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Whatever  作者: けいぞう
40/78

40.ヒロカ

「……あれ?」


 目を開いて、ぼやける視界の中の天井に木目がないことに気づいて、私は両手で瞼をこすった。

 真っ白で生活感のない部屋の壁と天井。

 部屋の真ん中に置かれたベッドの上で、私は大きく伸びをする。

 踵が糊のきいたシーツの感触を感じとると同時に、右の肘が、何やら柔らかいものに触れる。

 右側を見やると、黒髪の少女が静かに眠っていた。

 朝と言うには少し遅い時間の日差しが窓から差し込んでいる。

 白いシーツの上に放射状に散らばる黒髪は、人体の一部であることが信じられなくなるほどに美しい。

 その光沢のある黒を見ていると、何故か新品のグランドピアノを連想した。


 一足先に目を覚ました優越感に浸りながら、私は頬杖をついてメイの寝顔を眺める。

 凛々しく通った鼻筋、少し薄めの唇、横から見るとびっくりするほど長い睫毛。

 着ているものがホテルのロゴの入ったガウンではなく、豪華なドレスだったら、お伽話の眠り姫のように見えるだろう。


 眠り姫……。


 私は自分の髪がメイの寝顔に落ちないように注意しながら、素早くメイの寝顔に顔を近づけて、軽く結ばれた桜色の唇を自分の唇で覆った。

 キスしようとまごまごしているうちに相手が目覚めてしまうなんてお約束はいらない。

 私は速やかに行動に移した。

 眠っている彼女の唇は全くの無抵抗で、昨日の夜とはまた違った感触だった。

 軽く上唇を啄んでみても、反応はない。

 下唇に同じことをしても、無反応。


「……」


 なんだか、とんでもなくいけないことをしているような罪悪感に襲われて、私はメイから顔を離した。

 今更になって、昨夜のことが現実だったのかどうかがあやふやなってきた。

 まさか、夢?

 だったとしたら、今のが私のファーストキス?

 いやいやいや、あんなに強烈な記憶が夢なんかであるものか。

 ……しかし、いつ眠ったんだろう。

 回数を重ねるごとに夢心地になっていって、そのまま意識を失ってしまったような気がするが……。

 私が先に寝てしまったのだろうか?

 だとしたら、そのあとメイはすぐ寝たのだろうか?

 それとも今の私と同じようなことを……?


 夜の魔力というのは凄まじい。

 同じ部屋に同じ状況でいるのに、つい数時間前のことを思い出して身悶えしそうなほど赤面してしまう。

 私は枕に顔を埋めて、小さく足をバタつかせた。


 (キスしちゃった……!メイに、メイと!)


 たった一箇所、体の一部分が触れ合ったことがあるかないかで、私達の関係は大きく変化した。

 私は枕から左目だけを出してちらりとメイの寝顔を盗み見る。

 眠っていても凛とした横顔。

 なんて綺麗なんだろう。

 こんなに綺麗な人と、私は……。

 そのあと暫く、メイがゆっくりと目を開くまで、私のバタ足は続いた。


「おはよ、メイ」


 先に起きて心の準備をしておけたのはラッキーだった。

 頬杖をついて余裕の表情を装い、私は朝の挨拶をした。

 メイは二、三度目をぱちくりさせたあと、眩しそうな顔で笑った。


「おはよ。ヒロカ」


 ……なんだか予想と違う反応だった。

 逆の立場だったら恥ずかしくて枕か布団で顔を隠してもじもじしているところなのに。

 それどころか、微笑みを浮かべながらゆっくりと顔を近づけてきて……。


 さらりと、まるでいつもの挨拶であるかのように唇を重ねる。

 私が何かリアクションをする前に、さっさとベッドから立ち上がって浴室に入っていってしまう。

 ベッドの上に取り残された、ぽかんとした顔の私。

 何あれ。何あの、大人の男みたいな仕草。

 ――やばい、カッコ良い。

 本間先生から助けてくれた時のことを思い出してしまった。


「ヒロカ、お腹すいたでしょ?」


 メイの声はドアの向こうからでもよく通る。


「う、うん。もうペコペコ」

「じゃあ、今日は麻生に行こうか。ご飯食べて、美容院行って、仕上がり見せてよ」

「あれ、じゃあ今夜一人でここに戻ってくるの?」

「うん、そのつもりだけど」

「寂しくない?」


 ガチャリとドアが開く。

 ジーパンと、上半身は白いブラだけ着けた姿だった。

 私は自分の目がまんまるになるのを感じた。

 薄っすらと割れた腹筋と、想像以上に深い胸の谷間。

 そして、その谷間に見え隠れする赤い痣のような痕。

 メイは恥ずかしがる素振りもなく、真っ直ぐに私の顔を見据える。


「大丈夫だよ」


 それだけ言って、にやりと笑って、ガチャリとドアが閉まる。

 ……何?あの余裕……。


 

