56.ヒロカ
次の日から私は、必ずハードケースに入れた白いギターを手に登校するようになった。
授業中はワイヤー錠でぐるりとケースを巻いて、空き教室の掃除用具入れに隠しておく。
ケースまるごと持っていかれないように、ロッカー自体とケースの取っ手も繋いで施錠しておいた。
放課後になると、私とメイは校内の色々なところで練習や作曲作業に励んだ。
生徒の誰かが私達を見つけると、少しずつ野次馬が集まってきてミニライブを開催することになったりもした。
曲をリクエストしてくれる人や、一緒に歌ってくれる人、中にはカホンを持ってきて一緒に演奏してくれる人なんかもいた。
写メを撮らせてくれと言われたり新聞部のインタビューを受けてみたりして、あっという間に私たちは校内の有名人になってしまった。
音楽という架け橋ができたからなのか、それともバンドバトルでの劇的な優勝が良かったのか、私達を取り囲む人達との人間関係は極めて良好で、軽音部のメンバーとのいざこざに頭を悩ませていたことが嘘のようだった。
私は今までより自信を持って物を言えるようになったし、メイは私以外の人とも少しずつ打ち解けるようになった気がする。
結果的に、音楽がすべてのことを良い方向に持って行ってくれたと思う。
私とメイは決して壊れることのない絆で結ばれたし、生き甲斐とも言えるほど夢中になれるものを見つけることができた。
それからの一ヶ月は、最高に充実した時間だった。
これからずっと、こんな夢みたいな毎日が続いて、やがてそれが私達の日常になっていくんだと、そう信じていた。
あの日、メイの携帯に、一通のメールが届くまでは。
十二月に入って、日に日に寒さは厳しくなっていった。
冬の風物詩の強風も例年通りで、自転車通学する生徒とスカートの短い女子たちにとっては憂鬱な季節だ。
私はといえば、暖房の効いていない場所では手がかじかんで思い切りギターが弾けず、もどかしい時間を過ごしていた。
手の甲にカイロを貼り付けてみたり、指ぬきグローブを試してみたりするも、どれも効果はイマイチだった。
放課後の自分たちの教室ならしばらくは暖房が回っているので一度練習を試みたが、クラスメイト達に群がられてしまった。
人前で演奏する練習が出来るのもありがたいが、今はレパートリーを増やしたり新しい歌を作ったりする時間がほしい。
何より、メイと二人で過ごせる時間を少しでも長くとっていたかった。
「どう?温まった?」
「んー、もうちょい……」
制服のポケットに左手を突っ込んで、中の使い捨てカイロをもぞもぞと揉む。
大体三分くらい暖めると五分伴奏が出来る。
一曲弾き終わる頃にはまた指の芯まで冷えてしまう。
「冬ってやだな……。毎日音楽室が使えたらいいのにね」
「週一でも使わせてもらえてるだけ、ありがたいと思わなきゃ。防音で暖房完備の部屋なんて、同じ時間借りたら五千円はするんだから」
「わかってるけどさぁ……。先週も結局練習じゃなくてミニライブみたいになっちゃったじゃない?毎週金曜日は私達がいるって、バレちゃったんじゃないかな?」
「あれはあれで、楽しいんだけどね」
四階の空き教室。
人目を避けつつできるだけ大きな音を出せるようにと校舎の隅っこを選ぶのがお決まりになっていた。
予備の机が幾つか、天面を重ねあわせた形で部屋の隅に並べられている。
私は窓際に机を一つ運んで、その上に腰掛けてギターを構えていた。
すぐ隣で腕や肩のストレッチをして体を温めているメイ。
「あ、昨日送ってもらった曲なんだけど、歌詞考えるのにちょっと時間かかるかも」
「あれ、珍しいね。苦手な感じだった?」
「……なんていうか、あれって、大人っぽいっていうか……艶めかしいっていうか」
「そうかなぁ?イメージは切ない純愛のはずなんだけど……」
半眼で私を睨みつけてくるメイを無視して、私は素知らぬ顔でとぼける。
本当は、こんな時間帯にはちょっと言えないシーンを思い浮かべて作った。
