41.メイ
美容院から十分程度で、紺野書店に着いた。
少し緊張しながら入り口のスイングドアを押し開けると、いつもの様に来客を感知してアラームが鳴る。
カウンターにいて何やら書き物をしていたらしいエリカさんが顔を上げて、相好を崩した。
今日は髪をアップにしているせいか、いつもよりも一段と若く見える。
「いらっしゃい、メイちゃん」
「どうも、お邪魔します」
軽く会釈すると、エリカさんはニッコリと笑って二階への階段を指差して見せた。
「寛から聞いてるよ。上がって、部屋で待っててちょうだい。すぐお茶持って行くから」
「あ、ありがとうございます。その、お構い無く」
「お父さーん!ちょっと店番代わって!お客さん来たからー!」
少し急な二階への階段を慎重に登って行って、段ボールがうず高く積まれたバックヤードを通り過ぎ、ヒロカの部屋にたどり着く。
ドアを開くと、紙と防虫剤の匂いによく知った女の子らしい華やかな香りが混じった。
この部屋を訪れるのももう数回目だが、一人で入るのは初めてだ。
私は今日急遽部屋に来ることになったにも関わらず、相変わらずよく整頓されており、掃除も行き届いていた。
二つあるクッションのうち一つをウサギが専有していたので、私はその隣のもう一つに正座した。
改めてヒロカの部屋を見渡してみる。
ヒロカが今まで一番多くの時間を過ごしたであろう場所だと思うと、何だか感慨深い、昨日までとは違う感覚があった。
どこか懐かしさを感じる木と畳の匂いと、ヒロカのシャンプーやボディーソープ、それからリップやコロンの香り。
タンスと学習机に大量に貼ったらしいステッカーの痕。
出来る限り女の子の部屋らしさを演出しようとしたらしいCDラックやゴミ箱のポップなデザイン。
押し入れの襖の穴を手直しした痕跡や、長年愛用していると思われるぬいぐるみ達。
ヒロカらしさの欠片がそこかしこに見つかって、私は思わず微笑んでしまう。
子供の頃のヒロカがこの部屋の中を駆けまわっている様が容易に想像できた。
ドアがノックされる。
私は少し戸惑いながらも返答をした。
お盆を抱えたエリカさんが入ってきた。
「ごめんなさいね、寛が考え無しなもんだから、お待たせすることになっちゃって」
「いえ。私も髪型どうなるのか、早く見てみたいので」
エリカさんはお盆を畳の上に置くと、小皿に乗ったわらび餅を私の膝の前に置いた。
「あ、すみません、いつもお邪魔するたびに色々ごちそうになってしまって……」
「いいえ。つまらないものばかりだから。遠慮せずに食べていってね」
「あ、昨日、ヒロカからお惣菜、受け取りました。わざわざ用意して頂いたのにすみません、まだいただいていないんです」
「あー、はいはい。気にしないで。冷蔵庫入れてれば三日くらいは持つだろうから、ゆっくり召し上がって」
恐縮しきっている私にひらひらと手を振って見せて、エリカさんは急須を持ち上げて揺する。
受け皿のついた二つの湯のみに、少しずつ交互にお茶を注いでいった。
その仕草は嫋やかという言葉がぴったりだった。
「……お茶、凄くいい香りですね」
思わずそう言葉にしていた。
他の匂いを消してしまうような強さはなく、逆にどんなものとでも調和していくような、広がりと包容力のある香りだった。
「粗茶もいいところなんだけどね。私、この焙じ茶の匂いが大好きで。初めて日本に来た時はこればっかり飲んでたの。イングランドに買って帰って、紅茶党のママと大喧嘩したわ」
舌を出す仕草がヒロカと重なる。
髪や瞳の色は違っても、仕草や表情が明確に二人の親子関係を証明していた。
「あ、ごめんなさいね、勝手に居座るつもりで自分のお茶も用意しちゃったけど、少しお話しててもいいかしら?」
「もちろんです。あ、これ」
私はウサギが使っていたクッションをエリカさんに手渡した。
ウサギは私のすぐ隣に座っていてもらうことにした。
「ありがと。なんだか馴れ馴れしくて悪いわね。初めてメイちゃんが家に来た時にお話聞いて以来、なんだか他人とは思えなくって」
