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Whatever  作者: けいぞう
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52.メイ

 翌朝、私は先生の指示通り生徒指導室に「出頭」した。


 バンドバトルが終わった後、すぐにホテルに戻ってお金を手に学校に舞い戻った。

 バンドバトル会場の片付けをしている高橋くんにはすぐに借りたお金を返すことができた。

 しかし、教室ではすでに事態は発覚しており、金庫の管理担当だった前原さんがクラスメイトに厳しい追及を受けた後だった。

 前原さんは横領の濡れ衣を着せられたショックで文化祭を早退してしまったらしい。

 私は罪悪感に苛まれながら、とりあえず担任の先生に報告した。

 金庫の蓋が開いていることに気づいて出来心でお金をくすね、数時間後に良心の呵責に耐え切れずにお金を返そうと思ったと説明すると、武井先生は七三頭を掻きながら、なんとも形容しがたい表情をした。

 彼の目には、私はそういうことをするような生徒だとは写っていなかったらしい。

 しかし、前原さんの状況のこともあって問題にしない訳にはいかず、すぐにフォローの対応に取り掛かった。

 その後どういったルートで話が行ったのかは不明だが、私は今生徒指導室の丸椅子に腰掛けて本間と相対している。

 文化祭の後片付けで校内がドタバタしていたこともあって、翌日改めて話を聞くと言われて来てみれば、待ち構えていたのは彼だった。きっと昨日の夜からこの時間が楽しみで仕方なかったのだろう、本間の目はサディスティックな光で爛々と輝いていた。

 生徒指導室は普通の教室を横に真っ二つに切ったような横長の空間で、簡素な木製のテーブルとそれを取り囲む丸椅子が六つ、空いたスペースには仮置きのまま放置されているらしいダンボールが山のように積まれている。

 要するに殺風景だった。私は座り心地の悪い丸椅子に腰掛けて、本間の「尋問」に対応していた。


「で、教室に戻ったのが、何時?」

「さっきも言いましたが、十二時十分ごろだったと思います」

「金庫の蓋が空いていることに気づいたのは何時?」

「……十二時十分ごろです」

「金庫からお金を取ったのは?」

「…………」

「答えなさい」

「……十二時十一分ごろではないでしょうか」


 この時系列での説明がすでに三セット目、昨日職員室で武井先生に説明したのを含めれば四セット目だった。

 多分、あまり分かりやすい制裁や叱責を課すと問題にされかねないので、何度も意味のない質問に回答させることで罰を与えるという趣向なのではないだろうか。

 そうとでも理解しないと繰り返し同じことを聞かれる理由が説明できない。

 そして、もし前回の説明と少しでも矛盾するような回答をしてしまった場合には、また最初から質問のやり直しになるのだった。


 なんとも不毛な時間だった。

 犯行動機についてはぐらかしたままなので、尋問が長引くのは自業自得な面もあるが、本間のやり方は超がつくほどの粘着質でうんざりした。

 「お金を取った」という箇所を必要以上に強調して発音してきたり、犯行後の私の心情を勝手に想像して一人芝居を打ってみたりと、とにかくこちらのストレスになるような振る舞いの徹底に余念がない。

