35.ヒロカ
夜九時半。家に帰り着いてから、小さめのキャリーバッグに衣装の候補とお泊りセットを詰め込んで明日の準備を終えた。
ギターを肩から下げてこれを引いて歩くのは重労働だが、多分明日になればそんなことは全く気にならなくなっているだろう。
今度は堂々とメイの部屋に行ける。
しかも泊まりだ。
誰にも邪魔されずにメイとずっと一緒に居られる。
何を話そうか、一緒に何を食べようか、考え出すと待ちきれない。
浮かれてしまう心に喝を入れて、私はアルペジオの練習に取り掛かった。
もう本番は目と鼻の先だ。
ひたすら反復して指先に動きを叩き込む。
アンプを通すとコードチェンジの際のフレットノイズが大きくなってしまうことがあるため、左手が忙しくなる部分での運指に気を使わなければならない。
ストローク中心の演奏よりもごまかしがきかなくて気を使う箇所が多い。
完璧と言える状態に仕上げるまでにはまだ少し時間が必要だった。
自分で歌いながらでもスムーズに弾けるようと試してみると、ハモりのパートが自然と出てしまう。
メインのメロディを思い出そうとすると、オリジナル曲のボーカルの声よりもメイの声が浮かんだ。
私の発音を真似る、私の大好きなメイの声。
胸の奥が切なくなって、私はエレアコのボディをぎゅっと抱きしめた。
今日まで、本当にあっという間だったと思う。
もしメイと音楽を始めていなかったら、メイと出会っていなかったら。
そんな想像に意味がないことはわかっているけど、こんなに楽しくてやりがいのある毎日を送れるようになったことを思うと、感謝したいような、今すぐこの気持ちを全部誰かに伝えたいような、暖かい気持ちが沸いてくる。
自分の部屋にメイがいて、笑っているシーンを思い出すだけで、古ぼけた畳張りのこの部屋さえ愛おしくなる。
私は布団の枕元に置いたウサギのぬいぐるみを隣に引き寄せて、そっと頭を撫でた。
すぐ隣にメイが、私に寄りかかりながら座って歌ってくれていることを思いながら、練習を続けた。
「寛、ちょっといい?」
相変わらずノックする素振りもなく部屋のドアが開かれる。
「何?」
もう半ば諦めつつ、私は指板から顔を上げずにぞんざいに返事した。
「これ、明日メイちゃんに持って行ってあげて」
何やら紙袋を掲げてみせるお母さん。
もしかしてお土産を用意してくれたのだろうか。
「筑前煮と、小松菜のおひたしと、鶏の竜田揚げが入ってるから」
「……何でお惣菜?」
お菓子やケーキを想像した私が馬鹿だった。
紙袋だけ妙におしゃれなデパートのものを使っているから無駄に期待してしまった。
「ほら、コンビニのご飯中心だなんてこの前言ってたから。少しは手作りの物もと思って」
「それにしたって、もうちょっとなんかないの?ほら、キッシュとか、ラザニアとか、たまーにだけど作ってくれるじゃん」
「和食が好きだって言ってたじゃない。別にあんたが食べるわけじゃないんだから、いいでしょ」
「それはそうだけど……」
「お母さんが居ないと、こういう料理が恋しくなったりすると思うのよ」
「……え?」
私は改めてギターから顔を上げて、お母さんを見やった。
「何て?」
「メイちゃん、お母さんがいないんでしょ?まさか、聞いてなかったの?」
頭の中でがんがんと反響する、何かを叩くような音。
段々その音は大きくなっていって、お母さんの声が聞き取りづらくて仕方ない。
「お母さん、いつメイとそんなにお話したの?」
「初めてこの家に来た時に聞いたのよ。なんでもご両親が離婚して、再婚して、今はその再婚したお父さんと二人で暮らしてるって」
耳元でゴムタイヤを棒で叩き続けているかのような騒音。それは自分の鼓動の音だった。
「この袋、このまま冷蔵庫に入れておくからね。明日忘れないで持って行くのよ」
呆然としている私を尻目に、バタンとドアを閉めて出て行ってしまうお母さん。
自分の記憶を巻き戻して、メイの家庭環境について話した事があったかを思い出してみる。
父親が転勤続きて転校を繰り返していることと、今はまだ住む家が見つかっていなくてホテル暮らしを余儀なくされていること、直接聞いたのはそれくらいだった。
思い返してみれば、不自然なことはたくさんあった。
休日に制服のまま出かけたり、パソコンやスマホの操作に妙に不慣れだったり。
そして何より、時々子供のように寂しがり屋な面を見せたり。
でも私はそれについて全く深く考えることはなく、ただメイはそういう人なんだと丸呑みしてしまっていた。
見た目とのギャップも含めて、それがとても魅力的だと思ってしまったから。
そもそも、思い返してみると話題といえば音楽と自分のことばかりだったような気がする。
しかし、彼女の方から話を切り出してこなかったのは、境遇のことはあまり踏み込んでほしくない気持ちの表れなのかもしれない。
自然と話してくれるまで待ったほうが良いのだろうか?
