47.メイ
きっと、すべてを上手く完璧に取り繕うことは出来ないだろうと思っていた。
それでもこの今瞬間まで、なんとか乗りきっていると言ってもいいのではないか。
私は胸に灯る罪悪感の熾火をどうにか抑え込みながら、他のバンドメンバーの試奏を聞くともなく聞いていた。
やはり、ヒロカは何かを感じ取っていたようだ。
正直にすべてを打ち明けられずに、丸め込むようなことを言ってしまった自分が憎い。
が、今は無理矢理でも致し方無いと思うことにした。
今日の朝、私のスマホには父からのメールが入っていた。
内容は昨晩言っていたことと大して変わらず、変化といえば少し言葉が柔和になっているという程度だった。
あくまで父は私と一緒にこの町から引っ越すつもりでいる。
それを受けて私の頭の中といえば、単純に問題を先送りにすることに専念している状態だった。
せめてあと半日、何事もないフリをしなければ。
今後をどうするかは、本番が終わった後にいくらでも悩めばいい。
今日まで一ヶ月間、暇さえあれば体と肺活量を鍛え、みっちりと練習を繰り返してきた。
ヒロカはきっと私と同じか、私以上に努力していた。
私達二人の時間を、ムダにするわけにはいかない。
ちゃんと成果は出ているのだ。
今朝のクラスでのことで、私の声はたくさんのひとに届く力強さを持っていると実感した。
声だけじゃなく、ヒロカがそばに居てくれることで、精神的にも強くなれたと思う。
胸の中にこんなに大きな葛藤を抱えたままでも、私はあんなに堂々と歌うことが出来た。
昔からは考えられないほどの進歩だ。
きっと、世の中にこういう理不尽を突きつけられた時にこそ、反発する思いが原動力となってより強く自分の中身をぶちまけたいと思うんだろう。
ヒロカとの出会いが、その手段を与えてくれた。
言えないこと。言っても仕方ないこと。
そもそも上手く言葉にできないこと。
ヒロカの力を借りれば、すべてが形になって私の口から飛び出していく。
それは多分、聞いてくれる人達各々の中で姿と意味合いを変えつつも、何らかの形で刺さり、残ってくれるはずだ。
この舞台で何かを成し遂げることが出来れば、今抱えている苦悩も、私の心が歪んでしまったことも、報われる気がする。
――そうだと信じよう。
「……冴木さんっ!」
突然真横から聞き慣れない声に呼ばれて、私は驚いた。
弓道部員のような袴姿でそこに立っていたのは、ヒロカが頼子さんと読んでいた女子生徒だった。
「えっと、澤田?さん?」
「冴木さん、来て。大変なの……」
私の左手を取って、ステージの裏手へ引っ張っていく澤田さん。
「何?大変って?」
「……寛ちゃんが……!」
はっとする。ヒロカが?
「どこ?!」
「ひ、控え室。そっちの……」
澤田さんが方向を指差し終えるのを待つのももどかしく、私は駆け出した。
旧部室棟の前を全力疾走する。控室のドアがいくつも並んでいる。
その中の一つ、Irisの貼り紙がされた部屋のドアだけが中途半端に開け放たれていた。
「ヒロカ!」
私は叫びながら部屋の中に踏み込む。
視界の右下に、糸の切れた操り人形のように力なく座り込んでいるヒロカの背中を見つける。
もう一度声をかけようとして、その手に抱えられている黒い物体が目に留まる。
ヒロカのギターケース。
ジッパーが開かれて、隙間から中身が覗いている。
その隙間から、何か不吉な気配が漏れ出しているのを感じる。
「……ヒロカ……。これ……」
私はゆっくりと手を伸ばして、ケースのフラップを恐る恐るめくり上げる。
ケースの中に入っていたのは、よく知った赤いエレアコだった。
ボディはサウンドホールからブリッジにかけて大きく陥没し、ボディ内に収納されていたピックアップのケーブルが引きちぎられて外に飛び出していた。
ネックは中ほどから真っ二つにへし折られ、六本の弦がだらしなく弛んでいる。
それがヒロカのものであるとはすぐに信じられなかった。
だって、ついさっきまで何ともなく、ヒロカの腕の中で和音を響かせていたのに。
同一の型の別のギターではないかと、ありえない可能性にすがりつきたくなる。
しかし、そんな期待を嘲笑って現実を突きつけようとするように、そのボディの側面には、黒猫のステッカーが貼ってあった。
