28.メイ
涙が止まって、呼吸も落ち着いて、私は体に籠もっていた無駄な力を抜き、ヒロカの腕に体を委ねていた。
子供の頃に戻ったようで照れくさくて、でもそれ以上に、幸せだった。
――この幸せを歌詞に書いたら、ヒロカはどんな歌にしてくれるだろう。
きっと甘い、綿菓子みたいな、マシュマロみたいなメロディだ。
私は勝手に、お菓子の家でロリポップを舐めながらギターを弾いているヒロカを想像した。
なんだかお菓子メーカーのマスコットキャラみたいだと思った。
私はヒロカの胸の中で、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま笑った。
「あ、今笑った?」
ヒロカが私の顔を覗こうとしてくるので、胸に顔を埋めて隠れた。
「……ないしょ」
「何々?何がおかしかったの?」
「……ヒロカ」
「え!?私、何かおかしい!?……胸があんまりにぺったんこだから?」
「ぷっ……!」
「あ!今のは絶対笑った!そこはそんなにはっきり笑っちゃダメなとこだよ!」
ぷるぷると肩を震わせる私の頭上で、ヒロカが膨れたのが見なくてもわかった。
同時に、ヒロカがどれだけなりふり構わず私を元気づけようとしてくれているのかも、痛いほどわかった。
ふくれっ面は実は演技で、内心私が笑ったことを、すごく喜んでくれている。
そういうところが私は大好きだ。
「……心配事、少しは軽くなった?」
優しい声音が、私に尋ねる。
気持ちは楽になった気はするが、まだ少し不安はある。
ヒロカが優しくしてくれるほど、離れる時を思うと怖くなる。
まだ、もっとそばにいて欲しい。
私が答えあぐねていると、ヒロカは私の頭をぽんぽんと撫でた。
「そっかそっか。じゃあ、おまじない、かけてあげるね」
そう言って、ヒロカは私の頬に顔を寄せる。
涙の跡に触れる、柔らかな感触。
私は驚いて、唇が触れたあとを手で抑えた。キスされた?
いたずらっぽい笑顔ではにかむヒロカ。
一拍遅れて顔に集まる身体中の血液。
キスなんて、生まれて初めての体験だ。
しかも、その相手が友達で、何より女の子だなんて……。
突然のキスの意図がわからず、フル回転を始める頭。
もしかして、ヒロカも……?
と、そこまで考えて、ヒロカがハーフであることを思い出した。
欧米では同性相手でも特に抵抗なくこれくらいするのかもしれない。
それによく考えると今のは、頬にキスなんてロマンチックなものじゃなくて、どう考えてもほっぺにチューだった。
可愛くて、無邪気で、ヒロカらしいと思った。
しかしおまじないという意味では、確かに効果はあった。
ヒロカにとっては普通のことでも、私にとっては強烈な思い出だ。
また少し気が楽になった。
ただ、もう少し、欲張ってもいいかなと思った。
「まだ少し、元気が出ないかも」
鼻声のまま、私はこぼした。
「うんうん。ゆっくりでいいからね。こうしてるから」
いざ、言葉にしようとするとやっぱり照れくさい。私はヒロカのガウンの胸元を両手で握りしめた。
「だから、その……おまじない」
「え?」
ヒロカは、小さく吐息を漏らして笑って、
「ん?なぁに?」
小さな子供にするように、顔を覗き込んで聞いてくる。
「おまじない」
「おまじないがどうしたの?それじゃ分かんないよ?」
「……ヒロカ、意地悪してるでしょう?」
「あ、分かっちゃった?」
意地悪く笑うヒロカ。何だか普段と立場がすっかり逆転してしまっていた。
「もう……ドSはどっちよ」
「ごめんごめん、分かったってば」
もう一度、今度は逆の頬に唇を寄せる。小さな音を立てて、ごく軽く唇が吸い付く。
「……しょっぱい」
「うわ、ごめん……」
「うぅん、いいよ」
もう一度、同じ所にキスをくれた。
自分からねだったくせに、やってもらったら顔面が沸騰しそうなほど熱くなってしまった。
こんな距離にいたらすぐにばれてしまいそうだ。
「あ、あの……時間」
「え?何の?」
「洗濯機。ヒロカの下着とか、もう回し終わってる」
「えー、なにそれー。なんで今そんなこと思い出すかなー?」
「だってほら、女の子の下着だよ?洗濯機にそのままにしといて盗まれたりしたら……」
「私のなんて需要ないよ。いいから、もすこしこうしてようよ」
「でも、早く乾かさないと生乾き臭くなっちゃう」