一度気になってしまうと、なんだか酷くもどかしかった。
今まで何度もそういう話をするチャンスが有ったはずなのに、考えなしに過ごしていた過去の自分が憎らしい。
「あーーーもう!」
私は頭を抱えて布団に体を横たえる。
眼に入るのは、天井からぶら下がる傘付きの電灯と天井の木目。
どちらも昭和の匂いを強く感じさせる質感と色合いだ。
転校どころか引っ越しも経験したことのない私にとって、私の家はこの紺野書店だけだ。
築四十年は建っているであろう、お洒落さとは無縁な生活感むき出しの空間。
そこに暮らすお父さんとお母さんが私の家族。
生まれた時からずっと一緒に過ごしている人たちと、何があっても帰ってこられる場所。
家族や家が変わっていくというのはどんな気分なのだろうか?
全く想像がつかない。
両親が離婚して、再婚したお父さんと二人、ということは、血の繋がらない親子ということになるのだろうか?
メイがいくつくらいのころに、どういった理由で彼女の両親は別れることになってしまったのだろう。
幼いころでも、ある程度大きくなってからでも、それぞれの辛さがあるだろう。
ふと、前回ホテルに行った時のことを思い出す。
清潔ではあるが、代わりに生活の匂いや他人の気配とは無縁なシングルルーム。
今もきっとメイは、一人であそこにいる。今何を思っているんだろう?
楽しいことがあった時、誰かに話したくはならないだろうか?
落ち込むようなことがあった時、誰かに慰めて欲しいとは思わないだろうか?
もしかしたら、そういう気持ちを抑え続けてきた反動が、最近のメイの異変と関係しているのかもしれない。
無性にメイと話がしたくなってスマホを手にとったが、今電話をかけたら余計なことを聞いてしまいそうだったので思いとどまった。
電話アプリのアイコンをタップしかけた状態で、手の中で携帯が震えて驚いた。
もしかしてと思ったが、メイではなく頼子さんからのメールだった。
『寛ちゃん、今日はお邪魔しちゃってごめんね。あのあと冴木さんとは大丈夫だった?』
大丈夫って……。
一体どういう意味だろう。
頼子さんには私とメイの姿がどう見えているのだろうか?
まあ、あんなにべったりくっついているところを見られたのでは仕方ないのかもしれないが……。
改めて考えてみると、メイと知り合ってから頼子さんとは一緒に登下校しなくなってしまったし、昼食も共にしなくなってしまった。
完全に私の都合で断りもなく、半年くらい続いていた習慣をやめてしまったのだ。
だというのに頼子さんは冗談で拗ねてみせるくらいで、逆にこうして私とメイのことを心配していてくれたりする。
ちゃんと謝っておかなければ。
『うん、別に全然、邪魔なんかじゃなかったし、大丈夫だよ!っていうか、ごめんね頼子さん……。最近本当にメイとばっかり一緒にいて、頼子さんのことほっぽってたよね……』
返信してから、思い出す。
本当に大丈夫だっただろうか。
頼子さんが声をかけてきた時、私は慌ててメイから体を離した。
あの時、メイはどう感じただろう?