 私としてもステージの上であんな挑発的な態度を取ってしまった手前、ここで変にしおらしくなる訳にもいかず、仏頂面を貫いていた。


 窓の外は、皮肉なほどの快晴だった。

 山と積まれたダンボールに遮られてあまり光が入ってこないが、新山公園あたりをぶらついたらさぞいい気分だろう。

 ヒロカと一緒にピクニックなんかに出かけられたら……。

 ヒロカ。今どうしているだろう。

 一応心配をかけないように、今日は事情があって遅刻か全休するとだけメールは打っておいた。

 出来れば、この揉め事のことは知らないまま、大成功の余韻に少しでも長く浸っていて欲しいと思う。難しい願いだとは思うが。


 昨日のことを思い出す。

 人生最高の体験だったと思う。

 申し訳ないけど、歌ってる最中はくすねたお金のことなんてすっかり忘れてしまっていた。

 あれだけの思い出ができたんだ。

 過去の不遇の埋め合わせを済ませてもお釣りを払わなきゃいけないくらいだから、本間の説教くらいは我慢してやるとしよう。


 本間がぶつぶつと長広舌をふるい始めたので、私はこれからの方針を脳内で検討し始めた。

 後回しにしていた問題はお金のことだけではない。

 さて、これから、私はどうしていくべきだろうか。

 一つの目標を達成した直後だからだろうか、悩ましい状況は文化祭前と何も変わっていないはずなのに、私の思考はクリアだった。

 要するに私がやるべきことは、ヒロカのために全力を尽くすということだ。


「もう一度聞くぞ。冴木。君はどうしてその金庫からお金を取ったんだ?」


 未来のビジョンを朧気にも描けない内に、また本間の質問責めが始まってしまった。

 何故お金が欲しかったか。

 本当の正解はギターを買うため、だったが、ヒロカに少しでもこの話の火の粉を飛ばすわけには行かない。

 私は前回の回答と内容が矛盾しないように、「単純に、お小遣いが足りなかったので」と答えた。


「んーーーー、なんだろうな。私の気のせい、なのかなぁ?」

「……」


 また一人芝居が始まった。

 内心げんなりしながらも、無表情を崩さずにいることに集中した。


「冴木。何か悩んでいることがあるなら言ってくれていいんだぞ?先生達だってお前が根っからの悪人だなんて思ってない。何か、そうしたくなるような出来事があったんじゃないかと思うんだ」


 つまり、教師側が納得できるようなシナリオを語って聞かせないかぎり、この質問は延々と繰り返されることになる。

 流石に少し疲れてきた。


「……ご両親にお知らせするしかないかなぁ」


 両親、ね。指導する相手の家族構成などの情報は共有されていないんだろうか。

 それとも、知った上でわざと両親と言ったのか?この男ならやりかねない。


「私には、父しか居ません。父も仕事中なので、多分捕まらないと思います」

「……ああ、これは悪いことを言った」


 確信。

 こいつは私の家族構成を知った上で両親と言ったのだ。


「誤解しないで聞いて欲しいんだが、やはり特殊な家庭環境の中では、子供の心にはストレスが溜まりやすい。今回のこと、冴木本人は自覚していなくても、そういう要因がなんらかの影響を与えていたのかもしれないなぁ」

「……そうかもしれませんね」


 言っている内容自体には手放しで同意だ。

 確かに自分でも驚くほど、私の中には鬱屈した思いが募っていた。

 ただそれが今回の犯行の引き金だったかというと、それはむしろ逆だ。

 私は泥沼のような現状から抜け出すチャンスを見つけて、それを掴むために行動したまでだ。

 

 ただ、そのエゴのために前原さんやクラスの皆には、迷惑をかけてしまった。

 その点は落とし前をつけなくてはいけない。


「私がお金を取ったのは事実で、それはストレスとか何とか色々あった上での出来心で、反省しています。今はとにかく、迷惑をかけてしまった前原さんやクラスの皆に謝りたいです。必要なら、他のクラスの全生徒にでも。処分なら、停学でも退学でも何でも好きにして下さい」