感動した出来事が原動力になる時、曲はスムーズに出来る。
ちなみにメイの言っているその曲は三十分で出来上がっていた。
「たまには、また逆をやってみてもいいかもね。歌詞が先」
「えーーー、ちょっと自信ないかも……」
「どうして?『紫陽花』、私好きだよ?」
「……正直私はちょっと、実感を込められてなかったかなぁって。一曲目で凄く手探りだったし」
「そっか。でも、私がしっくりくるってことは、あれで正解なんじゃないかな」
メイの過去については、直接本人の口からぽつりぽつりと聞かせてもらっている。
トマスのことを聞いた時、まさか紫陽花の咲き乱れる風景に横たわっているのがメイではなくてクマのぬいぐるみだったと知って愕然とした。
そのことをメイに話したら、からからと笑っていた。
「いくつかストックがあるから、やってみようよ。多少なら言葉変えたりしてもいいから」
「あれこれ変えまくってたら、ほとんど私の歌詞になっちゃったりして」
「……それじゃ私って、書いてる意味なくない?」
少し拗ねたような顔をするメイだが、もちろんそんなことあるはずはない。
作詞の真似事をしてみようとしたこともあるが、私はモチーフとしての世界観を見出すのが絶望的に下手だった。
また、言いたいことをぼんやり曲に変換していくことは淀みなく出来るのに、出来上がった曲には何故か伝えたかった言葉が収まらないことが多い。
だから、私の曲をメイに解釈してもらって歌詞をつけてもらうという手順が定着しつつあった。
だから曲の雰囲気や主だった方向性は、『紫陽花の棺』を除いて全て私が決めていることになる。
私もメイが主題を決めた歌をもっと作りたい。
「ウソウソ、できるだけメイの言葉に合わせるようにするよ」
感覚はそもそも似ているし、二人が出会ってからの出来事なら私も近い視点を共有している。
アイディアの種を先にもらって曲を作るパターンももっと経験してみたかった。
歌にしたいことはまだまだいっぱいある。
私たちは一日が二十四時間と決められていることを嘆きたくなるくらい、寸暇を惜しんで曲作りに励んでいた。
良くも悪くも感動した経験について、それを歌にして人に聞いてもらった時、一人でも共感をしてもらえることが嬉しかった。
改まって言葉で伝えられるほどの関係でなくても歌なら聞いてもらえる。
バンドバトル以来、新曲を楽しみにしてくれている固定ファンもどんどん増えていっている。
嬉しい誤算だったのは、『紫陽花の棺』が高評価を得たことだ。元は子供時代のメイの悲しい思い出から生まれた歌だが、耽美とも言える世界観を艶っぽく歌い上げる彼女の声が、それを一つの物語に昇華していた。
メイが私にトマスのことを話してくれたのも、自分の過去を歌にすることで直視できるようになったからなのかもしれない。
最近作詞のために言葉の勉強をし始めたメイが、「禍福は糾える縄の如し」という言葉を教えてくれた。
良いことと悪いことは絡みあっていて、どちらかばかりを拾い上げるように経験するということはないという意味らしい。
でも、辛かった記憶も歌にしてしまえば、誰かが聞いて共感してくれるかもしれない。
悲しい出来事からしか生まれない美しいメロディがあることも知った。
どれだけ自分たちにとってマイナスな出来事が降りかかってきたとしても、その時の気持ちを歌に変えて二人で演奏する時のことを考えれば、いくらでも前向きになることが出来た。
メイが歌詞に書いた世界の秘密とは、こういうことなのかもしれない。
私はメイの横顔を眺めて微笑んだ。
寒くても、窓の外がどんより曇っていても、二人一緒なら気を滅入らせたりしている暇はない。
「ね、もう一曲だけやったら、大通りに行かない?」
「え、もういいの?」
「明日は音楽室つかえるんだし、今日はちょっと遊ぼうよ。確か今日からクリスマスの飾り付けが始まってるから、いつもと少し雰囲気違うかもよ?」
