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Whatever  作者: けいぞう
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54.メイ

 その後、エリカさんが買ってきてくれたイチゴショートと、ヒロカのお気に入りらしいチョコチップクッキーを三人で食べた。

 ヒロカがコーヒーをいれてくれてティーパーティー気分だったが、店番を任されているお父さんが少し可哀想だった。

 エリカさんが言うには、昨日も町内会の人達と飲みに行っていたらしく、今日は埋め合わせなのだそうだ。


 エリカさんが一緒にいてくれるうちに、私は逃げ込むようにお風呂に入らせてもらうことにした。

 視界の隅でヒロカが膨れていたが、見なかったふりをした。


 脱衣所。

 大きな鏡の下のアイボリーの洗面台と、節水アタッチメントのついた蛇口。

 三つのプラコップとそれぞれに刺さった青、赤、ピンクの歯ブラシ。

 シェービングフォーム、化粧水、乳液、整髪ジェル、ヘアワックス、リップクリーム、歯間ブラシ、T字カミソリ、化粧下地、眉ペンシル……。

 雑然としているようでなんとなく持ち主ごとの区画にまとめて置かれているそれらが、この家で生活している三人の縮図だった。

 典型的な核家族の風景の一部なのかもしれない。


 着替えとタオルを洗面台に準備して、服を脱いで浴室に入る。

 蛇口をひねり、シャワーが温かくなったのを確認してから頭から浴びる。

 部屋の角に置かれたスチールラックの上に複数あるシャンプーやボディソープの中で、ヒロカのものを使わせてもらう。

 ポップなデザインのポンプからシャンプーを手の平に取る。

 水を含んで重くなった髪になじませると、あっという間に泡だらけになった。

 ヒロカの髪と同じ匂い。

 続いて、桃の香りのするボディーソープ。

 両方の匂いが浴室内に充満すると、すぐ隣に彼女がいるのかと錯覚してしまう。


 ふと、スチールラックを見やる。

 ヒロカのシャンプーとボディーソープの隣に並ぶ海外製品らしいボトルは、きっとエリカさんのものだろうし、白、灰色、黒で三本並んでいるポンプがお父さんのものに違いない。