エリカさんはお茶を受け皿ごと自分の膝の前に引き寄せてから湯呑みを両手で持ち上げ、優雅な仕草で少し口に含む。
私は少し返事に窮して、真似をしてお茶を飲むことにした。
熱と一緒にゆっくりと体に染み入っていくような、優しい香りと味わいだった。
前もそうだったが、この部屋でエリカさんと対峙するときは何故かお互い正座だ。
畳の雰囲気がそうさせるのだろうか。
お茶と和菓子まで登場するといよいよ茶道の真似事をしているような気分だ。
「なんだか不思議なのよ。寛が初めて親友だって言って連れて来た人が私と同じような境遇の人だなんてね」
「……その、エリカさん。私って、そんなにエリカさんと似ていますか?」
湯呑みから視線を上げて、エリカさんは申し訳無さそうに笑った。
「こんなおばさんと似てるなんて言われたら嫌よね」
「あ、いえ。むしろ逆です。私はエリカさんみたいに女らしくないですし……」
「あははは、お上手。まあ、論より証拠ね。ちょっと待ってて」
音もなく立ち上がり、一旦部屋から出ると数十秒で戻ってきた。
手に、色あせたカラー写真を持っていた。
「もう二十年以上前だけど。十六歳の頃の私の写真」
「……これって……」
窓際に置かれたボロボロのソファに座って、アコースティックギターを構えている金髪の少女。
その髪型は今の私とほぼ同じ、腰辺りまで届く伸ばしっぱなしのロングヘアーだった。
この写真を撮影した相手を警戒しているような、少し険しい視線をこちらに飛ばしている。
飾り気のないオーバーサイズ気味の黒Tシャツとブルージーンズ、足元はシンプルなローカットの革靴だった。
「どう?雰囲気似てない?」
「……はい。なんていうか、そっくりだと思います」
謙遜も忘れてしまうほど、そこに写っていた少女の姿は自分と重なると思った。
少し厭世的というか、人間不信一歩手前とも思えるような、睨みつけるような目つき。
学生証に使う写真を撮ってもらうと、私はいつもこんな顔をしている。
「分かってもらえた?実は、話を聞く前からちょっとビビッと来てたのよ」
「……なんだか、ちょっと怖いくらいですね」
「でしょ?私がもし日本人の両親から生まれてたら、きっとメイちゃんみたいになってたと思うわ」
私から写真を受け取り、エリカさんはそれをエプロンのポケットに仕舞った。
「メイちゃん自身のことももちろんなんだけど、ちょっとお話したいのは、寛のことでね……」
「ヒロカのこと、ですか?」
「ええ。さっきも言ったけど、寛が名前を呼び捨てで呼ぶような友達なんて連れてきたの、初めてだったのよ」
もう一度お茶を口に含んで、昔を思い出すように視線を中空に投げる。
「小学校までは、体が小さいのと、髪の色のことで学校でいじめられたりもしてたみたいで、そのせいもあって中学では目立たないようにすることだけに専念してたみたい」
「……」
「恥ずかしい話なんだけど、小中の九年間、私毎日悩み通しだったの。ヒロカが学校で上手くやっていけないのは、私の育て方に問題があったんじゃないかって」
「そんな……」
「考え過ぎだって思うでしょ?主人にもそう言われ続けてたんだけど。普通に両親がいる家庭で、母親がどうやって娘に接するべきなのかっていうのが、全く見当がつかなかったのよ。私のママってば、どっちかっていうと男親みたいな人だったから」
大人の女性が女親のことをそう呼ぶのはなんだか新鮮だが、欧米では普通のことなのだろう。
「本当に、毎日手探りで、どっちかっていうと後悔するようなことばっかりだったのよね。もっとこうしておけばよかったとか、なんでああしなかったんだろうとか。もし私の育て方のせいで、私が過ごしたみたいなつまらない青春時代を寛も過ごすことになっちゃったらどうしようって、内心怯えてばっかりで。きっと、自分の子供の責任をちゃんと背負いきれるほど大人じゃなかったんだろうね」
普段ヒロカと接している時、エリカさんはもっと自信に満ちていて、何一つ迷うことなどないという雰囲気でいる。
きっとヒロカは、その母親の姿しか知らない。
でも考えてみれば、娘だからこそ見せられない面というものがあっても不思議じゃない。