本当は、小さなクリスマスツリーがいくつかの店舗店頭に並ぶくらいで、普段と大差ないことは知っていた。
それでも私はこの町の年末の雰囲気が好きだ。
皆どことなくそわそわしていて、幸せそうな家族連れやカップルの姿を見かける機会が多くなる。
私も、メイに贈るプレゼントの目星をつけておきたかった。
「クリスマスかぁ……」
真剣な声で呟いて考えこむメイ。
デートプランを考えてくれているのかもしれない。
普段は私が行きたい場所に連れ回してばかりだが、二人で過ごす初めてのクリスマスとなると、きっと思うところがあるのだろう。
不慣れながらも律儀に期待に応えようとしてくれる姿を見ていると、胸が切なくも温かくもなる。
「じゃあ、もう一曲、やっちゃおうか」
「何にする?」
「うーん、じゃあ、『雪の華』」
「おっけー」
アルペジオの中にイントロのメロディを重ねて爪弾く。
クラシックギターの独奏のようなもので、最近はソロギターという名前で定着しているスタイルらしい。
定形のコードだけでは表現に限界が有ることに気づいて、私は最近このソロギター譜を買い漁って、ボーカルが入る箇所以外を猛練習していた。
これによって曲を通しての完成度は大きく高めることができたと思う。
しっかりと原曲の雰囲気を再現して前奏を奏でると、メイの歌声がスムースに入って来た。
冬は静かなバラードが似合う季節だ。
クリスマスにも、こうしてメイにラブソングを歌ってもらおう。
きっと、それが一番私達らしい過ごし方だ。
制服の上に薄手のミリタリージャケットを羽織ったメイの姿は、私の目にはちょっと防寒不足に見える。
寒がりな私は、できるならダッフルコートとニット帽とミトンで完全防備したいところなのだが、二人で並んで歩くときのバランスを考えてコートとネックウォーマーだけに抑えていた。
顕になったメイの白く細い首を眺めながら、プレゼントはマフラーにしようかなどと考えながら大通りまでの道を歩く。
街路樹はすっかり丸裸で、落ち葉に覆われていたアスファルトもいつの間にか元の冷たい灰色に戻っていた。
殴りつけるような強い風が、電線と銀杏の枝を揺らして心細気な音を立てる。
私はメイの腕にしがみついて突風が通りすぎるのを待った。
「……寒いねぇ」
鼻の頭がひりひりする。
ネックウォーマーに顔の下半分を埋めながらもごもごと喋る。
「メイ、せめて前締めれば?なんか見てるこっちが震えそう」
「私は別に平気だけど」
言葉の通り、けろっとしているメイ。
聞けば、ランニングは今も続けていて最近体調がすこぶる良いらしい。
また一段とスタイルに磨きがかかったような気もする。
これから年末年始太りが予想される私としては、心中穏やかでない。
「あっ!あれ、見て、メイ」
大通りに突き当たって、私は思わず声を上げた。
等間隔に並んでいるアーケードの柱に、色とりどりのモールが飾り付けられ、雪の結晶や鈴のオーナメントが吊るされている。
風の音が止むと、控えめな音量で『Last Christmas』のインストゥルメンタルが聞こえてくる。
今は点灯されていないが、よく見るとアーケードのあちこちにLEDの仕掛けも取り付けてあるようだった。
「ホントだ、雰囲気変わってるね。毎年こんな感じ?」
「……うぅん、去年までよりずっと豪華」
まるで、私達が出会って初めてのクリスマスを町を上げて祝福にするかのように、アーケード街の飾り付けは遠く視界の彼方まで続いていた。
「すごーい!うちの商店街にこんな気の利いたことができるなんて、驚き!」
私はキョロキョロと辺りを見渡しながら進む。
中華料理屋や金物屋、畳屋、パブ、銀行までクリスマスツリーを出している。
夜になったらちょっとしたイルミネーションのような雰囲気になるかも知れない。
「メイ、早く!アーケードの終わりまで見に行こう!」
手を繋いで引っ張るように進む。
少しまで寒さに震えていたのに、私の突然の変わり身にメイは苦笑を浮かべてついてくる。