「…………」


 こちらの心中を透かして見ようとするような眼鏡越しの視線。

 罪を認め弁済をし、謝罪をした上で罰を受ければ即座に全てが許されるとは言わないが、こんな場所で無意味な堂々巡りのやりとりを強いられる必要はなくなるだろう。

 だが、本間の目にはそんな道理とは全く別次元の意図が見え隠れしていた。


「……私たちはね、生徒たちが間違いを犯した時には、もう同じ間違いを繰り返さないように指導する責務があるんだよ」


 このセリフも、実に四回めだった。

 私は漏れ出るため息を隠せなかった。

 その責務は、卒業という判子を求めて来ているお客としての生徒に対して負えばいいもので、この学校にいることに執着しない人間に対しては何の意味もない。

 言い換えれば要するに、自分がスッキリするまで尋問の時間は終わらないということなのだろう。

 私がこんな態度でいるうちは、丸一日でもこんな不毛なやりとりを続けるつもりのようだ。


 いいだろう。

 臨時学年集会の時から本間とは妙な因縁だ。

 そちらが女の腐ったのみたいに過去のことを根に持ってネチネチ言ってくるなら、私は不屈の男らしさでもって受けて立ってやる。


 徹底抗戦を覚悟して椅子に座り直した時、生徒指導室の扉がノックされた。


「……どうぞ」


 忌々しげに答える本間の声を待ってから、引き戸が開く。

 そこにいたのは、濃紺色のスーツ姿のひょろりとした長身。


「失礼します」

「……お父さん」


 呆気にとられる。

 まさかこんなに早い時間に来るなんて。

 転校の手続きの時でさえ仕事を理由に顔を見せなかったのに。

 目を丸くする私を尻目に、父は早足で本間の前に歩み寄ると、ほぼ直角に腰を曲げて頭を下げた。


「この度は、娘が大変なご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません」


 滑舌よく、謝罪の言葉を口にした。

 いつものくたびれた仕草からは想像もつかない、きびきびとした振る舞いだった。


「あ、ええ、わざわざご足労いただいて……どうぞ、お掛け下さい」

「すみません、失礼致します」


 私の隣の丸椅子に腰掛けると、父は四角いメガネを外し、額に浮いた汗をハンカチで拭った。

 いくら快晴とはいえ十一月の気温だ。

 全力疾走でもしなければこうはならないだろう。

 まさか、麻生駅から走ってきたのだろうか。


「大体の事情は、お電話で武井先生がご説明さしあげている通りでして……先程まで芽衣さんに事の顛末を伺っていました」

「はい。お忙しい中ご面倒をおかけしまして、申し訳ございません」


 もう一度頭を下げる父。

 平謝りしているのに、挙動がハキハキしているせいか卑屈な印象はない。

 それどころか、本間が軽くたじろぐような、妙な迫力のようなものさえ漂わせている。


「私どもが気になっているのはですね、芽衣さん本人があまり、その……反省というか、そういった素振りが見せていないことでして……」


 挨拶もそこそこに、本間は本題に入った。

 表現は婉曲だが、順序としては随分直球な持って行き方だ。

 大人な表現のオブラートに隠し切れないほど私の態度が酷かったことを伝えて、この真面目そうな父から叱責の怒声が娘に落とされることを期待しているのだろう。


「無理からぬ事かもしれません」

「……はい?」


 その返答が意外だったのか、本間が眼鏡を上げ下げする。

 私も横目で驚きの視線を送る。


「今回の娘の所業は、全て私に責任があります。大変お恥ずかしいことなのですが、男やもめの片親で、この子にはいつも不自由な思いをさせております。小遣いもろくに渡せておりません。逃げた家内の連れ子なこともありまして、正直、どう接して良いのかも分かっておりません」

「……あの……」


 真顔でつらつらと、口調だけ丁寧に、しかしどこかとらえどころのない説明を始める父。

 何故か少し口調が時代劇めいている。

 しかも、さらっと嘘まで吐いていた。


「中学時代から転校続きでして、今いる環境に愛着を持つという機会も与えられませんでした。どうせ長くいる場所でないなら、という思いで、今回のような無作法を働いたのかもしれません。だとしても、私にはこの子を到底責めることはできません。全ては、この子に真っ当に育つ環境を与えられなかった私の不徳の致すところです」


 同世代の男性保護者にこんな自虐的な告白をされて、教師としてはどう反応するのが正解なのだろうか。

 私には到底想像がつかない。

 それは本間も同じらしく、眉間に深いシワを刻んだ間抜けな顔で黙り込んでいる。

 親本人が自分が悪いと断定してしまっているのに、是とも否とも言い様がないだろう。


「ご迷惑をお掛けした同級生の方のお宅には、すぐにでもお詫びに上がります。また、今後はせめて、短い時間でも娘と話す機会を捻出できるように努めて参りますので……では」


 勝手に話をまとめて丸椅子から立ち上がり、私についてくるよう促す父。


「えー、お父様、どちらへ?」


 一方的に話を打ち切って出ていこうとしている相手を、信じられないという顔で本間が呼び止める。


「ご迷惑をお掛けした同級生の方のお宅に。もう武井先生に連絡先を伺って昼頃にアポを取ってありますので、これから伺おうかと。あ、先生、すみません、私ここらは不案内なもので、もしご存知でしたら……手土産に誂向きの菓子折を置いているお店をご教示賜りたいのですが……」