「ぶー、私と洗濯物、どっちが大事なのよー」
「ヒロカも、ヒロカが着るものも大事」
私は照れ隠しの理由を重ねながら、ヒロカの腕からするりと抜けだした。
ずっとそこにいたい気持ちに嘘をついたけど、いつものやせ我慢みたいに辛くなかった。
「乾燥機を回したら、すぐに戻ってくるから」
私は顔の涙を服の裾で拭って、立ち上がる。
「私も行く」
「え、その格好で?」
「メイのコート、ちょっと借りるね」
ガウンの上から直接、モスグリーンのコートを着てジッパーを閉める。コートの裾からガウンと生足が覗いていてガウンだけ着ているよりも妙に艶めかしい。
「お願い、ヒロカ。すぐ戻ってくるから、いい子にして待ってて」
「五分くらい?」
「三分くらい」
しぶしぶといった様子で、コートを脱いでヒロカはベッドに戻った。
私は鍵と硬貨数枚を持って部屋を出た。
コインランドリールームには誰もいない。
自動販売機のかすかな唸り声だけが聞こえる。
洗濯機から中身を取り出して、今度は乾燥機の中に放り込む。
びしょ濡れの衣類が、泣きじゃくっていた自分と似ていると思った。
私も、すっかり涙が乾けば、また元通りになれるだろうか。
願いを込めてコインを投入し、乾燥スタートボタンを押した。
普段の私と、泣いて縋り付いた私。
どちらの私も、ヒロカはどちらも受け入れてくれる。
平気なフリや逃避ではなく、受け止めてくれる誰かに甘えること。
私にとってそれはとても勇気が必要なことだったのだと思う。
母がいなくなったとき、私は自分を呪った。
自分が重荷になったから捨てられたのだと。
それ以来大切な相手にほど、よりかかることは躊躇われた。
一人で不安や鬱憤を背負い込んで行く内に、私の内面は歪んでいってしまったのかもしれない。
こんなこと、ただ強がって誰とも関わらないように過ごす中では、考えることさえ無かった。
ヒロカのそばにいることで、いろいろなことがめまぐるしく変わっていく。
その変化が嬉しくも怖くもある。
ただ、今日一日くらいは、何も考えずに彼女のそばにいてもいいかもしれない。
約束した時間を過ぎてしまわないように、私は早足で302号室に戻った。
鍵で扉を開けると、ガウン姿のヒロカが抱きついてきた。
「おかえりー」
「た、ただいま」
「ちょっと、なんで引いてるの?」
「なんだか、あっという間に元通りだなって」
「あれ、もうちょっとさっきの雰囲気のままがよかった?メイがムード壊したくせにー。いいよ、もう一回ベッド行く?」
ヒロカは半眼でにやにやと笑う。
「い、いやらしい言い方しないでよ」
「もー、いまさら照れないの」
テンションの高いヒロカに手を引かれて、室内に戻る。
椅子は一つしかないので、結局二人でベッドに腰掛けることになった。
いつの間にかテレビが点いていた。
「あのね、映画の配信サービスが使えるみたいだよ。何か見ない?」
「映画かぁ……」
まだ少し照れくささが残っているから、助かるかもしれない。
音楽同様、私はほとんど見たことがないので、ヒロカのオススメをお願いすることにした。
ヒロカがリモコンを操作すると、配給会社のロゴマークがテレビに表示された。
私たちは下半身だけ布団をかけて、二人で肩を並べて座った。
黙っていても、ヒロカはぴったりくっついてきてくれた。
映画は、私でもタイトルと概要は聞いたことがあるような定番どころだった。
沈没する超豪華客船とその中で芽生えた身分違いの恋を描いた作品だった。
作られたのは十年数年以上前のことだが、ヒロカはその映画を有名すぎて逆に見る気がしなかったと言っていた。
「制作費がすごかったらしいよ。当時にしては空前絶後の超大作だったって」
「確かに、映像の迫力、凄いね」
主人公とヒロインの出会いや、惹かれあうプロセスの描写の部分は、二人で穏やかな気持ちで見ていることが出来た。
だが、結末は悲劇であることだけはお互い知っていたので、二人の関係が進展して幸せそうであればあるほど、それを素直に見守っていられなくなっていった。
最後に引き裂かれることを、見る側だけが知っている。
当人たちはそんなこととは露知らず、船内のダンスパーティーではしゃいでいる。
私はいつの間にかヒロカの手を握りしめていた。
やがて、船が事故を起こして沈没を始めて、二人は船内からの脱出を試みる。
