43.ヒロカ
「え?」
自分の耳を疑う、というのはよく聞く表現だが、主にフィクションの中で使われるものだ。
まさか自分がそうする時が来るとはまったく想像していなかった。
目の前には、珍しく神妙な顔をしている高橋くん。
学校の掲示板のことを相談しようと芸楽館裏で待ち合わせたところ、私が相談内容を切り出す前に高橋くんが話があると言い出した。
「だから」
強い決意に後押しされるように、高橋くんはもう一度その言葉を口にした。
「紺野のこと、好きだ。付き合ってほしい」
いつも飄々としていて、真面目な雰囲気が苦手な彼らしからぬ、茶化すことを許さない口調だった。
バンドバトルのステージは九割方出来上がっていた。
愚痴ったり、私たちのアイディアをまるまる採用したりしつつも納期に間に合わせたのは立派だと思う。
体育館から拝借してきた暗幕は、開かれた緞帳のような形でステージ後方の壁に貼り付けられている。
ダンボールっぽさを上手く隠す塗装がされたBandBattleの文字パネルは、ステージ左右の袖に並んでいる。
軽音部の先輩方が納得するかはわからないが、簡素すぎず派手すぎず、まとまりのある仕上がりになっていた。
ステージの足場と文字のパネルは私とメイも作製を手伝った。
この場所で放課後に三人、演奏の練習しながら作業した時間は、なんだかんだで楽しかった。
それは高橋くんも同じだったらしく、その時間を過ごす中で自分の気持ちに気付いた、と言っていた気がする。
人生初の、異性からの真っ向切った告白の衝撃に、私の頭はまともな処理能力を失っていた。
失礼な話だが、私はかすかに残された思考の余地で、からかわれているんじゃないか、取り乱す様をどこかから誰かが覗き見して笑っているんじゃないかと疑っていた。
だって、まだ知り合ってから三週間しか経っていないのに、それで人のことを好きになるなんて……。
ありえるのかという疑問に対する回答は、意外にも自分の中にあった。
私がメイを好きになったのは、もしかしたらそれよりも短い時間の中でのことだったかもしれない。
人を好きになるのに、時間なんて必要ないのだ。
「何ていうか、普段とギター持ってる時のギャップが凄くて、面白いやつだなーくらいに思ってたんだけど。冴木と一緒に練習してるの見てるとさ、活き活きしてて楽しそうで、笑ってる顔とかすげー可愛いって思うようになっちゃって」
沈黙に耐えかねたのか、高橋くんが早口でまくし立てる。
お調子者の彼が、真面目な顔してこれだけのことを言葉にするのに、一体どれくらいの勇気がいるのだろうか。
そうまでして、私に気持ちを伝えてくれたことは、正直、嬉しいと思った。
高橋くんは良い人だ。
話題も豊富で楽しいし、相手を選ばず思いやりだって見せてくれる。
しかし、答えなければならない内容はもう決まっている。
私にはメイがいるんだから。高橋くんには申し訳ないが、気持ちが揺れることはない。
よく考えてみれば、私なんかが男の子に好きだと言ってもらって、それを袖にするなんて、烏滸がましいとしか言いようが無い。
が、はっきりと答えなくては。
「……ごめんなさい」
人生の中で、一、二を争うほど心が痛む謝罪だった。
声が震えたが、しっかりと意志を伝えられるように言い切った。
「高橋くんのこと、嫌いじゃないし、良い人だと思うけど……私、好きな人がいるから」
告白なんて、マンガや小説の中ではよくあるシチュエーションだ。
男の子がフラれるシーンなんて、ちょくちょくコミカルに描かれていたりするが、とんでもないことだと思った。
勇気を振り絞って好きな人に想いを伝えたのにそれが実らないなんて、世界が終わるような感覚だろう。
自分とメイに置き換えて想像してみたら痛いほど分かる。
振る側だって、自分の返答がどれだけ相手を落ち込ませるかを分かった上でその言葉を絞り出すのだ。
決して笑い草や噂話の種にしていいようなやり取りではない。
「そっか」
高橋くんは一つ息を吐いてから、短くそう呟いた。
平気なフリをしていることを悟らせまいとする口調が、逆に痛々しかった。