ヒロカがいつも大切そうに背負って運んでいたエレアコ。
貯金の大枚をはたいて買ったと言っていた。
このギターを使って、私のために沢山の曲の伴奏をアレンジしてくれた。
初めてその音色を聞いた時のことを思い出す。ヒロカがこのギターを使って『Whatever』を歌っていたから、私たちは出会った。
それからはカラオケでも、音楽室でも、高架下の広場でも、高岡でも、スタジオでも、暖かで深みのあるその音色は、いつでもヒロカの笑顔と一緒にあった。
……言葉が出ない。
それどころか、呼吸が出来ない。
何だこれは。
一体、何でこんなことを、一体、誰が……。
誰が?誰かが。
そうだ。誰かがこれをやった。
ヒロカのギターを壊した。
どれだけの努力の証と、思い出と、私たちにとって侵しがたい幸せがこのボディに詰まっているか、そんなことは知りもしないし一顧だにしない誰かが、それらをまるごと蹂躙した。
小さな声で、ヒロカがしきりに何か繰り返し呟いている。
私は隣に膝をついて、脱力しているその体に耳を寄せる。
「……ね……。ごめんね……」
「……」
「ごめん……。私が……こんなところに置いていったから……私がもっと……大切にしてあげてれば……ごめんなさい……」
愛しい人の亡骸に縋るように、ヒロカはぼろぼろになったボディを抱きしめる。
焦点の合わない両目を見開いたままで、許しを乞う言葉を繰り返す。
「罰が当たったんだ……。ずっと隠すようにしてばっかりで……お荷物みたいに扱ってたから……。私とメイを出会わせてくれた、私の初めての、宝物だったのに……。私の……大事な……大事な……っ」
抑揚のなかった声が詰まる。
ヒロカの両目からボロボロと涙が溢れ出し、彼女の上半身がゆっくりと沈み込むように倒れ、ギターの上に重なった。
やがて、狂ったように泣き叫ぶ慟哭の声が、狭い室内を満たした。
私は、自分の全身の毛穴が粟立って、髪の毛が一本ずつ逆だっていくような錯覚を覚えた。
芽生えた瞬間からこの体の中に隠しきることなど叶わないと分かる、どうしようもなく巨大で暴力的な怒り。
すぐ隣に蹲る、小さな小さな背中。
私がこの世界でただ一人、心から笑顔でいてほしいと願う人の体が、悲鳴のような嗚咽とともに痙攣し、震えている。
――許さない。
絶対に許さない。
このギターと同じ目に合わせてやる。
胴体に穴を開けて首を折りたたんでやる。
ヒロカを、彼女の真っ白な心を、薄汚い悪意で踏みにじった卑怯者。私は、絶対に許さない。
怨嗟の言葉を喚き散らしそうになる口を、両手のひらで隠す。
食い縛る歯の間に、下唇が挟まる。
ざくりと音を立てて犬歯が唇を割いた。
口の中に広がる金臭い血の匂いと、鋭い痛みが私をなんとか正気に保った。
なおも泣き喚くヒロカの背中を撫でたい、その耐え難い衝動に耐えて、私はふらつく足で控え室を出た。
向かったのはすぐ隣の控え室。
ノックもせずに引き戸を開くと、着崩した浴衣姿の女生徒三人組が何事かと言いたげな顔を向けてきた。
「なに?どうしたの?」
隣のヒロカの鳴き声が聞こえたのだろう。
ただ事では無い何かが起きていることを察した様子で、ギター担当らしい一人が尋ねてくる。
その手にあったのはエレキギター。
白いストラトキャスターだった。
違う。
私は無言で引き戸を閉じた。
すぐ隣はSugar&Salts、今リハーサル中で、鍵がかかっている。
その隣、TeleCostarの控え室にも先ほどと同じことをする。
その部屋にあったのは、レスポールと、ストラトキャスター。
ここにも無い。
となると、残るは私達より後の出番のバンドだ。
リハーサルのために集められたのは現時点では四番め、私達Irisまでだ。
私は苛立ちと焦りをどうにか噛み潰して、ステージに向けて駆け出す。
時刻は十二時九分。
丁度、リハーサルを終えたSugar&Saltsがステージから降りるところだった。
彼らのギターはフライングVだ。
これも違う。
「……高橋くん」
舞台の下で何やらメモをとっていた高橋くんに駆け寄る。
彼は一瞬狼狽を見せたが、すぐにいつもどおりの表情を取り繕ってメモを続ける。
「ん?どした?」
「……私達より出番が後のバンドで、エレアコを使う予定の人達がいるかどうか、分かる?」