 身支度を整えて、私たちはステーションインを出た。

 夜の内に少し雨が降ったらしいが、空は雲一つない快晴だった。

 メイのブーツが水たまりにまんまるな波紋を作る。

 私のスニーカーは底が浅く、布地部分は水が染みてしまうので、濡らさないように水たまりを飛び越えて進んでいく。

 少し先に進んでは、遅れた私を振り向いて待っていてくれるメイ。

 私は駅舎の手前の最後の水たまりをぴょんと飛び越えて、コートのポケットに手を突っ込んでいるメイの左腕に腕を絡ませた。

 二人で同じ改札をくぐって、ホームに出る。

 腕を組んだまま、何を話すでもなく電車を待つ。私たちの他にもスーツ姿の男性と、詰襟を着た男子学生が同じホームにいたが、私は彼らの目など気にせずにメイにくっついていた。


 やっぱり、私達二人の間に流れる空気は昨日までと明らかに違う。

 言葉少なになって、でもそのことを窮屈とか気まずいとは思わない。

 何も言わなくても、少し腕を抱きしめるだけで、私が思っている全てのことが伝わる。

 好きで好きでたまらなくて、胸が苦しいくらい。

 そう思ってメイの肩に寄り添う。

 メイはすぐに私の頭を撫でてくれる。

 私は目を閉じて、メイの指先が髪の毛を梳いてくれる感触を噛み締める。

 自分の身長が小さいのは、きっとメイにこうしてもらうためなんだ。

 生まれて初めて、私は自分が自分で良かったと思えた。

 好きな人が受け止めてくれる自分だから、私自身も好きになれる。

 恋をするって凄いことだ。


 髪の隙間を通り抜ける指の動きが、メイも私と同じように思っていると伝えてくれた。

 旋毛から毛先へ移動する全てのストロークに込められた意味を解読していると、あっという間に電車が来た。

 全く待ったという感覚はなかったが、ホームに着いてから二十分が経っていた。


 電車に乗り込み、ボックス席の片側に二人で並んで座ると、周囲から見えなくなるのをいいことにさらにべったりとくっついていた。

 たった一駅の移動の間に、私たちは言葉を使わない沢山の会話をした。

 もっと早く勇気を出してこんな関係になっていればよかったね、とか、やっぱりメイが男役で私が女役だね、とか。

 そうこうしているとまたしてもあっという間に麻生の駅に着いてしまった。

 なんだか今日一日こんな調子ですぐに過ぎてしまいそうな気がする。

 体感にして昨日までの倍速くらい。

 それほど、私達の関係は飛躍的に形を変えてしまったのだと思う。


 流石に麻生の街でそこまで密着はしていられないので、手を繋いで駅舎を出て駅前広場に到着する。

 メイは私に何を食べたいかと尋ねかけて、考えなおしたように早足で歩き出した。

 私は少し後ろを黙ってついていく。何だか今日のメイはいつにも増して男らしく私を引っ張ってくれる。

 多分行き先は、ビー玉通りのカフェだ。

 私がいつも和食に文句ばかり言っているから、できるだけ洋風なおしゃれなお店を選ぼうとしてくれるのだろうと予想がついて、そうなると選択肢はもうそこくらいしか思いつかなかった。