「……」


 これはもう、慇懃無礼と取られても文句は言えない。

 しかし父は自分の言動に何一つ疑問に思うことなどないという厚顔さをちらつかせつつ、更に早口でまくし立てながら机を離れる。


「ご存じないですか?不躾な質問で、大変失礼いたしました。私どもで探して回ります。さ、芽衣。急ごう」


 私は父に背中を押され、そのまま生徒会室の外へ連れ出された。

 後ろ手にピシャリとドアを閉めて、スリッパの踵を鳴らしながらどんどんと歩いて行く背中を、戸惑いながら追いかけることにした。


「……なんとか、切り抜けられたかな?」


 父はちらちらと生徒指導質のドアを振り返りながら、不安げに呟く。


「変なことを、口走ってなかったかな?あー、もう、早く外に出よう。芽衣、靴を履き替えておいで。校門のところで待っているから、できるだけ早く出てきてくれ」

「う、うん、分かった」


 職員室の前で父を一旦別れる。

 父は二階の来賓用出入り口から外に出て行き、私は一階の生徒用昇降口で下足に履き替えて校門を目指す。

 何故か小走りな父の背中に追いついて隣に並ぶ。

 運動不足が祟っているのか、何とも不格好なフォームだが、意外にも足の運びは力強く素早かった。


「はぁ、はぁ、っあー、すまん、芽衣。少し、そこで一休みさせてくれ」


 父が指差す先は、隣接している市営図書館の脇のベンチ。

 今まで見たことのない父の一面を続けざまに目の当たりにした私は、当惑しつつもただ黙って従った。

 息の整わない父が汗だくの顔をハンカチで拭いながら、ポケットから五百円玉を取り出して私に押し付け、レンガ造りの図書館の脇にある自販機を指差す。

 飲み物を買って来いということか。


「……お茶でいい?」


 コクコクと頷く父。

 私は自販機に駆け寄って五百ミリリットルのお茶を二本買い、スーツの上着を脱ぎ眼鏡を外してベンチにへたり込んでいる父のもとへ駆けて戻った。


「あぁ、ありがとうありがとう」


 その間に少しは落ち着いたらしい。

 受け取ったお茶を額に当てて深い溜息を付く。

 私は近すぎず遠すぎない隣に腰掛けて、のどが渇いているわけでもないがお茶の蓋を開けた。


「あぁ、緊張した。もういい歳になったから大丈夫かと思ったけど、やっぱり嫌いなものは嫌いだな」

「……嫌いって、何が?」


 お茶を一口呷ってから、尋ねる。

 無関心を装ってはいたが、父の変貌の理由はかなり気になっていた。


「……それこそ恥ずかしい話なんだけどね、学校と、先生さ」


 父もお茶を開封してぐびぐびと飲む。

 一仕事終えた後の一杯といった風情で、深い溜息を吐き出す。


「私は学生の頃、もやしっこな上に勉強もできなくてね。クラスではガキ大将にいじめられていたし、先生にもよくいびられたんだ。卒業して就職してからも、学校のそばを通ると少し気分が悪くなるくらいのトラウマでね」

「……意外。ガリ勉な人だったのかと思ってた」


 素直な感想を漏らしてしまったが、改めて考えてみるとそれは、洒落っ気のないスーツ姿や分厚い眼鏡から私が想像した極めて勝手なイメージだった。


「よく言われたよ。でも実のところは未だにこんな体たらくでね。だからもう、携帯に電話が入った時はどうしようかと真っ青になったよ」


 言って、父は乾いた笑いを浮かべる。


「……ごめんなさい。お仕事の邪魔になるようなことして」


 俯いて謝ると、父は意外そうな顔で私を見た。


「何だ。私にあてつけてやったんじゃなかったのか?」

「え?あてつけって……違う違う!」


 否定しながらも、確かにこのタイミングで娘が問題を起こしたら、親としてはそう思うだろうとも納得していた。


「じゃあ、どうしてこんなことを?本当にお金に困ってた訳じゃないだろう?」

「……」


 父だから話す気になった訳じゃない。

 本当のことを言えずにいることに少し疲れていたのかもしれない。

 私は文化祭での出来事をかいつまんで説明した。

 父は私が音楽に興味を持っていたことや、友達とバンドのイベントに出場したことに小さく驚くような素振りを見せながら私の話を聞いていた。


「そうか……」


 飲み干したお茶のペットボトルを傍らに置いて、父は両膝の上に肘を乗せて手を組んだ。

 意外にも、私の話を疑ったり、私の無茶を咎めたりはしなかった。


「……この前、ここから離れたくないと言った理由は、それなんだね」

「……うん」


 今にして思えば、理由も話さずあんな猛反発をしてしまったのはまずかった。

 そう思える今の自分の心境で、あの時よりも少し余裕が生まれていることを自覚した。


「そうか……。まさかこんな短時間で、お前にそんなに大切な友達が出来るなんて……想像もしてなかったな」


 少し前の私だったら、きっと父と同じように考えていただろう。

 この町で運命的な出会いをするまでは。


「でも、考えてみれば当たり前のことだな。年頃の女の子が友達を作って仲良くなるのに、一週間もいらないもんな」


 ……多分、と語尾に自信なさげに付け加えるのが少し可笑しかった。

 昼間の陽光の下で話す父は、いつもより少し饒舌で気さくな人に思えた。


「……すまなかった。今までの引っ越しと同じように何も言わずついてきてくれるだろうとばかり思っていて……。やっと冬実を見つけたこともあって、私も浮き足立っていたんだ」