「エレアコ……?えーーっと……」
分からない、と一言で片付けてしまっても良いはずなのに、エントリーシートの曲目確認をしてくれる。
「しゅーくりーむとラズライトはダメそうだ。全部ゴリゴリのロックだし。あるとすれば、Candyかな」
――よりにもよって、あの人達か。
「ほら、『そばかす』が取り合いになって、一曲変更になったっしょ?で、『鱗』って曲入れてるんだよ。確かあの女子のボーカル、ギターもできるんじゃなかったかな……」
「わかった、ありがとう。それと、私達はリハーサルなしでいいから」
「なんだよ、どーしたの?どういうこと?」
再び控室へ戻ろうとする私の腕を掴んで、高橋くんは睨みつけるように私を見た。私は躊躇したが、高橋君には話しておくべきかもしれない。
「……ヒロカのギターが……壊されてたの」
「……え?!」
高橋君の顔が、驚きに固まる。
きっと高橋くんは私の次に長い時間、ヒロカがギターを弾いている姿を見ていた人だ。
「壊されたって……誰に?」
「……わからない。でも、今はなんとかして替わりのギターを見つけないと……」
「……冴木」
私の腕を掴んでいた指が緩む。
私達とCandyのメンバーの間に起きたトラブルのことも、高橋くんは知っている。
その上で私が何をしようとしているのかを察したらしい。
「……後半のメンバーは、さっきメールで連絡出したところだから、もうすぐここに集合する。控え室のこと話すときに、一応全員に聞いてみるよ」
「高橋くん……」
「冴木、お前ちょっと顔洗ってこいよ。口、血ぃついてるし……鬼みたいな顔になってんぞ」
「どうして……」
「……その顔は、紺野から全部聞いてるって感じね」
わざとらしく不機嫌そうに眉を顰めて、高橋くんは俯いた。
「俺が紺野のことどう思ってるとか、お前らがどういう関係とか、そういうの関係なくさ……あんだけ練習してた奴が本番で演奏できねえなんて、ありえねーよ。んなの、絶対認めらんねぇ」
赤黒い怒りで満たされていた胸に、一瞬だけ涼風を感じる。
彼の言葉に、不器用で、飾り気のない本心が垣間見えた気がした。
「もしCandyから借りられなくても、何とかしてギター用意してくれよ。演奏の順序も、何とか最後に回すことも出来ると思う。進行工夫すっから」
「……ありがとう」
「できるだけ早くしろよ。終了の時間、センコーに五月蝿く言われてっから」
「わかった」
「ほれ、そっちの駐輪場のとこ、水道あるから」
頷いて、高橋くんの指示に従った。
冷たい水で顔を流すと、少し冷静な思考が取り戻せたような気がした。
それにしても、誰があんなことを……?
盗むならまだしも、壊すだけというのが解せない。
多分、怨恨というやつなのだろうか?
ヒロカがそこまでの人に恨まれるようなことをするだろうか?
わざわざ控え室に置いた瞬間を狙われたというのも妙だ。
ずっと機会を伺ってでもいないかぎり、あのタイミングで事に及ぶことは出来ないはずだ。
今日までヒロカの様子を伺っていたとすれば、いくらでも機会はあったはずなのに、やったのは本番直前。
明らかにバンドバトルの妨害を狙っている。
考えれば考える程、明確な悪意を持った行為であることが分かった。
かっと熱くなる胸を抑えて、ステージに戻る。
落ち着け。
まだ犯人の狙いを達成させないで済む可能性が残っている。
ステージ前、先ほどの私達前半組と同じように、高橋くんを中心に半円を作っている後半組のメンバー。
こちらも外見的には統一感のない集団だった。
「えー、ちょっとお聞きしたいんですが、エレアコか、エレガットを使う方、または予備として持ってらっしゃる方、いらっしゃいますかー?」
高橋くんがメンバーに呼びかける。ギタリスト達は顔を見合わせる。
「これ、エレアコ?だよね?」
見覚えのある金髪女生徒がギターを持ち上げてみせる。
Candyのボーカルの手の中にあったのは、グリーンのサンバーストボディ。
ヒロカの使っていたものよりボディが薄いが、間違いなくエレキアコースティックギターだった。
私は声を上げそうになって、慌てて自制した。
