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Whatever  作者: けいぞう
49/78

49.ヒロカ

 さっきから、ステージの演奏が控え室の中にまで届いていた。

 ベース音ばかりがやけに強調されていて、なんだか滑稽だ。 

 でも、羨ましい。

 彼らは、演奏できる楽器があるんだ。


「……いいな……。私も弾きたかったな……」


 何十分泣き喚いていたか分からないが、人間の行動には意味と効果があるものだと実感した。

 みっともなく大声を上げ続けて体中が疲れきる頃には、もう頭の方もまともに機能しなくなってきて、悲しいとも辛いとも感じなくなっていた。

 ただ虚ろな心を空気の振動が通り過ぎていく。

 腕の中にあるギターのボディと自分が重なる。

 天板が陥没して音を響かせるはずの空間が損なわれてしまった。

 色々な人達の演奏を聞くことも楽しみにしていたはずなのに、両耳がただの節穴になってしまったように音が素通りしていく。


 どうして、こんなことになってしまったんだろうか。

 何故自分のギターが、今このタイミングで壊されなくてはならなかったのか。

 自分の胸にいくら聞いてみても、こうまでされなくてはいけない理由は思いつかなかった。

 掲示板で見かけた私達二人に対する反応が頭を過ぎったりもしたが、今となってはそれを疑うのも詮ないことだ。


 取り返しの付かない被害を受けてみて思い出した。

 悪意は、向けられる側が一方的に不利だということ。

 だから過去の私は、そういうことに巻き込まれるリスクを抱えないために、空気を読んだり、はみ出したりしないようにすることに神経を磨り減らしていたんだ。

 こんなことになるなら、ずっと昔のままでいればよかった。


 そう思いかけて、頭の中でそれを否定したい気持ちが芽生えるのを感じた。

 私が、変わりたいと思ったきっかけは何だっただろう。


 ギターを始めようと思ったこと?

 一人で練習を続けたこと?

 違う。

 もっと決定的な要因があった。

 たった一人でも堂々と自分の言葉を発して立ち上がり、私を助けてくれた人の存在。

 あの時、もし誰も声を上げず、何十人もの生徒の前で見せしめのような叱責を受けて、泣き顔を見世物にされていたとしたら。

 私はギターなんかやめて、ただひたすら目立たないことを心がけて生きていく日々に戻っていただろう。

 あの日がターニングポイントだった。

 憧れてしまうほどかっこよかったメイの姿と、そこから始まった私達の時間。

 それら全てを知らないまま、メイと出会う前の毎日を過ごしている方が良かったのかという問いなら、答えはNOだった。

 どんな結果に終わったとしても、私達が共有した経験の素晴らしさは損なわれない。

 どんな心ない仕打ちを受けたとしても、私達の思い出までは汚すことはできない。

 そう思えたことが、せめてもの慰めだった。


 頭の中に、メイと過ごした時間が巡る。

 笑った顔、照れてる顔、拗ねてる顔、泣き顔、そして、歌っている顔。

 全ての柵を取り払って、気持ちよさそうに歌声を響かせるその横顔が好きだった。

 私のストロークのリズムに合わせてキラキラと揺れる黒髪に見とれていた。

 歌い終えた後の、無邪気で無防備な笑顔と笑い声が、本当に大好きだった。


 枯れたと思っていた涙がまた溢れてきて、ポタポタと地面に染みを作る。

 今日のステージでも、それを見たかった。

 いい結果に繋がらなかったとしても、この大きな舞台でメイの声を披露して欲しかった。

 そして、私の大好きな人の最高に魅力的な表情を、沢山の人に見せつけてやりたかった。

 私が夢中になっている音楽と恋は、こんなにも綺麗な花を咲かせたんだと伝えたかった。

 それでもしも私達の演奏を聞いてくれる人達が、笑顔になってくれたら。

 きっと最高に幸せだったはずなのに。


 何故、あの時ここにギターを置いていってしまったんだろう。

 背負ったまま1-Aに向かっていれば……たったそれだけの選択を間違えなければ、実現できたことだったかもしれないのに。


「ごめんね……。メイ。私のせいで……」

「何言ってるの」


 はっとする。

 背中から聞こえた、凛とした声。

 私は体を起こして振り返ろうとして、どんな顔をしていいのか分からなくて、俯いた。


「ヒロカのせいなんかじゃないよ。ギターを壊したやつが悪いに決まってるじゃない」

「……でも」


 回りこんで、私の目の前にしゃがみ込む人影。

 俯く私の視界入ってくる、黒の編上げブーツ。


「直接私たちに文句言ってこないで、コソコソ隠れて物を壊すなんて、最低だよね。絶対許せない」

「……」

「普段ヒロカといると楽しくて忘れていられるけど、頭にきてること、実はいっぱいあるんだよね。指導のためじゃなくて自分の気分で生徒に当たり散らす先生とか、悪ぶってタバコ吸ったりして人に迷惑かけた上に他人のもの勝手に使ったり壊したりする馬鹿な男とか、文化祭前に慌てて彼女が欲しいとか言ってくる男も……まぁ、彼はいい人だから、言わないでおくか」


 クスリと、笑う吐息が私の前髪にかかった。

 私を元気づけるために無理して明るく振舞っているんだろうか?