「……」

「……この際だから白状するとね、冬実は、私の初恋の人だったんだ」

「え?」


 父の口から飛び出した意外な言葉に、驚いて顔を上げる。


「高校の時の同級生でね。私の一方的な憧れだったんだが……。卒業して十数年後に、私の職場にパートとして雇われてきたんだ。バツイチで娘が一人いるなんて聞いて驚いたが、私には彼女の姿が高校時代とまるで変わっていないように見えた」


 照れくさそうに語る父の横顔は、眩しく懐かしい過去を愛でるような、複雑な笑顔を浮かべていた。


「当時彼女は男子生徒達の憧れの的だった。私を無視したりいじめたりしていた連中も、彼女の気を引こうと躍起になっていた。だから彼女と再会できた時、自分の惨めな過去を精算するチャンスが来たと思った。仕事を教える一方で形振り構わず彼女に言い寄った。彼女の生活が苦しいと知って、自分の少ない稼ぎから援助したりもした。甲斐あって交際を始めて、入籍まで漕ぎ着けたが、あとは芽衣も知っての通りさ」


 父と暮らし始めて数ヶ月、私が彼を「お父さん」と呼べるようになるのを見届けることなく、母は蒸発した。


「あの時、私がもっとしっかりしていれば、彼女は出て行くことはなかったのかもしれない」

「それは……違うよ」


 自罰的な言葉を漏らす父に、私は当時を振り返って答える。


 当時十一歳だった私は、突然家にやってきた男性の存在に完全に震え上がっていた。

 あの時は、学校で隣の席に座る男子生徒すら恐ろしいと感じていたかもしれない。

 私は母の陰に隠れるようにして毎日を過ごし、母に甘え、依存を強めていった。

 学校も休みがちになり、どこに行くにもついて回って、母は自分の時間というものを持つ間もない時期が続いた。

 少しでも邪険にすれば大泣きして縋り付き、安心するまで梃子でもそばを離れない。

 女手一つで私を育てることに疲れて再婚という選択肢を選んだ結果がそれでは、嫌にもなるだろう。


「あの人が出て行ったのは、私のせいだよ」


 父がどれだけ努力していたとしても、私という存在があった以上、結果は変えられなかったはずだ。


「……お互い、自分のせいだと思っているわけだな。私たちは」


 ははは、と乾いた笑いを漏らす父。


「私は、一から子供を育てた経験があるわけじゃないし、普通なら親という立場にすらなれなかったかもしれない人間だからね、偉そうには言えないけど……改めて冷静に考えれば分かることだった」


 そこで初めて、父は私の方を向いて、私の目を見た。


「子供が、親の行動に対して責任を感じる道理なんてない。実の親か義理かに関わらず、子供にそんな思いをさせる人間は親失格だ。連れ子だからとかそんなのも、言い訳にはならない。そういう意味で私と冬実は、お前に何と言われても言い返す権利はない」


 徐々に尻窄まりに声が小さくなっていく声。

 懺悔のような独白だった。


「私は自分の歪んだ恋慕の気持ちを成就させるために彼女に言い寄り、彼女は子育ての重圧から逃げるという動機で私と一緒になった。破綻するのは当たり前だよ。ただでさえ追い詰められていたお前を、癒やすどころか余計に苦しめる結果をもたらしてしまった」