「あー、えーっとですね。実は、機材トラブルがあったバンドがいまして。もしよろしかったら、少しだけお貸しいただくことって、できませんか?もちろんCandyさんの演奏が終わった後、十五分間で構いません」
「はぁ。まー、別にいいっちゃいいけど……」
「ちょっと待てよ、ユイ」
深く考えずに承諾しようとする金髪に食って掛かる、これまた見覚えのある長髪男。
「それ、俺のだから。勝手に決めんなって」
「えー、いいじゃん別に。梶くんケチくね?」
「よくねーから。ってか、誰に貸すのよ?機材トラブルとか、自己責任じゃねーの」
やっぱりこの男か。
因縁というのはあなどれない。
「……えー、あー、まあ、そうなんですけど……」
「貸してほしいのは私達です。すみません、なんとか、お願いします」
梶という長髪男に睨みつけられて狼狽える高橋くんの隣に駆け寄って、私は声を上げた。
「……何。お前らなの?」
梶の視線が私を捉え、その顔から表情が消える。
「はい。図々しいお願いなのは承知の上で、どうかお願いします」
少なからぬ抵抗を感じつつも、私は深々と頭を下げた。
ヒロカが演奏できるなら、頭を下げるくらい何でもない。土下座だってしてみせる。
「ギター一本なのに『機材トラブル』って、ショボすぎじゃね?」
「……」
嘲るような笑いも、私は黙って耐えた。
この一瞬だけだ。
なんと言われても、演奏で見返すことができればそれですべて帳消しにできる。
「……いいよ。貸してやるよ」
私は弾かれたように顔を上げる。
お礼を言いかけて、なんとも言いようのない悪寒を感じた。
梶とベースの男子生徒が目配せをしたような気がした。
「じゃあちょっとさ、控え室来て。ボリュームとかトーンの設定の仕方教えっから」
……何かおかしい。
突然態度が変わりすぎだ。
何か良からぬことを企んでいるのではないだろうか?
「じゃあ、ヒロカ……ギターを連れて来ます」
「……いいから。こっちもリハ控えて急いでんだから、さっさと済まさせろよ」
言って、さっさと控え室の方へ歩き出す梶。
仕方なく後に続く。
ベースのパーマ頭も何故か一緒についてきた。
梶はIrisの二つ右側の控え室の扉を開き、ずかずかと中へ入っていく。
私も続いて控え室の中へ入ると、ベースの男は何故か部屋には入ってこず、私達二人を部屋の中に閉じ込めるように引き戸を閉めてしまった。
「……」
「怖え顔すんなよ。別に取って食いやしねぇから」
よたよたした口調で楽しげに話す梶。
小さな窓しかない部屋の中にこの男と二人でいることに酷く圧迫感を感じた。
「貸す、って言ったんだけどさ。ちょっと交換条件出させてもらうわ」
首筋から背中にかけて、嫌な汗が滲んだ気がした。
案の定、というべきだろうか。
この男がそんな何の得にもならないことをするタマには見えなかった。
「……条件、ですか?」
「そう。まあまあ、固くなんなよ」
梶はポケットから財布を取り出し、五千円札を一枚取り出す。
私は彼の意図が理解できず、警戒に体を強張らせながら動けずにいる。
「口開けろよ」
「何を……」
「ギター、借りたいんでしょ?」
「……」
剃り整えられた細い眉と、その下の一重瞼を睨めつけながら、微かに口を開く。
私の唇の間に、五千円札の端が差し込まれる。
「動くなよ。そのまま咥えろ」
震える唇に挟まれた紙幣が私の口の下にぺらりと垂れ下がる。
これは一体、何なんだ……。
理由は分からないが、酷く屈辱的なことをさせられているということだけは間違いなかった。
梶はそのまま私から数歩後ずさり、パイプ椅子を広げてどっかと座った。
ポケットからスマホを取り出して、何やら画面を操作している。
「俺さ、一回ムカついたヤツの事ってなかなか許せないのよ。その相手が、ホントに『申し訳ないことをした。許して欲しい』って思ってるって信じられないと。つまり、誠意を見せてくんないとさ」
つま先から顔まで、舐めあげるように梶の視線が私を眺める。
こういう連中が口にする誠意なんて言葉ほど下卑たものはない。
なんとなく、どんなことを要求されるのかの見当がついてきていた。
「だからさ、ズボン降ろしてみせてよ。詫びの印としてさ、写真撮らしてもらうから」
……ありったけの敵意と侮蔑の念を込めてその顔を睨みつける。
梶の顔に張り付いた下衆っぽい笑いは揺るがない。この男、思っていた以上の、大した外道だ。
