55.ヒロカ
「それでね、最初は頼子さんと二、三人くらいだったのに、あとからあとから私の席に群がってきて、色々聞かれちゃった」
「色々って?」
「次いつ演奏するの?とか、メイとはどういう関係なの?とか」
「どういう関係って……なんて答えたの?」
「ナイショ、って言っておいた」
後ろでメイが苦笑いする声が聞こえる。
二階のバックヤードは照明のスイッチが面倒な所にあるので、暗い中を手探りで進んでいく。
メイは私のパジャマの裾を指先でつまんで、すぐ後ろについてくる。
「ねぇ、メイ、あの白いギターさ」
「うん」
「いくらくらいしたの?私、今すぐは無理だけど、ちゃんと払うよ」
「何言ってるの」
少し呆れたように笑うメイ。
「今まで、メイのギター一本に頼ってやってきたんだもん。あれじゃ足りないくらいだよ。ヒロカの赤いやつよりずっと安かったし」
「でも」
「はいはい、もういいから、早く部屋に入ろうよ」
「……よくないってば……」
今までメイはお小遣いを全然使わずに貯めていて、余裕があるとは聞いていたが、そうであってもおいそれと受け取れるような金額のものではない。
「もう、気にしないで。っていうか、これからもずっと私のために弾いてくれるんでしょ?だったら、先行投資ってことで」
「……ずっと」
「そう、ずーーっと」
こんなことで誤魔化されちゃいけないはずなのに、その言葉が嬉しすぎて申し訳無さが霞んでしまう。
「そっか……。そうなんだよね」
きっとどんなに私が主張しても、メイはお金を受け取ったりはしないだろう。
そう分かる以上、私にできることはもっともっと練習して、メイが気持ちよく歌えるように上達することしかないのかもしれない。
とりあえず、今のところはそう納得することにした。
せっかく一緒に過ごせる夜を、お金のことに悩む時間に使っていてはもったいない。
私の部屋のドアノブを掴んで押し開き、部屋の明かりをつける。
暖色の光がドアの隙間から漏れ出す。
メイを先に部屋に入れて、私も後に続く。
いつもの見慣れた部屋だけど、今夜は朝までメイがいてくれる。
それだけでここは特別な場所になる。
ドアを閉めて、こっそりゴムの楔を床とドアの間に差し込んだ。
鍵がない部屋だが、これで外からは入ることはできない。
「あのさ、メイ」
「……ん?」
私の声に振り向いたメイの顔を上目遣いに見つめる。
やっと、二人きりだ。
「……もう、いいかな?」
「え?何が?」
きょとんとした顔で聞き返してくる桜色の薄い唇。
視線がそこから外せない。
私はといえば、イチゴのリップを軽く塗って、臨戦態勢だった。
「何って……女の子にそんなこと言わせるかなぁ?」
顔が熱い。
赤面しているかもしれないが、今更隠すこともないだろう。
期待して何が悪い。
今夜は、ちょっと特別な夜なのだ。
ちょっと黙って考えこんだメイが、何かに気づいたように軽く目を見開いて、にこりと笑う。
もったいぶるようにゆっくりと布団の上まで歩いて行って、水色のシーツの上にすとんと座り込む。
「私も、女の子なんだけどなぁ」
「ね。そうだよね。私達、どっちも女の子なんだけどね」
胸の前で両手をもじもじさせながらメイににじり寄る。
「……今更だよね」
「うん、もう、手遅れっていうか」
「我慢の限界っていうか」
「うわ、それちょっとはしたない」
「……だめ?」
「うぅん、いいよ。おいで」
両手を広げてくれたメイに飛びつく。
バランスを崩したメイと二人、布団の上に倒れこんだ。
パステルカラーのシーツの上に、漆黒の髪が扇形に広がる。
そのまま胸に顔を埋める。
ジャージの素っ気ない肌触りも気にならない。
頬ずりするように擦り寄ると、背中に両手を回してくれる。
くっついているだけじゃ足りなくて、腰のくびれに腕を滑り込ませて抱きつく。
ぎゅっと抱きしめると、宥めるように頭を撫でてくれる。
その手つきに余裕を感じたのは一瞬だけで、すぐにいつもより少し力強く、二つの手のひらが後頭部から背中の間を行き来し始める。
私の輪郭を確かめるように、私の中に何か大切なものを探しているように。
私はメイの手を導いて、私の左胸にその手のひらを置く。
骨の下から突き上げるような鼓動が、確かに彼女に伝わる。
私がメイを特別だと思っている証拠。
意思も意識も関係ない、感情を数値化するリズム。
今私の体を駆け巡る血は、メイへの想いそのものだ。