長靴、サンタ、トナカイ、キャンディケイン、プレゼント箱……色とりどりのオーナメントが風に揺れる。
お店の入り口にはリースが掛かって、セールやイベントを知らせる幟やポスターが並ぶ。
これがあの退屈なシャッター街と同じ場所だろうか。
もう寒さなんかどこかに吹き飛んでしまった。
私たちはともすればスキップに変わりそうな軽やかな足取りで歩道を闊歩した。
これも禍福の中の福の一つでしかなくて、それが今年に起こったのはただの偶然なのかもしれない。
でも、特別な年のクリスマスにいつもと違う嬉しいことが起こると、まるで奇跡が起きたみたいに幸せな気分になれる。
これから二人にとっての記念の年に嬉しいことが起こったら、毎回今と同じくらいの幸せをかみしめることができるだろう。
これもきっと、世界が隠していた秘密の一つなのかもしれない。
サンタ帽を被った電気屋のおじさんに二人で会釈をして、相変わらず居眠りしたままの呉服屋のおデブな三毛ちゃんにも挨拶をして、ウサギのぬいぐるみを取ったゲームセンターにたどり着いた。
「メイ!サンタのクマさん!」
「ほんとだ、可愛い……あれ?」
「どうしたの?」
「……トマスに似てる……」
「!」
私はメイのコートを両手で握りしめて、細かく上下に揺さぶる。
これはトライするしかない。
「取れるかな?」
「……任せて」
ポケットからコインを取り出そうとして、メイの手が止まった。
「あれ、何だろう?」
「ん?どうしたの?」
「お父さんからだ」
メイの手の中のスマホの画面には、着信を伝える通知が複数表示されていた。
メールのアイコンも新着マークがついている。
ロックを解除して、メールアプリを立ち上げる。
しばらく、画面に目を走らせて沈黙するメイ。
クレーンゲームの能天気なメロディがやたらと耳に残った。
メイが視線を上げる。
メールの内容を私に伝えるべきが悩んでいる顔だった。
何か良くない知らせだったのだろうか。
心配する気持ちが顔に出てしまうのを抑えきれず、私は自分の単純さが嫌になった。
「私の……母親が、倒れたらしいの」
なんと呼ぶかの逡巡が、メイとその人との関係を物語っているような気がした。
四年前に失踪して行方不明だったお母さんのことは、簡単にではあるけど聞いていた。
あまり深く踏み込めるような話題ではなかったが、複雑な事情と思いがあるだろうことは私にも十分伝わってきていた。
私は、なんと言えばいいのか分からなくてただコートの裾をぎゅっと握りしめた後、慌てて離した。
なんとなく自分の両手がメイを縛り付けているように感じた。
メイが二の句を継げずにいるのは、一体どんな想いからなのか。
少なくとも、何かに迷っていることだけは間違いない。
「……メイ」
もし彼女が少しでも迷っているなら、私が言いたいことは一つだ。
「急いで、行ってあげて」
メイのお父さんは私の知る限り、普段メールなんて送ってきたことはない。
複数件あった着信がことの重大さを匂わせている。
「……」
スマホをきつく握りしめた手が、ゆっくりと落ちる。
私は思わずその手を両手で包んだ。
何も言葉は思いつかない。
自分の脳みそはなんて役立たずなんだろう。
「行った方が、いいと思う?」
やっと聞き取れるくらいの声。
言い終えてから、それを後悔するように唇を噛む。
私に聞いてどうなるものでもないと思い直したのだろうか。
かける言葉もちゃんと見つけられなかった癖に、私はメイがそんな顔をすることが悲しかった。
「……うん。どういう状況かわからないなら、まずは行ってみた方がいいと思う」
私と過ごす時のメイは明るくて楽しそうで、誇張でも自信過剰でもなく、前向きに時間を過ごそうとしているように見える。
やっと過去を振り切って、彼女らしい生き方を見つけて歩き出したばかりなのに。
どうしてまた過ぎたことに引きずり戻すような出来事が、よりによって今起きてしまうのか。