 歌えるのにステージに上がれない立場の方が、ずっと歯がゆいだろうに。


「気に入らないこと、思い通りにならないこと、どうしようもなく腹が立つ事……。言いたいこと、いっぱいだよね」


 私の左肩に触れる、手の平の感触。

 私は、あれっと思った。

 慰めるためだったら、手の平は頭の上に落ちてくると思ったのに。


 私は、顔を上げる。

 目の前にしゃがみ込むメイは、ひどい有様だった。

 唇には血が滲んで、おでこと頬には薄っすらと黒い汚れ。

 ミリタリーコートは埃まみれだし、ジーンズの膝には赤茶けた大きな染みまで付いていて、唖然とする。


「メイ……!?どうしたの?!まさか……」

「ああ、これはただ転んだだけ。こんな時に紛らわしいよね、ごめん」

「転んだだけって……」

「ちょっと自転車と事故っちゃって……って、私のことはいいの。ヒロカ。少し、辛いことを言うと思うけど、聞いてくれる?」


 真正面から見つめてくるメイの瞳は、いつもより力強い意思の光を湛えていた。


「このギターのことを学校に報告したとしても、きっと犯人は見つからない。敷地を一般にも開放してる日に起きたことだから、容疑者は学校関係者だけに絞り込めない。どんなに怪しいと思う相手がいても、防犯カメラなんかないし証拠も残ってない」


 分かっていたことだった。

 何より、壊した人が分かったところでこのギターが元通り直るわけではないのだから、犯人探しをする気持ちも起きなかった。


「私達の大切な思い出が踏みにじられたのに、償わせることもできない。その上、そんな姑息な奴の思い通りにことが運ぶなんて、許せないと思わない?」

「でも……」


 怖い。

 下手に犯人を見つけ出したりしたら、今度はギターだけじゃなくて、私達自身に危害を加えてこないとも限らない。


 床の上に横たわる、変わり果てた姿の赤いエレアコ。

 直視するのが辛い。

 悲しい。

 人が大切にしている楽器をこんなにまで壊してしまえる人の存在が恐ろしい。

 何を思いながらこんな凶行に及んだのか、想像するだけで歯の根があわなくなってしまう。


「私はね、絶対に許せない。ヒロカの宝物を壊したことも、ヒロカを泣かせたことも、絶対にこのままじゃ済ませられない」

「でも、メイ!もし何か私達がやり返したら……」

「直接やり返したりなんかしないよ。もっともっと素敵な方法で、見返してやるの」


 メイが控え室の入り口を指差す。

 振り返ると、扉には真っ黒なハードケースが立て掛けられていた。


「メイ……。これ……?」

「買ってきたの。ナカシマギターショップで。そのギターと形が似てるのを選んだつもりなんだけど、試してみて」


 メイがケースを私の眼前に置く。

 金具のロックを外して、宝箱のようにハードケースを開く。

 赤いビロード生地の内張りの上に横たわる、白亜のボディ。

 サウンドホールの周りに金色の縁取りが輝いている。

 思わず見とれてしまうほど綺麗なギターだった。


「ほら、ヒロカ」


 メイが促す。薄暗い控え室の中で、そのボディは本当に光を放っているかのように眩しく見えた。


「……うん」


 手を伸ばす。

 ネックの付け根を掴んで持ち上げる。

 赤いエレアコと比べて、少しだけ重い。

 ボリュームとトーンのコントロールがつまみではなくスライダーだが、問題ではない。

 ストラップピンの位置も同じだ。

 右の太ももの上にボディの窪みを乗せて構えてみると、体に馴染む曲線の感覚が驚くほど似ている。

 ネックの太さや厚みも違和感ない。

 弦もライトゲージだ。

 Cをダウンストローク。

 弦を弾く感触。厚みのある響き。

 その音色に、カラカラに干からびて枯死しかけていた感情が、あっという間に息を吹き返していく。


「言ってやろうよ。お前らなんかに私達の邪魔はさせないって。ギターを壊せても、私達の幸せは壊せないって」

「……どうして」


 あまりに一挙に色々なことが起こりすぎて、頭の理解がついてきていない。

 戸惑う視線をメイに向けると、メイは妙に晴れやかな笑顔を私に見せてくれた。


「私ね、ヒロカのギターが大好きなの。あの日、音楽室から聞こえてくる演奏を聞いた時から、ずっと」

「……」

「でもね、今日はまだ一曲しか弾いてもらってなくて……しかも、なんか全力で歌えてなかったから、物足りないんだ。だから……」


 メイは立ち上がり、私に右手を差し出した。


「これから、思いっきり楽しみに行こう」


 私は、いつにも増して素敵なメイの笑顔に釣られて、頬が持ち上がっていくのを感じた。

 しっかりとその手を掴んで、私は立ち上がる。


「うん!」


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