 その言葉には、ただただ純粋な自責の念以外の感情は篭っていないように思えた。

 その言葉だけでなく、学校を出てからはずっと、飾らない本心で話してくれていると感じていた。


「その上、私はまた同じ過ちを繰り返そうとしていたんだ。年甲斐もなく色恋に浮かれて娘を蔑ろにするなんて、恥ずかしいことだよ。本当にすまなかった」

「……」


 どの言葉も本心からのもの。

 それは間違いない。

 だが、彼自信が歪んでいると自嘲した母へ想いもまた、嘘のない気持ちであることが痛いほど分かった。


 人を好きという気持ち。

 一ヶ月前の私には想像もできなかった、神聖なものと信じて疑わない感情。

 でももしかしたらこの気持ちを貫こうとする過程で、誰かの同じような思いを挫く結果を生むこともあるのかもしれない。

 私の存在を理由に失恋した高橋くんや、私のために母への想いを諦めようとしている父のように。

 誰かを好きになる気持ちと、意図せず誰かを不幸にする結果は、意外なほど近くに存在している。


 私の実の父は、私に歪んだ愛情を向けた。

 彼を愛していた母は、その想いの大きさの分だけ苦しんだだろう。

 私を憎んだこともあったかもしれない。

 目の前にいるこの人も、母を好きだった分、彼女に裏切られた後に残された私に対する感情は複雑なものだったに違いない。


 今まで私は自分が置かれた境遇を、人の悪意を凝縮した呪いの産物のように思っていた。

 しかし案外、人を好きになる抗いがたい気持ちの掛け違いがそれを生み出していたのかもしれない。


「家のことは、また改めて話しあおう。引っ越しも、お母さんとのことも、ちゃんとお前と話し合って決めることにするよ」

「……お父さん」

「……そう呼ばれるのは、今は少し罪悪感があるな」


 眼鏡をかけなおして、父は少しばつが悪そうに笑った。


「でも、これから少しずつ挽回するからな。まずは、娘のしでかしたことの後始末からだ」


 よいしょと声を上げながら立ち上がる父。

 私もそれに倣った。


 ――傍から見て、私たちは親子に見えるだろうか?

 少なくとも、昨日までよりは少しだけその域に近づいたように思う。

 正面切って話し合ったのも今日が初めてなのだから、まだまだ先は長いだろうが。


「……すぐそばに、美味しい和菓子のお店があるよ。友達が、教えてくれたの」

「そうか。見に行ってみよう」


 私たちはぎこちなく歩調を合わせながら、大通りに向けて歩き出した。



 前原さんの家は川沿いの高級マンションの一室で、玄関にたどり着くまでに二度も室内からゲートを開けてもらう必要があった。

 やたら豪華なリビングの革張りのソファーを勧められて、謝罪に来た立場としては複雑な気分だった。

 私とお父さん、前原さんとそのお母さんがガラスのコーヒーテーブルを挟んで相対する。

 こちらが謝罪の言葉を口にする前から、前原さんのお母さんは逆に恐縮した様子で、「疑われるようなうちの娘が悪いんです」と冗談を飛ばしていた。

 隣りにいた前原さん本人は憮然としていたが、ショックに打ちひしがれているというよりは、少し拗ねているだけという雰囲気だった。

 私から直接陳謝の言葉を聞くと、私がそうせざるを得なかった経緯の方に興味を惹かれたらしく、ギターのことを答えざるを得なかった。


「なぁんだ。じゃあクラスの誰かに事情説明してからお金持っていけばよかったのに」


 などと、最もな正論を言われてしまった。

 ともあれ、許してもらえたようで一安心した。

 手土産の芋ようかんを置いて、私たちは最後に二人でもう一度頭を下げ、早めに御暇することにした。


「いい人達で良かった」


 市内を東南東に向けて流れる渡瀬川の堤防を歩く帰り道、心底ほっとしたように、父は繰り返していた。

 私も全くの同感だったので、その度にそうだね、と相槌を打った。

 快晴の空と、長く長く続いていく砂利道。

 平日のこんな時間に、しかも父親とこんな所にいるのは何とも不思議な気分だった。


「芽衣、今からでも学校に戻るか?真っすぐ行けば、午後の授業には間に合うんじゃないか?」


 時刻は十二時二十分。

 予想していたよりも早い時間だった。


「うーん、どうしようかな。今日本間先生と鉢合わせると、また生徒指導室に連れて行かれちゃうかも」

「……あの先生か」


 父が嫌なことを思い出したと言いたげな顔で身震いする。


「私の時代にもいたよ。ああいうタイプの先生。今になっても苦手だ」

「本当?なんか上手くあしらってたように見えたけど」

「……有無を言わせず謝って切り抜けるのは、私の得意技なんだ。仕事も概ねこれで乗り切ってる」


 どこまで本当か分からないが、意外にユーモラスな発言だった。


「……そうか。なら、私も今日は戻らなくていいかな」


 大きく伸びをする父。


「いいの?お仕事、忙しいんじゃないの?」

「んー、まあ、な」


 父と母と私、三人でも余裕を持って生活していけるようになるという目標のために、父は無我夢中になって働いていたらしい。

 仮に私が母と暮らすことや、本社のそばに引っ越すことを拒否したとしたら、今までほど必死になって働く必要はなくなるんだろうか?

 私の選択が、今までの努力を水の泡にしてしまう可能性も、あるのだろうか?

