きっとその想いは報われないのではないだろうか。
雇用形態がどうとか詳しいことは分からないが、多分彼は取り換えの効く部品くらいにしか認識されていない気がする。
私は背筋に薄ら寒いものを感じて、パイプ椅子から立ち上がった。
バイトチーフに会釈だけして、名簿に退室時間を記入して控え室を出る。
まだ二十分くらいしか休んでいなかったが、あの空間にいるよりは警備の仕事をしていたほうがマシだった。
――母も、こんな職場で働いたりしたのだろうか?
もし、自分がフリーターとして麻生で一人暮らしをするとしたら、都内よりも仕事の選択肢が少ない田舎では果たしてどんな環境で働く羽目になるのか。
想像するとぞっとしてしまう。
さすがに極端な例かもしれないが、例えばヒロカがここで働くことを私が許容できるかといえば答えは断じてNOだった。
逆も然りだろうから、やはりヒロカにはバイトのことは伏せておくべきだと思った。
午後の持ち場は、二階の非常口付近だった。
外より寒さがマシな分だけかなり有り難い。
到着して辺りを見渡すが、交代するはずの相手が居なかった。
ジャンパーのポケットから地図を取り出して、ボールペンで印をつけた場所と現在位置を照合する。
午後一時から、B-12出口。
間違いない。
まだ交代時間には十五分以上あるのに、先に休憩に入ってしまったのだろうか?
バイトチーフは一瞬携帯を見た私を怒鳴りつける暇があるなら、こんな事態こそ見咎めるべきだと思うのだが。
もやもやしながらも、とりあえず非常口のすぐ横で基本姿勢を取る。
目の前に客席への通路が大口を開けるように広がっていて、グリーンのフィールドを赤と白のユニフォームを着た選手たちが走り回っているのを見て取ることが出来た。
ふいに、大きな歓声が沸く。
点が入ったようだ。
ウグイス嬢が得点した選手の名前と背番号を読み上げる。綺麗な声だった。
業務連絡をする館内放送のだみ声とは大違いだった。
何故、自分以外の人間の活躍にそこまで熱中できるんだろう。
ゴールを決めたのは自分ではないのに。
他人の努力の成果に自分を重ねることに、何の意味があるのだろう?
四万人の観客は、皆自分以外の誰かが活躍する瞬間のために集まっているというのだろうか。
私は、そんなことに価値を見出すことは出来ない気がした。
できるなら、歓声を上げる側ではなく浴びる側でいたい。
ほんの四百人でも、あの雨のような喝采を味わってしまったら、もう知る前の私に戻ることは出来ない。
そう考えた瞬間、とんでもない想像が自分の脳裏を掠め、瞬きの間のほんの一瞬、そのビジョンが瞼の裏に映った。
ステージの中央にいる、私とヒロカ。
四万人が取り囲むこのスタジアムの中央に、私達が背中合わせで立っていた。
バンドバトルの時と同じ衣装を着て、ヒロカはあの白いギターを持っていた。
本当に束の間、それこそ瞼が降りて上がるまでの刹那の映像だったのに、私の脳にははっきりとそれが焼き付いていた。
歌っている私、ギターを弾いているヒロカ、そしてそれを聞いている数え切れないほどの観客。
全員が笑っていた。
体の後ろで組んでいたはずの両手は知らない間に解けていた。
私は幻覚を見たかのように、自分の目に異常がないかをこすって確かめた。
目の前に広がっているのは灰色の額縁に収まった人工芝のグラウンドの風景だった。
遠ざかっていた歓声が、ゆっくりと私の鼓膜に届き始める。
どくん、と、力強い鼓動を自分の胸の中に感じた。
自然と自分の口角が上がっていくのを感じる。
とてつもなく分不相応な、まさに夢物語かもしれない。
でも、私はその瞬間を垣間見てしまった。
もしそれが実現できたとき、もしあのバイトチーフが相変わらず会場の警備をしていたとしたら。
そしてあの時自慢話を聞かせた小娘を目当てに集まった観客達の警備をしているんだと知ったら。
一体どんな顔をするだろう。
想像すると何だか無性に可笑しくて吹き出してしまった。
スタッフジャンパーを着てにやけている私を、通り過ぎるお客さんたちが気味悪そうに見ていた。
でも構うものか。
クリスマスにヒロカに会ったら、まず話してみよう。