 予想通りビー玉通りにたどり着いた時には、抱きついてほっぺにキスしたくてたまらなかった。


 Blancはこの街で唯一オープンテラスなんてものがあるカフェだが、残念ながら今はテラス席は満席だった。

 私たちはガラス張りのエントランスをくぐる。

 店内のフレンチカントリー調にまとめられており、ジャズアレンジのBGMが控えめな音量で流されていた。

 学校の教室よりも少し狭いくらいの空間に、白い木製のテーブルとチェアのセットが整然と並べられている。

 休日だけあって店内もテーブル席はほぼ満席だった。

 私たちは奥のカウンター席に通されて、二人並んで妙に足の長い椅子に腰掛けた。

 店内の壁が黒板になっていて、日替わりで書き換えているらしいメニューが見えた。

 ランチメニューのメインはガレットやクロックムッシュ、スイーツはカヌレやブリオッシュ、ギモーヴなんかもある。

 私はポーチドエッグとカマンベールチーズのガレットをオレンジジュースのセットで注文した。


「ヒロカ、クロックムッシュってどんなもの?」

「ホットサンドに、ホワイトソースみたいなのがかかってるやつ」

「……懐中時計持った紳士のおじさまが出てくるのかと思った……」


 メイは少し気恥ずかしそうに、クロックムッシュとホットコーヒーのセットを注文した。

 私のために不慣れな横文字の食べ物ばかりのお店に挑戦してくれたのが嬉しい。

 ひょっとして昨日行ったカフェでも男らしい注文をしていたのは、名前から実体を想像できるメニューが少なかったからだろうか。

 これから一緒に外食をするときは、できるだけメニューの品がどういうものなのかを説明してあげることにしようと思った。

 メイはどんな食べ物が好きなのか、本人に聞くんじゃなくて注文の傾向から分析してみたい。

 とりあえずブラックのコーヒーが好きなのは確かなようだ。


 やがて運ばれてきた料理を、二人でいただきますを言って食べ始めた。

 とろとろの卵とチーズ、ガレット生地を一口大に切ってフォークに乗せ、隣りに座るメイに差し出す。


「はい、あーん」

「ん……あ、おいしい」


 ガレットを初めて食べたらしいメイは、ちょっと感動した顔である。

 お返しのクロックムッシュを一口もらったりして、私たちはカップルっぽくカフェブランチを楽しんだ。


 会計を済ませ、また手を繋いでゆっくりとビー玉通りを歩き始める。


「あそこ、五年前くらいからここにあったんだけど、初めて入ったよ」

「そうなんだ。いい所だね。クロックムッシュって初めて食べたけど、美味しかった。また来たいな」

「今度、私が作ってあげようか?」

「え、作れるの?ていうか、ヒロカ、料理できるの?」

「うわ、失礼だなー!洋食なら作るの、得意なんだよ?中学ではお料理クラブだったんだから」

「……意外な過去ね」

「あ、メイはキッチン入っちゃダメだからね。絶対似合わないから」

「なにをー!」


 じゃれ合いながら、駅前広場のほど近くにある美容院を目指す。

 麻生高校の隣に広がる新山公園を突っ切っていくことにする。

 芝生の敷き詰められた広場を、ギターを抱えて逃げる私。

 キャリーを引きながら、小走りで追いかけてくるメイ。

 私は昔から、人に追い回されると何故か笑いが止まらなくなる。

 はしゃいだ笑い声が広場に響く。


 公園の中央には直径二十メートルほどの池がある。

 十字にレンガ造りの橋がかかっていて、十字の中央には半球形の屋根を持った東屋が設けられている。

 私は息を切らしながら橋の中央まで駆けて行って、太い円柱の裏にあるベンチに座って息を潜めた。

 ドーム状の空間の中には、私以外誰もいない。

 屋根の下の日陰は秋の陽光に慣れた目には少し薄暗くて、視界に入る芝生の広場の緑が眩しい。

 池の水面で乱反射する光が、東屋の柱や天井をキラキラと照らしていた。

 キャスケットを被って、ギターをソフトケースから取り出す。

 急いでチューニングを確認して、三カポセット。何を弾こうか。

 頭の中の楽譜インデックスを上から舐めていく。なんだか気持ちがいい天気だから、思いっきり爽やかな曲にしよう。

 私は『運命の人』のコードを思い出しながらストロークする。

 手首を柔らかくして撫でるように弦を鳴らしながら、弾き語り始めた。

 少し不思議で可愛らしい世界観の歌詞と、雲の上の世界を漂っているようなメロディが、この場所に凄く合っている気がした。


 サビに入ると、柱の裏側からメイの歌声が重なってきた。

 私は適当にコーラスを付ける。

 太い柱を挟んで背中合わせで、ドーム状の空間の中をメロディで満たすように、私たちは突発のセッションを楽しんだ。


