53.メイ
「いらっしゃーい!」
紺野書店のガラス扉を開くと、店の奥からヒロカが駆け出してきた。
店番をしているお父さんや数人のお客さんがいるのに、人目をはばからず私の胸に飛び込んでくる。
「お、おじゃまします。あれ?ヒロカ、エプロン?お店手伝ってたの?」
「うぅん、これはお料理用!」
言われてみれば、所々に小麦粉のような白い汚れがついていた。
紺色なのは苗字とかかっているのだろうか?
「料理?」
「いいからいいから、とにかく早く上がって」
手を引かれて中へ入る。
お父さんに会釈をすると、ごゆっくりー、と返事を返してくれた。
「いまね、お祝いの晩ごはん作ってるの。お母さんがケーキも買ってきてくれるから、楽しみにしてて」
跳ねるように階段を登っていくヒロカが、同じく跳ねるような声で言う。
良かった。とりあえず今のところ、彼女はC組の事件のことは聞いていないようだ。
「お祝い?もしかして、優勝の?」
「そ。昨日お母さんと、次にメイが来てくれる時にやろうって話してたの。ちなみに、夕食は私が作るからね」
「ああ、それでエプロン」
ヒロカに背中を押されて、見慣れた畳敷きの部屋の中へ。
二人きりになると、ヒロカはまたしても私の胸の中に飛び込んできた。
「お料理の途中なんだけど、ちょっとだけこうしたくて」
荷物を置かせる暇も与えない辺りがなんともヒロカらしい。
尻尾が生えてたら千切れんばかりに振っていることだろう。
私は左手でその頭を撫でてあげる。
「なんだか久しぶりな気がするよ……」
「そうだね、なんでだろ。丸一日くらい会ってないだけなのにね」
緩いパーマのかかったブルネットの髪を指に絡ませると、その軽い感触に気持ちが落ち着いていく。
慌ただしかった一日の疲れも、溶けて流れていく。
「バンドバトルの後急にいなくなっちゃうし、今日も学校来ないし、ちょっと寂しかったんだよ」
「ゴメン。ちょっと家の事情でね。明日からはちゃんと行くから。今夜は一緒に寝て、明日の朝は一緒に登校しようね」
「やった……」
心底嬉しそうに私の胸に頬ずりするヒロカ。
なんというか、失礼かもしれないけど、本当に犬みたいだった。
「よし。じゃあ、お料理頑張ってくるからね!ここでもう少し待っててね」
にっこり笑顔で私を見上げるヒロカ。
うん、と頷いて笑顔を返す。
台所へ向かうはずの彼女を、私の両手は素直に解放しなかった。
シンプルなデザインではあったが、エプロン姿が女の子らしくて可愛らしい。
料理が終わったらこのエプロンは外してしまうんだろうから、この姿は今だけだ。
そう思うと何だか惜しい。
私の腕に込もる力の意図を感じ取って、ヒロカが身じろぎする。
「ちょ、め、メイってば……どうしたの?メイも、寂しかったの?」
私の腕の中から脱出しようとしているはずなのに、本気で振り払うつもりはないらしい。
耳たぶと頬が少し赤らんでいるのが分かった。
エプロン姿をもっとじっくり見たいとは言えずに、ただじっとその様子を見つめる。
「……台所、一緒に来る?」
どこまで私の視線から本心を読み取ったのかは分からないが、その提案にとりあえず私は頷いて、ヒロカについていくことにした。
登ってきたばかりの階段を降りて、スタッフオンリーの看板の裏へと入っていく。
食事をごちそうになる時には茶の間までしか入ったことがなかった。
さらにその奥、すりガラスの格子戸をヒロカが開くと、狭いながらも小綺麗な台所が広がっていた。
年季の入った鍋やフライパン、お玉や泡立て機やフライ返しが壁に整然と吊るしてある。
赤い冷蔵庫に沢山のマグネットが張り付けてあって、メモ書きやレシピの切り抜きが挟み込まれているのが見えた。
「メイはここ。座っていい子にしててね」