「そんなに、エリカさんの青春って……」
「ええ、もう、ロンドンの空よりドンヨリよ。お金もない、やりたいことも見つからない、家に帰ればママのお説教」
肩をすくめて下唇を突き出すエリカさん。
珍しくとても外国人らしい仕草を見せてくれた。
「なんていうか、捻くれちゃったのよね。メイちゃんなら分かってくれるような気がするんだけどさ。身の周りの人が全部自分より幸せで満ち足りてて、一段上から自分を見下してるように思えたの。そりゃ友達も何も出来ないよね」
私は小さく頷いた。
感じ方に少し差異はあるが、似たような思いは確かに私の中にもある。
ヒロカと会うまでは、自分の不遇を嘆くばかりで無気力になっている部分があったと、今なら自覚できる。
「だから最近の、毎日楽しそうにしてる寛を見てるとね、凄く救われた気分になるの。いい友達が出来て、夢中になれることが見つかって。きっと今の歳のそういうのって、一生ものの思い出になっていくでしょう?メイちゃんとの付き合いが、出来れば大人になってからも続いていってくれれば、寛にとっては財産になるかなって思って」
なんとなく、そう口にするエリカさんに親近感を感じた。
「娘のため」とだけ言われたら少し鼻につくような内容だったかも知れない。
しかしエリカさんは娘を持つ親の立場として、自分の弱さや未熟さ、自分が抱える不安を隠さなかった。
私の知る他の大人たちは、こんな風に明け透けに弱味を見せたりなんかしない。
「世の中を生きる大人というのは迷ったり思い悩んだりなどしない。あと数年で君たちも同じように強く、責任と自覚を持った人間にならなくてはいけない」とでも言いたげにしている。
カッコいい社会人でいるために、そこに至るまでの苦労やミスをひた隠しにするものだ。
子供の立場からしたら、良い模範であることに必死になるよりも、もっと身近に感じられる存在で居て欲しいと思うのに。
「何ていうか、複雑なんだけどね。自分に似ないようにって育てたつもりの娘が、自分とそっくりな人を親友として連れてくるなんて」
「それは……そうですよね」
私はまた答えに窮した。
私が困っている様を見てエリカさんは指先で口を隠して笑った。
ちょっと意地悪をされたようである。
やはりヒロカとエリカさんは親子だ。
好意を隠さないくせに少し意地悪だったりするところがよく似ている。
それに何より、二人の言葉には自分を飾ったり守ったりする部分がない。
思うこと、伝えたいことをそのまま話してくれるから、私も素直に接することが出来るのだと思った。
「まあともあれ、何か一方的な言い分で悪いんだけど、寛と末永く仲良くしてあげて下さい」
「あ、はい。私の方こそ、その、不束者ですが」
何だかお見合いの挨拶みたいになってしまった。
二人してクスクスと笑う。大人になったヒロカと話しているみたいな感じだ。
「何か悩んでることとかあったら、すぐ相談してね。似た者同士アドバイスできることがあるかもしれないから」
「はい、ありがとうございます」
「何か困ってることない?恋の悩みとか」
「……」
固まる私。
それを見過ごさないエリカさん。
「あー、その反応は何かあるのね。流石ね、メイちゃん」
「い、いえ!そんなことはなくて!」
「え、何もないの?」
「いや……ないというか、何というか……」
まさか、実は娘さんが好きです。
もうキスもしました。
なんて言うわけにも行かず、私は馬鹿みたいに口をパクパクさせた。
私の様子をただ照れているのだと勘違いしたエリカさんはうっとりとした笑顔で自分の頬に手の平を添えた。
「あぁ、いいなー、若いって!羨ましい!私も青春やり直したい!」
ヒロカとそっくりの口調でボヤくエリカさんの声が大きくて、一階のお父さんに聞こえないかとハラハラした。
「それより、問題は寛よ。あの子、小学校高学年っていっても通じるような感じでしょ?どっかのペドフィリアに目をつけられたりしないか心配で……」
「…………」
すみません、お母さん。
私って、そのペドなんとかなんでしょうか……?