嘆きたくなる気持ちにブレーキをかけて、私は頷いた。
「行ってきて。何かあったらすぐ連絡して。もし何か役に立てることがあるなら、すぐにでも飛んで行くから」
メイのお母さんがどこにいるのかも知らないまま、そう言い切る。
正しい言葉だと思えた。
メイが顔を上げた。
私をちらりと見る瞬間、私は先回りしてその頬に口付けた。
「……ありがと。行ってみるよ」
「ん……」
「病院、都内なんだって。新麻生駅って、ここから遠い?」
「えっと、桜橋の向こうだから、二キロくらいかな」
新麻生駅は麻生駅とは別路線が乗り入れている駅で、特急で遠出する時に私も何度か使ったことがある。
「ヒロカ、鞄預かっててくれる?」
「え、いいけど、もしかして走るつもり?」
「途中で、タクシーがいたら捕まえるよ」
鞄を受け取り、そのまま繋いだ手を、ゆっくりゆっくりと離す。
「連絡するから」
「……うん」
人差し指の感触を残して、私の手から逃げていくメイの指先。
橋の方へ向けて駆けて行く足音は、ゲームセンターの喧騒にかき消されて聞こえなかった。
その夕方、私は自分の部屋の畳の上に横になって、サンタの格好をしたクマのぬいぐるみを弄んでいた。
結局三千五百円もかけてなんとかゲットしたものの、メイに今報告するのも気が引ける。
部屋の隅に置いた二つの通学カバン。
行き先と事情だけに、すぐには戻って来られないだろう。
せっかく明日は金曜日だというのに、音楽室での練習は一人になりそうだ。
今週末だって、メイのホテルに泊まりに行こうと思っていたのに。
一つ大きなため息を付いて、クマを胸に抱きしめる。
それにしても、蒸発して四年間も会っていなかったお母さんと病床で再会というのは、一体どんな気分なのだろう。
そもそも、倒れたと言ってもどういう状況なのかも分からない。
深刻な事態でなければいいのだが。
部屋で一人、こんな風に出口のない懊悩を抱えて過ごすのも久しぶりだ。
バンドバトルが終わってからは、ほとんどずっとメイと一緒にいた。
二人ならこんな風に悶々として過ごすことなんてない。
つまり、私の悩みは全てメイに関係することばかりということだ。
私は足を振り上げて、勢い良く上半身を起こした。
こんな時こそ、曲を作ろう。
好きな人に会えない時間というのも、題材としては悪く無い。
私はパソコンを立ち上げて、最近愛用している作曲ソフトを立ち上げた。
調べてみるとフリーでもかなり機能が充実したものがあった。
私がインストールしたものは、コードとストロークのリズムを入力するだけで擬似的にギターを弾いているような音を出すことが出来る。
メインのコードを選んで少し操作するだけで、sus4やadd9といった派生コードも思いのままだ。
五線紙の上にマウスで音符を配置していけば、メロディだって一緒に鳴らせる。
スマホで録音しなくてもデータとして残せて、音程や速度を変えたりできるのが何より重宝する機能だった。
最近はインターネット上の音楽の理論についてまとめてあるサイトを片っ端からブックマークして、暇さえあれば読んでいた。
独学の我流では表現に限界がくることは容易に想像できたので、知識を仕入れることも重要だと思うようになっていた。
こんなに勉強熱心になれる事があるなんて、自分でも驚きだった。
「……」
マウスカーソルが行く宛もなく右往左往する。
作曲も勉強も捗らない。
一度没頭し始めてしまえば二、三時間はあっというまに過ぎてしまうのに、今日はやたらと時間が長く感じた。
スマホの方に何か新しいサイトをブックマークしていなかっただろうか。
ブラウザを立ち上げて、お気に入り一覧を表示する。
今日に限ってなんだか動作が遅い。
いらいらしながら操作しているとミスタップして、そのサイトを開いてしまった。
学校の掲示板サイト。
美容院で嫌な情報を見てからは覗かないようにしていたが、そういえば文化祭やバンドバトルについては何か話題に上がっているだろうか?