頬に手をあてがわれ、上を向かされる。
あまりにも真正面から見つめ合うと鼓動が加速して胸が苦しくなる。
臆するように視線を逃そうとする私と、それを少し強引に阻止するメイ。
どくんとひときわ大きく跳ねた鼓動を、きっと感じ取られてしまっただろう。
「目を見せて」
吐息を感じられるほどの距離で見つめ合う。
顔が熱い。
私から押し倒したはずなのに、完全に主導権を取られていた。
早く目を閉じて唇を合わせたいのに、メイの視線がまだダメだよと私を戒める。
私が恥ずかしがっているのを知って、意地悪をしてる。
そう分かっているのに逆らえない、甘い呪縛。
自由を奪われることが心地いいなんて、少しアブノーマルだろうか。
そう自覚することが、何故かまた感情を加速させてしまう。
「よく、見せて」
囁くような声がたまらない。
私にだけ聞こえる、背くことなんて出来るはずのない命令の言葉。
瞳の奥のもっと奥、脳の中まで見透かされてしまいそうなほど、メイの視線が私に突き刺さる。
「ねぇ……」
せがむような声を上げた私の唇を、指先で塞ぐメイ。
不満気な顔をする私に余裕の笑顔を見せつけて、そのままメイは右手の人差し指で私の唇を撫でる。
微かな電流が背骨の真ん中を駆け下りていく。
眉根を寄せて体をくねらせ、内股になって両膝を擦り合わせる私。
それを見つめるメイの頬が急激に赤らんでいく。
私は早々に頭で考えることを放棄して、衝動のままにその指先を口に含んだ。
短く声を上げるメイ。
指の腹をくすぐるように、舌先を這わせる。
手を引こうとする気配を感じて、私は両手でそれを阻止した。
第二関節まで口に含んで、吸い付き、甘噛して、舐め回す。
メイの息が少し、でも確かに荒くなった。
「……やっぱりヒロカ、エッチだね」
私は開き直りの笑みを浮かべて、舌を出してみせた。
もうはしたないと言われてもいい。
メイ以外誰も見ていないんだから。
「キスしてくんないと、もっとエッチなことしちゃうぞ……」
「……どんなことするの?」
「……わかんない。本能に任せてどこまでも」
「それはちょっと怖いなぁ」
少し笑って、私の頬にちゅっと唇をぶつけてくるメイ。
あっと声を上げた瞬間に、指を引き抜かれる。
抗議の声を上げるより先に、唇にキスが降ってきた。
室内に小さく響く、お互いを求め合う音。
唇がふやけるんじゃないかというほど長い間、接触を繰り返した。
両手を繋いだり、お互いの肩や首筋を撫であったり、抱きしめ合ったり、思いつくままに求めて、応えた。
ふと視界の隅にあるアナログ時計に意識が向く。
信じられないことに、日が変わって三十分が経っていた。
私が無言で時計を指差すと、やっと唇を離して壁を見上げたメイが愕然とした表情を見せる。
「あの時計、狂ってる?」
「……違うよ。おかしいのは、私達だよ」
顔を見合わせて三秒停止。同時に笑いながら布団に大の字になった。
ひとしきり笑うと、それまで全く気にしていなかった秒針の音が、かちかちと二人の間に響いた。
もう寝なきゃいけない時間だが、そんなことどっちも言い出せなかった。
明日が睡眠不足で辛くても、まだまだ一緒の時間を過ごしていたい。
でもさっきみたいに抱き合ったりキスをしたら、あっというまに夜が明けてしまうんじゃないかと怖くなる。
何とも不思議な葛藤が私達を束の間無口にした。
「……ヒロカ」
「ん?」
メイが突然むくりと体を起こす。
「ちょっと、変なことするけど、許してね」
「え?」
メイは立ち上がって、天井の照明からぶら下がる紐を三回引く。
部屋は真っ暗になって、明かりは窓から差し込む月の光だけ。
暗闇に慣れない目では、すぐそこにいるメイの顔もほとんど見えない。
「……メイ?」
私は上半身を起こしてメイを呼ぶ。
返事の代わりに、ジッパーを下げる音が聞こえた。
すぐ目の前で、ジャージを脱ぐ気配がする。
「どうしたの?暑い?」
「……」
「えっ、ちょ、メイ?」
ジャージの上だけでなく、下まで脱ぎ始めるメイ。
白いTシャツとパンツだけが、暗闇の中に浮き上がる。
「そ、それはちょっと……ええぇ?わ、私今日下着が、その、勝負用のやつじゃないし……」
あたふたしながら自分の履いているパンツがどんなだったか確認したり、指を開いた手で目を覆ったり、なぜかウサギを抱きしめてみたりと大パニックに陥る。
そんな私をよそに、メイはついにTシャツまで脱ぎ捨ててしまった。