何となく、彼女なら真剣に考えてくれるような気がする。
二時間後、試合が終了して観客が全て捌けた後で、私達は客席に落ちているゴミを拾って回っていた。
すり鉢状になっている客席の斜面の上から、バイトチーフが大声で指示を出したり叱責を飛ばしたりしている。
いよいよ私たちは犬に追われる羊のようだった。
ホットドッグの包み紙、ビールの飲み残しが入った紙コップ、散らばったポップコーン、たまに何故か靴下や使用済みのオムツなんてものも落ちていたりした。
四万人がひしめき合って大騒ぎした後だけあって、その残留物の量も尋常ではなかった。
九十リットルのゴミ袋がみるみるうちにパンパンになって外周通路に積まれていく。
約一時間ほどかけて、私たちに割り当てられた区画のゴミ拾いと座席清掃が完了した。
立ちっぱなしの上に中腰での作業が続いたが、体を鍛えていると思えばほとんど苦にはならなかった。
解散前に点呼のためにスタジアム入り口に集められたバイト達は、ほぼ全員がげんなりとして疲労に肩を落としていた。
朝の集合の時にも覇気なんてものがある集団ではなかったが、今この瞬間は負のオーラの集合体のような有様だった。
体は汗臭いし、軍手からは生ごみのような臭いが漂っていた。
「はい。じゃあ、本日もお疲れ様でした。特に事故もなく無事終わって何よりでした。若干名ね、警備の時に基本姿勢、崩れちゃってる方とか見受けられましたので、徹底しましょう。手は後ろ、胸を張って、視線を真っ直ぐ」
独特の抑揚を付けて、チーフが不必要な大声を張り上げながら手本を見せる。
視線で全員に、やって見せるよう強いてくる。
若干名の中に含められている自覚のある私は、チーフの名指しのような目配せに耐え切れず、とりあえず従った。
隣で金髪の青年が「うぜーよさっさと帰らせろよ」と聞こえよがしに漏らしたり、後ろからあからさまな舌打ちが聞こえたりしたが、今日最後の見せ場に燃えているチーフの耳には届かなかったようだ。
「はい結構です。では、帰り道気をつけて。事故など起こさないように。年末で人も多くなっていますのでね、トラブルとかにも巻き込まれないように。ゆっくり休んで下さい。浦河公園までバスで行かれる方は、こちらに時刻表、ありますんで見てください。上浦河に歩いて行かれる方は、くれぐれも歩きタバコ、しないでください。会社のイメージもそうですけど、罰金取られちゃうこともありますのでね、そうなるとお互いつまらないですから。駅のそばの喫煙所まで、我慢して下さい。あと、歩きスマホ、事故多くなっています……」
終わると見せかけて付け足し。
今度こそ終わると見せかけてまた付け足し。
肉体的にそこまで疲れていない私でもイライラしてくる。
三十人前後の無言の抗議を受け流して朗々と話し続けられるチーフの度胸は、ある意味驚くべき才能だと思った。
「では、えーっと……ほかには、なんかあったかな……いいかな……。はい、大丈夫ですね。解散!お疲れ様でした!」
名残惜しそうにチーフが〆の言葉を口にすると、ほとんどのバイトはノーリアクションでさっさとその場を離れた。
私も小さくお疲れ様でした、とだけ呟いて会釈し、上浦河駅に向けて歩き出した。
休憩室で意味不明な会話をしていた四人組が、全員が早速タバコに火をつけながら少し先を歩いている。
煙いのが嫌なので小走りに追い抜いてそのまま先を急いだ。
上浦河駅からこのスタジアムまでは広いプロムナードで繋がれている。
あたりは電線が埋め込みになっているせいか視界に開放感があった。
職場の雰囲気や業務内容はともかく、六時間以上の労働を終えた後の帰り道はささやかな達成感があった。
夕食は何を食べようか。
駅に近づくにつれて観戦帰りの集団が増えてくる。
駅前の飲食店はきっとどこも満員状態だろう。
乗り換えをする駅のどこかでつまむことにしようか……。
とりとめなく考えながら歩いて、駅前の広場に差し掛かる。
帽子を目深に被った青年が、コインロッカーの横に腰掛けて弾き語りをしていた。
自作の看板とその横に、自費制作らしいCDが数枚置かれていた。
歌っていたのは、「ハナミズキ」。
男の人とは思えないほどの高い声で、声量もかなりのものだった。