スレッド一覧の中からそれらしいものを探してみる。
そのものズバリ、「バンドバトル(786)」という文字列を見つけて、私はそこをタップした。
もう一ヶ月以上経っているのに、いまだにそのタイトルが一覧の上位にあるということは、最近まで更新が続いているということだろう。
自分たちの演奏がどんなふうに受け止められているのか、気になってくる。
きっと妬みや中傷を含んだ内容の書き込みもあるだろうと覚悟しつつ、過去の書き込みから順に読んでいく。
ほとんどのレスがIrisに関する内容だった。
その大半は好意的な内容で、ある意味劇的だったパフォーマンスも功を奏してか、「すごかった」とか「感動しちゃった」とか、「あの二人、何か雰囲気怪しいよね。デキてる?」とか書き込まれている。
ええ、デキてますとも。
途中、私の使っていたギターの話題も出ていた。
当日にギターが変わったことに気づいた人がいた事に驚いた。
私が赤いエレアコを弾いている姿なんて、学校の生徒にはあまり見せていないはずなのに。
その中のレスの一つに、私の目は吸い寄せられる。
『援交した金で買ったやつだって噂』
何を言っているのやら。
訳の分からない事をいう人もいるものだ。
気にせず読み進めていくと、思いの外その話題が長く続いていた。
『C組の喫茶店の売上がなくなったってやつじゃないの?』
『犯人、黒髪の方だって。本間に呼び出されてたし』
『さいきってやつ?なんか実行委員からも金借りてたってよ』
嫌な心拍数の上がり方。
なんだこれ。一体なんのことだ?
好意的な書き込みの間に、時折誹謗中傷のような文面が紛れ込んでいる。
昔に見てしまった、メイに対する根も葉もない悪評と同じように、無責任な悪意のこもった記載だった。
優勝者への僻みだろうと相手にしない人達の書き込みがしばらく続いた後に、それはあった。
『証拠』
たった一言そう書き込まれた下に、アンダーライン付きの青いアルファベットが並んでいる。
URLのリンクだ。
私の指が吸い寄せられるようにその文字の上に乗る。
一瞬の読み込み処理の後、ブラウザの別タブが開いて、画像が表示される。
「…………なに……これっ……」
目を疑う。
そこに写っているのは間違いなくメイだった。
雑な加工で黒い目線が入れられているが、見間違うはずがない。
長い黒髪と、私のよく知っている緑のミリタリーコート。
その口には、赤茶の紙幣が咥えられ、さらにその口元は、笑っていた。
それよりも、その下半身だった。
ジーンズが膝までずり降ろされて、薄いピンクの下着が顕になっている。
そんな……。
メイが、どうしてこんなことを……。
合成写真かと疑ってみたが、拡大してみても目線以外の加工の痕跡は見当たらない。
もしこれが誰かの手による捏造だったとしたら、その技術と熱意の方が恐ろしい。
改めて画像をみると、背景はあの日控え室に使った旧部室棟のものであることが分かった。
つまりこれは、ギターを壊されたあとに撮られたものの可能性が高い。
まさか、本当に、あのギターを買うためにメイがこんなことを……?
――そもそも、あの白いギターは本当はいくらするものだったのか?