赤い座布団を食卓の横に置いてポンポン叩く。
私は素直に従ってその上に正座した。
格子戸を開けっ放しにしておけば、台所で料理をするヒロカの後ろ姿を眺めていることができた。
手早く野菜を刻んだり、調味料を計量しながら鍋に入れたりと、なかなかテキパキしている。
シンクの上、天井近くにある棚から鍋を取り出す際、スツールの上でさらに背伸びする姿が危なっかしくも可愛いと思う。
母親が料理している後ろ姿というのは、私の記憶の中にはない。
近所のスーパーで買ってきた惣菜をレンジで温めているシーンなら覚えがある。
自分の好きな人が甲斐甲斐しく料理している姿と、自分の中の記憶が重ならないというのは、もしかしたら寂しいことなのかもしれない。私は食卓に頬杖をついた。
エプロン姿でコンロとまな板と冷蔵庫の前を行き来するヒロカ。
マグネットに吊るされたレシピのメモとしかめっ面でにらめっこしたり、小さじにサラダオイルを慎重に注いでみたりする仕草は、母性を感じるよりもとりあえず応援してあげたくなる。
「ごめんね、待たせちゃって。テレビでも見ててね」
そう声をかけられるが、生返事を返してぼんやり台所を眺め続ける。
どれくらいそうしていたか正確には覚えていないが、準備を終えたヒロカが茶の間にお皿を運んでくるまであっという間だったような気がした。
「お待たせー!」
手のひら大のサラダボウルが二つ。
見慣れない葉物が数種類、ふんわりと盛られて、トウモロコシの赤ちゃんみたいなのが添えられている。
私が感心しながらその器を眺めていると、ヒロカはさらにどんどんとお皿を運んでくる。
ビーフシチューは表面に生クリームで星型とハート型が描かれている。
一口大にカットされたフランスパンは焼きたてらしく、少し焦がしたバターのいい香りが漂ってきた。
それと、この……レンガ型のハンバーグようなものは?
「特に嫌いなものとかないよね?聞かないで作り始めちゃったけど」
取り皿と箸とスプーンを抱えるように持って運びながらヒロカが聞く。
「うん、多分大丈夫。食べたことのないものがいくつかあるけど……」
「え?どれ?チコリ?クレソン?」
名前を挙げられてもどれを指しているのかがまず分からない。
私は曖昧な笑みを浮かべた。
「ヒロカが作ってくれたんだから、なんでも食べるよ」
「無理はしないでね?嫌なものあったら、次から出さないようにするから」
言いながら、レンガハンバーグにナイフを入れるヒロカ。
なんと断面にはゆで卵やインゲンやニンジンが見えた。
これを食べたことがないというのは恥ずかしいことだろうか……。
とりあえず黙っておこう。
グラスにお茶を用意して、二人で向かい合って着席する。
「ではでは」
グラスを持ち上げるヒロカの真似をする。
ちん、と小さな音を立てて乾杯して、私たちは二人で照れ笑いを浮かべた。
お互い、あまりお祝いとかで畏まるのは得意ではないらしい。
「いただきます」
私が手を合わせて言うと、ヒロカも向かいで同じ動作をする。
スプーンでビーフシチューを掬い上げて、口に運ぶ。
とろっとした口当たりから、舌の上にゆっくり広がっていく濃厚で優しい旨味。
ワインの微かな香りが奥ゆかしくも華やかだ。
「……おいしい」
「でしょー?今日はうまく出来たと思うんだ」
大きめにカットされた人参やじゃがいもは、スプーンで簡単に切れるほど柔らかいのに煮崩れてはいない。
主役の牛肉は軽く噛んだだけで肉汁を溢れさせながら細かな繊維にほぐれていく。
詳しくは分からないが、火の通し方にかなり気を使った違いない。
「家にいるとお母さんが和食しか出してくれないから、洋風なものが食べたくて勉強したんだ。他にもね、オムライスとビーフストロガノフとキッシュと、ポトフならちょっと自信あるんだ」