――いけない、さっきから思考があっちこっちに彷徨っている。
今は頼子さんとちゃんと話をしなくては。
『ううん!私はいいの。寛ちゃんギター一生懸命練習してるもんね。……冴木さんにはどう足掻いても敵わなさそうだし(笑)』
『(笑) そんな比べたりしてるわけじゃないんだよ、なんか言い訳っぽいけど』
『冗談冗談!でも色んな意味で敵わないのは本当だよ。転校してきた日から学校中の噂になってる美人さんだもん。掲示板も未だに大騒ぎしてるよ』
頼子さんの言う掲示板というのは、麻生高の生徒専用掲示板のことだ。
昔コンピューター研究部が作ったものが代々の生徒たちに使われ続けているらしく、噂好きの頼子さんはよく覗いているらしい。
生徒だけがURLを知っている秘密のサイトのような位置づけのため、生徒の本音が垣間見える場所でもある。
情報共有の場として有効活用もされてはいるが、根も葉もない中傷や陰湿な陰口の書き込みも少なくないらしく、私は数えるほどしか閲覧したことはない。
『そんなに噂になってたの?』
『うん。本間先生事件の後なんか、すごいことになってたよ。なんか注目の的になっちゃったみたいで、転校前の学校の情報とか、今の家がどこなのかとかまで調べようとしてる人が居たみたい』
呆れてしまう。転校生が注目を浴びてしまうのはしょうがないにしても、プライバシーまで暴いて、しかもそれを共有するなんて。
悪趣味にも程がある。
家を調べる?
下校時に後をつけたりしたのだろうか?怖気が走りそうだ。
しかし、メイの特殊な境遇を考えると、変な噂を立てられたりしていないかが不安になる。
私は戸惑いながらも、昔頼子さんに教えてもらったサイトを探した。
お気に入り一覧の中の片隅に、一応残っていた。
タップすると、スマホのブラウザがスレッドの一覧を表示される。
食堂、購買、部活、授業……学校に関連する様々なトピックスが並んでいるが、今は季節柄文化祭関連の話題が盛りがっていることが、更新順のソート結果で分かった。
一覧の中ほどあたりに「一年女子の転校生」という文字を見つけて、私は震える指先でそれをタップした。
レスをななめ読みしながら画面を下に繰っていく。
スタイル良い、可愛い、髪キレイ、背が高いなど、ポジティブな内容の書き込みが続いていてほっとしたのも束の間、途中から調子こいてる、高慢、勘違いしてる、ぼっち、などという内容が目立つようになった。
転校前は都心の進学校に通っていたということや、駅前のホテルに入っていったのを見たとかいう記載もあった。
私はページを送る指のスピードを落として、一つ一つその内容を読んでいく。
『片親らしいよ』
『ホテル暮らしとか、金持ちなの?』
『実の父親は事故死したとか』
『エンコーでしょ』
『元アイドルで、芸能事務所で枕営業してたって噂』
『前の学校のやつが、実の母親は蒸発中だとか言ってたらしいよ』
スマホを握りしめる力が、我知らず強まっていた。
下らない内容も多く書かれているだろうと予想はしていたが、あまりに酷すぎる。
一人の人間を標的にして、匿名の立場から無責任な言葉を吐き捨てるように書き連ねて、一体何が楽しいのか。
もし本人がこれを見てしまったら、一体どんな気分になるか。
間違ってもメイにこのことは知られてはいけない。
『最近なんかチビとつるんでるでしょ。ギター持ってる』
その内容が自分のことだと気づいて、私はどきっとした。
誰とも知れない人が私を見て、ここにこの文字を書き込んだのだ。
それだけでも正直薄気味が悪いというのに、わざわざスレッドを立てて有る事無い事書き込まれるというのは、一体どれほどの不快感だろう。
それ以上は直視に耐えられないと思ったところで、約五百件の書き込みの一番下にたどり着いた。
『そういえば、文化祭でバンド組んでなんかやるとか聞いたよ』
『バンドバトル?』
『あ、なんか実行委員に色目使って演奏順とか勝手に決めたらしいじゃん。採点もひいきされるんじゃない?さすが枕営業』
私は目を疑った。
演奏順?勝手に決めた?