「ごめんなさい」
私はもう一度そう言って、頭を下げた。
高橋くんの想いに答えてあげること以外、どんな行動も慰めにはならないだろうと理解した上で、そうせずにはいられなかった。
くどくどと言葉を並べるよりも、そうしたほうが私がどう感じているかを伝えられるような気がした。
「……紺野の好きな奴ってさ、誰か聞いてもいい?この学校の人?」
俯いて、スラックスのポケットに両手を突っ込みながら、高橋くんが私に尋ねる。
「いや、逆恨みとかそういうのは絶対しないから。ただ、そっちのほうがスッキリできると思うからさ」
私は、駄目だと思いつつも高橋くんから目を逸らした。
誤魔化すとも本当のことを話すとも決められない迷いの気配だけを見せてしまった。
「……もしかして、冴木?」
きっと、すぐそばで見ていた人には何か伝わってしまうものがあったのだろう。
その予想をぶつけられたことはあまり意外ではなかった。
誠実に思いを告げてくれた相手だからこそ、嘘をつくことは憚られた。
私は目を逸らしたまま、小さく頷いた。
「……マジか。ってか、やっぱりか」
両手で頭を抱えて、天を仰ぐ高橋くん。
フラれた理由が女子のクラスメートだったなんて、一体どんな気分だろう。
申し訳無さは募るが、どうしようもない。
「……やっぱり、そういう風に見えてた?」
私は視線を戻せないままで、囁くように尋ねた。
「……うん。信じたくなかったけど、そうなんじゃないかって疑いは、ずっとあった」
「……本当に、ごめん。でも、私がメイのこと好きなのは本当だから。私達、中途半端な気持ちとかじゃないよ」
「……私達、か。ってことは冴木も?」
「……うん。そうだよ」
「…………そっか」
もう一度同じように呟いて、高橋くんはステージに背中からもたれ掛かった。
「うん、なんか、それなら逆に諦めつくかも。冴木が相手じゃ敵わなそうだしな」
どこまで本心かは分からないが、高橋くんは苦笑を漏らして言った。
「あーあ、なんだか納得だよ。お前らの演奏見てるとさ、息があってるとかそういうレベルじゃねえもん」
「……本当に、気の迷いとかそういうのじゃなくて、真剣に想ってるんだ。お互い通じあってて、そばにいないとおかしくなっちゃいそうなの」
「……はいはい、ごちそーさん」
「……ごめん。断るために嘘ついてるとは、思ってほしくなかったから……」
「わぁーってるよ。納得だって言ってるっしょ?あー!今日の内に返事が聞けてよかった!今夜は男どもと泊まりこんでヤケ食い決定!」
前日の徹夜作業は禁止だと連絡があったが、事実上黙認されているらしい。
夜食を買い込んで教室で夜明かしというのも確かに楽しそうだが、流石に女子にはハードルが高い。
「野郎に慰められても潤わねーけど、それもそれで楽しいやな。思い出思い出」
「え?告白したって、友達に言っちゃうの?」
「……あー、それについては、逆にごめん。今日、紺野に告白するって、何人かには言っちゃったんだ……」
「え?そ、そうなの?」
「文化祭までに彼女作るって燃えてた仲間がいてさ。俺だけ誰が好きか言わないわけにもいかなかったし……。あ、もちろん冴木のこととかは言わないよ。ただ単にフラれたってだけ報告するから」
そういう仲間内の付き合いもあってのことだったのかと知ると、少し複雑な気分だった。
文化祭の日付に追い立てられた勢い任せの告白だったのかと落胆もした。
逆に、そういう動機だったのなら断ったことをそこまで気に病まなくても良いかと救われた気分でもあった。
「んで?そっちも何か用事があったんでしょ?どーしたの?」
「あ……うん」
どう考えても、メイに関係することで相談なんか出来る空気ではなかった。
「ごめん、なんでもないや」
「……そっか」
深くは突っ込まずに、高橋くんはまた空を仰ぎ見た。
砂利の広場を吹き抜ける風は、少し埃っぽくて目を細めたくなる。
毎日のようにここに通って、ほとんど一人でステージを作り上げて、これで明日のバンドバトルが大成功に終わっていたら、きっと高橋くんにとってここは思い出の場所になっただろう。