 二曲目、『ホタル』の前奏を弾き始めたところで、橋の向こうから数人の子どもたちが歩いてくるのが見えた。

 先頭を歩く五歳くらいの女の子と目があって、私は演奏をストップした。

 歌いだそうとしていたメイが肩透かしを食らって、抗議してくる。


「メイ、『大きな古時計』」

「え?」

「歌って」


 ギター教則本の一番最初に載っていた練習曲のコード譜を記憶から掘り返しながら、適当に四小節のイントロを奏でた。

 何の打ち合わせもしなくても、メイは五小節目の頭、Bのコードに合わせて歌い出した。

 手を繋いだ子どもたちが、こちらの様子を伺いながら近づいてくる。

 私も首を左右に時計の振り子のように降って、笑顔で歌った。

 男女合わせて六人の子どもたちが東屋の中に入ってきて、私達を物珍しげに眺める。

 私は全員に目配せをして、「一緒に歌わない?」と聞いてみる。

 女の子の一人が歌い始めると、一人二人と声が重ねられていく。

 子どもたちに気づいたメイも、立ち上がって子どもたちに向き直り、指揮者のように指を振りながら歌う。

 チクタクに合わせて左右に体を揺らして、私たちは八人で大合唱した。

 歌い終えて、全員で拍手する。


「お姉ちゃん達、芸能人?」

「ギター、かっこいい」

「触ってみていい?」

「お姉ちゃん、外国人なの?」


 私達を取り囲んで質問攻めを仕掛けてくる子どもたち。私は手を叩いて皆を静める。


「待って待って!はい、皆、一列に並んで!もう一曲歌って欲しいんだけど、みんな、この歌知ってる?」


 スマホで『ドレミの歌』の楽譜を検索し、子どもたちに見せる。メイを含む全員が頷いたのを確認して、私は前奏を始めた。


「メイも入れて、七人ね!ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シで、はい、メイから!」


 ひとりずつに音階を割り当て、各音階ごとにワンフレーズずつ歌ってもらい、最後は全員で声を揃える。

 幼稚園児のお遊戯会みたいだったが、皆照れくさそうにしながらもいい笑顔で歌ってくれた。


「じゃ、次は歌う人、一歩前に出てー!歌い終わったら元に戻る!」


 小さい子供に混じって、メイも一緒に出たり戻ったりしているのが面白い。

 私は『サウンド・オブ・ミュージック』の先生になった気分で、一緒に歌う。

 昔映画で見て、それ以来密かに憧れていたのだ。

 私にとっての大佐が子どもと一緒に歌っているのはちょっと複雑だが、楽しいのでよしとする。


 終盤は子どもたちが面白がっていつまでも同じフレーズを歌い続けるので、曲がなかなか終わらなかった。

 子供の遠慮のないエネルギーというのは凄いとしか言い様がない。

 美容院の予約の時間が迫っていたので、強引に終わらせてギターを仕舞った。

 熱いアンコールをもらったが、急ぐ事情を説明してなんとか許してもらった。


「またねー!ばいばーい!」


 私は何度も公園を振り返り、いつまでも私達を見送ってくれている子どもたちに両手を大きく振った。


「あー!可愛かったー!」

「ね。ヒロカ、子供好きなんだね」

「うん。町内会の集まりとかあると、よく子守をお願いされるんだ」

「子供が仲間だと思うのね、きっと」

「……否定出来ないけど」


 子供の屈託のない笑顔を見るのは好きだ。

 素直で元気いっぱいな歌声は聞いていて本当に気持ちがいい。


 いつから人は、人前で歌を歌うことに抵抗を感じるようになってしまうんだろう。

 あんな風に皆で体を動かしたりしながら純粋に歌を楽しむことが出来なくなってしまうのは、正直とても損なことだと思う。


「みんな、笑ってくれてたよね」

「さっきの子たち?」

「うん。それと、昨日の高岡の人たちも」

「そうだったね」

「……明後日の本番でも、そうなるといいな」


 本番で主に演奏を聞くのは、麻生高校の生徒たちだ。

 全く私たちのことを知らない通行人や、無邪気な子供たちとは違う。

 自分たちと同世代のはずなのに、私には同じ学校に通う人達の反応が一番想像し辛い。

 軽音部の人達の振る舞いや、掲示板の書き込み内容が頭の中を過ぎってしまうからだと思う。

 メイと出会って、音楽の楽しさを知ると同時に、周囲の人達の振る舞いに違和感を抱くことが増えたような気がする。

 自分たち内輪の楽しみを優先するあまり他者に対して過剰に攻撃的になる人、付き合う相手によって音楽の趣味がコロコロと変わる人、物事の善し悪しはクラスの人間の反応を確認してからしか判断できない人……。

 そして何より、新しいことに挑戦する誰かを冷笑する人達。

 そんな人達が潜んでいる集団にでも、私達の音楽は通用するんだろうか?