――オムライスしかイメージできなかった。
途中でロシアの体操選手の名前が紛れ込んでいても気づけなかっただろう。
「今度、オムライスも作ってくれる?」
「もちろん。ケチャップで名前書いたげる」
きっと大きなハートマークも付いてくるだろう。
名前が二文字で良かったかもしれない。
ヒロカが取り分けてくれたレンガ型ハンバークを一口試してみる。
ふと、脳裏に記憶の中の風景と幾つかのキーワードがちらつくのを感じた。
「……」
「メイ?……どうかした?」
「……これ、ミートローフ」
「え?うん。嫌いだった?」
食べたことがある。
こんなに綺麗な形じゃなくて、周りの挽肉が焦げて剥がれ落ちたりしていたけど、初めて食べた時は感激するほど美味しいと感じた。
ソースとケチャップを混ぜてかけて、中のゆでたまごだけ繰り抜いて食べたりした。確かに覚えている。
とても幸せな記憶だった。
お父さんと、お母さんと、トマスがいて、小さな食卓を囲んでいた。
特別なときにしか飲ませてもらえないぶどうのジュースを、大事に少しずつ飲んでいた。
『今日は誕生日だからね』
母の言葉が蘇る。
モザイクがかかっていたその顔が少しだけ鮮明になった気がした。
私は上機嫌で、テーブルに並ぶご馳走を堪能していた。
今にして思えば、コーンスープは粉を熱湯で溶いたものだったし、ご飯はインスタントのものをレンジで温めて、プラスチック容器のまま出されていた。
でもミートローフだけは、母が自分の手で作ってくれた。
普段包丁を握ることも滅多に無かったのに、私の誕生日だけは特別だからと、数少ないレパートリーの中から子供の私が喜びそうなメニューを用意してくれた。
私の両親の記憶は、二度と思い出したくないようなシーンとして脳裏に焼き付いている。
その強烈な印象に蓋をされていた記憶が、味覚から掘り返された。
もしかしたら今日父と母について話したことも影響しているのかも知れない。
「……メイ?」
「……ねえ、ヒロカ?この、ミートローフって、作ってる時どんなこと考えてた?」
「え?作ってる時……?」
スプーンを口元に当てたまま、記憶を呼び戻すように視線を上に向けるヒロカ。
「メイに食べてもらうんだから、分量をしっかり間違えないように計って入れて、おいしくなれー!ってお肉をこねて……あと、中が生焼けになるとお腹壊しちゃうから、しっかり焼かなきゃって、そんな感じかな?」
「作るのって、大変なの?」
「うーん、中に入れる具とかを凝ろうと思うと気を使うかな。下ごしらえして、断面が綺麗になるように挽肉の中に配置して、焼き上がりが綺麗になるようにお肉の中の空気を抜いたり、形を整えたりして」
「……」
大雑把で面倒くさがりだった母が、そんな料理を作ってくれた。
私の誕生日を、特別な日と考えてくれていた。
そのたったひとつの事実だけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
小さいころのことなので、成長するに従って私への想いは変わっていってしまったのかもしれない。
それでも、一度でもそんな風に誕生日を祝ってあげた我が子を見捨てるというのは、どんな心境だろう。
もし父の言うとおり私の性格が母ゆずりだと言うのなら、きっと断腸の思いだったのではないだろうか。
「ごめんね、ヒロカ。凄く美味しいよ。でもなんかこれ食べたら、昔のこと思い出しちゃって」
「……どんなことか、聞いちゃっても平気なこと?」
「うん、後で、ゆっくり聞いてくれる?」
「分かった。無理、しないでね」
「でさ、ヒロカ」
「ん?」
「キコリとクレヨンって、どれ?」
「……?」