「もう、別に高望みはしないから、普通に恋をして、慎ましくても普通の家庭を築いてくれればそれで万々歳なんだけどね。本屋も継いでくれなんて言わない。普通の生活が一番よ。私みたいな特殊な環境で育った人間だと、特にそう思わない?」
冗談めかしていたエリカさんの口調が少しシリアスになって、私は顔を上げた。
改めて金髪碧眼の美貌と向き合った。
「……普通、ですか」
「そ。今の世の中はそういうのも難しくなってきてるのかもしれないけどねぇ」
普通。非常に定義が曖昧な言葉だが、私とヒロカの関係には当てはまらないことだけは確かだ。
私たちは、普通じゃない。
私は、エリカさんがヒロカに望む未来の姿を、歪めてしまう存在なのかもしれない。
だというのに、エリカさんが私に親近感を覚えて、こんなに良くしてくれている。
私は、ヒロカとどうなることを望んでいるのかと改めて考えてみる。
答えは単純で、ずっと一緒に居たい。
決して中途半端な気持ちではなく、何年先でもそうありたいと思う。
言葉で定義することが難しい関係だったとしてもだ。
では、十年後、二十年後は?
自分の将来さえ朧気にも想像できないでいるのに、同性のパートナーを得ることだけは決める?
そんなことが許されるだろうか。
私達二人なら、男の役回りは私だ。
私はヒロカを守り、養って、女性としての普通の人生以上の幸せを与えられるだろうか?
そもそも、なぜ私は、女の子であるヒロカをそこまで好きになったのか?
何故その末の未来について少しでも想像して、ブレーキをかけなかったのか?
エリカさんの言う「特殊な環境」が、私を歪ませたから?
ヒロカが私を彼氏みたいに扱うから?それは何故?
私と似ているエリカさんに育てられたヒロカも歪んでいるから?
違う。ヒロカとエリカさんがおかしいなんてはずはない。
「ママは赤ちゃんの頃の寛にメロメロでね。もー聞いたことないような猫なで声出すの!見てて照れくさかったけど、それ以上に、なんていうか、誇らしいっていうのかな。恩返しができたって思ったの。いつか寛も、私と同じような気持ちになる日が来るのかなーって思うとちょっと感慨深くて。ママってば、ひ孫を見るまでは絶対死なないなんて今から張り切ってて……メイちゃん?」
津波のように押し寄せる自問に、頭がオーバーヒートしそうだった。
「あ、すみません……。足が、痺れちゃって」
「ああ、ごめんごめん!楽にして!」
相変わらず、こういう言い訳だけは上手いと思う。
私は痺れてなどいない足をかばう素振りをしながら正座を崩した。
自己嫌悪がちくりと胸を刺した。
「何だか一方的に話しちゃったけど、要はヒロカをよろしくねってことと、何かあったら力になるから相談してねってことだから」
「はい……。ありがとうございます」
上手に笑ったつもりだったが、エリカさんは少しだけ訝るような、心配そうな表情を見せた。
「その、ヒロカとは、ずっと仲良くしたいです。絶対」
取り繕う言葉だとしても、せめて間違いのない事実を口にしたかった。
エリカさんはその言葉の裏にある意味など知る由もなく、ニッコリと笑って頷いた。
「ありがとう。ヒロカは幸せ者だわ」