いくらお小遣いに余裕があったとしても、ギター一本買えるほどの額を持ち歩いていたとは考えづらい。
かといってホテルに戻っているような時間的余裕はなかった。
きっとメイは、なりふり構わずお金を工面したのだろう。
これも、その中の一つということなのだろうか……。
メイにしっかりと購入の経緯を確かめなかった自分に、心底呆れ返った。
画像が貼り付けられた後、突然書き込みの頻度が跳ね上がっていた。
『これマジ?』
『嘘。ショック』
『コラだろ』
『ツールで調べてみたけど、合成とかはされてないみたい』
『マジかー。ファンやめるわ』
こういった書き込みの日時を確認すると、今から三週間も前の事だった。
その間、空き教室や音楽室に集まって来てくれる人達の前で何度も演奏をしたし、おしゃべりをしたり、一緒に歌ったりもした。
掲示板でこんなことが起こっているなんて全く気配も感じなかった。
笑顔で私達の演奏を聞いていてくれた人達の中の何人かは、この画像のことを知っていたのではないだろうか……?
皆、笑ってくれていたのに。
私達の演奏を、心から楽しんでいてくれてたんじゃなかったのか?
身近で起きたスキャンダルの渦中の人間を見物しに来ただけだったのだろうか?
画像に映るメイの引きつったような口元。
嘲りの言葉。
皆の笑顔。
その前で、何も知らずに演奏を楽しむ私。
全てがぐるぐると渦を描くようにして私の頭の中で回り、混じり、斑色のイメージを作り出す。
突然、吐き気が襲ってきた。
すぐに治まるかと思いきや、胃がポンプのように窄まって中身を無理やり逆流させる。
そばにあったゴミ箱の中に、私はその日食べたものを全て戻した。
「……っぇ……っ……」
胃の中身が空になってもえずきが止まらない。
自分の体の中にある全てのものを拒絶したがっているような反応だった。
バンドバトルの次の日のことを思い出す。
泊まりに来たメイが、突然服を脱いで体を見て欲しいと言ってきた理由。
今ならあの行為の意味が分かる。
画像のメイの表情からも分かるように、当然あれはメイが望んでやったことではない。
それでも、自分の恥ずべき姿を誰かに見せたことが、きっと彼女自身許せなかったのだ。
だから、あの画像を撮った相手に見せたそれよりももっとあられもない姿を、私に見せようとしたのだろう。
だというのに私はあの夜、そんなことは露知らず、一人幸せに浸っていた。
――どうしてメイばかりがこんな仕打ちを受けなくてはいけないのか。
その理不尽に対する怒り以上に、一番そばにいたはずの私が何も知らないまま、脳天気に笑ってばかりいたことが耐え難い。
そもそもギターを壊されるようなことさえなければと、悔やめば悔やむほど自分が嫌になる。
私は荒い息をつきながら、私はゴミ箱にしがみついていた体をむくりと起こし、口元を拭ってから頭を強く振った。
やっぱり見に来るべきではなかったと後悔する一方で、このことをずっと知らずにへらへらと笑っている自分を想像してまた吐き気をもよおした。
これだけは、目の当たりにしておくべきことだったのかもしれない。私は戸惑いながらも、もう一度だけその画像を見つめた。
……引きつった口元が、笑顔とは真逆の屈辱を必死に訴えかけてきているかのようだった。
いつでも凛として、間違ったことには毅然と声を上げる記憶の中のメイとは真逆の、卑屈で頼りない姿。
あまりに酷すぎる。彼女の人格と尊厳を踏みにじって唾を吐きかけるような行為だ。
胸の中が焦げて爛れるような怒りを抱えながらも、私はその怒りに流されてしまうことに必死で抗った。
「……やり返すなら……」
メイの言葉を思い出す。私たちは、こんな下卑たやり口をする連中と同じ土俵になんか上がらない。
それがどうしたと笑い飛ばして、平気な顔して歌ってみせれば、すべて過去の些細なことと思えるようになる。
機会が欲しい。
この気持ちをぶつけられるだけの、大きな舞台に立ちたい。
私はやる方のない激情の熱を紛らわせるように、六本の弦を掻き鳴らした。
鳴り響いた音は重く、息苦しくなるような不協和音に聞こえた。




