48.メイ
控え室を出ると、震える膝に鞭を入れて本館へと走りだす。
三階まで上がると、1-Cの教室に飛び込んだ。
血相を変えた私の姿にクラスメイト達が引いているのが分かる。
が、誰も何も言ってこなかった。
耳に入っていなかっただけかもしれないが。
私はバックヤードスペースに入れておいた通学鞄から財布を引っ張りだして、中身を確認する。
入っていたのは、一万千八百円。
ナカシマギターショップで見かけた、一番安いギターが一万円ちょうどだった。
ただし、記憶が曖昧で、どんなタイプのギターだったかが思い出せない。
以前ヒロカに、ギターの種類について聞いたことがある。
いわゆるエレキギターとエレアコでは使用されている弦が違うらしく、抑える感覚が全く別物なのだそうだ。
ヒロカが違和感なく扱えるのはアコースティックタイプの弦の方だ。
更にアンプが繋げることが条件になる。
その条件を満たす最安値のギターは、果たしていくらあれば買えるのだろう?
ヒロカの赤いギターが八万円……。
そう考えると、手持ちでは非常に危うい。
ホテルに戻れば、五、六万はあるのだが……薊橋まで行って戻る時間はない。
せめてあと一万、財布に補充してこなかった自分が呪わしい。
どうするべきか……。
ヒロカは、先週末までにお小遣いをほとんど使い果たしてしまったと言っていた気がする。
他に頼れる人なんて、高橋くんくらいしか思いつかない。
一応学校を出る前に聞いてみることにしよう。
ふと、私は視界の中に青いパステルカラーの小箱を見つけた。
カラオケ喫茶の売上金を保管しておくための簡易金庫だった。不用心なことに、鍵は挿しっぱなしで蓋も全開になっている。
開店直後の客寄せが功を奏したのか、店は予想外の繁盛ぶりだったようだ。
中から茶色い紙幣が覗いている。
「……」
迷わなかったといえば嘘になる。
それでも、自分の目的だけで頭を満たしていた私にとって、それは天啓のようさえ見えていた。
高橋くんの手持ちと、すぐに捕まる彼の友人たちから借用してかき集めてくれたお金が一万二千円。
これで総計は「三万七千円」。
私はジーンズのポケットに紙幣を押し込んで、大通りに向けて走りだした。
時刻は一時二十五分。
もうすぐ本来のスケジュールでのIrisの出番の時間だ。
一番最後に順序を回してもらったとして、タイムリミットは二時十五分。
もしも手持ちでギターを調達することが出来れば、まだギリギリ演奏の時間は残っているかもしれない。
ヒロカと何度も歩いた道を、一人必死に駆ける。
視界の両端を通り過ぎていくシャッター。
こんな時に限って赤信号に捕まる。
いつもはろくに走っていない車が今日に限って多い。
麻高祭の影響かもしれない。
接触さえしなければよしと、交通ルールを完全に無視して先を急ぐ。
背中に浴びせられるクラクションも気にしてなどいられない。
大通りに合流する細い路地から自転車が飛び出してきた。
あっと思った時にはもう遅かった。
私の骨盤の左側と自転車の籠がぶつかる。
私はもんどり打って背中から歩道に叩きつけられた。
点字ブロックは盲目の人には必需品かも知れないが、転ぶ人には優しくない。
突起がめり込んで軋む肋骨。
意志とは関係なく吐き出される呼気。
痛みに呻いている時間がもったいない。
私は逆さまになった視界の中で、自転車の運転手の老婦人に被害がなかったことを確認すると、ムクリと起き上がって、そのまま走りだした。
ジーンズの膝、ダメージ加工部分の白い糸が赤く染まる。動かすのに支障ないので、骨や筋肉に異常はないのだろう。
やがて、ナカシマギターショップの看板が見えてきた。
コマ送りのような視界の中で、私の手がドアを開き、沢山のギターが展示されている室内の風景が広がる。
宝の在り処にたどり着いたような達成感を噛み締めながら、私は両膝に手をついて息を整える。
不信感を隠しもせず視線を飛ばしてくる金髪の男性店員に、私はすがりつくようにして声をかけた。
「……エレアコ……一番、安いのは……どれですか……っ?」
「…………」
「……お願いします。急いでて……」
「そっちの奥の、黒いやつ。二万円。あと、こっちの白のやつ。三万四千八百円かな」
やった。買える。
しかも、選択肢まである。
視線を上げて、二つのギターを交互に見やる。
詳しいことは分からないが、どちらもハイポジションにカットの入った左右非対称のボディだ。
黒い方はボディもネックも妙に厚みがある。
ヒロカの体格を考えると支障があるかもしれない。
白の方は、シルエットがヒロカの赤いエレアコとよく似ている。
ピックガードというものが付いていないが、音に影響はないだろう。
だが、本当にいいのだろうか。
二万円であれば、クラスの売上金には手を付けないで済む。
今から走って戻って、金庫の中に同額戻しておけば問題にもならないかもしれない。
しかし、ヒロカがまともに演奏できなかったら元も子もない。
少しの逡巡の後、私は白いギターを指差した。
「これを下さい。すぐに使うので、大急ぎで」
私には魔法のように売値を値切るスキルもなければ、裏ワザのような人脈なども持っていない。
弦に挟まれたポップが示す三万四千八百円をきっちり支払って、黒いハードケースに収まったギターを受け取る。想像よりもずっしりと重たかった。
「あ、お姉さん」
店員に呼び止められて振り返ると、胸元に何かが飛んできた。
片手で受け止めると、未開封の乾電池だった。
円柱ではなく直方体の、変な形をしている。
「ケツんところに蓋があるから、使う前にそこ開けて電池交換して。多分いま入ってるのでも大丈夫だと思うけど、一応ね」
「……あの、これ、お代は」
「急いでるんでしょ。俺のおごり。頑張って」
じんと胸が熱くなる。
への字に曲がりそうになる唇を持ち上げて、私は頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そんな出来事一つで、幾分か足が軽くなった。
ただの気まぐれかもしれない。
それでも、私の必死さを理解してくれる人がいたことが嬉しかった。
さあ、ヒロカのところへ急ごう。
まだ時間は一時四十五分。
行きと同じペースで走って戻れば、まだ間に合う。
ヒロカが、ギターを弾いてくれる!