「……いきなりで、ごめんね」
「あ、ぁ、謝ることは、ないない、けど……心の準備が……っていうか、一緒にお風呂、そう、お風呂入るとかからじゃ、ダメ?」
声が上ずって吃る。
期待していなかったといえば嘘なのかもしれないが、まさか突然ここまでステップアップとは……。
アジやタイを狙って釣りをしているときに巨大なマグロが針にかかってしまったような……いや、その例えはおかしい。というか何でやったこともない釣りに例える?私。
結局私は両手で顔を覆って丸まってしまった。
「ヒロカ」
「は、はい……なんでしょぅ……」
「お願い、見てくれる?」
「……?」
その声のトーンに妙な迫力を感じて私は顔を上げる。
恐る恐る、両手を下げてみる。
かなり闇に目が慣れたのか、ぼうっと白い肢体が目の前に浮かび上がって見えた。
月の光は窓枠の形で部屋の中に差し込んで、シーツに反射して部屋の中を青白く仄かに照らす。
黒く艶やかな髪が白い肌にかかって、視覚を幻惑するようなコントラストを生む。
想像していたよりも華奢な肩と、雪面のようになだらかな腰のくびれ。
羨ましいという気持ちすら湧いてこない、
まるで絵画の中の人物と対峙しているかのような感覚。
子供の頃に肌の白さと名前の文字から吸血鬼というあだ名を付けられたがあると言っていたことを思い出す。
こんな相手なら、抱きしめられて血を吸われるのも悪くないかもと思ってしまうほど、その姿は魅惑的で妖しく、そして美しかった。
「……綺麗」
馬鹿みたいに素直な感想が、私の口からこぼれ出る。
「本当に、そう思う?」
その質問に、私はかすかな怒りすら覚えた。
「それ以外に言い様がないよ……。他に、どう思えばいいの?」
「……分からない。どう思って欲しいのか、想像もつかないけど……」
その姿に見とれながらも、行動の真意が分からなくて戸惑う。
声色や仕草から、メイ自身もこれが果たして意味のある行為なのかどうか、確信を持てずにいることが伝わってきた。
それでも、彼女にはそうするだけの理由があって、迷いながらも私に見てほしいと言ったに違いない。
「……こんな姿、誰にも見せたことないよ。ヒロカが、初めて」
「……うん」
「お風呂に、一緒に入りたいって言ってたでしょ?だから、見たいと思ってくれてるのかなって」
「どうして、今急に?さっきお風呂はいる時は、逃げるみたいに行っちゃったのに」
メイが下唇を噛みしめる。
後悔を隠しているような、罰を受けているような表情だった。
「裸になる理由がお風呂じゃ、意味がないの。私が、私の意志でヒロカに見てもらわないと、ダメなの」
「それって、どういう……?」
疑問を投げかけながらも、答えることは拒まれるという予感があった。
メイが、私に言えないこと?……それはきっと、私のために言わないことだ。
メイはいつも、私のために私の知らないところで悩んだり走り回ったりしてくれている。
でも、もうそれに甘えているだけでは居たくない。
私は黙って立ち上がり、胸の前のボタンを一個一個外していくのももどかしく、上半身から引っこ抜くようにしてパジャマを脱いだ。
「ヒロカ?」
メイの言葉を無視して、ズボンも脱ぎ捨てる。
流石にパンツはかなり抵抗があったが、えいやと降ろしてしまった。
日常の中では精神的なロックが掛かっている行動を勢いでやりきって、頭の中は警報の嵐だった。
小学生のころ四十度五分の熱が出たときよりも顔が熱い。
いや、顔どころか首から膝のあたりまでが熱を持った傷のようにジンジンと火照っている。
条件反射的に体の前面を隠そうとする両手を、言い聞かせるようにしてゆっくり体の脇に戻す。
「…………分かんない」
首だけは、斜め下を見た状態に固定されてしまって動かせなかった。
「……なんか訳分かんないけど、メイだけ恥ずかしい思いするなんてやだ。だったら、私も一緒に恥ずかしいこと、したほうがいい」
我ながら変な理屈だし、結果出来上がったのはとても奇妙な風景だった。
でも、変というならもっとずっと前からだ。
私たち二人は生物学的に見ても普通とは言えない存在なんだから。
月が雲に隠れたのだろうか、室内に唯一届いていた光が消える。
仄見えるその白い輪郭に、私はふらふらと吸い寄せられていく。
闇にまぎれて一瞬でも大切な人を見失ってしまうことが怖い。
三メートルも離れていなかったはずなのに、二人の間に横たわる距離を妙に遠く感じた。