怒涛のように迫り来る海水の迫力や、浸水が進む船内の圧迫感がリアルで息を呑んで見入ってしまう。
幾つもの危機を乗り越えた彼らだったが、最終的には主人公の青年だけ、暗く冷たい海の底へ沈んでいってしまう。
クライマックスのシーン前後は、二人で身を寄せ合いながらボロボロと涙を流して見ていた。
スタッフロールが流れ終わっても、二人してしばらくしんみりしてしまった。
「こんな悲しい話だったんだね……」
「うん、なんかあの有名なシーンがネタにされるイメージばっかり強かったけど、いい映画かも……」
離すタイミングも見つからなくて、私たちは手を繋いだままだった。
いい映画だったと思ったのは私もそうだけど、きっとそれは感情を共有できる人がすぐ近くにいたからなんじゃないかと思う。
何より、悲しい出来事も、こうして人が楽しめる形にすることも出来るんだと実感した。
その感情の描写がリアルであるほど、様々な人の心を打つんだと教えられた気がする。
多分今の私はこういう刺激に対する対する経験値が少なすぎて、何にでも感化されてしまうのかもしれないけど。
二人で鼻をかんで、赤い目と鼻のまま照れ笑いを交わす。
「ヒロカ、お腹空かない?」
「すっごく空いた。もう動けないくらい」
「じゃあ、何か宅配頼もうか」
ホテルに備え付けられているチラシを広げて、二人でメニューを物色する。
ハーフアンドハーフのピザとサラダと飲み物のセットに決めて、電話で注文しようとしたらスマホからのほうが割引があるからとヒロカに止められた。
三百円安く注文することが出来た。
ヒロカは色々なことを知っていて頼りになる。
雨の中三十分以内で届けてくれた店員さんに感謝しつつ、ベッドの上に昼食を広げる私達。
あまりお行儀は良くないかもしれないけど、なんだかとてもわくわくするご飯だった。
一人で食べるより、何倍も美味しかった。
その後は、また二人でベッドに入って一緒にテレビを見た。
エリカさんがいつも見ているらしい昼ドラとか、ワイドショーとか。
その内に眠くなってしまって、二人でシングルベッドの上でお昼寝をすることにした。
ヒロカは何も言わず、また胸を貸してくれた。
ヒロカの心臓の音を聞きながら目を閉じる。
「どくん、どくん、って聞こえる」
「うん。生きてるからね」
「突然、この音が聞こえなくなっちゃったらって思うと、怖いな」
「あはは、メイは心配性だなぁ」
「だって、どんなことも、ずっと同じに、変わらず続いていくなんて限らないじゃない?」
「……そうだね」
ヒロカが布団をかけ直してくれる。
「でも、分からないことだから、せめて、願いを込める意味でも、言葉にするんだと思うよ。私は、メイを悲しませるようなことが起こらないように、精一杯のことをするって約束する」
迷いのない声が嬉しかった。
今日のヒロカは、なんだかちょっといつもと違う。
「あとは、メイが私を見てて。私が約束した通りに出来てるかどうか。出来てなかったら、怒ってくれていいから」
ヒロカがここに来てくれたこと。
何よりも私を優先してくれたこと。
大切に思ってくれていることを、私はちゃんと実感できた。
「私が言ってることとやってることがちゃんと合ってるなら、もし私が明日事故で死んじゃったとしても、私がメイのこと大切にしてたっていう事実が残るでしょ?」
「やだ、怖いこと言わないでよ」
「ごめん。でも、本当に万が一そういうことがあったとしても、言葉だけじゃなくて、実感としてメイの記憶の中に私が残ってれば、悲しいだけの思い出じゃなくなると思うんだ」
「そう、なのかな?」
「もちろん、そんなことにはならないけどね。メイが不安なら、私はそれを少しでも軽く出来るように、できることなんでもするよ」
「……ありがと」
確かに、そう言ってもらえるだけでも少し不安は和らぐような気がした。
「ただし、メイも不安に思ってるだけじゃダメだよ?いつか悲しいことがあるかもなんてウジウジしてると、本当にそうなったときに『ああ、もっとああしてあげればよかった』とか『もっとこうしてあげたかった』とか後悔することになるからね」
「……ねえ、ヒロカ。ヒロカはどうしてそんなことが分かるの?」
ヒロカも、誰か今までに大切な人がいて、その人との別れを経験したことがあるんだろうか?