 目標、努力、達成……私とヒロカの経験と重ね合わせるなら、父は達成の部分だけを私に奪い取られたことになる。


「子供が親のことなんか、気にするな」


 私の表情をちらりと見た父が、苦笑しながら言う。

 不器用なその笑顔が、私を不安にさせた。


「ねえ、お父さん」

「ん?」

「……私さ……私が、どうしてたら、お父さんは嬉しい?」


 言葉を選ぶのが難しい。

 どうしたら幸せになれるか、では恩着せがましいし、どうしたら楽になれるか、では自分がただの重荷だと認めてしまうことになる。

 私はこの人に、人並みの楽しみや張りあいのある生活を送って欲しくて、自分がそれを阻害する枷にならないようにしたいだけなのに。

 言葉でしか気持ちを伝えられないことがもどかしい。


「だから、何度も言っているだろう?私のことなんて……」

「うぅん、そんなの、嫌だよ」


 私は語気を強めて、父の言葉を遮った。

 いつの間にか足が止まっていた。

 ランニングや犬の散歩をする、いつもと何も変わらない平凡な日常を送る人達が、立ち止まる私達を追い抜いていく。


「本当は、いつもお礼を言いたかったの。夜遅くまで働いて、朝は私よりずっと早くに出かけて行って。そんな生活までして何で血も繋がってない私の面倒みてくれるんだろうって、申し訳なくて……」

「芽衣」

「私、引っ越し続きだったけど、住むところも食べるものも、お小遣いだって困ったことなかった。なのに、この前はあんな酷いこと言っちゃって……」

「なぁ、芽衣?」


 渡瀬川の土手に向けて視線を投げながら、父は堤防の斜面に移動して、そこに腰掛けた。


「お前は気づいていないかもしれないけど、今お前が自分を責めているのは、お前が優しいからだよ」

「……そんなことない」

「そんなことあるさ。全部を知ってるわけじゃないけど、お前が今まで経験してきた事柄は、非行に走ったり自暴自棄になったりしてもおかしくないものだと思う。でもお前は、そうなるどころか自分が悪かったんじゃないかと疑ってる。お前は自分を歪んでると言ったけど、本当にそうだったらそんな風に自分を責めたりなんかしないし、離れがたいと思う友達なんて作れるもんじゃない」

「……」

「その性格はね、きっとお母さんに似たんだと、私は思うよ」


 父は、ポケットからハンカチを取り出して、自分の隣に敷いた。

 私は少し躊躇いながらも、その上に腰を下ろした。

 目の前には河川敷広場とサッカーコートが広がっていた。

 対岸の堤防の上には、古ぼけて色あせた町並みと、葉が落ちた茶色の山肌が並んでいる。


「こんなことを言うと白々しく聞こえるかもしれないけどね、私が望むことは、そんな優しさを持ったお前が、立派に大人になってくれることだよ」

「……なにそれ?」


 到底信じられない。

 血も繋がっていない娘が大人になるだけのことが、どうして父の望みになるのか。


「……ギターのこともそうだと思うけどね、人の悪意というのはそこかしこに溢れている。誰しもがそういうものに触れる度に少しずつ摩耗して、鈍化しながら学習して、そういうものだと受け入れられるようになる。でも……冬実はそうはなれなかったんだ。自分の考える水準の優しさを無意識に他人にも求めてしまうから、悪意が溢れている世の中が息苦しくて、ただ毎日過ごすだけでも疲弊していってた。もっと早くにそれに気づいていれば、私たちの関係の結末も変わっていたんだろうがね」


 川沿いは風を遮るものがなく、私達に冷たい風が吹き付けられる。

 冬の気配を孕んだ、寂しい匂いのする風だった。


「もう、同じことが繰り返されてほしくないんだ。それを見届けることができれば、私はそれで満足だよ」

「そんなことだけでいいの?それじゃあ……」


 お父さんの人生って何だったの?と言いかけて、あまりに失礼かと思い口を止めた。

 しかし、言いたかったことは伝わってしまったようだった。


「流石にもうね、自分自身の楽しみを模索するような歳じゃないさ。普通こんな歳になったら、男は自分の家族のために生きるようになるものだよ」


 父がどうしたいのかを聞いたつもりだったのに、その返答は普通はどうするものかという一般論の形で返って来た。

 少し前に、ヒロカが音楽室で言っていたことを思い出す。

 立場としてどうあるべきかに囚われて、いつの間にか自分自身の主張が希薄になっていたことに、彼女は危機感を覚えていた。

 二十年以上年上の父も、同じような現象の渦中にいるのだろうか。


 しかし、それを吐露する父の表情が晴れやかだった。

 私達も大人になれば、こんな風に余裕を持って理想と現実に折り合いを付けることができるようになるだろうか。

 そして、そうなるべきなのだろうか。


「……すまん、今思い出したんだが」

「え?」


 突然言いづらそうに口ごもりながら、大失敗を告白するようにいう父。


「……その、お前のお尻の下のハンカチ、その……さっき私が汗を拭いたやつだった」

「え?それが?」

「……年頃の女の子は、そういうの嫌がるもんなんじゃないのか?」

「……そういうものなの?」

「多分、そうだと思うぞ」

「……今からでも、嫌がったほうがいい?」

「いや、無理にしろとは言わないが。ここに座ることを強要してしまってないかなと……」


 私は笑い出してしまいそうになるのをこらえるのに必死だった。

 果たしてどこでそういう情報に触れたのだろうか?