「おいおい、素っ裸になれって言ってるわけじゃないよ?そこまでいっちゃうとバレたとき退学もんだから」
虫唾が走るというのは、こういうことを言うのだろう。
私の口の中に、ドロドロとした毒液のような苦々しい味が蘇る。
他人の歪んだ欲求を押し付けられる時のその感覚を、私はよく知っている。
過去、他人と理解し合おうとする熱意を根こそぎ蝕んで、私を無気力の泥沼に押し沈めた悪意の肌触り。
「急がなくていいの?リハ始まっちゃうよ」
心底楽しそうな声で、梶は私の中に燃え上がる怒りを煽る。
どうあっても私が逆らえないことを知っていて嬲っている。
――こんな男の、いいなりになるのか?私の中に、みるみる暗色の雲が広がっていく。
ヒロカに出会って、彼女が私の胸に灯してくれた光が侵され、覆い隠されていくのを感じる。
私が歌う動機。
私の世界を埋め尽くす理不尽な悪意に対して、精一杯の強がりを叫んでやりたい気持ち。
お前らなんかに私は屈しないと言い放ってやりたい。
でも、その目的を果たすために、私はまたこの猛毒を呷ることになるのか。
何も、この一回だけが機会じゃない。
高岡の時のように、また路上ででも演奏すればいい。
目の前の男の、醜悪な欲望を満たしてやる必要なんかない。
誰かの前で服を脱ぐなら、その相手はヒロカがいい。
私は口に咥えさせられた紙幣を吐き出して、捨て台詞とともにこの部屋を出ようと決めた。
――しかし、体が動かなかった。
他のバンドには絶対に負けないというヒロカとの約束。
私達が近いうちに離ればなれになるかもしれないという事実。
恋敵のはずの私のために助け舟を出してくれた高橋くんの言葉。すべてが一挙に頭を駆け巡る。
頭に麻酔をかける。
今から悲惨な目に合うのは自分ではなく、他の誰かだと言い聞かせる。
どうせ一度とことんまで汚された体だ。
下着を見られるくらいどうということはない。
私は、ベルトに手をかけ、ゆっくりとバックルの留め具を外した。
梶が嬉々とした顔でスマホのカメラをこちらに向ける。
ボタンを外し、ジッパーを下げ、両手で膝のあたりまでジーンズを降ろした。
考えないようにしたはずなのに、ビー玉通りのブティックで二人で笑っていた時のことが頭を過ぎってしまい、心臓をペンチで抓られたような胸の痛みが走った。
「……笑えよ。んで、ピースしろ。合意の上だって証拠な」
こうなってしまえば、あとはもう何を上乗せされても変わるものではない。
私はゆっくりと右手を上げて、凍りついていた顔の筋肉に笑えと指示を出した。
指の形や、表情筋がどうなっているかなんて、大した問題ではない。
「ぶっ……はははははっ!!ホントにやるかね?!うわー、いいね、最高の気分だわ。はい、そのままねー」
シャッター音が室内に響く。
その一つ一つが棘となって飛んでくる。しかし痛みなど感じない。
だって、これは私じゃないんだから。
「はいよ、ご苦労さん。いい絵が撮れたわ。待受にしようかな」
梶は満足気にスマホをポケットに仕舞い、立ち上がった。私の口から紙幣をひったくる。
「これで、ギターは……」
「ああ、いいよ。もちろん。約束だから」
私は素早くジーンズを上げて、ベルトを締め直す。
まだだ、ギターを受け取って、この男の顔が見えなくなったら、麻酔を解こう。
「そうそう、言い忘れてたんだけどさ、ウチのボーカル、ギターヘッタクソでさ。ただ飾りで持たせるのに持ってきただけなんだよね、あのエレアコ」
私の横をすり抜けて、引き戸を開けて出ていこうとする梶が、満面の笑みを浮かべながら言う。
「え?」
「分かりやすく言うと、アレ、ピックアップ死んでるのよ。だから、実質エレアコじゃなくてただのアコギ。ネックも反ってて開放弦じゃ音鳴んない。三弦のペグがイカレててチューニングもできない。それでもよきゃ、いっくらでも使って。ってか、良かったらやるよ。あんなゴミ。ぶっ壊れたそっちのギターと、マシな方使えばいいんじゃない?」
「…………」
何だ?何を言ってるんだ?耳から入ってきた情報が噛み砕けずに、私は呆然と立ち尽くす。
言葉の意味は分からなくても、私の体は反射的に理解していた。
騙されたのだ。
膝の力が抜ける。