 弱気になる私を横からちらりと見て、メイは私の右手を軽く握りしめた。


「私達なら、できるよ」


 さらりと、でも自信を漲らせて、メイは答える。


「……本当にそう思う?」


 私はその堂々とした声に聞き惚れながら、もっとメイの言葉が欲しくて、尋ねる。


「うん。自信持っていつも通りに演れば、絶対大丈夫。だって」


 ギュッと、握る手に力が込もる。

 メイは目線を上げて、快晴の秋空のような笑顔で言った。


「……私達なんだから」

「……」


 根拠の無い言葉と、確信に満ちた手の感触。

 私は髪を揺らしながら歩くメイの横顔を見上げる。

 その表情には、疑いの欠片もない。

 「私達だから」。そう言い切れる理由の半分が自分にある。

 ただそうメイが言うだけで、不安は影を潜めた。


「だから、安心して女磨きしてきて。楽しみに待ってるから」


 気が付くともう美容院の前だった。

 私たちは立ち止まって、ゆっくりゆっくりと手を離した。


「……分かった。自信持つには、身だしなみも大事だもんね」

「そういうこと。じゃあ、ヒロカの家に行ってるからね」

「うん。お母さんにはメールしておいたから、部屋に上がって待ってて」


 私達は手を振り合って、美容院の自動ドアの前で別れた。

 店内に入ると、整髪料や染料の独特な匂いが鼻を突く。

 受付で予約の旨を伝えると、十分ほど待つよう言われて番号札を渡され、白いフェイクレザーのソファーに腰掛けた。

 メイと一緒に選んだカタログの切り抜きを用意しておく。


 マガジンラックに好みの雑誌が無かったので、スマホを取り出した。

 なんとなく気になって、学校の掲示板を確認する。

 メイに関するスレッドの書き込み数が先日よりも数件増えていることに気づいた。

 前回、もう見るべきじゃないと思ったにも関わらず、私は戸惑いながらもその文字をタップしていた。

 新しいの書き込みを表示すると、驚くような書き込みが目に飛び込んできた。


「昨日、高岡で路上ライブやってたよ。金取ってたみたいだけど、ああいうことしていいのかな?」


 視界の四隅がすっと暗くなって、両肩とお腹の中に重石を仕込まれたような感覚。

 その一行の文章が、私の脳の中で何者かの声で音読される。

 ボイスチェンジャーをかけたようなくぐもった声だった。


 誰かに見られていた?

 その文面自体は内容に間違いや捏造があるわけではなく、ただ見かけた事実とそれに対する疑問を記載しているだけなのだが、気味が悪い。

 私は悪寒を覚えて、ソファーに座ったまま辺りを見渡した。

 誰かが、今も自分を監視しているんじゃないかと思えてくる。

 当然、店内にも、ガラス張りの壁の外にも、私を見張る人影など見つかるはずはなかった。

 書き込みには続きがあった。


「写メとか撮ってないの?」


 ライブに関する書き込みへのリプライとして、質問が書き込まれ、その回答も返って来ていた。


「え、撮ってないけど」

「何やってんだよ。証拠抑えとけよ」


 ……どういうことだろう。

 もし写真を撮っていたらどうだというのだろう?

 一体、この書き込みをした人はメイに何をするつもりだというのか。

 私は震える唇を左手で隠す。胃の中に黒くねばねばした液体が渦を作っているような悪心。

 口に溜まった唾液を飲み下して吐き気を抑える。


 店内放送が呑気な口調で私の番号札の番号を読み上げる。

 私は立ち上がって、よろよろとスタイリングチェアに向けて歩き出す。

 いつも私を担当してくれる美容師さんは、私の異変に気づくこともなく、私をシャンプー台に案内した。


 やはり、見るべきじゃなかった。しかし、知ってしまった以上、今後の行動は少し慎重になる必要があるかもしれない。

 見られて不利益になるような行動は絶対にしてはいけない。

 特にバンドバトルが終わるまでは。


 それにしても、なぜこうもメイにばかり的を絞った書き込みが続くのだろう。

 文化祭関連の話題が盛り上がっている中で、個人に関する内容がここまで頻繁に更新されるのはちょっと異常だと思う。

 タイミングとしては、私がメイと仲良くなって少しあとから……バンドバトルに関する話題が出始めた頃のような気がする。

 となると、やはりCandyのメンバーや軽音楽部の人達が関係しているのだろうか。


 明日、高橋くんに相談してみよう。

 もしかしたら、他のバンドに関して何か心当たりがあるかもしれない。


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