「うーん、どうしてだろ?ほら、少女漫画とか、ドラマとかでよくあるんだよ、こういうやりとり」
「……」
「あ!何で黙るのー!」
「いや、だって……なんだか妙に説得力があったから……まさか漫画とかドラマの受け売りだとは思わなくて」
「……私だってそんなに人生経験豊富なわけじゃないもん……」
しゅんとするヒロカの声。でも、言っている内容の説得力は変わりなかった。
いつかなくなってしまうものを恐れるより、限られた時間の中で確かなものを残せるように尽くすこと。
多分それは、私に欠けていた考え方だ。
もしかしたら今までも似たよう考え方に、私は触れたことはあったのかもしれない。
歌の歌詞や、先生の言葉とか。
でも、体現して見せてくれて、そう思ってみてもいいかもしれないと感じさせてくれたのは、ヒロカが初めてだった。
「でも、漫画とか、創作だったとしても、きっと誰かの想いとか、みんなに伝えたいことを込めて作られてると思うんだよ。さっきの映画だって、実際にあった事件がもとになってて、登場人物には実在の人もいたらしいし」
「え?そうなの?」
「うん、船員とか、乗客でも、モデルになった人がいたらしいよ。あれだけの事故だったんだから、いろんなドラマがあったんだと思う」
「それは、そうだよね……」
「その中の一つを、ラブロマンスの物語にして、お金と手間をかけて映画にして、いろんな人が感動して……。きっと、観た人みんな自分の大切な人のことを思い出したと思うんだよね」
私も、もしヒロカとあんなことになったらって想像して、ちょっと怖くなった。それだけの影響力はあった。
「ねえ、メイ。私たちにもできるんじゃないかな?」
「え?」
「ほら、歌を作るの。メイが歌詞を書いて、私が曲を作って」
「……」
全く想像もしていなかった形に話が繋がって驚いた。だってヒロカが曲をつけてくれたあれも、ただ思いつくままに書き殴った散文詩のようなものだったのだ。
「メイ、前に言ってたじゃない?私たちのことを抑え付けてる何かを見返してやりたいって。辛かった思い出だけじゃなくて、そういう気持ちも書いてみてよ。私、またメイの詞を読んでみたい」
ヒロカは不思議だ。
まるで、私たち二人が向かうべき道が見えていて、その方向に私を導いてくれているかのように感じる時がある。
「ね。考えてみてよ。最初はお互いうまくできないかもだけど、私たちだけしか知らない歌ができるなんて、素敵だと思わない?」
「うん……。すごく、素敵なことだと思う」
うまくいかなくてもいい。私のことをヒロカにわかって欲しい。
言葉に出来ないことでも、頭に浮かぶ形のまま書き出すことなら出来る。
私たちの関係が、世間一般的に言ったらおかしな、何も生み出さない繋がりだったとしても、歌なら形に残すことができる。
もし、その歌を誰かに聞いてもらえて、共感や感動を生み出すことが出来たなら。
考えただけで胸が熱くなる。
そんな素敵な目標をもって、これからのヒロカとの日々を生きていけるなら、昨日までとは何かが変わるかもしれない。
ふうっと肩から力が抜けた。
今までこんなに余計な力を込めてずっと過ごしてきていたのかと驚くくらい、全身が軽くなるような開放感を感じた。
私を抱きしめていたヒロカにもそれが伝わったのか、安心したように嘆息する気配が伝わってきた。
「今日、ここに来て良かった。メイ、本当に悩んでたんだね。少しでも役に立てて良かった」
少しなんてものじゃない。
私はどう言葉にしていいか途方に暮れてしまいそうなほどの感謝を、今は飲み込むことにした。
ヒロカがそうしてくれたように、言葉ではなく行動で返そうと心に決めた。
「このまま甘えて、暖かいまま、眠ってもいい?」
額をヒロカの胸に押しつけることで、そう尋ねてみた。
「もちろん。何も怖がらなくていいよ。ここにいるからね」
頭を撫でてくれる手のひらが、そう答えてくれた。
「おやすみ、メイ」
かすかな声が聞こえたか聞こえなかったか、私の意識は眠りの中に落ちていった。