焦れて大きめの一歩を踏み出すと、メイの鎖骨の下辺りに、私の額が触れた。
抱きとめてくれる腕。
ただ服を着ていないというだけで、抱擁の感触と意味は今までと全く違うものだった。
他人の肌とは、こんなにも温かくて生々しいものなのか。
「……ごめん」
囁き声が私に許しを乞う。
意味がわからないと憤っていたはずの気持ちは、メイの体温に包まれるとあっという間に雲散霧消してしまった。
「なんで、謝るの?」
「……だって、おかしいじゃない」
「……いいんだよ」
メイの背中に手を回す。
髪の毛越しに触れる、綺麗なS字を描くメイの背骨の曲線。
「……良くない。こんなの、ムードも何もないじゃない」
「……そんなこと、気にしてくれてたの?」
黒い滝のような髪の毛の流れを遡上して、私の手はメイの頭に辿り着く。
「私は、メイがしたいようにしてくれるなら、それでいいんだよ」
伝えたい想いをちゃんと相手に届けたい。
この言葉は私の本心だと分かって欲しい。
抱きしめて、頭を撫でて、できるだけ穏やかな言葉で伝えて……他には何も手段はないだろうか。
「多分、最初はちょっと、おどいちゃったりもするけど……あのね」
意を決して、体を少し離して、メイの顔を見上げる。
切なそうに目を細めているその顔に笑顔を浮かべて欲しくて、両手で頬を包んだ。
言葉でも、体に触れることでもまだ足りないなら、行動で証明すればいい。
「私がどうしたいかなんて、無視していいよ。どんな扱いでもいい。お願い、メイ。私を、メイのものにして。今すぐ、そうして欲しい」
そう口にしながら、涙ぐんでしまった。
どうして私は四六時中メイの隣にいられないんだろう。
帰ってくる家があって、普通の家族がいて、通う学校があって。
ありがたいことだと思っているはずなのに、それが一番叶えたい願いの足かせになるなんて。
メイが一人ぼっちの夜に、この部屋にいた自分が許せない。
「だから、もう理由なんか聞かない。見てって言ってくれるなら、ずっとでも見てる。逆にメイが見せてって言うなら、いくらでもこうしてる。なんでもしていいし、なんでもしてあげる」
メイが自分自身の心の形を受け入れられなくて苦しむ姿を一番そばで見ていた。
なのに、どうしてもっと早く伝えなかったんだろう。
どんな形でも、受け入れたいと望んでいる私がここにいること。
それを証明してほしいとメイが言うなら、私は本当に何でも出来るということ。
歪に千切れた雲の隙間が、気まぐれにまた月光をこの部屋の中に届ける。
陶器のように白く滑らかな肌が、確かに私の目の前にある。
真っ暗闇の中で瞳孔が開かれたのか、その肌の下を走る血管まで見て取ることが出来た。
「もう、引き返せなくなるよ?」
最後の警告のつもりだったのかもしれない。
でももう、取り消すことなんて許さないとその目は言っていた。
そして私も、二言なんかあるはずもない。
「……はじめから、そんなつもりないよ」
「私だって、もう我慢なんかできないからね」
「我慢しないで……うぅん、我慢なんかしたら許さない。メイが求めてくれるなら、どんなことでもそれが私の幸せだから、全部くれなきゃやだ……。メイが満たされるまで、絶対やめないで」
力強く私を抱きすくめるメイの両腕。
私の自由を奪って、拒絶できないキス。
私は身じろぎ一つ出来ない甘い甘い拘束の中で、メイの舌が唇や歯茎をなぞる感触に酔い痴れる。
いつもより乱暴で欲張りなメイ。
その荒々しさを全て受け入れて、私は目を閉じた。
そのまま、私達は倒れ込むようにしてシーツの上に体を横たえた。
「……メイ……メイ……っ」
「…………ヒロカ……」
「胸に、痕……つけて。私が前にしたみたいに……真っ赤になるくらい、つよくして」
「……私のものって、印?」
「そう……。私は、メイのもの……」
「……ん」
「……ひ……ぁ……っぁ……ぁぁ……っ……!」
「……痛かった?」
「……は……ぁ……」
「ヒロカ?」
「……ないで……」
「え?」
「……やめないでよ……。もっとして……もっともっと、ちょうだい……。もっと痛くして。お願い……。……一生消えないの、欲しいよ……」
「……ヒロカ……!」
私達が狂った道を突き進んでいくほどに、部屋の時計の速度もどんどんおかしくなるようだった。
だって、次に時計を見た時には、もう目覚ましが鳴る一時間前だったのだから。




