42.メイ
美容院から戻ったヒロカは、予想していたよりもずっと綺麗になっていた。
前髪が短めなので眉を入念に整えてもらったのだそうだ。
眉と額が顕になることで子供っぽい印象になるかと心配していたが、両サイドのゆるいカールが愛らしく、あどけなさと女らしさのバランスが絶妙だった。
私は数十分前にエリカさんと話した内容をあまり思い出さないようにして、部屋の中で思い切りヒロカとベタベタして過ごした。
余計な考えが過ぎりそうになるたびに、私はヒロカにキスをした。
ヒロカが話している途中でもお構いなしだった。
唇を奪う度、ヒロカは驚いたり照れたりしながらもただ目を閉じて私を受け入れてくれた。
このまま部屋にいると本当に襲ってしまいそうだからと冗談めかして言い訳をして、六時頃に御暇した。
店頭まで見送りに出てきてくれたヒロカの顔がほんのりと赤らんでいて、エリカさんに何か勘ぐられたりしないかと心配になった。
紺野書店から十分離れたことを確認してから、私は麻生駅に向けて走りだした。
考えても仕方のないことと分かっていながらも、エリカさんの言葉が頭で渦を巻く。
その度にヒロカの唇の甘い香りと感触を思い出して頭の中を塗り替える。
繰り返している内に、気が付くとホテルの自室にたどり着いていた。
どうやって帰ってきたのか、道中のことはほとんど記憶に残っていない。
私は服を勢い良く脱いで、下着姿になった。
胸に残る痕を姿見に写して、指でなぞる。
そして、自分の頬を両手で強く叩いた。
しっかりしなくては。私はヒロカとキスしたんだ。
その時に決めた。私がヒロカをリードしていくんだ。
またウジウジ考えて落ち込んだら、ヒロカがくれた言葉とおまじないが無駄になる。
そんなこと許せるはずがない。
もう、理屈をこねくり回すのはやめた。
もともと私自身がこんなにも矛盾した存在なのだ。
言葉で説明が付かないくらい何だと言うんだ。
私は上下ジャージに着替え、スニーカーに両足をねじ込んだ。
今日はとことん走ろう。
ごちゃごちゃ考える体力がなくなるまで、体中のエネルギーを発散してしまおう。
そうして最後に残るのは、きっとヒロカを好きだと思う気持ちに違いない。
翌日の学校の授業は午前中のみで、午後は文化祭の準備に充てて良いとのことだった。
どのクラスも追い込みに入っており、今までバンドバトルのステージ制作ばかりに時間を割いていた私も、流石に今日ばかりは昼食時間返上で作業をする羽目になっていた。
教室の机と椅子を四階の空き教室に運び込んで、代わりに体育館から折りたたみ式のパイプ机を運びこむ。
テーブルクロス代わりの安物のシーツをパイプ机に被せてテーブルを作り、理科室から借りてきた丸椅子を配置する。
一昔前のスナックのような雰囲気を目指して、バーカウンター式の席を十六席、六人がけのテーブル席を二つ用意した。
接客のキャパシティ的にはこの程度が調度良いと見込んでいるらしい。
教室の雰囲気を出来るだけ消すために、お酒の瓶やタンブラー、ワイングラスなどが並んでいる棚の写真をカラープリントして壁一面に貼り付けていった。
壁の装飾が出来上がってみるとなかなかに壮観だったが、テーブル周りが酷く殺風景だとの声が上がり、雰囲気を出せるような小物を学校中手分けして探すこととなった。
私は前原さんに誘われて、一緒に芸楽館を物色することにしていた。
「うわー、すごい埃……。この石膏の胸像とか、持ってったらどうかな?」
「……流石にちょっと存在感ありすぎじゃない?」
「そっか。ってかこれって何に使うのかね。中学にもあったけど」
絵の具と油とカビの匂いが充満する美術準備室。
前原さんが言うとおり何に使うのか分からないガラクタの山をかき分けて、テーブルを飾れそうなアイテムを探す。
正直あまり長居したくなるような場所ではなかった。
こんな空気の悪い場所にいて体調を崩して、明日喉の調子が狂ったりしたら洒落にならない。
私は適当に探す素振りをしつつ、窓を開けて外の空気を吸っていた。
「あれー、さいきさんやる気ないー?」
「ごめん、ちょっと埃がひどくて」
「あー、ね。まあ、適当でいいけどさ、こんなの」
前原さんはパテを塗るコテのようなものを放り投げて、私の隣で窓枠に頬杖をついた。
「いやー、明日だねぇ、ついに」
「そうだね」
「バンドバトル、楽しみにしてるよ。クラスでも手が空いてる人連れて行くからさ」
「……ありがと」
どことなく投げやりな口調の前原さんの言葉は、社交辞令っぽさが滲んで聞こえる。
もしも本番で大失敗をして散々なステージになったら、次の日から教室でどんな風に接してくるのだろうか?