彼が毎日遅くまで頑張っていたのを私とメイはすぐそばで見ていた。
無責任な要求を押しつけた軽音部に腹を立てながらも、彼は自分の引き受けた仕事にちゃんと向き合っていた。
そして楽しそうだった。もしかしたらそれは、毎日私と会えたからだったのかもしれない。
できることなら、そんな高橋くんに笑顔で居続けて欲しかった。
こんな寂しげな顔は、見たくなかった。
もう友達として今までどおりに会話することも、難しくなるのかもしれない。
様々な思いが、一度に胸に押し寄せてくる。誰も悪くなんかないんだ。
誰も間違っていない。
なのに、なんでこんなに悲しい選択をしなきゃいけないんだろう。
「高橋くん……」
「ん?」
「ステージ、頑張ってくれて、ありがとう」
「……」
意表を突かれたという顔で、高橋くんは私を見る。
「明日、頑張るから。このステージを作ってよかったって思ってもらえるように。最高の演奏にするからね」
そう口にしながら、にっこり笑おうとした。
なのに、唇が歪んで、眉根が寄って、視界が滲んだ。
「紺野……」
私は両手でぐしぐしと涙を拭う。
しゃんとしなくては。
メソメソして言いたいことも言えない女になんて、なってたまるか。
「ごめん。頑張ってくれたの、知ってるから。少しでもお返ししたいんだ。無駄だったとか、嫌な思い出になっちゃったとか、思ってほしくなくて……勝手だよね。私のせいなのにさ」
「……紺野のせいとかじゃないって」
高橋くんに私を慰めるようなことを言わせてしまって、私はさらに胸が苦しくなった。
「ごめん……。こんなこと言いたいわけじゃないのに……」
「いいよ。俺さ、紺野がどんな奴か、結構わかってるつもりだから」
「ごめん……」
「……今度さ、一曲歌ってくれよ。そうだなぁ、『Stop crying your heart out』がいいかな」
それは、悲しみにくれる人を励まし慰める、とても切ない雰囲気の歌だった。
今の彼にはぴったりな曲かもしれない。
それを私が歌っていいものなのか、一瞬迷ったが笑ってOKすることにした。
「……わかった。高橋くんも色々歌ってくれる?」
「おう、『Don’t look back in anger』、歌ってやる」
「……やめてよ、また泣いちゃうよ、私」
こんな軽口をあんなやりとりの直後に叩けてしまうのは、高橋くんの人柄だと思う。
告白自体は真面目で重みのあるものだったけど、結果を聞いてからの態度はカラッとしたもので、私が罪悪感に苛まれないようにと気を使ってくれているのが伝わってくる。
その思いやりがいじらしいほど、その人の想いに応えられないことが心苦しい。
でも私も平気なフリをしなくては。
きっと私が落ち込むほどに、彼は空元気を見せようとするだろう。
「……明日、頑張って」
「うん」
「採点は、公平にすっから」
「わかってる」
「冴木と、これから練習?」
「そのつもり」
「じゃあ、悪いけど、今日だけはここ以外のとこでやってくれ。一人で、仕上げしたいからさ」
「……わかった」
「……さってと、終わらせちゃいますかね……」
私に背を向けて作業を始める高橋くん。
泣き出したい気持ちを隠しているかのような背中から、私はゆっくりと視線を外して踵を返した。
できるだけいつもと変わらない様子を装おうとしたが、少し膝が震えているような気がした。
校舎に戻って階段を登り、ギターと鞄を隠している空き教室に身を隠した。
スマホをチェックする。
メイはクラスの準備が終わったらメールすると言っていたが、まだ連絡は入っていない。
良かった。泣いてしまった目の充血が元に戻るまで、ここで少し時間を潰していることにしよう。
廊下に面した壁に背中を預けて、深い溜息をついた。
薄く窓に映る自分の前髪が短くて、まだ少し見慣れない。
メイとお母さんは綺麗になったと言ってくれた。
男の子の目から見てどうか、高橋くんにも聞くつもりだったのに、それどころではなくなってしまった。