内容もデタラメな上に、演奏順序が決まったことを知っているのは私達と高橋くん、そしてCandyのメンバーだけのはずだ。
メイと高橋くんがこんなことを書き込むはずがない。
となると、Candyのメンバーの誰かが書き込んだと考えて間違いないだろう。
書き込みの時間は今日の夜九時頃。
つい二時間ほど前のことだ。
あの中の誰かが、こんな内容を投稿したのだ。
メイと二人、夜の音楽室で、いつか人前で演奏する時に向けて頑張ろうと拳をぶつけあった時のことが脳裏に蘇る。
あの日から目標に向けて二人で懸命に頑張ってきた時間を汚されたと感じた。
はっきりと、自分はいま傷付いたんだと自覚した。
あんなに純粋に、音楽を楽しんでいたメイとの思い出。
一緒にあんなに練習したのだから当然良い結果に結びついて欲しいとは思うが、こんな適当な書き込みから噂が立ったら、もし例えばバンドバトルに優勝出来たとして、果たして素直に喜べるのか。
悲しさと息苦しさがこみ上げてくる。胸が痛い。
いや、今のところはまだいい。
見てしまった私はある意味自業自得でもある。
ただやはりメイだけにはこんなもの、間違っても見せられない。
あんなに無邪気に幸せそうに歌っている姿に、少しでも影を落とすことがあってはいけない。
そんなこと、私が耐えられない。
私自身に対する誹謗中傷を何行書き綴られるより、こんな無作為な悪意の、ほんの一欠片でもメイが目の当たりにしてしまうことの方がずっと辛い。
もしメイがこのサイトを閲覧してしまう可能性があるとしたら、考えられるのは彼女のスマホからアクセスする場合だ。
それも誰かが入れ知恵をしないかぎりは、ありえないことだとは思うが……。
私は、メールアプリに画面を切り替えた。
『頼子さん、そんなことわざわざしないとは思うけど、メイにはこのサイトのこととか内容とか、教えないでね』
『え?うん、もちろん』
隠し事をするようで心苦しいが、知らなければいいこともある。
メイのためというより、私のエゴのほうが強いかもしれない。
『……なんだか、いいな。冴木さんは』
頼子さんからのメールがもう一通届く。
『え?何で?』
『寛ちゃん、本当に冴木さんのことが大事なんだね。見てて分かるよ』
その言葉に、はたと考えさせられた。悲しませたくないということと、悲しんでいる姿を見たくないということ。
純粋に相手のためなのか、相手を思う自分のためなのか。
寂しいことだけど、私には自分の気持ちの中のその比率がはっきりとは分からなかった。
自分たちの繋がりを大切に思うほど、その感情は高尚で綺麗なものであって欲しいと無意識に望んでいる。
でもそんなことを確かめることはできないから、ただ安易に安心する方法として、身の回りの人たちの関係と比較をしてしまうのかもしれない。
それは個人でも同じことで、もしかしたら他者への関心をむき出しにしたものが、掲示板に並ぶ言葉なのかもしれない。
メイはその容姿だけで、不必要な嫉妬を招きかねない存在だ。
下心を孕んだ好意を向けられることも多いだろう。
両極端な周囲の反応に晒される中で、彼女は強くもなり、同時に弱くもなったのかもしれない。
味方でいてくれるはずの家族との関係がひどく不安定だったことも影響しているだろう。
果たして、私は今のままでメイのそばに居ていいのだろうか?
これからずっと、彼女が欲しがるものを与え続けていけるのだろうか。
私の中でメイの存在が大きくなればなるほど、一人でいる時にはこんな悩みに苦しめられる。
ただ一つにして最大の救いは、出口のない悩み事から束の間開放される術を見つけられたこと。
私はギターのネックを掴み直して、頭の中に渦巻くことすべてを、そのまま音として吐き出してみることにした。
「……」
メイが作った歌詞をふと思い出す。
悲しい情景が浮かぶ言葉の羅列。
あれがメイの心の中から溢れ出した感情の形だとしたら、一体どんな出来事が背景にあったのか。私と過ごす時、一緒に大声で笑っている時の思い出は、いつか同じように歌詞にしてくれるだろうか?
その時私は、どんな曲をつけるのだろうか。
できるだけ明るい曲調になるように、練習した曲の中でよく使われていたコードの進行をなぞってみる。
C, G, Am, Em, F, C, Dm7, G7で八小節。
親しみやすいと感じる曲はこういうシンプルなコードしか使われていないことが多い。
作曲をする人は、その瞬間何を考えているんだろう。
音楽的な知識がある人は、その理論に則って音を繋げていくのかも知れない。
でも世の中の曲は何も専門的な勉強をした人たちばかりが作ったものではない。
作曲と言われるととてつもなく難しいイメージがつきまとうが、出来上がりの質を問わなければ案外ハードルは低いのかもしれない。
ギターしか弾けないこんな私にだって一曲作ることができたのだ。
そういえば、あの時はメイが書いた詞を読みながら、その世界観を頭の中に思い浮かべて、悲しげで寂しげなコードを繋げていった。
あとは詞を読み上げるときに少しずつ抑揚をつけて行って……。
適当にハミングしながら、思いつくままにコードをストロークする。
今回は歌詞があるわけではないが、頭の中はメイのことでいっぱいだ。
好きな人を思う言葉になりきらない感情が、自発的に何らかの形になりたがっている感触があった。
私の口から溢れて出る旋律。
少し綺麗だと思えるフレーズが浮かんだ。
体を起こして、改めて口ずさんでみる。
これは、サビになるだろうか……?