頭の中が空っぽになる。
ステージに戻っていく梶を追いかけることも思いつかなかった。
ギターがない。
ヒロカが、ギターを弾けない。
だから私は歌えない。私たちは、ステージに立てない。
最後に彼女が笑いながらギターを弾いていてくれたのはいつのことだっただろう。
もう遥か遠い思い出の中の出来事のような気さえしてくる。
「……ヒロカ……」
いつの間にか部屋の中に一人へたり込んで、譫言のようにヒロカの名前を呼んでいた。
「ヒロカ……。大丈夫だよ。まだ、なんとかなるかもしれないから。……なんとかするから」
口に出したのは、自分を鼓舞するための言葉。
もう、私の意志の力だけではこの体を動かすことが出来なくなっていた。
足が痺れたように動かない。
さっきから何度も立ち上がろうとしているのに、ぴくりともしてくれない。
悪意という名の毒が回っているのか、自分にかけた麻酔の暗示のせいなのか。
しっかりしろ。
大切なギターをあんな姿に変えられたヒロカに比べたら、私は何も失ってなんかいない。
傷付いてもいない。
どこにも異常はない。
なんともないんだ。
だというのに、何故この足は言うことを聞かないのか。
「動いてよ……。この役立たず……。今だけ、お願い。終わったら千切れたって潰れたっていい……。何のために走ったの?毎晩毎晩、あんなに頑張って来たじゃない。ほら、ただ立って、歩くだけだよ」
両手のひらで膝を握りしめる。
自分の意志では動かせないくせに、勝手にぶるぶると震え出した。
もう嫌だ。
歩けば誰かに出会う。
誰かに出会えば傷つけられる。
これ以上傷つけられたくない。
ここでじっとしていたい。
自分の声が頭の中に響く。
自己防衛というにはあまりにも幼稚な逃避。
私はきつく握りしめた両拳を、膝の上に振り下ろした。
何度も、何度も。
全く痛みは感じなかった。
「……馬鹿じゃないの……。自分の体が言うこと利かないって何よ。どんだけ自分が可愛いのよ。……気持ち悪い。悲劇のヒロインとか、似合わないのよ。ホントは動かせるんでしょ?死ぬ気になってないだけでしょ?!今動かなくて、どうするのよ?!ヒロカが待ってるの!今も震えて泣いてるのよ!」
その声は、痛みを回避するために作り出してきた自分自身の中の虚像に対して発せられていた。
誤魔化したり逃げたりを繰り返す内に私の心から分裂した、やせ我慢と見て見ぬふりと言い訳が得意なもう一人の私。
もうそんなものには頼らない。
私は、私としてヒロカと生きていくって、決めたんだから。
そんなもの、もういらないんだ。
「ねえ、聞いてるの?さっさと立ちなさい。……変わるんでしょ?昔みたいな毎日は、もううんざりなんでしょう?このまま、自分の女の願い事一つ叶えられないまま、女々しく泣き寝入りするつもり……?ヒロカにかっこいいって、男らしいって、言ってもらいたいんじゃないの?!」
私には、大好きな人がいる。
大切に想ってくれる人がいる。
全て捧げていいと思えるパートナーがいる。
こんな奇跡を手にしておいて不遇を嘆くなら、そんな奴は生きている資格はない。
「しっかりしろよ!冴木芽衣!!」
私の絶叫に慄くように、両足がびくりと跳ねる。
その感覚が脳に届く。
がくがくと笑っているが、思い通りに動く。頭の中の鏡が砕けた。
私は私ごしに世界を見ていない。
私の前に、自分の道が見える気がした。
やっとだ。
やっと私は、歩き出せる。
「ヒロカ……お願い、もう一度、もう一回だけ、力をちょうだい。ここから、立ち上がって、歌いに行くの。二人で、ステージに立つんだよ。ヒロカが私の隣で笑ってギターを弾いてくれたら、私は無敵になれる。こんな死にたくなるような世の中だって、へっちゃらで笑ってられる。もう少しなんだ。だから、お願い……。ヒロカ……」
目を閉じる。
私の泥沼のような記憶の中から、ヒロカの笑顔だけを拾い上げる。
あどけなくて、無邪気な笑顔。
私の大好きな、ヘーゼルの虹彩。
私の胸の中に灯された光と、同じ色の煌めき。
まだ消えていない。
ヒロカの笑顔を思い出す度に、その光は戻ってくる。
それを見失わないかぎりは、全力を尽くすんだ。
私は、立ち上がった。
まだ終わりじゃない。
始まるのは、これからだ。