好きな曲だったのと、なんとなく親近感を覚えたせいもあって、足を止めた。
ひとくさり歌い終え、青年は「ありがとーございまーす」と間延びした声でお礼を言って頭を下げた。
私は少し微笑んで拍手した。
「何か、リクエストとかありますか?出来る曲少ないですけど、メジャーどころなら」
「……えーっと」
彼としては足を止めてくれたお客さんを手放したくないのかもしれないが、私は突然のことで少し面食らった。
「は、『春よ、来い』、できますか?」
「おー、お姉さんシブいですね!できますよ!」
得意な曲だったのか、ピアノのイントロをさらりと、でも見事にギターで再現してみせた後、中性的な声で歌い始める。
昔、ヒロカに弾き語ってもらった時のことを思い出した。
歌詞の中で歌われているのは、愛する人と離れて過ごす切ない心情だ。とっさにこの曲を思いついたのは、今の私の心中の現れだろうか。
ギターの音。
いつもヒロカが隣で、私のために弾いてくれていた、暖かで深みのある和音。
ヒロカに会いたい。
春の日差しのような、ふわりと柔らかい微笑みを思い出す。
切なさが膨れて、私は行き場のない思いを体の中から逃がすようにして、歌い出していた。
声を出すと楽になる。
でもその歌詞を噛みしめるようにして歌うほどに、私の胸は強く圧迫された。
自然と、声量が上がっていく。
気が付くと、青年は歌うのを止めて、驚き混じりの笑顔で伴奏だけを続けていた。
ヒロカ以外の人のギターで歌うことに少しだけ罪悪感が沸いたが、ヒロカだって高橋くんに歌わせたことがあったのを思い出して言い訳にした。
少しだけ、この一曲だけ。
今歌って吐き出さないと、私の胸はパンクしてしてしまうような気がした。
止めどなく溢れていく感情が喉元へ殺到して、私の声帯を直接震わせているようだった。
いくらでも高く、長く、そして強く発声できる気がする。
自分を中心に、空気と感情の波が爆発的に広がっていく感覚。
自分がこの世界に影響を与えていることを実感できる感触。
我に返る。
私達を中心に十数人の人だかりができていた。
私は歌うのを止めて、あたふたと周りを見回す。
「……す、すみません!」
私は伴奏をしてくれていた青年に深く頭を下げ、人だかりの切れ間をかき分けて逃げ出した。
頬が熱い。
やってしまった。
勝手に飛び入りしてあんな熱唱をするなんて。
彼は自分のCDの宣伝をしながらパフォーマンスをしていたのに、なんて図々しい真似を……。
改札の中まで駆け込んで、帰りの電車が到着するホームの端まで逃げるように走る。
足元がふわふわする。
ライブ直後と同じ高揚感が私の脈拍を加速させていた。
「……」
手応えがあった。
私の声は、強い力を宿した。
この体に収めきれない程の想いを迸らせるようにして歌う時、私の歌声は帰り道を急ぐ人達の足だって停めることが出来る。
全身の筋肉と、体を巡る血流とそれに運ばれる酸素、横隔膜と肺と声帯、そして、感情。
全てが完璧に噛み合った時、本当の意味でこの世界に私の声が響く。
私は伝えたいことを訴えることができる。
ヒロカは、私と離れている時間も力に変えて曲を作っていけると言っていた。
その意味が今私も分かった気がする。
巨大な感情はそのまま衝動の原動力となって、私の中に組み上がった歯車を回す。
ただずっと満たされているだけの毎日の中では実感することはできなかったかもしれない、私という機構がメロディを奏でる感覚。
私の体と心が噛み合って、冴木芽衣という存在の意義を音として叫んでいるような、それは未知の快感だった。
私はポケットからスマホを引っ張りだして、ヒロカへのメール作成画面に直接、思いつくままの文面を打ち込み始めた。
推敲なんて必要ない。
ひたすら私の胸に芽生える気持ちを描く言葉を叩きつけるようにして入力し、端から送信する。
私の感情をそのまま歌詞に出来れば、きっと私はもっと強い力を歌に宿すことが出来る。
その歌をヒロカの隣で歌う時のことを想像すると、ぞくぞくした。
帰りの電車に乗ってから夜三時に力尽きるように寝付くまで、私は思考を言葉に変換してはメールを送る作業に没頭した。