「……あのね、普通はどう思うものとか、そういうものに縛られるのは嫌なんだ。お父さんがかいた汗だって、私のために頑張ってくれた結果でしょ?だから、別に嫌だなんて思わないよ」


 口にしながら、やっぱり私は自分自身で思う正しさに沿って行動していたいと思った。

 誰かの価値観に流されていたら、きっと行き着く先は私ではない誰かの終着点になってしまう。


「……洗濯物とかも、一緒に洗っても平気か?」

「もちろん」

「……パンツもあるぞ?」

「そりゃそうでしょ」

「じゃあ、洗濯は一緒にしようか。その方が安上がりだし」

「うん、私洗ってあげるよ」

「……ちゃんと話せてよかったかもしれない。お前の友達と、文化祭と、金庫のお金に感謝だな」

「……変なの」


 私たちは立ち上がる。

 ハンカチは、早速私が持って帰って洗って渡そうと思った。

 ゆっくりと、駅に向けて歩き出す。


「あのさ、お父さん」

「何だ?」

「……三人で、会って話せないかな?お父さんと私と……お母さんと」


 歩き出したばかりなのに、父が足を止めて、意外そうに私を見る。


「……いいのか?」

「うん。もしかしたら話してみて、もう二度と会わないかもしれないけど」


 私は一人でさっさと歩いて行く。

 走って追ってくる父の気配。


「無理するなよ」

「してない。だって、話すだけなんだから。そっちこそ、期待しないでよね」


 堤防の砂利道から石段を上り、桜橋の歩道へ上がる。

 この橋をわたって真っすぐ行けば、紺野書店と麻生駅に辿り着く。


「もし話してみて、私が受け入れられそうなら、たまにデートしてくるくらいなら許してあげる」


 それくらいの楽しみは、父にも残されているべきだと思った。

 当然当人同士が望むなら、だが。


「……親に気なんか使うなって何度も言ってるのに」

「えー、なんかちょっと嬉しそうに見えたけど?」

「おいおい、親をからかうやつがあるか」

「近いうちに会いに行く予定だった?」

「……ああ、今週末に」

「じゃあ、その時に聞いてみて」


 言いながら、会室や前原さんの家で失礼がないように電源を切っていたスマホを起動した。

 案の定、ヒロカからの返信メールが入っていた。


『了解!あとで時間空いたら、様子知らせてね。XXX』


 前回私が学校をズル休みした時みたいな心配も過ぎったのだろう。

 それをぐっとこらえて作った文面に見えた。

 考えてみれば、バンドバトルの祝勝会もしないままドタバタしていた。

 きっとヒロカは内心寂しがっているだろう。


『今、用事終わったよ。学校は、結局一日休むことにしちゃった。一人にしてごめんね。夕方からは空いてるから、ヒロカの家に行ってもいい?』


 メールを送信すると、待ち構えていたみたいにすぐ返信が返って来た。


『来て!一緒に御飯!泊まっていって!』


 ミニチュアダックスがはしゃいで走り回るアニメーションスタンプ。

 私は苦笑しながら、早くヒロカの頭を撫でてあげたいと思った。

 放課までにまだ時間があるので、一度薊橋に戻って泊まりの準備をしていくことにしよう。


「お父さん、今日ちょっと、友達の家に泊まってくるね」

「泊まり?明日の学校は?」

「友達の家から直接行くよ。心配?」

「……今更私が言えたことじゃないか」

「大丈夫だよ。相手のお家には迷惑かけないようにするし、ちゃんと学校にも行くから」

「分かった。さっき言ってたギターの子かい?」

「うん、ヒロカっていうの。実家はこの先にある本屋さんでね、イギリス人と日本人のハーフなんだ」


 私はお父さんにヒロカのことを話しながら、駅に向けて一緒に歩く。

 自分の友達のことを家族に知ってもらうことは、少しくすぐったくて、なんだかとても暖かな気持ちになる。

 今はまだ友達としてだが、いつかちゃんと、私が変わるきっかけをくれた大切な人だと紹介したい。


 そんな日が、早く来てくれることを願った。


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