 前回泊まった時は気にもならなかったことがあれこれと意識の端に引っかかっていた。

 シャワーで全身を流して、湯船に浸かる。

 長風呂は苦手だが、ヒロカが毎日見ている景色を追いかけてみる意味で、一応寛いでいるポーズを取ってみた。

 ホテルのユニットバスよりは広いが、膝を伸ばせるほどではない。

 もしヒロカと一緒に入ったら、かなり密着することになるだろう。


 ――思考が脱線したのを自覚して、私は湯船から上がった。

 体を拭いて、寝間着のジャージに袖を通す。

 ……ヒロカと一緒に寝るんだったら、もう少し気の利いた服のほうが良かったのかもしれないが、これ以外に選択肢がないのだから致し方無い。

 監視していたかのようなタイミングで、ジャージを着終えた瞬間にノックが鳴る。

 返事をすると、ドライヤーとブラシを手に満面の笑みを浮かべたヒロカがいた。


「この前と同じでいい?」

「うーん、三つ編みはなしでいいや。乾かすのだけお願い」

「りょうかーい」


 洗面台の前に折り畳み椅子を広げて勧めてくれるヒロカ。

 私は美容院のお客さんになったような気分でそこに腰掛ける。

 私の周りをちょこちょこと動き回りながらドライヤーをかけてくれているヒロカの姿を、鏡ごしに眺める。

 面倒見が良くて子供が好きな彼女は、きっといい母親になれるだろう。


「……母親、か」

「え?なにか言った?」


 ドライヤーを止めて聞いてくるヒロカ。


「うぅん、何でもない。ヒロカに尽くしてもらえて幸せ、って思っただけ」

「……なぁに、急に。なんか今日、メイちょっと変」


 返答の内容とは裏腹に嬉しそうにもじもじしているヒロカ。

 それを愛しいと思ってしまうのは止められない。

 だから、私はもう遠慮なんかしないと決めた。

 一緒にいる時は必ずこうして丁寧に髪を乾かしてもらおう。

 手料理だって、これからもっともっと作ってもらうんだ。


「じゃあ、先に部屋に行ってるからね」

「うん、すぐ行くから、待ってて」


 ヒロカと入れ替わりで脱衣所から出る。

 意図せず小さなため息が出た。

 前回泊まった時の、胸が詰まるような感覚はない。

 しかし何故かやたらと家族や家庭に繋がる部分を視線が追ってしまう。

 羨望ではなく、興味の対象として捉えていた。


 私はお客さん用のスリッパの固さを感じながら茶の間に戻る。


「お風呂、いただきました。ありがとうございました」


 食卓の横でお茶を飲んでいたエリカさんが冷たい緑茶を勧めてくれたので、私ももう一度座布団の上に正座する。


 木の受け皿の上に乗ったガラス製の湯呑みを両手で持ち上げると、ロックアイスがバランスを崩して涼しげな音を立てる。

 唇を濡らすくらいだけ軽くいただいて、私はそれを受け皿に戻した。


「メイちゃん、足、楽にしてね?」

「ありがとうございます。でも大丈夫です」


 もう足が痺れたふりなんかしてごまかすことはない。

 私は背筋を伸ばしてエリカさんと真正面から向き合った。

 ちらりと私の表情を見やって、少し眉を上げるエリカさん。

 髪の色も肌の色も全く違うのに、鏡を前にしているような錯覚に囚われる。

 何故だか今日はいつもよりもそれを強く感じた。


「改めて、優勝おめでとう」


 湯呑みを掲げるエリカさん。

 私は少し照れながら、グラスを軽くぶつけて乾杯した。


「何だか大受けだったみたいじゃない?ヒロカ、今朝登校したら拍手で教室に迎えられたって言ってたよ」

「え、本当ですか?」

「ええ。大分株が上がったみたい」

「……あの時のヒロカ、カッコよかったですから」


 思い出すと、脳裏に浮かぶ映像がキラキラ輝いている気さえする。

 ゆるいパーマをかけた髪とスカートの裾を揺らしてリズムを刻む小柄な体。

 普段からは考えられないほどバイタリティに満ち溢れていて、心の底から演奏できる喜びを噛み締めているのが伝わってきた。

 無茶をしてまでギターを用意して、本当によかったと思う。


「ギターのことは、残念だったね……」

「……はい……」


 ヒロカがどこまで話しているのかは分からないが、あの赤いエレアコが壊されてしまったことは知っている様子だった。


「学校に、届け出たりはしたの?」

「……いえ、なんだかそんな雰囲気でもなくなってしまって。どうしようかと今も悩んではいるんですけど……ヒロカも、今は余韻に浸ってたいでしょうし」

「……そうよね」

「結局、ヒロカの意思に任せるべきなのかなって思ってます。でも、きっとヒロカは、このことを悔しいとか仕返しがしたいとかは考えていないと思うんです」

「……どうして?」


 訝しむように軽く身を乗り出してくるエリカさん。

 私は一呼吸置いて、グラスの結露を指で拭いながら答える。


「ギターを壊した目的は、単なる嫌がらせか、もしくは妨害だったんだと思います。でも、結局私たちはステージに立って、あれだけ楽しい時間を過ごせたんです。しかも優勝までして、ちょっとした噂にもなっちゃって……。これだけでもう、十分見返してやったことになると思うんです」

「……」

「もちろん、大切なものを壊されたんだから、弁済させたい気持ちはあります。でも、それ以上に、嫌がらせとかそういうものとは全く別の次元の意思表示ができたから、すごくいい気分なんです。なんていうか、今までと別の世界に来られたみたいな。だから、なんだか犯人を見つけるとか、そういう気にもならなくて」


 いつの間にか、私自身の思いを口にしていた。

 でもそれは、ヒロカの気持ちでもあると自信を持って言える。


 沈黙。

 遠く微かに、来店を知らせるアラームの音が聞こえた。

 エリカさんは頬杖をついて、考え込むように視線を湯呑みの周りに漂わせている。


「……あの子も、そう思ってると思う?」

「……はい。きっと」

「……」


 はっきりと答えるわたしの目を、何故か盗み見るように見て、エリカさんは小さく嘆息した。


「あの子ね」


 それまでとは全く違う話題を切り出すような改まった口調で話し出すエリカさん。


「小さい頃、お気に入りのものがあるとなんでもステッカーを貼る子だったの」

「そうなんですか?」

「うん。ステッカー貼ったものを勝手に触ったり、動かしたりするとすごく怒ってね。昔ペンケースを友達に壊された時なんかもう大泣きして、大変だったのよ」


 言われてみれば、部屋の机や冷蔵庫にもいくつか痕跡があった。

 というか、今もその名残はある。

 スマホのケースがシールだらけだった。


 犬と猫のシールを一緒に貼ろうと言った時に、あんなに嬉しそうだった理由も、合点がいった。


「だから、あのギターが誰かに壊されたって聞いた時、聞き間違いかと思ったの。なんでこの子、こんなにけろっとしてるんだろうって。メイちゃんが代わりを用意してくれたからって言ってたけど……。そういうことなのね」


 代用品が手に入ったからというだけじゃない。

 ステージに立っているあの時、私たちは、あらゆることから解放されていた。

 うまく言葉にできないけど、きっとそういうことだ。


「変なこと、言ってますかね?」

「……うぅん、変なんかじゃないよ。凄いことだと思う。ただ、もしヒロカも全く同じように感じてるとしたら……」


 湯呑みのお茶をがぶりと飲んで、息をつく。


「……少し、寂しいかなぁ。子離れしなきゃいけないんだろうけど、なんだか最近あの子、急に大人びてきちゃって」


 エリカさんの反応に、正直私は戸惑っていた。

 我が子の成長は親にとっては無条件で喜べる事柄だと思っていた。


 それはまるで、私が少し前まで抱いていた嫉妬の逆転のようだった。


「あれ、メイ、部屋にいってなかったの?」


 首にタオルをかけた寝間着姿のヒロカが、茶の間に入ってきた。


「ほら、行こ。お茶ならペットボトル持っていくから」

「え、ああ……うん」


 ヒロカの手に引き起こされ、そのまま茶の間を後にする。

 湯呑みを見つめたまま動かないエリカさんの横顔が、少しだけ心残りだった。


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