だとすると、そこに繋がるBメロは……。
するすると、一度もつかえることなく一曲分のメロディが出来上がっていた。
スマホのレコーダーアプリを立ち上げて、忘れない内に鼻歌で録音する。
「なんて、こんな適当に良い曲なんて出来るわけないんだけど……」
自嘲気味に笑いながら、ぶっつけで録音した音声ファイルを再生してみる。
「……」
シンプル極まりないコードとメロディ。
まるで単純すぎる自分の脳内をそのまま音にしたような、捻りのない出来上がりだった。
それぞれのメロディが言おうとしていることがそのまま伝わってしまいそうな、頭の中を覗き見られているような恥ずかしさ。
でもそれが不思議と不快ではない。
好き。
ちょっと悩んだりもするけど、やっぱり大好き。
不器用で歪なところもあって、危なっかしくて、でもそれをひっくるめて、メイの楽しげな歌声や笑顔がどうしようもなく愛おしく思える。
出来上がった曲がこれだけ明るくて綺麗なら、何も心配することはない。
私はメイとの関係をこの上なく大切に思っているし、そこに余計な気持ちを差し挟む必要もない。
私の思いを形にしてメイだけに聞かせるなら、思い切り素直なものがいいと思える。
ちょっと他の人には聞かせられない、なんだかラブレターみたいな曲だと思った。
「……伴奏つけるとしたらどんな感じかな?」
アルペジオの練習の一環と自分に言い訳しつつ、私はその曲のアレンジを始めた。
またしてもあっという間に、もともとこういう曲が存在していたんじゃないかと思うほどスムーズに、最後のサビまでの伴奏が出来上がっていった。
もう一度、始めから通して録音する。
そのメロディをハミングしながら、ふと自分と自分が作った曲を客観視する意識があることを感じた。
誰かを好きになって、今まで味わったことのない感情の洪水に翻弄されながら、それを形にしようとしている自分。
我ながら感傷的だと思うし、もしかしたらなんの意味もない行動なのかもしれない。
自分が使える時間と情熱を全部つぎ込んで、実ることのない恋に振り回されたり、誰も聞いてくれないかもしれない歌を作る。
その耳元に誰かの囁きが聞こえる。
『またどうせすぐに飽きちゃうんじゃない?』
『そんなことに一生懸命になって何になるの?』
『時間の無駄だよ。他のこと頑張ったほうが良いんじゃない?』
今まで何かに挑戦しようとするたびにブレーキをかけてきた台詞たち。
誰ともしれない声は、囁きから嘲笑や怒鳴り声に変わっていった。
『なにあれ。バカみたい』
『気持ち悪い。自分がおかしいってわかんないのかな?』
『いつまで夢見てるの?』
『いくら後悔しても、時間は戻らないよ』
私は頭を振って、「違う」と声に出して言った。
「……私は、後悔なんかしない」
言葉にするとなんてありきたりな決意。だから、私は更に言葉を繋げた。
「ねえ、メイ。私ね、メイのことが好き。誰よりも何よりも、あなたのことが大好き』
私の頭の中で渦巻く薄暗い靄が、その告白にかき消されていく。
「ずっと一緒にいたいよ。メイの声を私だけのものにしたい。うぅん、声だけじゃなくて、心も体も、過去も未来も、全部欲しい」
言葉と一緒に、涙が溢れてくる。
こんなにも切なくて、まっすぐな思いを込めた涙を、人生のうちあと何回流すことが出来るだろう。
世界のうち何人が、この気持ちに本当に共感することが出来るだろう。
「私、絶対に投げ出したりしない。メイのためなら、何時間でも何日でもギターを弾くよ。私たちだけしか知らない歌を、いっぱい作ろう」
誰にも届くことのない呟きが、私の部屋の中に響いて消えた。
輪郭のわからなかった気持ちが、自分の胸の中で落ち着く形になったことを感じた。
多分、隠したり抑えたりすることが出来るものじゃないと気付いて、そのことを受け入れることが出来たんだと思う。
もう思い悩むのはやめよう。
文化祭が終わったら、この気持ちをメイにちゃんと伝えよう。
言葉にしきれなくてもいい。
この曲を聞いてもらえばいいんだから。