もちろん、そんな結果にするつもりは全く無いが、もしそうなったらきっと腫れ物にさわるようになって、暫くまともに話もしなくなるだろう。
それでいて私のいないところでは、思う存分噂話を楽しむのだろう。
確信なんかないが、そうするに違いない。
妙に気持ちがささくれ立っている。
私は無性にヒロカに会いたくなった。
あの甘い声で、私の名前を呼んで欲しい。
クラスの準備作業なんて放り出して、ヒロカに会いに行ってしまいたい。
ヒロカ……。
今何をしてるんだろう。
「あれ?あそこにいるのって……紺野さんじゃない?」
「え?!」
窓から身を乗り出す前原さん。
その指が差す先には、完成直前のバンドバトルのステージ。
そしてヒロカがいた。
ステージの端に腰掛けて、隣りにいる男子生徒と何やら話し込んでいる。
「あれ、隣りにいるの、高橋くんじゃん。頭がウニじゃないけど」
本当だった。
二人がそこにいることは全く不思議ではない。
ヒロカは放課後ほぼ毎日あそこでギターの練習をしていたし、高橋くん入魂のステージ制作もいよいよ佳境だ。
奇妙なのは、ヒロカがギターを持っていないことと、高橋くんが神妙な顔をして腕組みをしていることだ。
「なになに?!あんなところで密談なんて、なんか雰囲気やばそうじゃない?」
三階の美術室から体を半分乗り出すようにして、前原さんは二人の姿を凝視する。
「あの二人、付き合ってたりしないよね?」
「……え?ああ、それはないと思うけど」
「じゃあ、告白とか?どっちがどっちにかな?!」
それまでの気だるげな様子が嘘のように、水を得た魚のようにはしゃいで鼻息を荒くする前原さん。
私は彼女の視線が二人に向いているのをいいことに露骨に眉をひそめた。
「ね、さいきさんは気になんないの?本番前日にパートナーに大事件かもよ?」
「あー、うん……」
うんざりしながらも、私は横目で二人の様子を見ていた。
男子にしては小柄な高橋くんと、彼よりもさらに十センチくらい背が低いヒロカ。
何も知らない人から見れば、カップルだと言われても違和感はないかもしれない。
事実高橋くんとヒロカは気があっていた。
ヒロカのギターで高橋くんが歌った時のことを思い出す。
そして同時に、エリカさんの言葉がまた頭の中で再生される。
『普通が一番よ』
あの二人ならば、普通なのだ。
もしもあの二人がお互いを好きになったとしても、誰も違和感を覚えたりはしない。
微笑ましく初々しいカップルとして祝福してもらえるに違いない。
胸に湧く嫉妬のような感情を、私は歯を食いしばって抑えこんだ。
ここで悩んだり落ち込んだりしたら、今までの私と同じになる。
それじゃだめだ。
変わるんだ。
何が何でも、ヒロカと一緒にいるために。
「あー、もうダメ。そば行って様子見てくる!」
「……え?!ちょっ?!」
前原さんは野次馬根性を隠そうともせず、下品な笑みを顔に張り付かせたまま美術準備室を飛び出していった。
制止しきれなかった私の右手が宙に取り残された。
「……」
吸い寄せられるように、私の視線は二人の方に向けられていった。
さっきまでは何やら深刻そうな話をしている様子だったが、今は普通に談笑しているように見える。
特に高橋くんは体で感情表現をする人なので、この距離でも心境が読み取れてしまいそうだ。
高橋くんは、楽しそうにはしゃいでいるように見えた。
ヒロカが右手を口元に運ぶ。その仕草で、笑っているのだと分かった。
高橋くんは、ヒロカが髪を切ったことに気づいただろう。
前より明るく、女の子らしくなった彼女を見てどう思っただろうか。
いつものように素直に可愛いとか、似合ってるとか言ったかもしれない。
……やめよう。
こんなことを想像しても何の意味もない。
私は窓を閉めた。
私が一方的にヒロカの様子を盗み見するようなことをするべきではないと思った。
それに、二人がいまどんな会話をしていたとしても、私とヒロカの関係には何の影響もない。
それは確かなことだ。
私は知らぬうちに肩に込もっていた力を抜いて、美術準備室を後にした。




